2012年12月9日日曜日

祖父への来客


高校(1 年生)時代の交換日記から

Ted: 1951 年 6 月 29 日(金)雨、のちやむ(続き)

 祖父のところへ来客がある(いま、その来客を背にしてこれを書いている)。祖父の友人か、後輩か、教え子か。頭はすでにうすオレンジ色に輝いている。客の話——第一次大戦後のドイツで下宿していた家の老婦人(72 歳)が、いかに国のことを考えて少しの食事しかとらなかったかという例をあげて、ドイツ人の質素さについて。外国で道を尋ねると、女性でも男性でも親切に教えてくれた上に、「きょう、あなたに道を教えたことは、非常な喜びです」と述べる心がけをもっていること。イギリスには孤児が多いが、孤児院中心の町などがいたるところにあるなど、社会福祉施設が充実していること。学校を訪れたとき、自分の時計が止まっていたが、皆が集まって来て直してくれたこと。などなど(ここに書き留め得たのは 1/10 にも満たない)——。客はようやく、「それじゃ、私は失礼します。ありがとうございました」といって腰を上げた。
 祖父は耳が遠いので、相手の話がよく分かっていない。自分で話すのは、やはり外国へ視察に行った時の話で、どの客に対しても同じことをいっている。ドイツの酒場だったかで見つけた「高尚なる感情は人生最高の利得なり」というような言葉を、"Ein …" と、まずドイツ語で述べてから説明するのが常である。これは格別立派な言葉とも思えないが、書いてあった場所の意外さも手伝って、祖父はこの言葉を大いに気に入っているようだ。
 [引用時の注]当時、大連から引き揚げて間もない私たち一家、祖父(82 歳)と母と私は、T さん宅の二階に間借りしていた。二部屋を借りていたが、一部屋は階段から家主さんのお子さんたちが使っている部屋への通り道でもあり、主に使っていたのは一部屋だけだった。半ば寝たきりの祖父の寝床の頭部からほんの少し離れて、寝床に対して直角に、私の勉強机がおかれていた。上記の日記の原文、とくに前半は、客人の話を聞きながら記したため、相当散漫な表現になっていたので、引用に当たって大幅に修正した。

2012年11月28日水曜日

ヨウコ先生を試した?


高校(1 年生)時代の交換日記から

Ted: 1951 年 6 月 29 日(金)雨、のちやむ

 暗かった。一限目、黒板の前に立たれたヨウコ先生の白いブラウスでさえも、くっきりとした線を見ることが出来ない。声さえも見えないような気のするほどで、授業はとても進められず、自習になった。隣のオタケ君に少しの手ほどきをしたりしていたが、自身は何もすることがない。何かしないと、先生が回って来られたときにとがめられそうだが、簡単な問題を解いていたのでは面目にかかわるし、たいして難しくもない問題で困っていれば、なおさらだ。

 先生はグラフを持って来て、ぼくに見せて下さった。関数のグラフじゃないよ。われわれがどのような成績を取っているかのグラフだ。赤と青の印で得点が積み上げられている。誰のが一番高いと思うかい。Vicky のだ。この間の 20 点の差で逆転させられた。

 その悔しさをぼくに示し与えた先生に対して、計算力を試してみようと(そういうつもりではなかったが、あとで先生から、そういう試みじゃないのかねといわれた)、HN 君の持って来た問題を尋ねた。先生は紙を持って来て、ぼくの机の上で解き始められた。最初は、ぼくの考えた手順と違わない。ただ、速い。x を y で表すところまで 5 秒足らずだ。それから、一昨日ぼくが回り道した方へは行かないで、すぐにもう y の答えが出ている。あっけない。

 一般社会の発表で、コウ君は YMG 先生から猛烈に突っ込まれた。「…とは何を意味しますか」、「…とはどういうことをいいますか」、「…とはいつですか」、「いま、なんとおっしゃいましたか」などなど。「恐れさせた、とはなんですか」という質問もあった。コウ君は「アー」「エー」の間投詞を連発してから、「恐怖をもたらしたのです」と答えた。これは質問がむしろ変で、答えは立派だ。しかし、コウ君の発表には「国王を廃(ハッ)し」「徴兵(ビヘイ)の制度」[()内は彼の読み方]など、誤読がずいぶん多かった。

 コウ君が黒板に書いている間に NW 君が発表したが、演劇をやるときと同様、抑揚たっぷりに話すので、ぼくは笑いをこらえていなければならなかった。彼はナポレオンの没落まで話した。先生と彼の間で次の問答があった。「どこまで行ったのですか。」「…」「まだ、現在まで来ないのですか。」「はい。」「では、いつ来ますか。」「調べて書いたメモをなくしたので…。」

