2013年1月31日木曜日

試験後の休日


高校(1 年生)時代の交換日記から

Ted: 1951 年 7 月 6 日(曇り)

 少し暗くて、休日にふさわしくない天候だが、休息の日だ。落ち着かない気持でいると、午後初めてその転居先へ行ってみようと思っていた友の声がした。予定変更の申し出だ。それだけかと思ったら、Jack はツカツカと部屋へ上がって来た。ぼくの机の上やその周囲は、奇襲されるとまごつかなければならない状態になっていて困る。大いに取り乱した。

 歩き回ってくると、書くべきことが多くなる。Jack が帰り、昼食を終えてから、ちょっと家を出たのだ。何かをかみしめるような顔で、AK 君が向こうから来て、がくんと頭を下げる挨拶をして通りすぎた。振り返ると、NW 君が追いついて来た。Jack も…。彼は予定再変更の必要を生じて、八坂(はっさか)の彼の家からマラソンを試みたのだ。紫錦台中学の前まで、三人で歩くことになった。NW 君は、演劇部の他の連中が車引きに行ったのを迎えに行くということだった。彼は「たばた君も新聞部やろ」などと、君づけで話すので、こちらが気を張らなければならない。

 広坂で、Jack のホームのホームルーム委員で東京から来たとかで、太い声を発することで知られている IKB 君に会って立ち話をする。ぼくは彼をよく知らないから、Jack が彼とどのように話すかを観察した。

 われわれは宇都宮書店へ入った。そこで、TKR 君に会う。香林坊のド真ん中(北国新聞の三面記事がよく使う言葉だ)で再び三人連れとなったわれわれは、映画を見て帰る Lotus (KZ 君)に出会った。(出会いの説明ばかりに二十分も費やした。)登りの広坂で…(つづく)
(注 1)
引用時の注
  1. ここまで書いて、この日 Sam とノートを交換したので、続きはもう一冊のノートへ移って記されている。

2013年1月30日水曜日

祖父の教え子来る


高校(1 年生)時代の交換日記から

Ted: 1951 年 7 月 5 日(木)曇り(つづき)

 「シェンシェイ!!」大きな声の来客に驚いた。後ろから見るとダルマのような頭をして、半袖シャツを着た半老人だ。祖父より十七歳若い、かつての生徒だ。
 客「シェンシェイ、年が行けば、またもとの子どもに返るちゅうが、全くのこっちゃな…。」
 祖父「コンロをやっておいでやね。」
 客「和倉の珪藻土の…。煙突が約二十本立っとる。工員は二百ないし三百ほどおる。私のような大きさの工場は七、八つあります。…珪藻土という土がこの頃役立つようになりましたゎ。それで、私はそこで働いております。」(客の名刺には、取締役社長とある。)
 祖父「私は満州におる間に、"世界を見て来てくれ" といわれて、洋行に行って来まして…。今じゃもう…。」
 客「教育界におる人は、みんなあんたの教え子みたいもんで。いまはこんな生活しておられて…。これはしかし、シェンシェ、満州で幅効かしとった人はみなそうなんだから、仕方ない…。」
 祖父「私はちょうど七十七まで勤めておりましたが、そのとき怪我をしましてね。」
 客「そんだけまで勤めとった人は、教育界であんただけやわな。…千代子さん
(注 1)は夫の介抱、そしてまたあんたの介抱、まるで一生涯の間、看護婦みたいなもんやて、あのぉ誰やらいうとりました。」
 祖父「どーも人間は不浄なもんで、何ですわい。…」
 客「いまじゃ、ほんなら、なんですか、お年もとってやし、ちょっとも外へお出ましでない?」
 祖父「人間はなんというても…。」
 客「いまじゃ、なんですか、骨の折れたところは治ってしまいましたか?」
 …中略…
 祖父「あなた、なんですか、お酒でもお飲みですか。」
 客「酒は、飲んません。」
 祖父「そりゃ結構で。」
 客「ほっじゃまた、重ねてお邪魔いたします。」

