2013年5月31日金曜日

間接的にでも数学を教えた


高校(1 年生)時代の交換日記から

Ted: 1951 年 9 月 28 日(金)晴れ

 時の経過を待つより他ない。「何とかなってくれ!」といいたくなる。

 三段跳びで世界最高記録を出した選手*と同姓の生徒に、彼の前の席の女生徒が、何度も後ろを向いて二次不等式について聞いていた。彼はぼくに聞いた通りを教えていた。Vicky に間接的にでも教えたと思うと、特別な気持だ。(注 1)
 色紙で「色彩感覚の訓練」をした図画の作品を今日の時間に仕上げた。純色の色紙ばかりを使用したぼくの作品は、明るさと暗さが闘っているものになってしまった。銀と金と黒を使った海辺の夜や、きれいにちぎって貼ったシュウカイドウの作品などが目を引いた。Vicky は画面を四つに区切って四季を、Pentagon 先生流にいえば、「説明」した。悠長な青の色合いのところを、先生が指して、「これが夏かね」といって、笑われた。その部分の中で、これが目障りになると先生がいわれた色について、Vicky は「強烈な調子で夏だということを…」と、先生がよく使われる形容動詞で弁護した。
 昼食後、Jack を探して同じところを何度も通っていると、Jap が図書館へ誘った。初めてのことだ。図書館にいると、近頃は時間割の関係で、Neg や Heichan(Jack は彼の性格が Jubei-san に似ているという。走り幅跳びが得意で、野田中で生徒会会長をしていた)らとたいてい一緒にいる Octo が駆け込んで来て、次のことをいった。紫中の北風先生からアンケート用紙が来て、それに記入して持って行かなければならないと。Kies にも来たそうだが、ぼくには来ない。[つづく]
Ted による欄外注記
 * と書いた三日後に、ブラジルの D・シルヴァ選手が一六米〇一の記録を樹立するとは思わなかった。[引用時の追記]田島直人が 16 m 00 の世界記録(当時)で金メダルを獲得したのは 1936 年のベルリンオリンピック。2013 年 5 月末現在の世界記録はイギリスのジョナサン・エドワーズが 1995 年に出した 18 m 29 で、田島、シルヴァらの記録は遠い過去のものとなってしまった。私の同期生の田島君は、Vicky と同じく女子師範付属中からわれわれの高校へ来たので、彼女から中学時代のあだ名「ジャパン」で呼ばれていた。そこで、私の日記では彼のことをおおむね Jap と書いているが、この日の記述で本名が知れることになった。「三段跳び…と同姓の生徒」を Jap と置き換えることも出来たが、D・シルヴァ選手についての注を残したく、また、田島君はもう故人だから本名が知れてもよかろうとも思い、そのまま引用した。
引用時の注
  1. このときのことはすっかり忘れていた。一学期には逆に、私が休んでいた間に進んだ箇所である、絶対値付き不等式の絶対値記号のはずし方について田島君に質問したところ、Vicky から教えて貰うはめになった。こちらの方は記憶していたので、のちに同窓会で Vicky に会った折に、彼女にそれを話している(英文随筆 "Surely You're Joking, Mr. Tabata!" の第 4 パラグラフ参照。この随筆中には、その同窓会の折の小さな写真を添えてある。中央にヨウコ先生こと佐々木先生、その向かって左隣に Vicky が写っている。私は左端から二人目)。

共食い式テスト/Vicky が『若きウェルテル…』の梗概を


高校(1 年生)時代の交換日記から

Sam: 1951 年 9 月 26 日(水)晴れ

 どうにか片山津に落ち着いた。「群集心理が強いね」と HRA がもらした。その通りだ。この前は Onew の意見、きょうは Shingi 君の意見にみんなが引っ張られたのだ。
 昨日の C の代りに解析が入っただけで、時間割に変化がない。
 保健体育はシュートのテスト。一人がシュートをし、一人がキーパーをする。だから、シュートして得点した回数と、キーパーがキャッチした回数の和は一定である。まるで「共食い」だ。



Ted: 1951 年 9 月 27 日(木)晴れ、午後雨

 国語の教科書の「本の読み方」のところに出て来た『若きウェルテルの悩み』を読んだことがあるという Vicky が Peanut 先生からその梗概を述べさせられ、日記、恋愛、三角関係などの単語を使った。それで、その本を読んでみたくなり、読むことにした。
 Vicky が「ウェルテルという人がロッテという人に…」といったときに、先生が「ロッテとはどんな人だね」と尋ねた。すると、後ろの Jumbo が「女の人や!」と、いうともなくいったので、われわれは口を大きく開けて、ハ行のいろいろな促音を連続的に発し、教室の空気をゆさぶった。

 誰とも沢山の話はしない。われながら、自分の口がこんなにじっとしていられるのが不思議になって来る。時計の音ばかりする。児童の作文や詩の題材にしばしば使われるような静かな夜だ。

2013年5月30日木曜日

旅行案に異義/時は急流


高校(1 年生)時代の交換日記から

Sam: 1951 年 9 月 25 日(火)

 きょうは月曜日の授業、ただし、 H は C とし、第六限と入れ替えるというのである。変な気持だ。
 昼食時間には投票用紙を配った。Onew 君から「片山津」について異義が出たからにほかならない。結果は山中 8、医王山 5、あとは単位未修了者の通知簿のような数が並んでいる。しかし、山中なら、片山津よりさらに悪い。明日また、ホーム全体に計らなければならない。



Ted: 1951 年 9 月 26 日(水)曇り、夕方から雨

 母から来た葉書には、注意事項ばかり書いてある。
 ゴソゴソゴソゴソと鞄を開けたり閉めたりする動作が、急流に乗っている。いま学校へ行ったと思ったら、もう、夜鳴きそばの悲しみとおどけをかき混ぜたような笛の音がして、午後十時を過ぎている。Jack の大きな喜びの日、それも早く済んでしまえばよい。
 一方は観賞用植物に過ぎない。他方は未知の植物で、素晴らしい可能性を秘めていそうだ。

HR をよくする座談会


高校(1 年生)時代の交換日記から

Ted: 1951 年 9 月 25 日(火)曇り[つづき]

 一限に筆入れを床に落として、左斜め前の席の Vicky に拾って貰うはめになり(注 1)、いい気持じゃなかった。

 H 時の「ホームをよくするための座談会」は、先週決めておいた司会者 OB 君が取り仕切った。彼は最初に、「ホーム委員長として、[ホームの雰囲気や運営などについて]よいと思ったことや反省すべきと思ったこと」を述べるよう、ぼくに求めた。「ホーム委員長でなく、ホームルーム委員というのが正しい」といいたかったが、それはやめて、「何もありません」と、あごで押さえるようにしていった。どこかで聞いたような言葉だと思ったら、第一回アセンブリーの公聴会で、元生徒会長の UE 君が最初にいった言葉だった。
 少し静かな時間が続いてから、Atcher が「体育委員が運動具の借り出しに手間がかかり、ホームの時間に運動競技をするとき、能率が上がらない」というような発言をした。次に、カンナを見事にかけられた材木のような感じを与える女生徒が、ぼくが以前思っていて最近は忘れていた「生徒会議員は議会報告をして欲しい」という意見を述べた。次にも誰かが議員を非難したので、OB 君が「議員の悪いことが挙げられましたが」というと、 SM 議員が「ぼく、何も悪いことしてません」と、叱られた子どものような発言をした。ぼくは、「生徒会会則に定められていることを実行していないのは悪い」といおうかと思いながら、白い袖にうつ伏せている削りたての生木を見ていて、その機会を逸してしまった。
 HRA が「休み時間と混同しない」自由時間なら設けてもよいなどと割り込んだ。Atcher が、それはもう要らないといって、また静かになったあと、AK 君が初めて発言した。「何も意見の出ない雰囲気を直すために投書箱を作っては」という提案だった。OB 君が「ぼくには、それを討議して貰って採決する権限がないから、三分の二以上の賛成があれば、ホーム委員にいまからこの問題を…」と、変な方向へ持って行こうとした。そこで、まだ座談会であるうちに、ぼくは投書箱の無益であることを述べた。それまで大人しくしていたもう一人の生徒会議員 Yotch がここで、「自分は投書箱に反対です」と、ぼくのように婉曲ではない表現で意見を述べた。その調子が、いまこの問題を否決してしまえといわんばかりになったので、OB 君は「それは困る」と制止した。
 「そうですか」と応じた Yotch は、続いて、それまでの中でこの座談会の主題に最も当てはまった意見を述べた。その要点は、内気な者の多いこのホームをよくするには、そんな「性格をガラリと変える」ことが必要だというのである。ぼくは、「性格をガラリと変える」ことの困難さと不必要性を述べた。社会集団的原理といったものを持ち出し、必要に当たってそれ相当の態度を取り、かつ行動することによって、建設的な雰囲気はいくらも作れるという論を展開した。Yotch が「もう一度いって下さい」といった。ぼくは、大阪城見物の際に天守閣でバスガールが自分の説明のあとにいった「自分ばかり分ったような」とは反対の、「自分でもはっきり分っていないのですが」という言葉で再度の論述を始めたが、笑いのやむまでしばらく待たなければならなかった。(注 2)
引用時の注
  1. Vicky が左斜め前の席にいたのはヨウコ先生の「解析 I 」の時間だっただろう。これを機会に彼女と仲よくなっておけばよかったとは、いまだから思うことである。当時は、男女生徒が教室で親しく話し合っておれば、不良じみていると思われたり、すぐに揶揄の対象にされるというような雰囲気だった。その雰囲気を私がさらに誇張して受け止めていたところもあったかもしれないが。また、Vicky に対しては特に、ライバル意識プラスαがあって、このあとに書いている通り、親切にされるのは「いい気持じゃなかった」のである。
  2. この記述からは、座談会の終り頃になってホームルームの雰囲気がよくなったように見えるが、その後はどうだったのか記憶になく、読者の方々と一緒に、これから先の日記を見て行かなければならない。なお、Yotch は保険会社に就職、のちに関連子会社の社長を長年務め、退職後郷里に戻り、紫中のわれわれの同期会会長と石引小学校クラス会幹事も引き受けてくれていて、私はいまでも世話になっている。

2013年5月29日水曜日

秋分の日のことの続き


高校(1 年生)時代の交換日記から

Ted: 1951 年 9 月 25 日(火)曇り

 時間が貴重である。十日間続く変わった生活(注 1)は、まず暇がないことをもって始まった。

 昨日 Tacker の家へ行く道々考えたことも多かったが、あのとき頭上にあった雲と同様に、いまはもう、どこかへ流れて行った。二百米ぐらい手前から、Tacker の家の中で拳闘でもするような格好で動いている Jack が見えた。行ってみると、風呂へ入れる水をポンプでくみ上げていたのだった。Jack と Tacker は将棋をし、ぼくはそこにあったシートンの『動物記』を読んだ。ときどき目を上げて、射撃場(注 2)の丘の後ろに続く小高い山の、したたる緑色をした樹木を見やった。
 われわれは射撃場へ出て、ソフトボールでホームラン競争をしたが、ぼくは下駄の緒を切らし、クリのイガが足の裏に刺さり、全く元気を失ってしまった。Jack の目でボールが見難い薄暗さになった頃にそれを打ち切って、彼らは百米と四百米の競走を一回ずつした。「風呂へ入って、うどんを食べて行け」とのことだったが、暗さと時が恐ろしくなったので、Jack を残して帰った。土曜日に図書館を出たよりは早かったが、一歩毎に明度が低くなり、辺りは黒に近づいて行った。[つづく]
引用時の注
  1. 母が大阪へ特殊学校教育の講習を受けに行っていたので、食事には近くに住む Y 伯母のところへ通っていたのだろう。
  2. 旧陸軍の射撃練習場跡で、当時は、いまの自衛隊の前身である保安隊がときどき射撃練習に来ていた。

運動会のあとで


高校(1 年生)時代の交換日記から

Sam: 1951 年 9 月 24 日(月)曇り[つづき]

 「字合わせ競走」。走りながら、ゴールに達するまでに 1 から 5 までの五枚のカードを拾わなければならないのである。2、3、1、5、4 の順に拾ってゴールイン。一等の賞品は御徳用マッチ。ゴールへ入って調べたら、5 を二枚も拾って 1 を拾わなかったためにオミットされたものなどがいた。
 「五〇歳以上競走」。誰も走る御仁がおられないので、オジャン。
 「ヨチヨチ競走」とは幼児の競走かと思っていたら、六十センチぐらいのテープで両足をくくり、小股にヨチヨチ走るのである。テープを切ったら負けになるのはもちろんのこと。
 かくして、まとまりなく面白かりし一日は終りぬ。再びバスにてわが町に帰り来たりし時は、ほの暗くなり始めてこそいたるなれ。

