2013年5月10日金曜日

Mouse 先生の英語授業


高校(1 年生)時代の交換日記から

Ted: 1951 年 9 月 8 日(土)曇り

 Mouse 先生は、「宇宙の大真理を論じたかと思うと、宗教がどうのといい、漫談もやる」と自分でいわれる。「しかし、この関係代名詞が一つ分るだけでも、この時間の値打ちはある。これが完全に分ったら、一時間は充分だ」とも。それがすでに分っている者には何が得られるか? その心配はいらない。目的語だ、補語だ、従属接続詞だ、副詞節だ、形容詞節だ、と文が解剖されて行くのを聞いていると目、いや、耳が回る。
 クラブ時に市立工業高校の『北泉新聞』を見ていたら、教官が学生時代の思い出を語る欄に次のようなことが述べられていた(具体的な表現は思い出せないので、おおよそを記す。ニュアンスが少し違うところもあるかと思うが)。「楽しいあるいは悲しい思い出に浸るのは、それらの楽しいこと、悲しいことを振り返って味わう他に、別のものを欲してのことである。それは老廃的な欲望である。…思い出は無理に残さなければならないものではない。本当に残るものがあったら、それだけを残しておけばよい。」ぼくとはまさに反対の考えだ。

 祖父は『漱石短篇小説集』を「少しも面白くない」といった。実物を見て来たことのある「倫敦塔」以外は、「どこがよいのか分らない」そうだ。
 ぼくは、母が職場の盲学校から借りて来た八百九十ページあるこの本の中程の「草枕」へようやくたどり着いた(注 1)。これの前の「趣味の遺伝」。祖父のように、分らないという気もする。宿命的。小説だけの世界。
引用時の注
  1. 『漱石短篇小説集』は、県立図書館から借りて来たものと思い、先にそのような注を書いたが、間違いだった。

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