 祖父、ぼくに、「元気な人じゃったね。六十七やてか、八やてか。…きょうは、雨降っとるか?」
 祖父は日記をつけ始めた。「一、何々」と箇条書きである。「一、笹川氏、珍しい物を持たずに来たる」、「二、彼は六十七歳なり」とでも書くのだろうか。一度読みたいものだ(今年の元日に、雑煮の餅の大きさを書いていたことだけは確かだ)。どんな出来事や感動のある日でも、平凡な日でも、記述は無罫のノート四分の一のスペースにうまく収まっている。万年筆の動かし方は落ち着いたものだ。
 昨日、第三次吉田内閣の第二次改造内閣
(注 2)が出来た。夕食のとき、祖父はいった。
 「吉田さんは私が満州におったとき、奉天で総領事をしとった。私はよく知っとる。」

 「当然」という意味でよく「あったーり」という。「当たり前」の「当たり」から来ているのだろうが、英語に同じような発音の "utterly" という言葉があり、意味も「全く、全然」と、似ているのは面白い。

引用時の注
  1. 祖父の三女(私の母)の名。
  2. 原文には「第五次吉田内閣」とあったが、当時は同じ内閣の改造をも「第何次○○内閣」の一次と数えたのだろう。『ウィキペディア』の「日本国歴代内閣」の表に基づいて修正した。

2013年1月28日月曜日

学期末試験終わる


高校(1 年生)時代の交換日記から

Ted: 1951 年 7 月 5 日(木)曇り

 われわれが持つ以上のものを発揮しなければならないと思って自己を圧迫していた期間が終わった。
 英語の問題は問題でなかった。中学一年のときに出題されても九十点は取れただろうと思われるものだ。社会科を得意とする NBT 君は「あんなもん、かんたーんやった」といっていたが、ぼくは社会については、そう大きな声で「簡単」ともいえない。彼の社会に対する気持は、ぼくの英語に対するほどなのかもしれない。
 国語乙の答案を埋め尽くしたあとは、英語の時間よりも退屈した。この科目の問題は単純で、数も少なかったからだ。読み仮名をつけよというのがあった。「馬酔木」などだ。退屈していても得るところがないからと、真っ先に対策を講じたのは、脚が悪くて長く休んでいた TKM 君だった。彼が提出したあと、ゾロゾロと続いて出した。「馬の酔う木と書いて何ちゅうがヤ」と聞かれて答えようとした
(注 1)。すると、Vicky がまだ答案を保持していて、全部書いてしまったはずなのに、ここに分からないものがいるぞというような、いたずらっぽい顔をしたから、出かかった言葉をあわてて呑み込んだ。
 三枚の答案に鉛筆は一本でよかった。それも、途中で一度も先を尖らせることもしないで。下校の前に、提出日がきょうであることを校内放送で念を押されたものを提出したら、もう学校に用はなかった。明日は休みだ。

引用時の注
  1. 監督の先生がいない試験だったのだろうか。

机の引出しなど整理


高校(1 年生)時代の交換日記から

Ted: 1951 年 7 月 4 日(水)晴れ

 問題の出し方が、はなはだ問題だ。走り幅跳びで砂場の外へ手をついた(踏切りに近い方へ)、そして外へ出た。測定如何、というのだ。外であっても、手の跡の踏切り板に最も近いところから、踏み切り板に直角に測る、と書いた。正解がオミットとかであれば、心外に絶えない。生徒要覧の序にも、「諸規定を守るには、諸規定を知らなければならない」とある。この出題の場合の判定は規定されているはずで、それをわれわれは知らされていなかったのである。
 生物の出題にも、問題の述べていることが不明瞭なものがあった。細胞を、その細胞の浸透圧より高い浸透圧の(すなわち、濃い)蔗糖液中に入れると、細胞の浸透圧および膨圧は増減するか、というのである。
 Octo に会ったら、出来たとか出来なかったとかいっていた。それに加えて、「踏切りは(利き足)の方に力をいれる」としたのは、「(足先)」とすべきだったことにも気づき、意気消沈した。正午のサイレンが空腹の腹をかすめて流れた。焦慮も楽観もしてはならない。