 なみなみと茶碗につがれた淡黄白の液体、心地よき香りが漂う。飲む。Oh! 注ぐ。飲む。チビリチビリ。また注ぐ。チビリチビリ。
 ちょっと雰囲気がおかしいや。
 歌。♪あなたのくれた帯どめの/達磨の模様がチョイト気にかかる…♪
 時。静か。誰か手を叩く。
 「出そうで出ないはお次の番。」それから。
 まだとけきれない。顔中が焼け付くようで、瞳は重い。でもまだまだ。左手の親指の方が、右手の親指の外側にある。いやいや、だからいけないのかもしれない。しかし、しかし、それは恐ろしいことだ。(注 1)
引用時の注
  1. Sam は町内の運動会のあと、成人した若者たちに混じって酒宴に参加したのだろう。私がこの日記を読んだのは約 2 週間後の 10 月 7 日だったせいもあるかもしれないが、これに対して私は何のコメントもしていない。

2013年5月28日火曜日

夫婦競走で年増と走る


高校(1 年生)時代の交換日記から

Sam: 1951 年 9 月 24 日(月)曇り[つづき]

 ぼくが最初に賞品を獲得したのは障害物競走だった。勇敢に俵をくぐったために勝てたのだ。紫中のときはこれで失敗した経験がある。
 なんだって? 馬鹿! そんなものに出場出来るものか。頼まれても、拝まれても知らん! 班対抗煙草リレーだなんて、止めとけ、止めとけ。
 パン食い競走は、糸の方を歯で切るんだってさ。そして糸ごと、先にパンをくっつけたまま走ればよいんだとさ。
 二人三脚で三等になってシャモジを貰った。
 まわれーみぎ! なかばーひだりむけーひだり! 闇の世界で考えてするのだからどうなるか分らない。確かに正面に対して直角に左へ向いているはずだと思っていたのに、45° 違っていますといわれて、オミットされた。
 午後からは、ちとややこしい競走があった。まず「夫婦競走」。男は左回り、女は右回りに走って、途中でカードを拾う。スタートラインの反対側の辺りで、お互いに番号を呼び合って、同番号のもの同士が手をつないで左回りに走り、ゴールに入る。ゴールでもう一度カードを受け取り、三数の和が偶数ならよく、奇数ならば離縁となる。ぼくが、「同じ二数の和は偶数だから、結局ゴールで貰うカードによって決まるわけで、それは不合理ではないか」と質したが、そのままやることになった。ぼくは年増の人と手をつないで走らなければならなかったが、ゴールで受け取ったカードが 1 だったので、三位でゴールインしたにも関わらず離縁となって、むなしく終わった。つまらない。[つづく]

ネコの額ほどの場所で


高校(1 年生)時代の交換日記から

Sam: 1951 年 9 月 24 日(月)曇り

 八時十分、八時三十分、八時四十分、八時四十五分。出たり入ったり、どうも落ち着かない。少しでも多く『新平家物語』が読みたいし、また、バスの来るのが、いまかいまかと気になる。九時十五分前、思い切って家を出る。それから三十分以上も経って、やっとバスが来る。
 昭和通りから白銀町、尾張町と抜けて、橋場町を右へ曲がると思いのほか、まっすぐ北端国道の方へ向かう。小坂神社のところの坂を上がり、ぐねぐね曲がり曲がりして頂上に達する。バスの影を見ると、相当傾いている。滑り落ちそう。それでもスキーで滑降するときは、きっと平地同様に感じられるだろう。「殉職警防団員之碑」の前のネコの額ほどのところで、運動会をするのだとさ。トラックはほとんど円である。直径は 20 m ぐらい。
 拡声器の設備がまだとかで、しばらく始まらない。眼下の本当の運動場で、他の町の運動会が行なわれている。面白そうだ。「化粧競走」というのに出場したよ。ぼくの出場したのにそんな名前はついていないが、きっとそれのことだろうと推察する。すなわち、名を変えていえば、「飴食い競走」である。どんなのかって? 箱(オリというものが普通さ)の中に飴を入れ、その上にうんと小麦粉をかけて見えなくしておく。それを走って来て、手を使わないで口で直接探り当てて中へ収める。人間の口は鳥のくちばしのように尖っていないから、顔中が真っ白に化粧されるというわけだ。[つづく]

2013年5月27日月曜日

忙殺された連休

 下に引用する日記から使い始めたノートの表紙。最初のページの欄外に Ted が次のように書いている。「いつか母が買って来たノートだが、華奢で非実用的なので、いままで使わなかった。十冊目の通信帳として働くときが来たのである。」

高校(1 年生)時代の交換日記から

Ted: 1951 年 9 月 23 日(日)晴れ
Ted: 1951 年 9 月 24 日(月、秋分の日)曇り

 しなければならないことがあれこれとあって、昨日は日付を記しただけで、やめてしまった。忙殺された二日間は(注 1)、新しい自分を見出すきっかけとなったかもしれない。きょうは、もう少しで書いた字が「菫」一字という珍しい記録を残すのではないかと思われたのだが、いま、こうしてゆっくり万年筆を動かす時間があたわった。
 祖父の布団がいつも敷かれている場所の畳が青く見えていて、部屋がガランとしている。(注 2)
 母が大阪へ講習を受けに行くのを送って大学前まで行き、それから冷たい新しい空気を呼吸しながら Jack の家へ行った。彼は起きたばかりで、寝間着のままだった。彼の部屋へ入っていると、Lotus の声がした。Jack が「隠れろ」と身振りで示した。気も進まないし、その必要もないと思ったが、指示に従った。Lotus は北陸学院のバザーとかに行けなくなったと Massy に伝える必要が出来て、彼の家のありかを聞きに来たのだった。
 Jack と Gamma の家を探して、見つけ出した。それより先に、材木町の通りへ出る角で、ぼくのホームにいる演劇クラブの女生徒にすれ違った。そのとき彼女がわれわれに当然のことをしたという話題が、Jack の口をしばらく独占した。Gamma は和服(よくいえば)の下から白くて細い毛ずねを突き出して、門がなくて高い二、三段の石段の上にある玄関の戸の前に現れた。再校正のことについて少し聞いて、われわれはそこを辞した。Jack と午後、行くたびに家畜が供給してくれる新鮮な飲み物か何かにありつける Tacker のところへ行く約束をして別れた。帰宅すると、商用かたがた甲子園で野球を見て、京都のぼくの伯父の家へも寄ったりして、けさ金沢駅へ着いたという七尾駅前の NS の小父さんが来ていて、祖父と話していた。この小父さんの出現は、ぼくの足をしばらく綱で結わえることになった。一時過ぎにようやく、Jack がとっくに行ったあとを追って、ゼンコウジ坂—Jack が少し前まで住んでいた家—重量制限が三トンから一トンに減っていた橋—…と行った。
引用時の注
  1. 「忙殺された」といっても、遊びに行ったことも入れての話である。
  2. 母が泊まりがけで大阪へ出かけたので、その間、祖父は近くの Y 伯母の家で面倒を見て貰うため、午後からでも引き取られて行ったのだろう。

副産物ばかり/片仮名の物名書き


高校(1 年生)時代の交換日記から

Sam: 1951 年 9 月 22 日(土)晴れ

 次から次へと太陽を東から西へと送っていては駄目じゃないか(もちろん、ぼくが自分でそんなことをしているのではないが)。
 萩原朔太郎について調べるつもりで、図書館のカードをくったが、それらしいものは全然なく、副産物で満足することになった。吉川英治作『新平家物語』だ。
 よく知っているつもりの大和デパートの中でも、存外、知らないところがある。例えば、休憩所(室)はどこにあるか、「七輪」はどこで売っているか、などなど。
 石川線の終点である白菊町付近に多い会社へ、その副産物(きょうは、そんなもので我慢してばかりいなければならないようだ)を貰いに行く。リヤカーにぼくの身長と同じくらいの高さまで積み上げて、そろそろと引いて帰る。

 172490, 172490, 172490, …。(「宝くじの番号かい? それとも彼氏の電話番号かい?」なんて聞いていたけど)——ラジオ民衆学校。今晩は、それよりもまだまだ多くの数字を書いた。が、自分で見て、全然見事だと思わない。自分で自分の字が「みにくい」と思ったときくらい、気のいらだつことはない。付録(副産物の同類だ)として、Funny と将棋に興じる。


Sam: 1951 年 9 月 23 日(日)晴れ

 ゴゼンチュウハ、昨日と同じような仕事に片仮名を加えてした。片仮名の間違いやすいこと。コとユ、スとマとア…、よく似たものが並んでいる。自分で書いたものでなくて、自分の知らない物の名を書くのだから、困難は大であった。
(注 1)

 最初から Jack の家へ行けばよかった。英語のしりとりの方は、もう少しはっきりした規則が欲しいと思った。
引用時の注
  1. 前日とこの日と、Sam は何らかの内職的なアルバイトをしたのだろう。

2013年5月26日日曜日

「勉強ばっかするさかいや」


高校(1 年生)時代の交換日記から

Ted: 1951 年 9 月 22 日(土)晴れ

 ヨウコ先生、出て来られる。難問を突きつけられた Jap は休む。Vicky は Frog 先生に、「顔が青いのではないか」といわれる。「勉強ばっかするさかいや」との声が、熱湯から昇る湯気のように立ち昇った。白いセーターを着た Lotus がぼくに、「気をつけろよ」という。
 校内美化週間なので、毎日の掃除が採点され、表にして廊下に張り出される。昨日で二日になるが、Iron が美化委員で一学期の同じ週間に第一位となり表彰された十四ホームが、第一日目に 10 点を取り、幸先のよいスタートをしている。4 点以下は赤で記され、0 点もある。
 C 時、編集長改選が行なわれる。Gamma 編集長は、第十一号発行と同時に新編集長に席をゆずる予定である。二年生の部員全員が候補者ということになり、投票の結果、ST 君が当選したが、彼は十一月からの C 活動第二期には他のクラブへ移るつもりだからといって、返上する。再選挙で FJ 君が当選。
 一時半に『菫台時報』の校正刷りが来るというので、一度帰ってから、また登校する。『紫錦』を出していた新聞部にいたときと同じで、一時半が三時になっても印刷屋は来ないので、われわれはソフトボールをしていた。Tacker が自転車で広文堂へ取りに行き、ようやく貰って来た。見ると、文字ばかりのグサグサした感じの紙面になっている。一、二面とも三枚ずつ持って来たので、手分けして調べ、最後に一枚にまとめ上げる。誤字は皆枠の外へ線を引いて訂正を示したので、沢山の赤線が顕微鏡で見た繊維のように長く交錯して走った。Gamma が口を縦に大きく開いて、「なーんやこれ」という調子がうつって、何度もこの言葉を発した。
 帰りの足で Jack と県立図書館へ行き、暗くなるまでいたが、何も読まなかった。小さめのしまった顔をした泉丘高校の生徒が Jack に話しかけ、菫台から NBT 君が転校して行ったこと、彼は「文化祭の出し物」の材料にするための何かを調べに来たのだということなどを、きれいな言葉遣いで話した。Jack に誰かと聞いたが、彼も知らなかった。

「アセンブルの司会…」


高校(1 年生)時代の交換日記から

Sam: 1951 年 9 月 21 日(金)晴れ

 運命! 自分には何も分らないけれど、誰かがそれを知っている。それを知らなければこそ、悲劇が起こる。さりとて、それを知り得ても、同じく悲劇は起こるだろう。

 快調!とは度を越した表現かもしれないが、良好!であったことは事実。誰よりも大きな優越感を感じていた。他人のしていることがもどかしくなって、積極的に教え込んでやりたくなるような、ここまで昇って来たのだぞといわんばかりのような、何となく朗らかな気分! 何があったんだって? "727 cm" だよ。時間番号 21のネ。
(注 1)

 愉快! 奇跡! ワッハハハハハハ。弁当を食べながら、涙を出しちゃった。「きょうのアセンブリは何だい?」「音楽部の発表!」「司会は? 誰するの?」「また Kyouji(生徒会副会長の正式の下の名だ)がやってくれるやろう」と、三年生の執行委員 MYZ 君。「あいつの開会の言葉、おっかして。"ただいまよりアセンブル、アセンブルを始めます。" アセンブルていうたら、集まるという動詞やさかいな。」ぼく、「スペリング
(注 2)では e と y の違いだね。」そこへ戸が開いて、Kyouji 君がのこっと入って来る。そのときのおかしかったこと。しかし、神妙な顔をして迎えると、「きょうのアセンブルの司会、誰やったい」である。一同思わず大(どうなったか分るだろう)…。
 アセンブリは、久しぶりに胸の奥まで澄んで行くような軽やかな合唱のリズムを聞いた。
引用時の注
  1. 体育の時間に何かの競技でよい記録を出したということだろうが、何の競技だろうか。体育実技がきわめて苦手だった私は、Sam の喜びを無視するかのように、質問さえも記していない。
  2. 私が先に、「綴り」のことを普通「スペル」といっているのは間違いで、「スペリング」というべきだと Mouse 先生がいっていたと書いたのに従って、Sam は正しく「スペリング」といったのである。

