2013年10月16日水曜日

Sam と Ted の写真


 Sam(向かって右手前)と Ted の 1959 年(24 歳)の写真。夏休みに女性の友人たちを誘って旅行したときのもので、場所は志賀高原あたり。Minnie にその友人を連れて来るように誘ったのだが、彼女の友人たちは誰も都合がつかなくて、Sam が彼女の話し相手にと、彼の上司のお嬢さん(Sam の後方に半分見える女性)を誘った。Sam のカメラで Minnie が撮影。Sam の頭上に、遠方の家が小さな帽子のように乗っかってしまった。

2013年10月15日火曜日

日頃の異常な精神の現れの一部


友人たちとの文通記録

Sam から Ted へ: 1959 年 10 月 10 日[つづき]

 時計は午前二時を指している。表通りの騒音もようやくおさまって、風の音と、ときどき通る車の排気音や遠い汽笛の音が聞こえてくる。ここ数日、昼と夜をとり違えたような生活をしており、それが焦慮感となって、普通以上に不安な気持を加えていたが、いま初めて、落ち着いた気分になる。まったく、君の手紙によるところ大である。昼は働き、夜は寝なければならないという固定的な概念、一つの習慣としてきたものが、絶対的なものではない、ということを体得しただけでも素晴らしい。もちろん、不規則で不健康ではあるが、夜は寝るためにだけあるのではないということを再発見したことに意義がある。歴史は、夜作られなければならないのだ。
 取り止めのないことを書いたが、幾分異常な精神が作用している、あるいは、日頃の異常な精神の現れの一部としておこう。
 夏休みの旅の締めくくりを同封しておくから、読んでもらおう。楽しい旅だったと思う。「おおジグリー」
(注 1)も「エルベ川」(注 2)も「若者よ」(注 3)も正しく歌えるようになったが、「先生」には聞いてもらう機会がまだない。「ユーカリ」(注 4)へも、君がいない間は、まず訪れることがないように思う。明日から関東へ旅に出る。
 いろいろな意味でありがとう。

 一〇月一〇日
S 拝
達夫君
[完]
引用時の注
  1. こちらにある「ジグリー」のことだろう。当時私は歌を歌うことが好きでなく、あとにある「先生」こと、われわれと中学同期の女性(高校時代の日記に Minnie のニックネームで登場)の指導をちゃんと受けていなかったばかりでなく、指導があったことさえも覚えていなかった。「先生」が列車の中で「Oh My Darling Clementine(いとしのクレメンタイン)」こちらでは、これが主題歌であった映画『荒野の決闘』のシーンをバックに歌われている。日本版歌詞「雪山讃歌」こちらに両歌詞が掲載・比較されている)を英語で口ずさんでいた記憶はあるのだが…。
  2. こちらの YouTube 動画で聞ける。
  3. この歌は知っている。こちらに YouTube 動画が、こちらに歌詞と楽譜がある。
  4. 私の大連時代の幼友だち姉妹の姉のほうが、彼女の夫と一緒に金沢の中心街・香林坊の近くで、この年の夏に開店し、しばらく続けていたスタンドバー。私が夏休みの帰省中に Sam を誘って一度訪れた。