 Some の机の引出しやその他の、ものを入れるところはどういう状況になっているかね。長くて不自由な午後は、そういうところの整理をした。こまごました不要なものや、半不要なものや、目障りだが捨てられないものや、何とかしなければならないものや…、いつになったらこれらがなくなるか分からない。途中まで組んで人夫たちが逃げ出した建築のような仕事もある。そこから飛躍して顧みないのも残念な気もする。
(注 1)
 少年時代からの「アリの土運び」は、青年時代、壮年時代、老年時代へも続いて行くだろう。運ぶ土塊は、そのときの自分の力に重過ぎる程がちょうどよい。いまはその重さを増さなければならない時期だ。

引用時の注
  1. いまでも、机の引出しその他の収納場所は同じ状態にあるようだ。次節にいみじくも「老年時代へも続いて行くだろう」とある。

ラジオ番組「二十の扇」?


高校(1 年生)時代の交換日記から

Sam: 1951 年 7 月 3 日(火)曇り

 英語の時間、以前バドミントンを一緒にしたことを報告した友人から一片の紙を受け取る。何だろうと思って開いて見ると、ラジオの放送番組が記してある。好きなものから順に番号をつけよというから承知したが、読んでみて驚いた。「二十の扇」、「インチ教室」、「輪快な中間」…
(注 1)。これじゃさっぱりだ。そして、その数がたった三十数個。「向う三軒両隣り」、「故郷の町」、「ラジオ体操」など、抜けているのが二倍以上にもなる。「もう一度整理して来い」と書いて返してやった。(おっと、Ted にはあまり興味のないことだったかも知れない(注 2)。)

 放課後、その彼と本多町まで行った(いや、心配しなくてよい。われわれの行ったのは、宮殿でなくオフィスだ
(注 3))。「○○○○○○○」*と書かれた看板(表札?)他三つがかかげられている門を入る。Ted もぼく以前に通ったかもしれない。ちょっとまごついたが、受付で聞いてみる。「係の人がきょうはおいでになりませんから、住所とお名前をお告げ下さい。いずれ後で、葉書で通知いたしますから」といわれ、その通りのことをして、オフィスを去った。県営本多町アパートのスマートな建物を右に見て隣の SCAP Library に入る。移転後初めてここに入る。中央図書館よりさらに整っていて美しい。彼は『聖衣』という本を借りていた。
Ted による欄外注記
 * What is it?
引用時の注
  1. いずれにも誤字がある(うっかりすると見落とすようなものも)。その点では、まことにお粗末なリストだったようだが、三十数番組挙げてあっても、抜けているのが二倍以上とは、Sam の批評はいかにも厳しい。
  2. 大連から引き揚げて 4 年目で、間借り生活を続けていた私たちの部屋にはラジオがまだなかった。ラジオを買ったのは、この翌年だっただろうか。
  3. これより 3 ヵ月ほど前に Sam らと何度か玄関先まで訪れた中学同期の女生徒 Minnie の家を、Sam との間で「クレムリンの宮殿」と名づけていた。当時の私たちにとって、学年のマドンナ的存在だった女生徒の家は、近付き難い気のするものだったからである。なお、この後の「○○○○○○○」には、私の欄外注記に答えて、Sam が「公共職業安定所」と鉛筆で記入している。夏休みのアルバイト探しに行ったのだろうか。

学期末試験始まる


高校(1 年生)時代の交換日記から

Ted: 1951 年 7 月 3 日(火)曇り

 下敷きと筆入れだけ持って登校すればよい。一昨日 Sam の家まで運んだ黒の風呂敷は、あのときの汗と梅雨の湿気とで湿っぽい。変衆室
(注 1)で Jack、SNT 君、1312 番(注 2)らの質問に答えていて、始まる十分前に教室へ入ると、他の連中はみな本やノートを広げている。