2013年5月25日土曜日

感情が灼熱状態


高校(1 年生)時代の交換日記から

Ted: 1951 年 9 月 21 日(金)晴れ

 Ted よ、猛省せよ。冷静になり給え。落ち着きがあって、大地をしっかり踏みしめて歩む自分に帰れ。
 ヨウコ先生欠席。Teinō 先生(Teihen 先生か。よく似たあだ名の先生方がおられて区別がまだつかない)が補欠。鉛筆削り屑事件。腹が立つ。「これは君が削ったのだろう。そうだな?」といわれた先生に対してではない。「ぼくがしました」といわなかった Jap に対してでもない。決して間違いをしたのではなかった。叱られたわけでもない。しかし、感情は灼熱状態になった。変った歩き方をし、変った行動をとって、二限の教室へ行った。そこで構想を練り、三限に叱責的な文と問題を書いて Jack に渡し、Jap につきつけさせた。その文書には時限爆弾をひそませてある。それは不発に終わるかもしれない。四限には、当てられたにもかかわらず、"It is hard for an empty sack to stand upright." を訳さなかった。ますます感情は燃え、胸の中に煙が立ちこめた。
 なぜか周囲が憎らしかった。嘲笑されているように感じた。国語のテキストにちょうど、「自分の感情や行動を分析することは、作品を理解するために絶対必要です」というところがあり、Peanut 先生がいろいろな問題を取り上げられたので、ぼくの心はいっそう燃え盛った。きわめて冷静であるように装い、Peanut 先生の言葉を一つ一つ飲み込んだ。
 なぜ、誰にともなく憎悪の念が起こったりしたのか分らない。(注 1)
引用時の注
  1. 「事件」と呼ぶのは大げさ過ぎるほどのことだったに違いないが、先生に自分が疑われたこと、近くの席だった Jap(TJ 君)が白状しなかったこと、その結果、周囲から自分が悪人のように思われたのではないかという懸念を抱いたこと、これらの重ね合わせによって、大きな不快感が誘起されたのだろう。「…といわなかった Jap に対してでもない」と書きながらも、彼宛に「叱責的な文」をしたためたところを見ると、Jap への憤りは小さくはなかったようである。

日曜午前の仕事を/ガリバン刷り


高校(1 年生)時代の交換日記から

Ted: 1951 年 9 月 20 日(木)雨

 学校へ早く行って、Lotus、Jack とともに十八番教室にいる。誰かがやって来る。Lotus が「Jack、赤くなりました。赤くなりました」と大声で実況放送する。たまらなくなった Jack は、プイと教室を出て、駈けて行ってしまう。Massy が来る。解析の試験は予選だとか、変なことをいう。最も要領の悪い教え方をされる授業が始まる。TKN 君は彼の眼鏡(本式にかけてはいないが、持参している)のレンズにインクを落として青く塗り、色眼鏡を作っていた。
 三限、昨日の dictation が返された。ぼくのには二重丸がつき、Twelve のには 17 とつき、先生が読み上げるのを聞かないで教科書を見て書いたという NSM 君のには 100 とついている。
(注 1)
 SH 時、アセンブリー特別委員会結成に関するプリントが渡される。「それを我が校アセンブリーに反影する為に」を初めとして間違いの多い文のあとに、切取線があり、「委員となって尽くす」、「陰ながら協力する」のどちらかに丸をつけて出すようになっている。「なお、委員としての活動は決してオーバーワークになりません」という記述は信用出来そうにないから、敬遠するのが妥当だ。
 二十四の単語を辞書をくって調べるのに、一時間近くかかる。たいてい、日曜日の午前に行なう仕事にしているのだが、こうやってゆっくりと先へ進むのは楽しいものだ。
引用時の注
  1. 青数字は間違いの数、赤数字は減点数であろう。私の答案にあった二重丸というのは、間違いの数 0 を丸で囲んであったのだろう。私は dictation において、ほとんど常に間違い 0 だったが、一度、"lower" と書くべきところで "lawyer" を連想して迷いが出て、"lawer" と書いた。Mouse 先生は a のところを丸で囲みながらも、間違いには数えないという甘い採点をされた。保持者のあまりいない間違い 0 継続記録が途切れるのを惜しまれたのだろうか。

Sam: 1951 年 9 月 20 日(木)雨

 ブランク時を利用して、ホームの旅行計画をガリバンで印刷する。力の入れ方が足りなかったらしく、あまりよく出なかったが、まあ読めるからというので、書き直さないことにした。
 放課後も、またガリバンにかじりついた。生徒会の会則を刷るためである。五時までかかってやっと半分だけ書いた。なかなか骨が折れる。
 !!!!!!(雨のことだよ)。帰宅するのを二十分ばかり遅らせてしまった。残念ながら、タイプの練習は出来なかった。

2013年5月24日金曜日

新日本展覧会


高校(1 年生)時代の交換日記から

Sam: 1951 年 9 月 19 日(水)晴れ

 どこにいても肩身が狭い。何という大きなへだたりだろう。きっとFunny はぼくよりももっと弱っているだろう。彼のことだから、いくらかは誇張して、たとえば、大接戦で惜敗したとか、コンディションが最悪であったとか、とにかく自分を大きく浮き立たせて吹聴しているかもしれない。しかし、一時間だけの欠課なのに、かなり迷った。

 生物部に属している Keti 君が葉緑素に関する実験を済ませるのを待って、二人で日本交通公社
(注 1)へ行く。片山津までは旅費六八円(もちろん団体割引)、旅館休憩料が五〇円だそうである。思ったより安くつくので、まず安心した。いろいろなパンフレットなどを貰った。
 出口のところまで来て、あわてて引き返し、エレベーターで五階へ行き、新日本展覧会(はっきりとは覚えていないが、確かそうだった)を見る。回顧編のところは、片山内閣、芦田内閣、吉田第一次内閣、吉田第四次内閣など、そんな写真が沢山並んでいるだけで、別に面白くもない。サンフランシスコ講和会議の写真もあったが、電送写真の方は一向にはっきりしない。ピリオドばかり並べて描いた絵のようだ。どこかテレビにも似ている
(注 2)。しかし、やっぱり、ぱっとしなくて、いけない。条約編の方は、そんなに読む気はしなかった。
引用時の注
  1. Sam は 2 年半後にここの社員になるだろうとは、このとき思ってもいなかっただろう。
  2. NHK が白黒テレビの本放送を開始したのは 1953 年 2 月 1 日のことであり、それより 1 年半ほど前のこの頃の「テレビ」というのは、デパートなどで見た試験放送の、まだきわめて低画質だった映像のことだろう。

ヨウコ先生の不意試験


高校(1 年生)時代の交換日記から

Ted: 1951 年 9 月 19 日(水)曇り一時雨[つづき]

 問題を見て、まずアガッた。一番も二番も分数の大きな数字の値が出る。これでは違っている可能性が高い。しかし、検算はあとからにして、次へ進む。出来る。次。根号がかかっていて、中は分数で、おまけに虚数である。応用問題に取りかかる。その二番目からする。五桁の平方根がきちんと出る。応用の一番へ戻る。式は作れたが、変な値が出る。式を再検討する。直す。出た。最初へ戻る。行列式で検算を試みる。だいたいこのようになりそう。一つ違っていた。他に誤りは見つからない。その間にサイレンが鳴っている。十分の延長だ。六限にこの教室で日本史を受ける上級生たちが廊下で騒ぎ出す。「おい、えらい真面目にやっとる。」「まだ出来んがか。」「横向くもん誰もおらん。」「そこにドウラク広げとる。」これらの言葉を耳にして、ぼくがニヤニヤしていると、「眼鏡かけたが、出来たがか、出来んがか」と来る。うるさい、黒いハエども。斜め前では、Vicky が背を張って丹念に計算を続けている。Jack がトップに提出した。六限の始まるサイレンが鳴ったので、列の最後部のぼくは、自分の列の答案を前まで集めて行った。誰もあまり出来ていないようだ。口々に「めちゃくちゃや」などといいながら、戦場を引き上げた。

 夕食の前に目覚めた祖父は、朝と勘違いして、顔を洗うために廊下へ出て行き、「どーも、はや」と、失態を歎いている。
 ぼくの毎日は、目を開けていながら、半睡半醒のようなものである。どこにも明瞭なものを見出し得ない。寝ぼけなら寝ぼけでよいが、白昼のもうろうとした行動は、何にもまして悪い。固くなることが出来なくなったようだ。骨がない。全然ない。Sam のような、実際的な人間にならなければ——。

2013年5月23日木曜日

白と黒の落ち着いた服装


高校(1 年生)時代の交換日記から

Ted: 1951 年 9 月 19 日(水)曇り一時雨

 Lotus と Jack が早く誘いに寄ってくれる。Lotus が聞いたところによると、Compe の解析のレッスンでは、昨日ヨウコ先生が来られなくて、補欠の先生が来られ、「遊べる!」と思ったら、不意試験があったということだ。
 体操はハンドボールと体重測定。英語は dictation。社会は民主主義的憲法の変遷(ぼくは昨日から二冊目のノートを使い始め、きょう、隣席の Vicky も一冊目を使い尽くしたが、彼女は持参した新しいノートに移らないで、かたくなに裏表紙に書いていた
(注 1))。国語乙は一(第一〇段)。これらの授業を忙しく受けて、SH が済むやいなや編集室へ行くと、Lotus の解析のレッスンでも試験があったとの情報が入っていた。Deco の弁当が壁の高いところにつり下げられていた。彼は Jack を犯人と見なして Jack の帽子を奪ったので、Jack は顔面の血管を硬直させて彼に組みついた。Deco 先輩にも、意外に早とちりするところがある。
 弁当を済ませると、すぐに九番教室へ行く。窓から雨の降っているのが見える。われわれは、その上にさらに低明度の灰色の空気を流した。誰も彼もそのことを考えている。広げられているものは、一種類のノートと三種類の本
(注 2)に大別出来る。ぼくは何も広げないで、Hotten のせがみに応じたり、Jack の第三種の本に見入ったり、白と黒の落ち着いた服装ながら落ち着きのない歩き方をする——と見えるのは、見る方の心に落ち着きがないからか——a strong rival, Vicky, (注 3)が何をしているかを観察したりした。第二のサイレンが鳴った。ヨウコ先生も補欠も現れない——。ぼくは、まだ習わない先の、不等式のところの問題を解いてみようとした(自慢ではないが、他の者たちはこれほど呑気ではあるまい)。そこへやっと、補欠としての Pentagon 先生が来られた。Mouse 先生の時間の dictation のように、がやがやと妨害をしたのではかえって損だと知ってか、一同は静かに問題用紙を受け取った。[つづく]
引用時の注
  1. 1年生のとき、Vicky と私は二つのレッスン以外はすべて同じ教室で学ぶことになったが、とくに社会科では一番前で隣同士の席だった。机は一人用のものが間に通路を作って並べられていたので、隣と言っても少し離れており、言葉を交わすこともなかった。東京でこのところ毎年開催されている高校同期生関東在住者会に数年前、Vicky こと TK さんと私が揃って出席した際に、私は近況報告として「湯川秀樹を研究する市民の会」や地域の「九条の会」に参加していることを述べた。男性の誰かが、「九条の会」と聞いて、私としてはお門違いのようなことに首を突っ込んでいるという意味で、驚きの声を上げたとき、かつてのライバル TK さんは、「湯川博士も九条を守る立場だったでしょう」と、助太刀をしてくれた。いま日記から、「民主主義的憲法の変遷」の講義を隣席同士で聞いた間柄だったことを思い出さされ、感慨深い。
  2. 教科書、「道楽」と呼ばれる参考書、そして、持っていたのは少数派ながら、大学受験用の参考書、の三通りの本のこと。
  3. 「白と黒の落ち着いた服装」という表現で、当時の Vicky の姿がまざまざと思い出される。白の長袖のブラウスと、黒の長目のスカートだった。

遂に敗れる!