2013年10月14日月曜日

人生はこれでよいのか


友人たちとの文通記録

Sam から Ted へ: 1959 年 10 月 10 日
 引用に当たって:先に 私 Ted が 1959 年 12 月 29 日付けで書いた Sam への手紙を掲載した。その主題は、Sam が高校 3 年のときに書いた創作を読ませて貰っての感想だったが、冒頭に、「君の手紙にあった悩みのその後の心境について、『あきらめた』という返答を聞かされたのは、何だかあっけなくて興ざめだったが、…」とあった。Ted がここに言及している Sam からの手紙に相当すると思われるのが、以下に引用するものである。社会人となって 6 年目の Sam が Ted からの手紙を受けて、返信として書いたもので、黒に近い青インクで便箋 4 枚半に及んで綴られている。句点の追加など、読みやすくするための若干の変更を加えて引用する。Ted は友人たちへの手紙をおおむね日記帳などに下書きしていたが、この返信のもとになった Sam への手紙の下書きは、なぜか見つからない。
 泥の中の眠りから、いま目覚めたところだ。太陽は、やがて西に沈みかけようとしている。よい眠りからは平安と充足が得られるものだが、このような眠りの後には、一種の空虚さが身にしみる。無目的で不確かな生活の連続は、人生を怠惰にする。
 旅行の最終コースを終えて列車に乗るとき
(注 1)、ほっとした安堵とともに、例え難い空白が去来する。明日からの仕事に対するわずらわしさではなくて、人生はこれでよいのかという疑問が頭をもたげてくるからだ。仕事に追われ通しのときは、それすら心に浮かんでこないのだが、このようにして、心にややゆとりが生じたときに、この疑問のためにかえって落ち着かない気持になる。
 このままの生活が、二年も三年も、いや、もしかすると一生続いて、そして淋しくこの世を去らなければならないのだろうか。そして、一、二年もすれば、誰もが永久的に忘れ去ってしまうであろう。選ばれた一部の人たちのように、その人の社会的功績が歴史を通じて語り伝えられるということがなければ——。
 そのように努力し、優れた才能を発揮することは不可能でないかもしれない。だが、現状からして、それをどうして行なえばよいのか。一個の人間などというものは、水の分子のような存在にしか過ぎない。抗し難い一つのジャンルの中にありながら、それはそれなりに生き方をもってはいる。
 よろこび、あるいは悲しみも、小さな生活の中にすべて求めなければならないのだろうか。例えば、結婚、育児、それから、職業を通じて、いくらかの社会的貢献をすることなどに。
 そして、小説の舞台を求めるならば、広い社会層にわたる雄大さでなくて、悩める魂の奥深い淵を追求してみたい。小説のためには平凡さでなくて、強馬力の発電力を備えた頭脳と肉体を必要とする。単なる興味や酔狂で書けるものではない。一つの信念ある基盤にたって考察すること——。
(注 2)[つづく]
引用時の注
  1. Sam は大手旅行社に勤務し、この頃しばしば旅の添乗業務をしていた。
  2. この段落は、Ted が、「いま小説を書くとすれば、広範な人々が登場する、政治・社会の問題を含んだ雄大なテーマでなければならない」という意味のことを書いた(実際に小説を書きたいと思ってではなく、いろいろな問題に興味をもち始めていることの表現として書いたのだが)ことへの返答であろう。

2013年10月13日日曜日

Ted の高校3年のときの創作「逍遥試し」(5)

×     ×     ×

 《馬鹿なことを考えていたものだ》と常夫は思った。まだ、雨は降り出していなかった。《映像の展開ということを実験したようなものだった。いまさら実験するまでもなく、これは私の幼い頃からの癖ではなかったか。想念の逍遥、独りでいるときの想念の漫歩は…。いや、こういう習慣を持つのは、私ばかりではあるまい。私はその逍遥の中でいろいろな行動をした。よいものもあれば、悪いものもあった。しかし、常に新しいものだった。想念は、よかれ悪しかれ、いつも私の先導者だった。反省といったものも、これによって行われた。
 《これは明らかに、一つの道具だ。創造的な道具だ。――何だか分かりかけて来たぞ。――これが自由に働き得るのは、…》このとき、本当に雨が降って来た。常夫は腕時計を見てはっとした。ケートと別れてから一時間近く歩いていたことを知ったからだ。《彼女は、とっくに目的地へ着いて待っているだろう。もう少しだ。》彼は駆けた。


 谷川の音が聞こえて来た。ぽっかりと格好な入口が、びっしり立ち並ぶスギ木立の間に開けて、彼を迎えた。《おや? いない。》彼は重いものが胸に突き当たるのを感じた。谷川の流れは藍色になって、砕け、砕けて、足下を走っている。
 「ケート!」
と呼んだ。答えはない。
 雨と渓流のリズムだけが、つれなく続いている。
 暗いものが頭をかすめる。