 せめて六題目の二番のような問いばかりならばといいたいが、七題目で少し迷ったりもした(第一種欠席をしたときに進んだところからの問題だったから。でも、出来た)。教科書にある問題が多く出るから、面白くない。新しくて複雑な問題ならば、解き甲斐がある。などと偉そうにいっても、完璧だった自信はない。
(注 3)国語甲の方は完璧だったと思うが。Vicky も完璧だっただろうか。
引用時の注
  1. 名前の代りに生徒番号を書いたのは、女生徒だっただろう。1312 番は、13 ホームの中でアイウエオ順の出席簿番号が 12 番であることを示す。
  2. 新聞クラブの部室(編集室)に対して、先輩部員がこういう当て字をしていた。
  3. ここまでは、解析 I の試験の話のようだ。

2013年1月27日日曜日

安全サービスのテスト


高校(1 年生)時代の交換日記から

Sam: 1951 年 7 月 2 日(月)雨

 きょうから解析の教科書も生物の教科書もある。何だか嬉しい。この頃の生物の時間は、机が足りないので、争奪戦に大わらわだ。「早い者勝ち」である。不足とは、ほんとうにみじめなものだ。

 保健体育は、安全サービスのテスト。五本中何本入るかというテストである。簡単に入ると思っていたら大間違い。雨のため、外では出来なくて、第一体育館で行なったため、紫錦台中よりましだが、天井という障害物に邪魔されて難しい。百%を記録したのはぼくを入れて二人だけ。そのあとは、四チームに別れてゲームをする。ぼくたちの組は排球部員が二人もいたのに、一勝一敗の成績。ぼくは前衛のセンターやレフトをしていた。七点ゲームなので、ぼくは一度もサービスをすることが出来なかった。

 ホームルームは都合により計画が変更され、図書館長の講話。この前のアセンブリーの時間の繰り返しと続きである。ホーム委員長が遅れて入って来たので、ホーム委員長ともあろうものが、といってお叱り。それからの話題の中でも何かというと委員長を槍玉にあげて説明されるので、ちとかわいそうだった。

 雨の日の昼食後は、つまらないものだ。図書館へ行くにも雨の中をくぐって行かなければならないし、それに行ったところで満員である。体育館では篭球と排球をやっていたが、みんな技術の優れた名手ばかりである。部室や委員会室へもあまり行きたくなかったので、学校中を足の向くまま放浪した。

「君死にたまうなかれ」の感想文を書く


高校(1 年生)時代の交換日記から

Ted: 1951 年 7 月 2 日(月)雨

 三十五分授業で、二時には家へ帰れる。明日から試験だから、長く引きとめておかないのだと。試験とはそれほど特別扱いしなければならないものか。自習させた先生も多い。
 国語乙の時間、与謝野晶子の詩「君死にたまうなかれ」を先生が朗読され、それについて感想文を書く。日露戦争のときの詩で、作者の弟を、作者が死から守り、命を全うさせようとする悲痛な叫びである。感想を書くための時間が短かったから、あまり考えないで鉛筆を動かし続けた。なぜ命を全うさせなければならないか、戦争がどのようなものであるかなどを、細かい字で並べ立てた。

「恋愛は罪悪ですぞ!」


高校(1 年生)時代の交換日記から

Sam: 1951 年 7 月 1 日(日)晴れ

 ああ、海へでも行きたくなる(おっと、ごめん、ごめん)。
(注 1)
 午前中、旧三年八組の生徒が古巣に集まることになっていたのだが、ズボンのつぎをしていたら、思わずひまどって、とうとう行けなくなってしまった。何しろ、ワカメのようなズボンでは仕方がないから——。このようなことで、午前は終り。
 午後は「仕事」だ。仕上げるのに午後一杯かかってしまった。家へ帰ってラジオをつけたが、鳴らない。そうだ、きょうから周波数が変ったのだった!
 「恋愛は罪悪ですぞ!」——といっても、ぼくがそれを経験したからいうのではない。夏目漱石作『心』をラジオ小説でやっていた中で、何回もこの言葉が出て来たので、何となく書いてしまった。