高校(1 年生)時代の交換日記から

Sam: 1951 年 9 月 18 日(火)曇り時々小雨

 「四対二!」遂に敗れる! 数秒前にぼくのラケットの下をくぐってアッという間に過ぎ去った球は、まだゆるく動いていた。——また、当分はこのコートへも来ないことになるだろう。係のおじさんにさよならといって、コートを出た。出るなり早速、二人の反省が始まった。まだ興奮はさめない。憤りと悔しさと悲しさと悩み(すべて心部だ)。
「第五限の授業を受けんと来たりまでもしたがに…」
「何やらおかしいと思っとった。岡田さんに迷惑かけたかもしれん。」
「何ていっても調子が悪かった。」
「ラケットのガットもゆるうなってしもうたし。」
「一セット目に相手が二本ダブル・ホールして勝ったとき、嬉しかったけどなあ。」
「あっちもあがっとったがやろ。」
「ほんでも次にお前が三本もダブって負けたら悲観してしもうた。」
「三セット目、勝たんなんがやったな。」
「おいや! 完全に勝てた。」
「ジュースになって…。」
「ポイント取れんだんが駄目やったんや。」
「四セット目はがっかりしてしもうて、全然駄目。」
「五セット目になってやっと調子出たんや。」
「お前が二本ほど叩いてくれた。」
「ファーストサーブだけ入れば、完璧やったんやけどな。」
「相手も大したことなかったんやし。」
「エエ! 惜しい。」
気晴らしに、夜二人で将棋をする約束をして別れる。
 行く前にと思って単語を調べていたら、Funny が呼びに来た。

2013年5月22日水曜日

「あんたの "物" ちゅう字、"初" かと思うた」


高校(1 年生)時代の交換日記から

Ted: 1951 年 9 月 18 日(火)曇り

 ホームに活気が出て、議事を運びやすかったが、運び方はまずかった。原案が修正されたのは、「リレー作文」を「晴れたらスポーツ、雨ならば討論会」としたところだけだったが、最初の発言者 Atcher の「自由時間が必要」とする提案で長くもめた。OB 君が、句点に相当するところで力を込める話し方で大声に、そんなことは放課後にして貰うことにして、H 時は全員がまとまって一つの行事をするべきだと述べた。そして、H 時の目的を説明して欲しいと注文をつけた。ぼくは、「抽象的な言葉で申せば、社会性を陶冶し…」などと、適当なことをいっておいた。
 自由時間を加えるかどうかの採決に入ろうとしたとき、「それは H 時を時間割からなくするかどうかの採決をするのに等しい」という、HRA の発言があった。続いて長々と説明があったが、結局、「自由時間」という企画の設定は不可能だとの示唆だった。時間の終わる頃に出た Yotch の穏当な意見は、ひじょうに感じがよかった。TKM 君はペチャペチャと話し、SM 君はボッコリと話す。女生徒では、大きい口でペシャクシャとやる Purse のワンマン、いや、ワンウーマン舞台だ。OB 君が深刻な声で深刻なことを述べたときは、「みんながそんな態度なら、この次から企画委員会に残りません」といい終わるまで、ぼくは、失礼ながら(陽気な雰囲気にしたいとの気持もあって)笑い通しだった。
 続いて体育委員の司会で、ホーム対抗バスケットボールの選手を決めた。卓球部へ入っていて柔らかな物腰の IMK 君は、ぼくとあまり変わらない調子で(と書いたのでは、よいのか悪いのか分らないが)議事を進めた。前にソフトボールの選手を決めたときに彼は「ぼくに賛成の人」と、気兼ねした顔でいわなければならなかった。きょうも、「これだけではバスケットボールは出来ませんから、もっと推せんして下さい」などと、控えめな言葉が多かった。「ありまする」と、要らない「る」をつけたときと、決め終わって教壇を踏み外したときに一同は笑った。

 国語甲にも笑いの種があった。Peanut 先生が黒板を拭くときの姿は、調子をつけて上下に手を動かし、足と身体も上下させて、踊っているようだ。「怯懦」の意味を問われた女生徒は、「はじめにおじおそれること」と答えて問い返され、机を寄せていた隣の女生徒に、「あんたの "物" ちゅう字、"初” かと思うた」といった。先生自身も、ルイ十六世をルイ十四世にしておられた。

ホームルームの旅行計画


高校(1 年生)時代の交換日記から

Sam: 1951 年 9 月 17 日(月)晴れ[つづき]

 十月一日のホーム旅行のための計画を立てた。まず、目的。見学、慰安、両方を兼ねる、のうち、慰安が圧倒的多数。誰もが、思いっきり愉快に、何事も忘れて遊んでみたいのかもしれない。しかし、そんな欲求は恐らく満足させられないだろう。見学という堅苦しいものよりは、という軽い気持からの希望だと考える方が妥当らしい。そうとなれば、まず温泉地が挙げられて来る。北の方から、宇奈月、和倉、深谷、湯涌、中宮、片山津、山代、山中、芦原。ざっとこんなところだ。結局、潟に面した温泉へ行くことに落ちついた。「さっそく時間や費用などを調べに行っ」て来てくれと HRA がいう。二十二日までに確実なことを決めなければならない。

 Funny が五時頃呼びに来たが、都合が悪くて六時といった。それなのに、六時にはもう暗くなって、計画は望みがなくなった。謝りに行かなければならない。(注 1)
引用時の注
  1. 実際の時間経過としては、ここから、先に掲載したこの日の最初の記述「将棋の長期戦」につながる。

2013年5月21日火曜日

本『学生時代』に魅了される


高校(1 年生)時代の交換日記から

Sam: 1951 年 9 月 17 日(月)晴れ[つづき]

 第一限の社会が始まる前、ぼくを基準とし、廊下側の反対を正面として、左に桂馬飛びしたところにいる生徒が『キング』を読んでいるのを発見した。さっそく見せてくれといったが、前にいる生徒に貸す約束だといって、別の本を見せてくれた。新潮文庫の『学生時代』。その中には、「受験生の手記」、「母」、「艶書」、「鉄拳制裁」など、十二編が収められている。作者は(知っているだろうな)(注 1)。そればかり読んでいた。社会の時間に先生が何を話していたかも記憶していない。とにかく、いまの時間は耳を働かせているよりも、目を働かせている方がよいようだとだけ思った。目から入って来たものは他の意味で大きな社会科の問題を含んでいた。そして、幾倍かの興味を持つことが可能であった。どの科目よりも多く書いてばかりいなければならない生物の時間でさえも、時々本を出しては読んだ。ぎりぎりのところに限界をつけてまでも、『学生時代』なる本は読まずにいられないのである。

 ハンドボールはシュートの練習をした。何が何だかはっきり分らないが、とにかく、「力一杯ゴールにたたきこめ」ばよいのだが、なかなかうまくいかない。やれラインクロスだ、オーバーステップだ、球が弱い、ゴールからそれる。さんざんである。やっぱり好きじゃない。[つづく]
引用時の注
  1. 作者は久米正雄。私は当時知らなかったし、その後も読んではいない。

将棋の長期戦


高校(1 年生)時代の交換日記から

Sam: 1951 年 9 月 17 日(月)晴れ

 Funny のところへ夕方、庭球の練習に行けなかったことを謝りに行ったつもりだったが、つい話が長くなって、庭球以外のことにも及び、とうとう、裏返せば銀はもとより馬や槍までが金に変るゲームをし始めた。第一回戦から接戦を演じ、ようやく苦境を脱して勝利を得た(ことは覚えているが、何回戦やったのか、多分三回か四回だったと思うが、はっきりしない)。
 われわれは一人の横見八段を横において開始した。横見八段は思いのほか静かで、やりよかった。しかし、彼のアドバイスは、どちらかといえば、ぼくに不利だった。ぼくは最初から大駒の交換によって損をし、それがたたって、終盤の前まではずっと苦しみ続けた。しかし、最後のドタン場でようやくふんばって、試合を長期戦に持込んだ。それからのぼくは、作戦が少しずつ図にあたって来た。幾度か詰めになりそうになりながらも、どうにか持ちこたえて、敵陣に陣取り、いわゆる逆駒にすることに成功し、みごと機会を掴んで、一挙に押し返して勝った。恐らくこの試合一つに一時間を要しただろう。それは横見八段をいらいらさせたが、致し方なかった。ぼくはゆっくりゆっくり先の先まで見通してから指して行くのだから。
 十時二十分! かなりの時間である。ボツボツしまいかけた店々を見ながら急いで家へ向かう。空には中秋の名月と呼ばれた夜から二日ほど経った月が小さく高くかかっていて、ときどき雲の陰に隠れた。
 し、ま、っ、た! 戸があかない。どうしても駄目だ。押す! 引く! どちらも駄目だ。どうしよう。ああ…!いっそ(いや、別に何のあてもない)。仕方がないから声を出そう。——でも——何だか気が引ける——早く、早く、早い方がいい——(一刻も)。コン(おかしいなあ?)バンハ!——(確かにヘン!)
 中は暗い。そのうちに微かに音がして人の呼吸が聞こえる。——キイキイキイ、一回、二回、三回…、七回、八(七回と半分だ)きしむむ音をたてて戸があけられた。
 かくして、ぼくはぼくの家へ帰った。[つづく]

2013年5月20日月曜日

「尾行者」の結末とヨウコ先生のお叱り


高校(1 年生)時代の交換日記から

Ted: 1951 年 9 月 17 日(月)晴れ

 忠実な従者か執拗な追跡者か分らない子犬に灰色の犀川を見せてやってからは、何とかしてまいてやろうと思った。可愛そうというよりも、薄気味悪かった。本屋と床屋が向かい合っている角を引き返し、Twelve を呼んでみた。彼も不在で、そこでも助からなかった。緑と赤の二色の壁を持つ風呂屋の付近の黄金の波の間を歩いた。救い主は来た! 何かを予感出来た。きつね色の、いま連れているのよりはずっと大きなイヌだ。真っすぐに行こう。彼を目にしたバンビは身震いをした。確かに恐れていた。何かの灌木の脇へ隠れた。——それからあとのぼくは、『東京キッド』の中の、海へ行ってマリ子を置き逃げしようとした三平さながらだった。

 けさ、Jack と Lotus はぼくを誘いに寄らなかった。十六番教室へ鞄をおいて編集室へ行くと、Jack はいた。何らの変化も彼の上になかった(夏休みが終わって以来、昨日初めて彼に会わなかったから、われわれの間にカーテンが下りたような気がしていた)。二つ目のサイレンで十六番教室へ戻ると、Twelve にまずこういわれた。「昨日来たがか。済まん。」イヌのせいだということを話すと、ぼくがイヌを連れていたことを、彼は小母さんから聞いて知っていた。あれでも「連れていた」ことになるらしい。
 国語乙では言葉につまり、解析では白墨のお見舞いを食らった。気をつけなくてはいけない(「なくてはいけない」というのは、ヨウコ先生的ないい方だ)。妙に静かな一刻があったと思ったら、その前にヨウコ先生が白墨投げを行なったのだ。ぼくは、先生の話をよそに、隣席の Jumbo に「それは違う」などと説明していたのだ。Jap が「誰が白墨投げた?」と聞いた。彼も知らなかったのだ。ぼく自身、次の時間まで、全然知らなかった。Twelve から聞いて初めて、妙な静かさの瞬間と長い白墨の意味が分り、ぼくのしていたことに気づいたのだ。

 Vicky とは五科目の平均点で 3/5 点の差だった(注 1)。三位が化学で 95 点を取った Massy(注 2)、四位が YMG 君、五位と六位がどちらも解析で一位の中にいた女生徒、七位 Twelve、八位はぼくのホームの SMM 君。三位以下、このあたりまで紫中出身者が全くいないのが寂しい。Octo は十四位、Dan が十八位、Kettle が二十四位、それ以外は覚えていない。三十七位は六十五点だった。昨年は、現生徒会副会長(注 3)が一位だったそうだ。今年になって、付属中出身者に名をなさしめてしまった。ぼくが謝る義理もないだろうが、母校に済まない思いだ。

 H 時の企画原案がようやく出来上がった。
引用時の注
  1. 僅少差でも、ランク付けして発表されると、差が印象づけられることになる。母は近所の人から、「お宅の坊ちゃんは、男子の中では一番お出来になるそうで…」と挨拶されたそうだ。無理して限定付きの「一番」にしないで、ただ「お出来になるそうで…」でよさそうなものだが。
  2. Vicky や私の履修していた生物と、Massy らが履修していた化学の間では、前者の最高点が 20 点ほど低かったことから見て、出題の難易度に大きな差があったようだ。しかし、それを考慮することなく、生物や化学の得点が「理科」の得点として同等に扱われたと思う。
  3. 紫中出身で、のちに小児科医となった ST 氏だったか。

「バンビみたいや!」


高校(1 年生)時代の交換日記から

Ted: 1951 年 9 月 16 日(日)曇り時々雨[つづき]

 また、目と目がまともにぶつかった。わびしげな目——。「白」はそこで引き離された。水たまりをよけながら、尾行者——もう尾行者ではなくて、従者だ——の先に立って行くと、Pan が自転車で来るのに出会ったが、彼はぼくよりもぼくの従者の方を見ていたようだった。
 気持悪くもあった。電車の見える方へ戻りつつあった。一匹の動物を連れていることは誇らしくもあった。従者が遅れてしまって、ついて来ているのかどうか分らないときもあったが、後ろを向いて実際の姿を見るのが恐ろしく思われて、目を横へやって、店々ガラス戸の像で見るように努めた。高砂屋の角を、従者はぼくの足にまつわりつきながら、ぼくとともに曲がった。
 幼児の群れに行き会った。彼らの声によって、ぼくがまだ従者を従えていることが分った。「あの子犬、バンビみたいや!」と言う声があった。バンビ! もっともっと、ついて来い。でも、何を求めて、どこまで来る気だろう。どうかしている。狂犬じゃないかな?
 誰かに会ったら、何といわれるだろう。「イヌを連れて散歩かい? 可愛らしいね。」「イヌに追われて来たのさ。何とかしなくちゃならない。」——これでは面白くない。「うん、立派だろう。バンビのようだろう。つやつやしていて、ころころしていて…。」——京都の伯父の家のコロちゃんかもしれない。——「何だってこんなところまで来たんだい?」——いつの間にかイヌと話している。——どこの野良犬だか分ったものじゃない。イヌのルンペンだ。のらくろ二世かな? いやいや、Jack の隣の Y 家からついて来たのかもしれない。あんなところの坊ちゃんイヌを遠くまで連れて来て、迷子にさせては悪い。——呪われているようだ。今夜はうちの周りで吠え続けるかもしれない。——不安がつのる…。
 Octo の家へ逃げ込んで何とかしようと思ったが、彼は野球に出かけたということだ。不思議な散歩を続けなければならない。キチョッ、キチョッ、キチョッ、キチョッという足音は、直ぐ後ろに続く。道路の右へ行き左へ行きして、バンビは長い距離を歩いている。ぼくの持っている傘の先に餌でもついているかのように、一定の時間をおく毎に、すり寄って来る。——上菊橋へ出た。(続きは明日書く。)