 もう一度呼んでみた。すると、
 「ほほほ。」
という笑い声が、後ろから彼を捕まえた。
 「何だ。びっくりさせるじゃないか。」
 「あまり遅いからよ。」
 「川へでも落ちてしまったのかと思った。」
 「ずいぶん濡れたのね。」
 「君は、…いいよ、いいよ、…君はどうして濡れなかったのだ?」
常夫はケートがハンカチで顔を拭いてくれようとするのをさえぎりながら聞いた。
 「ほら、あそこに。」
 「なるほど。いい洞(ほら)があったね。」
 「ふふふ。…それ何?」
常夫が自分のハンカチと一緒にポケットからつまみ出した紙片を、彼女はとっさに取り上げた。常夫はそれを取り返そうとして手を伸ばした。
 「『最も貴重なものは人間の孤独な心のうちにある。』…あっ、これですね。こんな行動をわたしたちに取らせたのは。」
 「あ、そうだ。想像の糧をこねるヘラである想念の活動が可能なのは、『孤独』の中においてだ。なぜなら、そのヘラは、自らが握らないときには、ヘラとして働かないものなのだから。そのヘラを振るう工程が頭の孤独な逍遥だ。」
 「何を寝言のようなこといってるの。想像をこねるヘラだなんて。」
 「そう怒るなよ。…それで、ことばが理想的には方便に過ぎないとも考えられる、ということが分かるわけだ。」
 「少しも分かりません。」
 「まあ、いいさ。」
 「いえ、分かります。わたしが経験の堆積物を彫る『ノミ』といったのに似たものでしょう?
 「うーむ。それと同じかも知れない。ぼくは回り道をして、やっと君の考えにたどり着いたのだ。……」
 雲が切れて、彼らのささやかな「円形劇場」へ日が射し込んだ。雨は七色に輝きながら、軽く降り続けている。紙切れを媒介にしてケートと手を取り合っていたことに気づいた常夫は、《われわれは、いま、こうしてことばを使わないで語っている。そうすると、われわれはこの瞬間に何を創造していることになるのだろう。…そうだ。われわれの胸の中に…。いや、これは自分勝手な思いかも知れない。…》などと考えていた。(注 1)[完]

×     ×     ×

 この一文を S. M. 君 (注 2)に捧げる。――われわれの間の日記の交換によることばの生活から得た思索の最初の一成果として。――

×     ×     ×

 [以下は、この創作の下書きを記してあった Sam との交換日記の文章 ]
 最後の 2 行は、ちょっと体裁をつけるために表紙の裏に書くつもりのものだ。一成果というほどのものでもないかも知れないし、最初の成果でもないかも知れないが…。昨年「夏空に輝く星」を書いた後に記したようないろいろな弁解は書かないから、これを厳しく批判してくれ給え。(1953 年 8 月 9 日、8:10)
2006年にブログに掲載したときの注
  1. 薄紺色の文字の部分は、引用に当たって付け加えた。(下書きの出来た部分から順次原稿用紙に清書していたので、制限枚数20枚に近づいたことを知ったためか、完成を急いだのか、終りへ来てやや記述の飛躍、あるいは説明不足が目立った。)そのほか、言い回しについては、ところどころ修正をした。特に、ケートの話し方が「てよ・だわ式」になっていた部分は、1950年代にしても古風過ぎると思われたので、書き換えた。
  2. S. M. は Sam の本名の頭文字。

2013年10月12日土曜日

Ted の高校3年のときの創作「逍遥試し」(4)


 丘へ登ると、樹木の深く生い茂った小山の一カ所に、赤茶色の岩肌がむき出しになっているところが望まれた。その下辺りがケートの名づけた「リップの円形劇場」だったと、常夫は覚えている。常夫は急いだ。しかし、赤茶色の岩肌はなかなか近くならなかった。岩肌の上辺りの空は真っ黒だった。
 《銀色に輝いて踊り流れていた渓流も、周囲を取り巻いていた緑の照り返しも、滲み出る清水に潤されて細かい光を見せていた岩壁の濃褐色と淡黄色の縞も、きょうは、いつかほど陽気な姿ではないに違いない。あそこでは、もう雨が降り始めているかも知れない。だが、引き返すわけにはいかない。別れたときは、こんなことになるだろうとは、思いもかけなかったのだが…。私の頭の上にも、大粒の雨がいまにも落ちて来そうだ。ケートも空を気づかっているだろう。とにかく、急がなければ…。》
 さっと強い風が常夫のシャツをふくらませて吹いた。と、冷たいものが一つ、二つ、首筋や腕に当たった。次第に急テンポになった雨滴の落下は、ぽつりぽつりから、さーっという音へ、さらにごーっという唸りへ進んだ。あたりに君臨するものは、常夫たちの逍遥の始めに地上を光と熱で支配していた太陽を暴力で駆逐した不気味な雷鳴と、白く太い無数の棒となって地に突き立つ雨だった。常夫は夢中で足を動かした。シャツもズボンもずぶ濡れとなって、身体にへばりついた。激しい降り方だ。濡れながら、いや、叩きつけられながら、彼は突進した。
 そのとき、常夫は
 「田川さーん。」
と自分を呼ぶ声を聞いた。声の方へ全精力をふりしぼって走った。草を踏み倒し、樹木の間を分け、ただ、声をめがけて、道なき道を走った。
 「ケート!」
と常夫も叫んだ。
 「田川さーん!」「ケート!」
 「ケート!」「田川さーん!」
声は急ピッチで双方から近づいた。そして、しぶきを上げてぶつかった。
 「田川さーん。」「ケート。」
彼らは、ほっと息をついた。ケートの金髪は肩へ水を流していた。雨の凶暴さは少しも衰えを見せなかった。
 「どうしよう。」
 「どこかへ行かなければ。」
 「どこへ?」
 「どこでもいいから。」
 彼らは手をとって、小走りに走り出した。暗くて白い、不思議な、矛盾したような世界を、一つの塊になって彼らは走り抜けようとしていた。
 「あっ!」
と、ケートがかん高く叫んだ。常夫の右手がぐっと下へ引かれ、次の刹那に彼の足は宙にあった。……[つづく]