引用時の注
  1. 私は泳げなかったので、この頃、海へ行こうと誘われることが嫌いだったのである。

2013年1月26日土曜日

思い出にまつわる歌


高校(1 年生)時代の交換日記から

Ted: 1951 年 7 月 1 日(日)晴れ

 試験の準備をいやでもしなければならないと思うと、時間が長い。「何びとも自分の負担を最も重いものと思う(セネカ)」という原理によって、屋根の下に押しつけられている。空は澄んでいて、その下に散らばるガラクタも秩序あるものも、絵筆を揮うには白のチューブ一本を使い果たさなければならないほどに輝いている。せめてカレンダーに赤字で示されるきょうは負担を忘れたいと思うが、きょうこそ追い込みの日だと、試験問題の作成者たちや、それを解くことになる仲間たちは解釈する。この解釈にも従わなければなるまい。(以上、午前に記す。)

 脚だけの運動は充分過ぎた。Sam の行動の推測は難しい。犀川の方へ回った。河童たちが河原の石ほどもいて、歓声や喚声をあげて流れと戯れている。見下ろしているだけでは、少しも涼しくない。涼しい色の着物の揺らめきのような川の風景から離れて、公園を通った。陰や日向や緑の下で憩いをとっている人々の間を抜け、四本の黒いヘビが真っすぐ平行になって寝ている道(注 1)を歩む。斜め後ろから自転車がぶつかりそうになって来た。避けた。まだ来る。下手な乗り手だなぁと思って、いっそう身を避けようとすると、名前を呼ばれる。髪の長い青年だ。誰だ? こんな奴に知られているはずはないと思いながら、よく見直す。ギター弾きのジカ(注 2)だとようやく分かり、頭を下げた。ジカは、「どこへ行って来たがヤ?」、「いま、どこへ行っとるがヤ?」と質問してから、「先に行くナ」といって、超スピードでペダルを踏みながら去って行った。

 レコードがまたかかっている。軽快で浮きうきする曲だ。目と鼻の間がきゅんとなる。過去の思い出に浸ろうとするときの癖だ。思い出には、しばしば歌が伴っている。東京からの疎開児・SND 君とよく遊んだ七尾の小学生時代の思い出には、♪無限軌道よ轟々進め…♪という軍歌がつきまとう。赤レンガ造りの大連嶺前小学校へ転校したばかりの頃は、「軍旗」(注 3)。瀬尾先生の国語、仲谷先生のホームルーム、チョンス先生の科学(中学2年)などは、「青い山脈」。同じ頃でも英語の授業の思い出は、なぜか「銀座カンカン娘」。ミッタ君が編集長になった頃(中学2年の3学期)は、♪俺は村中で一番/モボだといわれた男…♪(注 4)。イーゼル・ペイント(注 5)を使った絵を描いていた頃(中学3年)は、「ボタンとリボン」。「ビールス的精神学者」先生と YMS 君が争っていた頃は、♪ぼくは特急の機関手で…♪(注 6)。最近の忘れられない事件の頃は、♪ラララ赤い花束車に積んで/春が来た来た丘から町へ…♪(注 7)。歌の種類は、ずいぶん不規則なようだが…。
*
Sam の欄外注記
* 「なつかしのメロディー」でも編曲したらどうだね。


引用時の注
  1. 金沢市石引町の電車通り(当時)をふざけた表現で記した。公園は兼六園。
  2. 高校へ進まなかった中学同期生だったか。
  3. ♪軍旗、軍旗/天皇陛下のみてずから/お授け下さる尊い軍旗/…♪ 小学校(当時は国民学校という名称)3 年生の音楽の教科書にあった歌。
  4. 「洒落男」、創唱・二村定一。榎本健一が歌って有名になった。
  5. 当時発売されたつやのある不透明水彩絵の具の商品名。私はこれを使って描く絵のコンクールに出品し、石川県の中学校で 2 名の金賞受賞者の一人となった。もう一人の受賞者が Vicky だったことを、何十年も後になって、高校同期会の折に知った。
  6. YMS 君は何らかの理由で 2 年留年したことのある長身の男子で、先生の不興をかう所作をよくしていた。「ビールス的精神学者」先生は、彼のクラスの担任だったか。♪ぼくは特急の機関手で…♪ の題名は「僕は特急の機関士で」(機関手とも表記された)。NHKのラジオ番組「日曜娯楽版」で1950年10月から放送された。
  7. 「春の唄」。1937年に国民歌謡として作られた古い歌だが、当時またラジオからでもよく流れていたのだろうか。中学の卒業式も近い頃のアセンブリーの時間か何かの折に、女生徒が歌ったようにも思う。