2013年5月19日日曜日

ある尾行者


高校(1 年生)時代の交換日記から

Ted: 1951 年 9 月 16 日(日)曇り時々雨

 一つのコントの材料のようだった。夢中になって歩いた。天下る水の途切れるのを待って、午後 Jack の家へ行ってみた。戸はぴたりと閉まっていて、応じる者は誰もいない。来るときと反対に、木曽坂のコースを取ることにした。雨後の坂道はすごくぬかっていた。水を多分に含んだ泥と小石が、晴れた日のような響く音を立てないで、ギリギリ、グシャグシャと足駄の下で鳴った。Lotus のことが必然的に頭に浮かんで広がり、黒雲となった。それでも、苦痛にはならなかった。その頃から何者かに尾行され始めていた。
 Lotus の家がある小路の角の寺の前を通るとき、尾行者は横へ添って来た。一歩先へも出た。道草もした。小さな褐色のイヌだ。ポストを右に見て通り過ぎ、大学前の停留場の方へ出て、上石引町を歩いた。ついて来る。店のガラス戸に映る。一メートルとは離れていない。道草をしては、また追って来る。「ベニー」の前から UT 医院の方へ。振り向く。尾行者は足を速める。とっさに、ある考えが浮かんだ。どこへでも行ける!
 Octo の家へ行くときに大抵下りて行く坂の近くへ来た。そこを下りる予定だった。ところが、向こうに一匹の大型の白いイヌがいるのを、尾行者も被尾行者も認めた。被尾行者にはほとんど眼中にない対象だったが、尾行者にとっては、それは大きな存在だった。尾行者はもはや、ぼくについて坂を下りようとはしないで、小立野新町をかの白い魅惑者に向かって直進した。いや、しようとしたのだ。ぼくは小さな彼(「彼女」かもしれない)を見た。もう、飽きちゃったのか? そのとき、目と目がぶつかった。小動物の黒みがかった茶色の目は、寂しそうだった。「ついて来る。」こう信じて、ぼくは振り返りもしないで坂を下りた。平坦になるところまで下りた。小刻みな足音はついて来ない。恐る恐る後ろを見た。誰もいない—。ネコ一匹、イヌ一匹—(「イヌ一匹いない」ではいけない。一匹いたらそれでよかったのだ—)。…空は灰色で、地面は茶色だった。引き返した。いた、いた。走っている。ああ、一緒になった。戯れている、白と褐色と。ぼくは彼らに接近した。[つづく]

狭いわが家の大掃除


高校(1 年生)時代の交換日記から

Sam: 1951 年 9 月 16 日(日)雨

 八時頃だったか、Funny が呼びに来た。大急ぎで自転車で行く。ほんのしばらくだけ乱打した。いまにも降りそうな空からぽつりぽつりと雨が落ち始めて、やがて次第にひどくなって来る。自転車の前輪と後輪の位置をあべこべにして、斜めに降りかかる雨に向かって突進し、家を目指した。

 『市報かなざわ』を見てやっと、18 日に秋の大掃除の検査があることを知り、大あわてで大掃除に取りかかる。まず、上敷きをまくり、一方の部屋の道具を他の部屋に運び、畳をたたく。ゴミをしずめてから、天井などをはたき、きれいに掃く。ちょうど雨が止んだので、上敷きを外へ持ち出してほこりを追い出す。
 雑巾をかけられるところは、残らず雑巾をかけて、ほこりやすすなどを拭い取る。上敷きをしき、道具をもとのところへ運んで並べる。それが済むと、今度はもう一つの部屋を同じような要領で済ます。その他に、棚の中や押し入れの中もしなければならない。それでも、狭い家だから、三時頃までには出来てしまった。
 済むと、休む間もなく、階段(はしご段という方がよいかもしれない)の手すりを折ったのを直さなければならなかった。夕食の前までに、どうにか仕上げる。新しい木で作ったのを見ると、何となく嬉しい。それでも、かんなが悪かったので、木がガサガサしているのは、気分がよくない。

 ♪ボクはトッキュのキカンシュで—
  カワイムッスメはエキゴトに—♪
聞いていて何かくすぐったいような、懐かしいような気がした。日曜娯楽版のヒットメロディ集を聞いている。

2013年5月18日土曜日

Elecky と新聞部顧問が口論


高校(1 年生)時代の交換日記から

Ted: 1951 年 9 月 15 日(土)曇りのち雨[つづき]

 C 時、わがクラブの作る新聞は、まだまだ出来上がりそうになかった。「曲言直言」欄(『北国新聞』の「時鐘」欄に当たるもの)の原稿を前にして、それを書いた Elecky と顧問先生が口論の火花を散らした。アセンブリーの要・不要論を取り扱ったものだが、IT 先生はその結論に反対だというのだ。これを聞いていた Deco (KD 君)が、とうとうとした話し方ながら、声を震わせ気味にして、「ここであれこれ論じ合わなくても、一応生徒の声として新聞に載せてもよいだろう。その上でいくらでも批判することが出来る」というようなことを述べて、停戦案を出したが、Elecky と先生は、「目的だ」、「手段だ」、「まず、次に迫っていることに全力を」、「結局は何のために、ということを」などと、議論を続けた。(注 1)

 Vicky とは五科目で五点ぐらいの差だろう。紫中での Sam との差より大きい。といっても、Sam に負けたときとは違って、まさかこれを機会に彼女を苦しめる問題をいろいろ与えたりするようにはなるまい。
引用時の注
  1. 議論の結末がどうなったのか、覚えていない。近年、新聞クラブの同窓会があった折に、Elecky こと YS 先輩は、私と同様に、地域の九条の会で頑張っていると話していた。

ホームの雰囲気が湿っぽく


高校(1 年生)時代の交換日記から

Ted: 1951 年 9 月 15 日(土)曇りのち雨

 新しい計画と新しい結論を組み立てながら、午前二時から五時半の間、眠れないでいた。
 毎朝、Jack と Lotus が一緒に登校を誘ってくれる。きょうもそうだったが、三人で歩いているときには、Lotus がぼくに、一限は何か、国語は「若紫」が済んだかと聞いただけで、Lotus と Jack は一言も言葉を交わさなかった。前田家の墓地近くの道からやって来た Cupid に挨拶をいってからの Lotus は、タイガースが昨日、三投手を繰り出していかに危うく勝ったかや、ジャイアンツの松田投手が十五連勝してどうだということを彼と話し合い、Jack とぼくは彼らの先に立って、その会話にも耳を貸さないで校門を通った。
 編集室へ行くと、Tacker がもう来ていた。Jack は彼と、「行く?」、「Lotus も?」、「あまり行きたくない」と、ぼくに通じない会話をした。不審そうにしていたぼくの左腕をつついて、Jack はポケットから出した手帳に何かをしたためた。「けさ、Lotus と喧嘩した。」——どんなことが、彼らの間に起こったのだろう。

 SH 時、Crow 先生はホームの雰囲気をますます湿っぽいものに落として行かれた。ホーム全体の全科目の平均点が三十何点で、五教科の平均が六十点以上の者が三人しかいないことが、Crow 先生とわれわれ一同をそうさせたのである。[つづく]

2013年5月17日金曜日

自転車のための用件/正六角形の一辺を知って…


高校(1 年生)時代の交換日記から

Sam: 1951 年 9 月 14 日(金)晴れ

 「古に帰る」というのかもしれない。固体を媒介として液体で書き記していくよりも、固体そのもので書き記していった方がよいように思う。理由はいくつかある。(注 1)

 学校にいる間も気が気でなかった。漸く友人に万年筆を借りて、「一九五九」という文字を二回ばかり書いたが、それはその次にする仕事の手段の一つに過ぎない。
 タイプの練習をしないで家へ帰り、すぐ自転車に乗って、その乗り物のための用件に行った。二度足を運んで、やっと落ち着いた。やれやれ。あの係のあんちゃん、いかにもおかしいといった顔つきだった。そうだろう、そうだろう。誰にだって分るもんか。Ted にもね。いわなければ、分るまいさ。
引用時の注
  1. 前日まで万年筆で書いていたのを、この日から鉛筆書きに戻している。

Sam: 1951 年 9 月 15 日(土)晴れ

 「正六角形の一辺を知って、その面積を求める公式を作れ」というのは大した問題でもなかったが、Funny への第二回目の問題として加えておいた。Ted なら何分で出来るかい。こんなのは覚えているかもしれないが、覚えていなくても直ぐ導き出せればそれでいいのだから——。(注 1)

 もう、きょう一日しかない。(注 2)
引用時の注
  1. 何分で出来たかは書いてないが、一辺の長さを a として、(3/2)√3 a2 という答を、私の手で欄外に書いてある。
  2. テニスの試合に向けて練習の出来る日のことかと思うが、翌日は雨で、試合のことは書いてない。

「草枕」を読み終える


高校(1 年生)時代の交換日記から

Ted: 1951 年 9 月 14 日(金)晴れのち曇り

 祭りがめぐって来た。息を吹きかけた鏡のような空の下で、太鼓の音が、横隔膜を振動させるかのように響いて来る。
 Jack も鼻声だった。
 浮かび上がって、翔て、もう沈んでしまう太陽の一日の動きは、あまりにも速い。したがって、「一時間」は遥かに短いはずなのに、約一ページを毎時間ノートしなければならない社会の時間は、きょうの最後の時間でもあったので、長く感じた。全身のうち、働いているところは、内部のいろいろな臓腑を除いて、手だけしかない。いや、実際には、まだ働いているところがあった。あったのだが、その時のその働きは否定したい。働いていたのは他でもない、頭の中である。耳の後ろのあたりの闘争欲のところ、目の上に当たる批判を司るところなどが主として働いた。その結果として形成されたものは何もなかった。しいてあったといえば、それは自然な考えではなく、こんなときにこう考えたら小説にでもあるようだな、などと思って無理に頭の中に作り上げたものである。
 発表対象にならないと思っていた図画の点数までがプリントして発表された。これは惨憺たるものだ。Pentagon 先生の言葉尻を捕まえてばかりはいられない。
 国語の時間は昨日に続いて朗読で、われわれは笑ってばかりいた。この教科書を買ったばかりの日にも記したように、ミスプリントが多いのだが、当てられた生徒たちはそれをそのまま忠実に読んだのだ。「今までよりさらに」、「わかるもの(解るもの)」、「いいかえれば」など。
 SH 時に右斜め前の女生徒が何か話しかけて来た。彼女、TKG さんは大連から引き揚げて来て、紫中の一年のとき、ぼくたちのクラスへ入り、翌年から野田中へ行っていた。いつか書いた「君」づけの手紙の受取人は彼女である。彼女たちと夏休み中に訪問を企てたが実行出来なかった YNT 先生(紫中一年で国語を習った)の情報を彼女が得たということだった。寺町に移られて、赤ちゃんが出来たそうである。Jack に話したら、未亡人だった先生がドエライコッチャ、と驚嘆した。

 漱石の「草枕」を昨夜読み終えた。芸術の客観性ということが強く出ている。しかし、何もかもが第三者的立場のみから感受され、考察され、判断されたらどうだろう。それは、あくまで芸術の中だけのことであろう。躍動する生命を持っているわれわれは、何事にも直接ぶつかる場合が多い。そこでは自分を一つにして力闘することが必要だ。(何だか、よく分っていない。(注 1)
引用時の注
  1. 自分の論旨がうまく閉じていないことを気にしたのだろう。「その力闘は、第三者的立場とは異なる。それゆえ、実人生にも関わる芸術に、客観性だけが強調されるのはどうかと思う」とでも続ければ、このときの考えが一応まとまるだろう。「草枕」を再読してみたい。

2013年5月16日木曜日

Vicky が朗読中に…


高校(1 年生)時代の交換日記から

Ted: 1951 年 9 月 13 日(木)晴れ[つづき]

 Mouse 先生のライオンの真似にも笑ったが、四限に十六番教室で見た落書きと、五限に Vicky の笑いが止まらなかったのにも、大いに笑った。社会の教室の黒板には、「YMG 先生デカスギル」と書いてあったのである。この簡単で特徴をよく捉えた言葉は決して、ASK 先生に対する「オッサン」のようには、YMG 先生を怒らせないだろうと思われた。それなのに、後ろから見ると釣り鐘型の両脇に犬の垂れ下がる耳を厚くしてくっつけたような髪型の女生徒が、箒でギスギスと黒板をなでて消してしまった。
 そんなことをした Vicky は、次の国語の時間に「一、本の読み方」(「二」から始めて、「一」へ戻ったのである)の二ページ目の朗読を当てられた。「すなわち、学問をしたり本を読んだりする者は」のところで、「学問」を「勉学」とでも読み違えそうになって、「べ」といってから気づき、いい直そうとしたが、「くもん」がすらすらとは続かなくて、もう一度この二つの漢字を最初からいおうとしたら、また「勉学」の第一音が口から出て、とうとう自分で笑い出した。噴き出しながら、こらえながら、両の目と鼻をギリシャ彫刻的な長い顔の中で、笑いの波によって中心へ押し寄せながらも、一行、二行、三行と進み、「首鼠(そ)両端右顧左眄(うこさべん)して怯懦(きょうだ)に走りやすいのです」という、難しい字が多いが振り仮名も多いところを読み通した。それでも、笑いは彼女の口を揺することをやめない。細くて伸びのある声を綿の上に落として埋もれさせるように、「よ〜め〜ま〜せ〜ん」といって、腰かけてしまった。ぼくが一昨日の H 時に司会をしていて、「うでくらべ」を「うべく…、うくらで…、うれくら…、うらべくで…」などと何度もいい損なったときには、気味の悪いほど誰も笑わなかったが、Sam が「…でっせ!」といったときはどうだった?