2013年10月11日金曜日

Ted の高校3年のときの創作「逍遥試し」(3)


 「いや、少し別々に歩いてみるのだ。何かよいことがあるかも知れない。」
と常夫は答えた。
 「変な『かも知れない』ね。どうして?」 ケートはハンカチで胸を扇いだ。
 「ちょっと思いついたんだ。」
 「とんでもない思いつきね。せっかく一緒に来たのに。」
 「いけないかい? ここから三、四十分だったね。いつか行った K 川上流の、君の命名による『リップの円形劇場』までは。君はここを真っすぐに行くんだ。ぼくは、この裏の小道をたどってみるから。」
常夫は神社の後ろの竹やぶを指さしていった。
 「じゃあ、仕方がないワ。一人で考えごとがしたいのでしょう。」
ケートの靴音は、常夫の耳の中で笹のかすかなざわめきに変わった。

×     ×     ×

 雲の影がウリ畑を走る。ハスの葉が裏と表を交互に出し隠しして揺らいでいる。《自分のいまの頭の中の様子は、どう呼ぶべき状態なのだろう》と考えた常夫は、思わず一人で手を打った。新しい考えに触れ得たように思ったからである。《ケートと別れて歩き始めて、いま、ようやくことばを秩序正しく頭に並べたように思う。といっても、頭がずっと働いていなかったのではない。まず、ごろごろしていた、まとまらない考えを溶かし、沈殿させ、思惟という作用をする頭の中の溶媒を透明なものにした。透明になった溶媒は、写真の感光板のように、外界のさまざまなものをありのままに捕らえる働きを持つのだ。その働きが続いていたのだ。その働きの効用は、…
 《…創造の糧を蓄積することに違いない。創造! そうだ。なぜ、この単語をいままで忘れていたのだろう。創造といっても、無から有を生むことではない。創造の第一段階は、その材料の摂取だ。第二段階では、それを何かの道具でこねる。第三段階でも何かの道具で、おおよその形を刻み込む。第四段階で始めて創造の作品が完成する。第二、第三の段階で使う道具とは、何だろうか。…
 《感光板の働きをする溶媒のことに戻って考えなければ…。これが取り込むものは、…光だ。あらゆる波長の光のいろいろな組み合わせだ。われわれが周囲の物体の中から何か一つを選び、その色を、たとえばそこにあるカボチャの葉ならば、『緑』というように、目を閉じている相手にただ一言で伝えようとしても、相手にこれと全く同じ色を想像させることが出来ないと同様に、それらの光、すなわち、われわれの頭の中へ入って来るいろいろな事象も、ことばだけで完全に捕らえることは出来ないだろう。
 《創造しようとするものが、ことばの集合体、つまり文章である場合、文章の中でも、とくに、直接思想の加わらない叙景文ならばどうだろう。目に映るものを片っ端から、ことばに変える。それで叙景文が出来るだろうか。出来ないのだ。結果がすべてことばとしてのみ現れる創造の場合でさえ、ことばで作り上げられる以前に何らかの工程を経なければならないのだ。そして、この工程は、それなしには何も創造されないという重要なものだ。これが創造の第一義的なものなのだ。だから…》
 常夫は小川をまたいだ。《だから、ここに、ことばも方便に過ぎない場合というものがあるのだ。創造の基本がそれだ。『人類は、ものを創造することが出来る唯一の種』ということを、どこかで読んだように思う。創造は、恐らく、人類の持つ最高の能力だろう。最高の能力の発揮において、ことばが第二義的なものになる。…ありそうなことだ。私の推論は、正しく進んで来ているらしい。しかし、いま何か一つ、未解決のものを残して来たようだった。何だっただろうか。…》涼しい風が常夫の頬をなでた。道は狭く、草深い。
 《…ケートは何を考えて歩いているだろうか。…おや、これはポプラ並木の歩道で彼女に尋ねたのと同じ質問じゃないか。結局、この質問のために、きょうの逍遥に厄介な『ことば』の考察の重荷を背負う羽目になった。…いつかこんなことを考えたことがある。父が日本人で母がアメリカ人のケートは、ものを考えるときに何語の方を多く使うのだろう、と。これはまだ尋ねてみていないことだが、案外、ことばを使わないで考えているということも、われわれには多いように思われる。…こういうことを考えると、妙な意識が生じて、考えつつあることが次々にことばになってしまうが…。
 《先に考えた、まとまらない考えの沈殿、考察の溶媒の透明化、そして、創造の糧の蓄積、これらは思想その他のものの形成・展開以前の段階だった。しかし、ことばを使わないで考えている、もしくは、映像を『展開させ』ているといえる別の経験的事実は、何を意味するだろう。》急な上り坂になった。急なはずだ。常夫のたどる小道は一気に崖を五、六メートル駆け上がって、小高い丘の上へ連なっている。常夫は半分ほど昇ったところで、前へ出した足の膝へ手をのせて、丘の上を見た。空は暗くなっている。来た方を振り返った。灰白色の雲が青空をどんどん呑み込んで行く。《降りそうだ》と思った。[つづく]