2013年1月24日木曜日

ガリバン刷り


高校(1 年生)時代の交換日記から

Sam: 1951 年 6 月 30 日(土)晴れ

 一度帰宅して昼食をとってから、再度学校へ行く。何のために? ほかでもない。ガリバン刷りだ。きょうは、ぼくが初めて原紙を切った。天井の低い体育館の学校
(注 1)にいたときは、よくやったものだが、やっぱり何だか恐ろしかった。普通の字(?)は自信がないので、右上がりの四角い字を書いて、字を揃えた。どうにか読める字になったので、嬉しかった。

 もう夏休みが来るね。Ted はどう暮らすつもり? ぼくはまだ計画を立てていないが、とにかくぶらぶら暮らすのはもったいないから、何とかしなければならない。出来ることなら、アルバイトでもやってみたいが、そんなあてもないし…。
引用時の注
  1. Sam と私がともに通った中学校のことか。

2013年1月23日水曜日

"= 0" を忘れた!


高校(1 年生)時代の交換日記から

Ted: 1951 年 6 月 30 日(土)晴れ

 ♪アルプスの牧場よォ…♪ 隣室の蓄音機がやかましい。

 三限に予告なしで「試験が近づきましたから総復習をします」という名目での試験があった。教科書がようやく届いたこの科目での試験の総得点は、Vicky に劣ること十数点になっただろう。きょうも自信満々でヨウコ先生のところへ採点結果を見に行くと、思いがけないところで四点引かれている。示されている二つの値が 2 根である 2 次方程式を作れという問題で、2 次式だけを書いて、方程式にするのに必要な「= 0」を書かなかったのだ!

 クラブ活動の時間、石川県高校文化連盟(これは、わが校の伊藤・久田両先生が提唱したものだ。Sam の学校も加盟しているから、5 円を支出しなければならないだろう)の新聞部というのが出来たので、参加するかどうかを「討議・採決」した。設立の会合に出席した 3 年生のメンバーが同部の目的・機構その他を説明し、続いて編集長の IN 君が「討議および採決します」といったのだが、われわれがしたのは挙手だけだった。全員が賛成した。次いで IN 君は、新聞の発行は二学期の初めになるといった。三限のことで気持がいくらかむしゃくしゃしていたので、この時間の他のことは心によく留められなかった。ただ、伊藤先生の次の言葉は、Sam に聞かせなければと思って聞いていた。
 「N 高校の新聞を見ましたが、何先生が転任されたとか、誰々が何大学へ入ったとかいう、表面的な記録ばかりで、生徒が現在関心を持っている問題はどのようなことであるとかの、生徒の意志のにじみ出ている記事が少なく、わが校のものの方がはるかに優れていると思いました——過去におけるものは、ですね。これからのはどうか分かりませんが。」

 帰宅後、これまで隣席のオタケ君のを見せて貰っていた解析 I の教科書をゆっくり広げて見ているところへ Tom が来た。「新聞出来たがやな」とすぐにいってやった(注 1)。魚の配達に忙しい SGN 君から先ほど聞いたばかりのことだ。部屋へ上げて、『紫錦』第 16 号を早速見せて貰う。1 号から 5 号の時代の、一ページが普通の新聞の 1/4 の大きさに逆戻りしているのは気に入らない。四ページある中の第二面にある編集後記に、スポーツを中心にして編集したと書いてある通り、徹底してスポーツずくめである。第四面に「生徒心得」がのさばっていて、なぜそれを載せたかという問いが、第一面に「懸賞問題」として記されている。スポーツマンシップについて書いた「論説」は、石引小野球チームの一塁手だった NSK 君の筆。漫画も野球関係。「優勝目指して」の写真入り記事は、野球部マネージャーの OMT 君が書いている。三面の 2/3 を占めているのは篭球の記事、…という具合だ。