 アセンブリーのことも詳しく記したいが、簡潔にしておかなければならない。どこそこ出身の誰それと、どこそこ専属の誰それという二人の女性(KKM 君は「先生」という敬称をつけて紹介した)を招いてのアコーディオン独奏と独唱が行なわれた。アコーディオンの方は、がっちりとした小麦色の肌の人。独唱の方は、SCAP 図書館長の口を少し小さくして、髪を少し多くしたような人で、流れるようなところは、楽しそうに、せり上がって来るようなところは、空気の圧力が異なるところへ入った人のような表情で、静かに引いて行くところは、花が笑いながらしぼむように…。

反スポーツマンシップの思い


高校(1 年生)時代の交換日記から

Ted: 1951 年 9 月 13 日(木)晴れ

 愉快だ。そして、忙しい。それから、まだまだ馬力をかけなければならない。
 生物と国語の試験結果が発表になった。生物の最高点は 76 点で、NSN さんと IMR 君(これまでこの通信帳に出て来たことのない名前だ)。Vicky は三位で 75 点。74 点まで見て、あとはやめた。五限に発表されるだろう国語に勝敗がかかったのを知った。Vicky の国語はいつも抜群というほどではない。ぼくの社会と国語での失敗をあわせた以上の失敗を Vicky が国語でしていたら…などと、スポーツマンシップに反した考えが頭をかすめないことはなかった。
 五限は来た。講評があり、レッスンクラス内の七十点以上の名が読み上げられた。それから、一学年全体の順位がつけ加えられた。八十六点以上は誰もいない。Vicky とぼくは三点の差で、四位と一位だった。差は十分でなかった。二位に YMG 君がいた。
 ここまでは二勝一敗一引き分けで、外からは息もつけない接戦にみえるだろう。しかし、YMG 先生の社会の時間の言葉から、ぼくはその科目で大きく引き離されたと推定出来ている。五教科平均での敗退は確定した。戦う気で臨んだだけに、残念だ。(注 1)[つづく(注 2)
引用時の注
  1. 自分では点取り虫でないと思う私が、このときの一斉試験の結果にこれほどこだわっていたのは、夏休みに Twelve の「京大を目差して」の貼り紙を見て、自分もそうしようと思い始めたこと以外に、Vicky に対するライバル心を、彼女としては意図も意識もしなかった(とは、遥か後に知ったことだが)彼女の私への態度によって、いやが上にも煽られていたという事情があった。
  2. 冒頭の「愉快だ」に関連する話は、続きの部分に出て来る。

2013年5月15日水曜日

一円のアイスキャンデー/区画の数と駒の数の関係が…


高校(1 年生)時代の交換日記から

Sam: 1951 年 9 月 12 日(水)晴れ

 球技は、ボールの直径が大きくなるほど好きでない。だから、ハンドボールもあまり好きでないし、また、好きになれそうもない。

 一円のアイスキャンデーというのは、今年になって初めて食べた。Funny ら三人と一緒に帰宅する途中、久しぶりで食べてみようというので、所持金の底をはたいて買ったのだ。ぼくは一円だけ出せばよかった。その代り、有色の(イチゴとかいうやつ)を食べなければならなかった。
(注 1)

 英語の宿題が出た。一日の日記を英語で書くのである。もちろん、アイスキャンデーのことなどは書かない。書こうと思っても、どう書けばよいか分らないしネ。
引用時の注
  1. 友人たちと金を出し合って買ったので、Sam にとっては安上がりだったが、仲間たちはもっと上等のを食べていた、ということのようだ。

Sam: 1951 年 9 月 13 日(木)晴れ

 生物が自習になった。おかげで、思わないところに友人を見つけた。ぼくよりよほど下手だけれども、同じ趣味を持っているのが気に入った。

 タイプライターの練習に残った。夏休みのときよりも、全然速くなっていない。"The Sea" を打ったほかに、その四倍ほどの量をカーボン紙をあてて打った。

 もの好きにも、Funny のところまで出かけて行って、区画の数と駒の数の関係が、前者を x、後者を y とすれば、x+y=121、xy=3240 を成り立たせるものをする。

2013年5月14日火曜日

始業前と放課後のこと


高校(1 年生)時代の交換日記から

Ted: 1951 年 9 月 12 日(水)晴れ[つづき]

 一限が始まる前に、Massy や Lotus や Jack とレンガのかけらの落ちているプールのそばにいた。Jack はそこを通る誰にでも「お早う」といい、Massy は、せっかくの爽快な朝を楽しむために「勉強の話はやめよう」といい、Lotus は Jack が危なっかしい語彙をためらいもしないで発していることに気をとめて、われわれがいかに変な文章を口から吐いているかを面白そうにいい、また、彼自身は緑色の朝によく似合った感動の文章を、作るともなく組み立てて、草の上の露や、間にひそむバッタの上の空気中へ流した。ぼくは何をしていただろう。

 Jack と Tacker は編集室の水道で洗った足を汚さないように、五米ばかり廊下を下駄履きで歩いて、後ろの校庭へ出ようとした。あとから行った Tacker が、「もし Jack が見つかったら、その間に、わしァぬぐわい」といい終わったばかりのときに、出口へ達した Jack が、左の廊下からこちらへ来られた Frog 先生に大声で、「さようなら」といった。そこで彼らの罪は発覚し、彼らは校庭に裸足で立って、お互いの頭をぶつけ合わせた(注 1)。足を洗い直した Tacker がゴトンと一歩編集室から出ると、少し向こうに立ち止まってテニスコートを眺めておられた Frog 先生に、また見つかり、帽子の上から頭をなでて、「しまった!」の様子をした。続いて、前に振った Jack の手に持たれていた鞄が見えて、足が廊下へゴト…となるかと思って、ド肝を抜かれた気持で見つめていたら、幸いペタッという音がした。Tacker の失敗を繰り返さなかった Jack は、もう一歩ペタッと意地になって足で廊下を叩き、先生の方を見返した。
引用時の注
  1. 「お互いの頭をぶつけ合わせた」とあるが、先生によってぶつけ合わされたのならば、ちょっとした体罰である。しかし、当時は、体罰が悪いという考えはまだ広まっていなかった。

2013年5月13日月曜日

Mouse 先生の実演


高校(1 年生)時代の交換日記から

Ted: 1951 年 9 月 12 日(水)晴れ

 一限の体操は、最も精力の集中を必要とした時間だった。運動会のマスゲームを班毎にテストされたのだ。最初の四班が六点、次の三班が三点、Charco が拍車をかけたわれわれ二班が七点、一班が三点だった。二班と四班は他の二つの班に先立って次の運動の球技に移ってよかったが、きょうはソフトボールでなくて、ハンドボールだった。
 Mouse 先生はまず「修身」をやり出した。時間より一足先に進んで、時間を待つべきであること(先生は七時五分前には学校へ来ておられるそうだ)や、先生が二年半前にこの学校へ来たとき、汚れていて見るに見かねた廊下を掃いていたら、小使さんに止められたこと、など。教科書を広げてからの先生は、Whymper となって、the greatest caution を exercise[し]ながら、 rope を firmly[に]掴んで、彼以下七人が初めて conquer したところの Matterhorn から降りる動作を実演された(注 1)。Crog's exclamation was heard. のところで、変な声が聞こえたと思ったら、それも先生の実演だった。長身でなく、やせている身体に力をこめて、かがみ込み、口先をタコのようにして、恐る恐る一歩を前へ出して plant[し]、そして advance a step. Only one man moves at a time. の説明である。
 『奥の細道』は、石川県関係のところを終わって、あとは自分でやっておくようにとのことで、来週からは『徒然草』。TKT 先生は余った時間に、伊賀上野へ行ったときのことを話された。鐘が鳴って、鞄のふたの開く音、筆入れを片付ける音、鞄を閉める音などがしている間にも先生は声を一段と大きくして話を続けられた。「荒木又右衛門が三十七人斬りをやったのも伊賀上野…」と。黒板に字を書くときには、頭を少し傾け、最後の一画をはねたあとは、白墨を持った手でおもむろに丸い線を宙に描くようにして、その手を胸元へ引き寄せるという優雅な動作をするのが常である先生にしては、珍しい力の入れようだ。
 「実質的要素に知的判断を下すとはどういうことか」などと、国語か哲学のような出題のあった図画の試験の結果を、Jack が Pentgon 先生に聞いた。上記の第一問に Jack は、「実質的要素をそれに知的判断をすること」という、訳の分からないことを書いて、二十点中の七点を貰っている。Pentgon 先生の「ここがちと惜しいです」という言葉ばかり聞いていても仕方がないから、ぼくは自分の答案を見せて貰わなかった。
 十五番教室に二年生の幾何の点数が貼り出してあった。MYB 君が百点で一位、十七位に生徒会会長。もう一人、新聞部の UE 君の名があったが、他は知らない名前ばかり。[つづく]
引用時の注
  1. このあたりの文中の[ ]内の文字は、英単語に含まれるものという考えで、日記原文には書いてなかったが、読み通す便宜上、引用に当たって追加した。

編集室が危うく水浸しに


高校(1 年生)時代の交換日記から

Ted: 1951 年 9 月 11 日(火)晴れ[つづき]

 Pentagon 先生が欠席で、自習。教室を出てもよかったから、Jack と編集室へ行った。われわれがそれぞれの仕事をしていると、シャーという激しい音とともに、まず正面黒板前の教卓の上についている水道栓(ここは本来は家庭科実習室)から、続いて左手の流しにずらりと並んだ数個の栓から、水が次々に瞬時の差で噴き出した。断水をチェックするためにすべての栓が開け放され、そのままになっていたところへ、給水が復活したのだ。われわれは、火中に飛び込む消防夫のような気持で(熱さと冷たさの違いがあるが)、飛びはねる水を冒してこれを止めなければならなかった。もし、Pentagon 先生が休まなかったら、休んでも代りの女先生が自習にしなかったら、自習にさせても教室から外へ出ることを許さなかったら、許してもここへわれわれが来なかったら、編集室は水浸しになっていたに違いない*
 最後の時間は生物。ASK 先生は、「最後で、皆さん大分お疲れのようですが、もう一時間がまんして、緊張して…」と。毎週火曜日のこの時間に聞かされているこの言葉こそ、がまんできない。この言葉の方が、「調べる」(ASK 先生は自分がしゃべったことを「この間も調べましたように」といい、これから講義しようとすることを「次に調べますことは」といわれる)本筋よりも強く頭に残るからである。この時間には、風邪のため、のどが熱くてたまらなかった。

 誰かがうちへ来たので、Sam かと思って出て行ったら、Lotus だった。彼が来るのは、他の誰が来たのとも違った感じがする(一人一人の感じは当然、それぞれ異なるのだが)。解析の p. 82 の 9 を、熱いのどをさらに熱くして説明した。
Sam による欄外注記
 * 然り然り。不思議なものだ。