2012年11月17日土曜日

部分と全体:図形クイズ


高校(1 年生)時代の交換日記から

Sam: 1951 年 6 月 28 日(木)小雨(つづき)

 図書館から借りた相良守次著の『記憶とは何か』という本、極めて興味がある。例えば、「方形、六角形、及び中央に出張りをもつ矩形の三種の図形と全く同一のものがそれぞれ三個ずつ左の四つの図形の中に隠れている[下図参照]。」


 一見したところでは、どれもありそうにないが、やがて、各種の図形を一個あるいは二個探し出すのは難しいことではないと気づく。しかし、三通り全部を探すのは容易でない。いわゆる探し絵とはこういう構造のもので、それは部分の図形が全体の図形の中に形態法則によって吸収解体され、部分の図形自身としては独立したまとまりをもたないような構図になっているのである。

 他にも興味ある実験や資料が盛られている。もう一つ Ted に考えて貰おう。「始終見かけている人の顔にヒゲはあったかなと首をかしげることがある」というような前置きをして。下に示した形の紙片は適当なところでハサミをいれて裁断すると、切られた両方をあわせて正方形をつくることができる。


 これは、完全に正方形ができたからといって満足してはならない。もとの形を再生することができるかどうかもやって見給え。キット難しいだろうよ。

2012年11月12日月曜日

生徒会予算


高校(1 年生)時代の交換日記から

Sam: 1951 年 6 月 28 日(木)小雨(つづき)

 生徒会の予算案が議会を通過したので、さっそく、ぼくたちの仕事が始まる。収入の部の生徒 1100 人分 132 万円はかわりないが、野球部の 10 万 5 千円が 7 万 5 千円に減らされたのを筆頭に、各部ともいくらかの増減がある。最高額が野球部、続いてラグビー、送球、排球、篭球の順。みんな 5 万円以上だ。文芸部の最高は演劇部の 4 万円。新聞部は 2 万 2 千円である。タイプライティング・クラブは、わずか 8 千円。最低は就職クラブの 3 千円。これがアウトライン。詳しいことが知りたければ、印刷物を一枚お渡ししてもよい。

国語が好きになり始める


高校(1 年生)時代の交換日記から

Sam: 1951 年 6 月 28 日(木)小雨

 国語のテストは、「人間の回復」のところ(といっても、教科書はちがうんだったね)の幸福について論じているところ(約 800 字くらい)を 100 ないし 120 字の文にまとめよ、というものだった。なかなかやりにくい。ざっと要点だけを書いてみたら、 200 字あまりになっている。100 字といえば、400 字詰め原稿用紙の 1/4 に過ぎない。その中に「幸福」というものをまとめるのだから、骨が折れる。表現がダブッているとか、不必要だと思われるところは、余儀なく削ったが、まだ 140 字くらい。そこで、一つひとつの単語について無駄がないか調べていく。例えば、「幸福というものは」を「幸福は」としたり、「究極においては」を「究極には」とするなどした。それで、文全体としてはぎこちない、物足りないものになったが、ちょうど 120 字につづめることができた。

 それを提出した後、二週間ほど前に書いた作文(これも「新しいことば」というところの感想をまとめたもの)が手もとへ返された。ぼくは約 1000 字ほど書き、他の者にくらべると量的に 2〜3 倍ほどだったが、「未完」として提出したのだった。誤字は、「取り扱かったものである」として、不必要な「か」を書いただけだった。「未完とはいえ、鑑賞の力もすぐれており、表現の方もよろしい」と評が書いてある。

 いままではそんなにも好きでなかった国語が、高校になってからぼつぼつ好きになり始めている。それは、語句の訳とか研究発表とかが少なくなって、鑑賞とか討論とかが多くなっているからだろう。しかし、Ted の影響も見逃せない。ぼくは与えられてばかりいる。(ということもないかな。)

2012年11月11日日曜日

夏休み前の雨


高校(1 年生)時代の交換日記から

Ted: 1951 年 6 月 28 日(木)曇りのち雨

 昨日のパスに続いて、サーブのテスト。一人が三本ずつ打つ。二本まではあまりにど真ん中だったから、少しコーナーへと思って売った三本目は入らなかった。

 われわれの一年間の中で、最も自主的計画を多く持てる一ヵ月(今年は四十日になるとか)を迎えるための準備を、天がするかのように、雨が降り始めた。湿気が手に握る万年筆の軸に曇りを生じさせる。アチーブメント・テストという夏休み前の障害が、われわれの多くの者の頭に曇りを生じさせているのと同様に。雨の音は聞こえて来ない。向かいの J 木材工業株式会社のおがくずを吹き出す機械の音だけが耳に届き、頭には文字が流れるばかりだ。文字、文字、文字。