2013年10月10日木曜日

Ted の高校3年のときの創作「逍遥試し」(2)


 常夫は反論する。
 「といっても、それは単純な経験の思想化のときには当てはまるかも知れないが、複雑なものにも当てはまるとは限らない。」
 ケートが答える。
 「ことばは、ある意味では、物事を抽象化しますが、それが私たちの頭へ飛び込んで来るときには、複雑なものを伴っています。いわゆるニュアンスってものを含んで…。」
 「だが、…さっきから逆接のことばばかり使っていて悪いが、ニュアンスは、ことばが一人の人間の内部に収まっている間だけしか働かないと思う。われわれの一人一人が一つの単語に対して持つ感覚は、厳密にいって同じではない。個人ごとに特殊なものだ。そして、その特殊性は、ことばが表現手段として外部へ出されると同時に姿を消すのだ。特殊な感覚がことばの表面から姿を消せば、述べようとしたことがらの意味もほとんどが発散してしまうだろう。」
 「受け取る方で、また色彩を与えるでしょう。」
 「そこで、ゆがめられる可能性がある。」
 「人の感覚はそんなに違わないものよ。」
 「いや、人間は個性の動物だよ。」
 そういって、常夫は、自分たちが不思議な論争を始めていることを発見して驚いた。《ところで、私はこの論争において、どんな立場をとっているのだろう》と、改まった調子で考えた。空を見上げた。青空が灼熱しているかのように白っぽい。ただ、向こうの山に接している部分の空だけは、うす黒い雲でおおわれているが、それがかえって、いかにも夏らしい感じを与える。単調なアブラゼミの声が耳の奥深くで響く。眼前には、秋の好収穫を予想させるように、イネが波打っている。常夫とケートは、いつの間にか郊外へ出はずれていたのだ。
 《どうやら、私はことばによる表現の限界を主張する立場にあるらしい。》常夫は半分ひとごとのように、こう考えた。《そうすると、これは、最近の私が何とかして理解したいと思っている問題と大いに共通するところがある。…共通するばかりでなく、これが、その問題の解決の鍵になるとも考えられる。》
 常夫が考え込んでしまった様子を見てとったケートは、何もことばを返さなかった。常夫は議論を再開したいと思ったが、一度離した推論と会話の糸は、思うように引き戻せなかった。
 最近の常夫が理解したいと思っている問題とは、彼が武者小路実篤の『幸福者』を読んでいて目にとめた「師」の一言である。「師」は、真心を日常生活に生かし得るものにとっては、ことばは不必要だろう、とか、本当に合点がいく人にはことばは不必要だ、とか述べ、しかし、いまの世には、まだことばが不必要だということは許されず、多くの人はことばのご厄介になって始めて、自覚と信仰とを得るのだ、と切り返して、現実において「道をとく」ことが必要であることを説明している。常夫が注目したのは、ここで「師」がことばを一応方便視していることであった。
 理解を伴わないで話をうのみにすることを嫌う常夫は、現実においての必要・不必要はともかくとして、「師」がそういう考えを前提的に述べている根拠を把握したいと思った。そこには、ことばが不必要であることの深い意義が秘められているように思われた。不必要の意義を究めたものには、ことばをまれにしか使わないことが許されるのだ、というような気もした。それで、ますますその意義を掴みたいと思うようになっていた。
 常夫は考えながら歩いた。しかし、考えはすぐにはまとまりそうもなかった。《私が無意識に、ことばの限界を認める側に立っていたことは、ことばの方便性が少し分かりかけているということかも知れない。だが、あるものが、用途あるいは効果に限界があるというだけで、それを全然不必要と断定し得るだろうか。…限界の外に、真の使用目的があるならば、そういう断定も出来そうだ。…》これだけのことを、相当長くかかって考えた。したがって、常夫とケートは相当長い間、沈黙して、田や畑の間を、あるいは、まばらな人家の前を通り過ぎたのだった。
 ケートはべつに退屈しているようでもなかったが、常夫には、彼女と一緒に歩きながら黙っていることが重々しく意識された。彼は口の中が妙に乾くような感じを覚えた。
 とある古ぼけた神社の前へ来たとき、常夫は突然、
 「別れよう。」
といった。
 「えっ?」
ケートは目を尖らしたような表情で、驚きを示した。 [つづく]