2013年5月12日日曜日

運動会各種目出場者割り当て


高校(1 年生)時代の交換日記から

Ted: 1951 年 9 月 11 日(火)晴れ

 解析の top twenty five もプリントして発表された。一位に YMG 君、MSM さん、UE さんもいて四名、次が五位となっていて、 Mouse 先生の順位のつけ方と異なる。九十八点の Massy と Vicky が五位(まだ他にもいたかもしれない)。上位の多くは、付属中出身者で占められている。Octo が九十五点で、誰かと十位を分け合っていた。Jack は Mouse 先生方式でいっても十六位で、数学好きの彼にしては、さえなかった。わがホームから一人しか顔を並べていないとは貧弱だ。
 ホーム時一杯かかって、いや、それだけでは足りなくて、昼食時間も使って、運動会各種目への出場者を割り当てたが、わがホームが優勝カップを取れる見込みはない。希望者を募る方法で進めたが、誰も好まない種目は半強制的に出場を承知させなければならなかった。男子の方を決めるだけでホーム時を使い切り、女子の方は女子の HR 委員・Purse に任せた。ホーム時は男子だけのためにあったような結果になった。[つづく]

「文明開化」や「化粧競走」/講和後の日本について


高校(1 年生)時代の交換日記から

Ted: 1951 年 9 月 10 日(月)曇り

 英語の点数上位のリストがプリントして発表された。Mouse 先生が担当して調べたものだ。第二十五位まであるが、二十四位が二人いても次に来るのは二十六位でなく二十五位という方法なので、実際には六十二人ものリストである。二十五位はちょうど六十点だ。"We see rainbow ( ) a shower of rain." のカッコ内へ、前に書いてある接続詞を選んで入れて訳文も書く問題で、shower の適当な訳語を思いつかなくて、「雨のシャワーのあとで」とした。ここだけは減点されるかと思っていたが、間違いにされなかったと分った。同順位の者はホームの若い方から並べてあるので、Vicky の名が先頭にある。油断がならない。三人目で二位は 96 点の Dan。次いで、まだあまりよく知らない UE さん(元生徒会長の妹)と M・TKH 君が並び、五位に Tewlve。Massy も七、八位あたりにいた。
 運動会の出場者申込書が各 H の HR 委員に渡される。椅子を捧げて持ち続ける忍耐競走が「腕くらべ」という名になっていたり、「文明開化」と「化粧競走」という、種目名だけでは何をするのか分らなくて興味の湧くのが二つあったりする他には、珍しいものはない。
 日本育英会奨学金の追加支給者に入り、明日印鑑を持参しなければならない。

Sam: 1951 年 9 月 11 日(火)晴れ

 定期結核健康診断に関する通知書が来ていたが、これは学校で四月に行なったので、受けなくてよいそうである。その証明書を書いて貰った。
 C 時は、北国新聞夕刊の「あの場合この場合」の回答者氏に来て貰い、図書館の二階で、講和後の日本について質疑応答をした。

2013年5月11日土曜日

雨! 雨!…/体育館で「講和条約締結に関して」の話


高校(1 年生)時代の交換日記から

Sam: 1951 年 9 月 9 日(日)雨

 雨! 雨! 雨! 雨! 雨! 何だかほっとしたような気がする。が、寂しい。なにもすることがない。夏時間から抜けきれないで、ちぐはぐな感じである。
 Ted と Jack がやっていることを真似て、五つの問題を作り[そのうちの一題は、宇都宮書店で Ted と一緒に見た、A=B、両辺に A をかけて A2=AB、両辺から B2 を引いて A2−B2=AB−B2、因数分解して (A+B)(A−B)=B(A−B)、両辺を (A−B) で割って…として 2=1 が導かれる矛盾を説明せよというもの]雨の中を傘をさしてとぼとぼと歩き、Funny のところへ行った。しかし、彼はいなかった——。
 夜になって、思い出したように英単語を辞書でくり始める。

Sam: 1951 年 9 月 10 日(月)晴れ

 保体はきょうから『運動競技の解説』の九六ページにある球技をする。きょうは、基礎練習の一つとして脚を鍛えるため、地図を描いて示す必要があるほどのコースを走る。ぼくのグループにも、四人ばかり落伍者が出た。ぼくは辛うじてあとからついて行った。前の生徒と10 m ほど差をあけられて走っていたとき、専売公社の正門のところで遊んでいた小さな男の子が、「兄ちゃん頑張れ!」といってくれた。それは、確かに励ましの言葉になった。ぼくのすぐ後ろに走っていた一人をぐんぐん離し、10 m の差も何のその、またたくまに三人ばかり追い越した。
 H 時はバレーボールをすることになっていたが、第一体育館で「講和条約締結に関して」の話があることになったため、ホームの行事は出来なくなった。

知恵の環


高校(1 年生)時代の交換日記から

Ted: 1951 年 9 月 9 日(日)雨

 調印が終わった。夕刊も四ページ建てで、第一面に三センチ四方の文字を並べた凹版横書き見出しで「新生日本ここに誕生」と書いている。三面にも四面にも、「イバラの道」の四文字の入った見出しがある。(注 1)

 冷え冷えとした雨。鼻風邪。机の横に湿らせられ丸められた紙が幾つもたまる。
 階下の Tokie ちゃんが
と書いたときに、ちょうど彼女がやって来た。長い O 型の環と六つの小さな環が上下について、後の環が前の環にはまり込んでいる一連の金属製品を持って。「知恵の環」だ。なかなか解けない。二つまで出して、前から四番目の環が落ちるところまで(あとから分ったところによると、これは、ほとんど外したうちに入らない)行ったが、それからは、いままで通りに行かない。これを明日、修学旅行に持って行って、皆を困らせるそうだ。昨年のわれわれの修学旅行が思い出される。今年は大阪へも寄るそうだ。彼女は、父君にナイロンの鞄を買って貰い、「思いもかけなかった」と喜んで、ぼくの母に見せに来たりした。
 知恵の環は、金属が熱くなるほどひねくり回したが、いっこうに新しい段階に進まない。考えもなく手だけを動かしているが、頭では、いろんな小説や物語や神話に出て来る、難問題をかけられた勇ましくて知恵のある、そして最後には解決した架空の人物を、しごくロマンチックに思い浮かべたりしている。刑務所に勤務する Tokie ちゃんの兄君も覗きに来て応援してくれたが、全然進まない。どうかした拍子に、小さい環がパラパラと落ちて、振ってみると第五番目の環が一つだけ残っている。これがまた、しばらくどうにもならなかった。結局、一つ落とすには、その前の一つがはまっていて、それよりも前のものははずれていることが必要と分る。このような条件に合うように、「二段上って一段下りる」式に反復して行くと順々に片付くのである。(こういう説明では、Sam が Neg に教えていた将棋の駒の場所替えと大して変るところがないようだ。将棋で鍛えられた Sam ならこの知恵の環はすぐに解けたかもしれない。)
引用時の注
  1. 第二次世界大戦におけるアメリカ合衆国をはじめとする連合国諸国と日本国との間の戦争状態を終結させるため、両者の間で締結された平和条約(サンフランシスコ条約)が、この前日の 9 月 8 日付けで調印された。同日、日本国とアメリカ合衆国との間の安全保障条約も署名されたのである。「イバラの道」は、沖縄問題などに、いまなお続いている。

2013年5月10日金曜日

Mouse 先生の英語授業


高校(1 年生)時代の交換日記から

Ted: 1951 年 9 月 8 日(土)曇り

 Mouse 先生は、「宇宙の大真理を論じたかと思うと、宗教がどうのといい、漫談もやる」と自分でいわれる。「しかし、この関係代名詞が一つ分るだけでも、この時間の値打ちはある。これが完全に分ったら、一時間は充分だ」とも。それがすでに分っている者には何が得られるか? その心配はいらない。目的語だ、補語だ、従属接続詞だ、副詞節だ、形容詞節だ、と文が解剖されて行くのを聞いていると目、いや、耳が回る。
 クラブ時に市立工業高校の『北泉新聞』を見ていたら、教官が学生時代の思い出を語る欄に次のようなことが述べられていた(具体的な表現は思い出せないので、おおよそを記す。ニュアンスが少し違うところもあるかと思うが)。「楽しいあるいは悲しい思い出に浸るのは、それらの楽しいこと、悲しいことを振り返って味わう他に、別のものを欲してのことである。それは老廃的な欲望である。…思い出は無理に残さなければならないものではない。本当に残るものがあったら、それだけを残しておけばよい。」ぼくとはまさに反対の考えだ。

 祖父は『漱石短篇小説集』を「少しも面白くない」といった。実物を見て来たことのある「倫敦塔」以外は、「どこがよいのか分らない」そうだ。
 ぼくは、母が職場の盲学校から借りて来た八百九十ページあるこの本の中程の「草枕」へようやくたどり着いた(注 1)。これの前の「趣味の遺伝」。祖父のように、分らないという気もする。宿命的。小説だけの世界。
引用時の注
  1. 『漱石短篇小説集』は、県立図書館から借りて来たものと思い、先にそのような注を書いたが、間違いだった。

ブレーブスが敗れると…


高校(1 年生)時代の交換日記から

Ted: 1951 年 9 月 7 日(金)晴れ

 「中庸な判断」ということこそ、ぼくの性質の中で自慢出来る少ないものの一つだったように思う。これがくじかれたのはどうしてか? きょうはまだ何も判断を誤っていないが、なぜか、こう自分を責めてみたい。
 「敗戦投手・天保(注 1)」と明け方の夢で叫び、起きて新聞を見たら、本当にそうだった。阪急ブレーブスのファンになってから、いま頃の時期になってもまだ下位にくすぶっているというシーズンは初めてだ。阪急が敗れると、妙なことに、ぼくは自分の遅滞や退歩を責める。「敗戦投手・天保」は、自分に反省をうながす機会を作り上げる。

 Pentagon 先生は大きな声で恐ろしくもない説教をした。木魚を叩くような声、白目の部分が薄黄色い目、文法的な間違いの多い言葉、…先生のすべての調子が「図画科の講義を他の学科と同様に静聴する」ことを不可能にする雰囲気を教室に満たしてしまうから仕方がない。壁を真っ赤に塗られた室内で方程式を解け、あるいは、思索に耽れ、といわれるようなもので、なすべきことにしっくりしていない環境でことをなすのは困難である。暗い部屋で楽しい遊びをしようとしても、気持がはずまないのと同じである。

 Hotten がうちへ寄って、連立方程式を初めから習って行く。彼ともあろう者が、解析において、紫中でのぼくの「歌う練習」の進度と同様とは、どうしたことだ。

 Vicky はどう解釈したのだろうか。(これでよし。悩ましく不可解な問題で、われわれの通信帳に書くことを避けたものは一つもなくなった。(注 2)
引用時の注
  1. 天保義夫は 1942 年に阪急軍へ入団、1943 年にノーヒットノーランを達成。戦時中の工場での勤労奉仕で右手中指などを負傷したが、海外の情報が乏しい中でナックルボールを習得し、1946 年から 5 年連続 2 桁勝利。1949 年には 24 勝を挙げ、うち 7 勝は巨人からで、「巨人キラー」として名を馳せた。1950 年には 18 勝しているが、負け数が 24 で、不名誉なパ・リーグ最高記録となっている。この日記の年、1951年は、9 勝 10 敗という落ち気味の成績だった。(『ウィキペディア』を参考にした。)
  2. 「書くことを避けたものは一つもなくなった」といっても、書き方が抽象的で、Sam には何のことか分らなかったに違いない。この「悩ましく不可解な問題」については、後年、英文の短篇小説 "Vicky: (A Novella)" で扱ったが、Sam が故人となった直後のことだった。

2013年5月9日木曜日

背筋力と握力のテスト/明日は試合だと…


高校(1 年生)時代の交換日記から

Sam: 1951 年 9 月 7 日(金)晴れ

 英語の試験があった。きょうで三日、試験が続いた。「便利な」とか「掃除する」という単語を覚えていなかったので、大分損をした。
 保健体育は一人を除いた他は、全員がレポートを提出した。やっぱり調べて行ってよかったと思う。きょうは背筋力と握力のテスト。1950 年 12 月 13 日(というと、いつのことか分るかい)よりも、てんで増していない。かえって少しばかり少ない。それでも、他の生徒の八割よりも多いから、測定器のせいかもしれない。
 背筋力  89 (90)
 握力 右 36 (37)
    左 30 (35)
ということになる。カッコ内は昨年のものである。とにかく退歩はしていても、進歩はしていない。そういえば、今年になってからは、保体の時間と海水浴(と勤労奉仕、と入れなければならない)以外には大した運動をやっていないし、それが急に五日ほど前から過激な運動をやり出したのだから、筋肉も参ってしまっているのだろう。
 創立記念日に関して生徒議会が開かれるので、アセンブリーは中止になった。少しばかりタイプの練習をしてから、兼六園コートへ行こうとして、香林坊まで行くと、ラケットを持って帰ってくる Funny に会った。彼は「誰もいなかったので帰ろうと…」という。それでも、ぼくが行くのならと、きびすを返した。

Sam: 1951 年 9 月 8 日(土)曇り

 午後からは、いやでも兼六園コートへ行かなければならなかった。明日は試合だと意識するが、さほど何とも思わない。くたくたに疲れる一歩手前で帰って来た。

キリストかソクラテスになった気持で…


高校(1 年生)時代の交換日記から

Ted: 1951 年 9 月 6 日(木)曇り[つづき]