 Tom の主な要件は、不定詞についての質問だった。十分に指導を達成できないまま、彼を大学前まで送ることになった。彼は、来週の金曜に一斉テストがある(Sam の命名による「ウィルス的精神学者」先生が、毎学期に行なうことを主張して実施にいたったそうだ)、数学の試験もある、英語の暗記をしなければならない…など、もっぱら試験期のことを話した。他には、「諸君たち」や「紫錦台の苦虫」(注 2)を登場させたが、珍しく Becky(注 3)は出て来なかった。
引用時の注
  1. Tom は私の出身中学の一年後輩で、私の後を継いで中学の新聞クラブ編集長をしていた。
  2. 「諸君たち」も「紫錦台の苦虫」も、中学の先生方のあだ名だっただろう。
  3. Tom が格別親しくしていた女生徒。"Tom" や "Becky" は、私が日記上でのみ使っていた呼び名である。

2013年1月22日火曜日

波多野勤子著『少年期』と比較


高校(1 年生)時代の交換日記から

Sam: 1951 年 6 月 29 日(金)雨のち晴れ(つづき)

 月末なので、母のところへ手伝いに行く。帰るとき、波多野勤子著『少年期』
*(注 1)を借りてきた。もしかすると Ted は読んでしまっているだろう。まだ読んでいないのなら、読んだ方がよい。第十九信まで読んだ。内容はわれわれがやっているのとよく似たものだ。この場合は、母と子の手紙のやり取りということになっており、われわれのような日記形態ではなくて、感じたこと、思ったことなどを主とした手紙形式のものである。そこに、おのずと相違が生まれてきている。われわれの通信帳も、これを取り入れていったらよいだろう。われわれのものも、きっと偉大な記録になるに違いない。まだ書きたいことがあるが、とっくに十一時を過ぎているので、goodnight にしよう。
Ted による欄外注記
 * 半分ほど読んだところで、母が返してしまった。勤務先の本だったから。Vicky も学校で読んでいた。よく読まれている本のようだ。

引用時の注
  1. 『少年期』は1951年に光文社から刊行され、ベストセラーとなった。同年、木下恵介監督によって映画化された。

2013年1月21日月曜日

図書館長、約十分で退場


高校(1 年生)時代の交換日記から

Sam: 1951 年 6 月 29 日(金)雨のち晴れ

 昨日と同じくタイプの練習をしてから帰る。昨日は雨が降っていたのにくらべ、きょうは傘があるのに、雨は降っていない。何だかはがゆいように思うが、この方が楽だから嬉しい。

 第一限は商業のテストだった。まるっきり難しい。問題が逆になって出されているのだ。例えば、
かっこ内に適語をいれよ。
分散機関)中央卸売市場、(非営利主義)消費組合、(集積機関)産地問屋
である。何を入れればよいか見当がつくかい。ぼくの書いたのを鉛筆で入れておく。全部違った。その他も大体これに類似したもので、新聞の見出しをつけるような問題や、トンチ教室のような(面白いという意味でなくて)傾向のものばかり。

 アセンブリーは、図書館長の「図書館についての話」である。「私は声が小さい。そして、話も面白くない。それに、君たちにさわがれてはたまらんから、やかましくなったらすぐ、この壇を降りる」と前置きして始める。静かだったのは最初の数分だけ。ぼくの耳に入ったのは、「Library とはラテン語より出たる言葉であって、これは "本をしまっておく" という意味なのであります」というぐらい。それで、図書館長は相当の努力と辛抱をしたが、十分ぐらいで、約束通り退場してしまった。