2013年10月9日水曜日

Ted の高校3年のときの創作「逍遥試し」(1)

 再掲載に当たって:「逍遥試し」は、高校 3 年の夏休みに、形式と内容が自由で、原稿用紙の制限枚数 20 枚ということだけが決まっていた国語の宿題として書いたものである。最初は論文風の随筆を書くつもりだったが、制限枚数一杯までそういう形式で書ける自信がなかったので、短編小説にしたのだったと思う。そのため、先に掲載した Sam の同時期の創作「橋」に対する私の感想の中で自ら評したように、「小説というよりは小説的粉飾をわずかにまとった対話形式の小論文といった方がよい作品」となった。学校へ提出した清書は返却して貰わなかったが、Sam との交換日記の 1953 年 8 月 5〜9 日のところに下書きが残っていた。それを 2006 年に旧ブログサイト "Ted's Coffeehouse" に掲載したが、同サイトはプロバイダーの事故で消滅した。幸い私のハードディスクに控えを残してあったので、ここに再掲載することにした。前回 (1) を掲載したとき(2006 年 8 月 1 日)に、「大学生になった私自身を背伸びして想像し、それをモデルに、対話と思索を中心にした理屈っぽい創作を書いたようである。いま、引用のための書き写しを始めて、最初と最後くらいしか覚えていなかったことに気づいた」という注を記している。