 いろいろな人に対する抗議の文を組み立ててみた。一事の憤怒の塊——。けれども、こんなものはいつの間にか崩れ、形を失って行く。無理に凝固させれば、のちには嫌悪の対象となって残るかもしれないから、このまま放置する、いや、そもそも組み立てないのがよいのだ。とは思っても、この無意味な組み立ては時々やりたくなる。
 いろいろな人に対する呼びかけの言葉を考え、彼らに何を説き、何を勧めようかとも考えた。キリストかソクラテスにでもなったような気持で——。それは、「絶対こうでなければならない」、「こうあるべきだ」と思われる事柄を、あまねく人々に行き渡らせようとする事業である。ところがこれも、自分の不完全さを見せつけられたときには、しばしば姿を消す。そうして、再び初めから作り直しとなる。当分はいくら組み立てても砕かれるに決まっているにもかかわらず、またやり始める。——ここにも何かがあるはずだが…。
 新しい葉書が一枚残っていたので、なぜか約束通り「習いに」来なかった Tom へ出すことにした。ひと目みた感じがごちゃごちゃしたものになることをまぬがれなかった。せいぜい十三行が適当なところへ、表の面などは十九行もつめ込んだ。何度やっても難しい作業だ。

2013年5月8日水曜日

道端の耳のない花に


高校(1 年生)時代の交換日記から

Ted: 1951 年 9 月 6 日(木)曇り[つづき]

 Iwayuru 先生は不在だった。当番が保健室へ何をするか聞きに出発するとき、「全権団、しまっていけや!」などと、励ましの声が飛んだ。Pentagon 先生が出席簿を持って現れたので、われわれは拍手で歓迎した。ソフトボールをすることが許可になったが、保健室へボールを取りに行ったことによって、ING 先生から条件をつけられてしまった。しかし、ING 先生も結構話せる。運動会のマスゲームを一回するというだけの条件だ。終りの方が Iwayuru 先生に習ったのと異なっていたが、この方が正しいそうだ。(注 1)
 Mouse 先生の授業は、机に手をついて礼をするのは重役のすることだという、何度目かになる小言から始まって、「前途暗澹たる経済事情」へと話が脱線して行った。
 放課後、ホームの企画会議をするといっておいたのに、集まりが悪くて中止。
 四限の始まる前、十六番教室の前の廊下で、Pine、Yotch、Train、Daihachi そして Boak らが、ガラガラ声や澄んだ声やらで何か話し合っていた。初めは藤井選手(注 2)と卓球の試合をしに行くという空物語だったようだ。それから「千葉へ行く」、「静岡、どーやい」、「静岡? ハハハ。静岡、分るけ?」、「大阪や!」、「わしら金沢」、「二水!」、「木倉町や」、「泉丘」、「泉丘のエースとドッパンの名前」…。彼らは道端の耳のない花に賛嘆の言葉を振りまいていたのだ(注 3)。[つづく]
引用時の注
  1. このあと 3 行にわたって、細かい線画でマスゲームの 1 番から 16 番までを示してあるが、省略する。終りに「(線画も難しいものだ)」と書いてある。
  2. 全日本卓球選手権大会で、1946〜49、51 年に男子単で優勝している藤井則和選手のことか。
  3. 「かつて同級生だったが引越して行ったか、あるいは他の高校へ行っている女生徒たちのことを、彼らは思い出し合っていたのだ」という意味として書いたのだろう。

「夢未だ成らず」かも


高校(1 年生)時代の交換日記から

Ted: 1951 年 9 月 6 日(木)曇り

 姓名と書くべきところを姓命と書いて刷られていた生物の試験の解答があった。腔腸動物の説明文の空白を埋める第一問題で三つ、線で結ぶ第四問題では約半数、○ または × をつける第五問題でも三つという、徹底的な間違い方だ。一学期の終りに出た浸透圧の問題がそっくりそのまま出たのに対しては、今度は大丈夫だった。クジラをクラゲと読み違えて × にしたのは馬鹿らしい。
 昼食後の休みに Jack と解析の結果を聞きに行く。Jack は初め気が進まなかったにもかかわらず、職員室へつかつかと入って行った。彼の採点はまだ済んでいなかったが、 ヨウコ先生は見ている間に採点された。赤鉛筆の動く傍らで、Jack は「うん、これも違う。これァめちゃくちゃや」と、自分で指摘している。
 社会は、われわれのレッスンクラスの最低が六十何点という出来栄えだそうだ。最高は満点(YMG 先生は初めのうち、「に近い」といっておられたが)。生徒会議員(には有利なような不公平な出題があったのだ。「現在、本校で認められている特別委員会に ○ をつけよ」というのがそれだ)である上に、ぼくのような単純な失敗をしなければ、Vicky は満点を取るのが当然だ。IT 先生の方のレッスンクラスは出来が悪くて、先生が謝っておられたそうだ。
 『枕草子』から出題のあった国語甲でも間違いをしていたことを新たに念頭におかなければならない。「夢未だ成らず」かもしれない。(注 1)[つづく]
引用時の注
  1. 中学の最後の校内一斉試験で、私は Sam に次ぐ 2 番の成績だったので、次の校内一斉試験の機会には、Sam が別の高校へ行ったことでもあり、誰にも負けないつもりでいた。しかし、一学期のうちから、よく出来ることが明らかになっていた Vicky(彼女は私とは異なる中学から来た)に比べれば、劣った結果になりそうだと気づいたのである。

2013年5月7日火曜日

「可愛らしいはずの子犬も…」/図書館の帰りに…


高校(1 年生)時代の交換日記から

Ted: 1951 年 9 月 5 日(水)曇り[つづき]

 復活が必要? そう何度でもでは、薬の効かないハイドになってしまう。薬がなくても、ぼくらしいぼくに立ち返らなければならない。ぼくらしいぼくとは一体どこにあるのだ。Sam からの宿題、「もっと実習して、明確な個性を作り上げなさい」を、まだしていない。これが出来たときに初めて、ぼくらしいぼくが誕生するのだ。——講和会議。独り立ち。国についての、こんな言葉を耳や目に入れさせられていながら、自分一人をさえも処理出来ないでいるぼくが情けない。(注 1)
 しかし、考え過ぎて、くよくよしている必要はないのじゃないか(こんな調子だから、ぼくの書く文章には「しかし」やカッコが多くなってしまう。止む間のない自己反駁と、広げすぎる思考と——)。捨てなければならないものを捨てて、うち向かわなければならないものに向かう。ただそれだけのことを、いまからすればよい。

 編集室に子犬がいた。青い染料をつけられ、水に浸されて震えていた。足は細く、もし彼が少年だったら、紫中の四組にいた KT 君同様、「ガイコツ」というあだ名を付けられるに違いないと思われる姿だ。飢えて震えている生命に向かって、いろいろな言葉が放たれた。Tacker は、「可愛らしいはずの子犬も、こう汚いとグロテスクなもんやな」と。
引用時の注
  1. 日本の国は講和条約締結後、本当の独り立ちをしては来なかったと思うこの頃である。


Sam: 1951 年 9 月 6 日(木)晴れ

 解析のテストがあった。五問目は半分しか出来なかったから、正解率は 4/5 である。ブランク時には昨日図書館で調べて来たのをまとめた。その他に、『アサヒグラフ』や『毎日グラフ』を見たり読んだりした。
 きょうも昨日の続き(もう 1/3 ほど残っていた)を調べるために、自転車で図書館に行った。その帰り、広坂通りで Neg に出会った。映画を見に行って来たそうで、その目的は二日間にわたる一斉テストの労苦を忘れるためだとのこと。
(注 1)
引用時の注
  1. Neg は私と同じ高校の生徒。私はこの日の午後どこへも行かないで、このあとに引用する通りの、細字で 2 ページ半ほどの長い日記をしたためていたようだ。

明治時代の遺物的な本で調べる/言い訳は無駄だ


高校(1 年生)時代の交換日記から

Sam: 1951 年 9 月 5 日(水)晴れ

 第一限から社会の試験があった。問題は一題で、「合名会社と株式会社の社員の責任の範囲について」というのである。書くと直ぐ提出し(二番目だった)、図書館へ行って新聞を読んだ。

 兼六園コートを通過して中央図書館へ行き、アテネとスパルタの教育について調べた。二冊ばかりの参考書を見つけて、超速度でノートに書き綴った。一冊は、「而して…を以てしたるの有様なりき…」、「軍規を乱すものあらば…丁年に達するもなほ継続せしめたり…」などという書き方であり、明治時代の遺物のようなものであった。



Ted: 1951 年 9 月 5 日(水)曇り

 Sam に許しを乞われるようなぼくではない。ぼくはあまりに何もしていない。もっとしなければならない! もっとしなければならない!
 何(こんなにかすれるのはインクが悪いのかもしれない。左手の下に押さえた紙に試し書きしたミミズのような形の方が日記文より沢山ある)(注 1)という不完全さだろう。「そうかとも思った」、「なぜそのままにしておかなかったのだろう。惜しいことをした」などという言い訳は無駄だ。しかし、解析だけは完璧だ。[つづく]
引用時の注
  1. ここで万年筆の使用を一時やめて、9 月 8 日まで鉛筆書きになっている。

2013年5月6日月曜日

漱石「幻影の盾」と「一夜」


高校(1 年生)時代の交換日記から

Ted: 1951 年 9 月 4 日(火)晴れ[つづき]

 朝、Jack と登校して定時制職員室の前を通るとき、いやに馴れ馴れしく「お早う」を返された NSD 先生に(Teinō という大変なあだ名がついている)運搬作業をさせられた。棺桶型の鍵のかかった箱だ。試験問題を刷った紙が入っているそうだ。Jack はそれを運びながら、なぜ自分の目が木を透視出来て紙を透視出来ない視力を持たないのだろうと、悔しがった。
 社会の試験中、IT 先生と YMG 先生が一緒に教室から教室へと質問を受けに回られた。われわれのホーム(今回の一斉試験は各ホームで実施される)では、ぐるっと机の間を回ってから、口を歪めて発声する特徴のある IT 先生が、「簡単な問題ばかりですから、出来なかったら落第ですよ。しかし、これが出来たら、金沢大学へ入れますね」と、あとの方は YMG 先生に向かっていわれる。すると、 YMG 先生は、太い身体を腹の辺りから前屈させながら、「そうですね」と応じられる。エンタツとアチャコのコンビの変型だ。

 「幻影の盾」。夢の圧縮、それを一時に経験したヰリアム、そのために長い辛抱と煩悶が必要だった。それは、どこで経験しても、縮めても、細長く伸ばしても、変わりはないということ。
 「一夜」。空間に広がる一瞬、——絵画。その一夜を描かれている二人の男と一人の女。そして彼ら自身も頭や胸に絵を描いている。その一夜は、全生涯の時間と空間の最小単位同士の最小公倍数。それだけでも一枚の絵。その中には、一生のすべてを知るに必要なものが全部、約数を取られた形で入っている。

自分ながら、あきれ果てた


高校(1 年生)時代の交換日記から

Ted: 1951 年 9 月 4 日(火)晴れ

 自分ながら、あきれ果てた(というのが、最も甚だしい驚愕と落胆を表す言葉として適切である)。英語の和訳では「雨の夕立」と書き、社会では、とんでもないものを存在させ、お話にならない(話という字に一つの接頭語をつけただけで、うんと程度が下がるのは便利だ)。ひょっとすると…(最悪の場合を考えてみる。漱石の「琴の空音」——いらない懸念を生じさせた雨と嵐の暗い夜に、恐ろしく不吉な幻影を作り、いたずらに思いわびる神経——これと変らないことかもしれないが)。国語の問題には不審なのが二つあった*。

 午後は学校がないから家で退屈しなければならないと思ったが、Hotten がぼくのところへ来るといって、それを実行した。彼は Beer こと SKM 君(なぜか紫中の四組に縁がある)を連れて、明日試験のある解析と生物の教科書やノートを抱え、少し遅れてやって来た。彼らに、解析のやさしいところを砕いて説明した。三時頃、生物に移ろうとしたが、雑談になってしまった。ぼくも相づちを打っていたのだが、何の話だったか、もう覚えがない。それからぼくは、すらすらと書けることを Hotten が自慢している万年筆で、彼の話す語句を次々に断片的に捉え、彼の持って来た計算用紙(「陸軍」と書かれていたところを切り落としたらしい何枚もの茶色罫の便箋)を書き汚した。彼の「最も憎むべき」という言葉に続けて、ぼくが勝手に Hotten の氏名を書くと、彼はそれをヨウコ先生の姓に直した。ついでに紫中の Ohm 先生の話が出た。[つづく]
Ted による後日の欄外注記
 * その一つは「ひとり灯火の下に書をひろげて見ぬ世の人を友とするぞ…」という文だった。「て」の次に句点があれば分りやすかったのだが、それがなかったので、「ひとり灯火の下に書をひろげて見る」という長い文を否定してしまっているのは変だなと思ったのである。『徒然草』を習い始めて、第十三段にこの文を見出し、「見ぬ世の人」がひとまとまりと知った。試験のときの思い違いが残念だ。