 「君はいま何を考えていた?」
 照りつける陽光を受けて、それを豊富な葉の間に抱え込んだポプラの木々が微笑むように立ち並ぶ人道を、しばらく無言で歩いて来た常夫は、ケートにこう聞いた。
 「……」
 ケートは歩きながら、行く手の彼方に霞んで横たわる山の辺りへ向けていた青い瞳をちょっと彼の方へ転じたが、黙っていた。終点で折り返す電車の音が、彼らの後ろの空気を揺すって遠ざかった。
 常夫は続けた。
 「高校の国語の教科書に、確か『ことばの論理』という章があった。そこにポーとモンテーニュのことばが出ていたね。ポーはその中で、『考える、ということばを聞くけれど、私は何か書いているときのほか、考えたことはない』というモンテーニュのことば――『モンテーニュだか誰だったか忘れたが』と書いてあったようだが――そんなことばを引用していた。もしも、これが君の場合にも当てはまるならば、こうして歩いているときに、何を考えていたかと聞くことは、無意味だったかも知れないね。」
 これを受けて、ケートが口を開いた。
 「ポーがいおうとしたことは、引いていることばの直接的な意味ではないのじゃないでしょうか。つまり、ペンを手にしていないときは、どんな考えも――もちろん思想的な深みのある考えという意味での『考え』だけど――どんな考えも浮かばないということではなくて、思想は浮かびさえすれば、そして、それが本当の思想であれば、必ずことばで表せる、ということだと思います。そうだとすれば、あなたの質問は、まんざら無意味なものではなかったことになります。」
 「なるほど。それは君のいう通りだ。教科書のその次にあったモンテーニュの文は、『明瞭なる概念には、ことば直ちに従う』というホラチウスのことばを敷衍したものだった。
 「ところで、同じ国語の教科書の、『小説入門』から取られた文章だったかの中に、ことばは感情を規格化し、非個性化するものだ、とあっただろう。そこにも誰かのことばが引用されていた。そう、ヴァレリーだ。『本当に個性的な経験には、それを表現することばはない』と。これを読んだとき、ぼくは、それまで考えていながら、ただ巧みに表現出来なかったことが代弁されたように感じたよ。
 「だって、そうじゃないか。大きな感動をした瞬間に、人は何をいうことが出来ようか。しかし、その人はその瞬間に一つの経験を得て、新しい思想を形成するに違いない。だが、こう考えると、先のポーやモンテーニュと矛盾するようだ。」
 「何もいえないってことは、実際にありますね。だけど、瞬間的な経験がすぐに思想の形成にはならないでしょう? 思想ってものは、経験を積み重ねたあとで、その堆積物に推理のノミで彫りつけるようなものじゃないでしょうか。そうして出来上がる彫り物は、他の人たちから客観的に理解されるものでなくちゃいけないでしょう?」
 「……君は、お父さんが理論物理学者だけあって、すべてを数字に置き換えるような、なかなかきちんとした考え方をするんだね。……」
 常夫は角帽を脱いで額の汗を拭おうとし、ポケットからハンカチを取り出した。すると、ハンカチと一緒に一枚の紙片がついて来て、はらりと歩道へ落ちた。それが空中で一度ひるがえるのを見た常夫は、読書中に抜き書きしたメモだったことに気づき、かがんでそれを拾った。メモには「最も貴重なものは、人間の孤独な心のうちにある――スタインベック」とあった。
 ケートの靴はこつこつと石畳を打って、両のかかとが一直線上を進む進み方で、常夫より数歩先へ出た。彼女の足を後ろから見ながら、常夫は、靴音の快い響きが、あたかも、割り切った考えを生む彼女の頭の働きと彼女の身体の軽快さをそのまま表しているように思った。追いつきながら、常夫は話を続けた。
 「しかし、君は、ことばの論理性を主張しようとするのだろうか。そうだとすれば、いまのたとえでは不十分だね。君は、正しい思想とは、客観的で明快なものに練り上げられていなくてはならないということを述べはしたが、ことばがそれを表現する道具として十分な機能を備えているかどうか、それが問題だ。」
 「そうでしたね。でも、その問題には、たやすく答えられます。あなたは、ヴァレリーのことばがあなたのお考えを巧みに表したものだっておっしゃったでしょう。それは、一つの難しい思想が、ことばでうまく表現出来た例じゃない? あなたがヴァレリーのことばを見つける前に表現出来なかったってことは、ただ、こういっちゃ悪いけど、あなたがそのことばを自分で探し出す労苦を払わなかっただけのことだと思うけれど。」[つづく]

2013年10月8日火曜日

Sam の創作「橋」への感想 (4)


友人たちとの文通記録

Ted から Sam へ: 1959 年 12 月 29 日[つづき]
「私がここでこの欄干といっしょに落ちて死ねば、市でも代りの丈夫な欄干を急いで作ってくれるだろうと思ったものですから。」
と晴子がいうところには、鋭い社会批評の片鱗が見られて、ここは私がこの作品の中で一番面白く思ったところである。また、この作品の中では、この前後の、ほとんど発端というべきところが、同時に山になってしまっていると思われる。

 君の文章の傾向について、「コント風の味がある」というようなことを、私は以前に書いたことがあるが、この作も、後半は、君独特の軽妙な奇知で、さっと流されている感じだ。欲をいえば、軽妙過ぎて、深みがとぼしいということになる。

 他にもいくつか気づいた細かい点は、この感想を君に渡すときに口頭で伝えよう。(注 1)[完]
引用時の注
  1.  54 年も前に自分の書いたこの感想を、いま読み返してみると、「細かい点は、[…]口頭で伝えよう」といいながら、書いてあることも、かなり細かい点ばかりという気がする。主題は何で、それがどう扱われていて、その効果がどうか、という大局的な感想が欠けている。第三者(54 年後の私も第三者である)が読むことを意識して書いてはいないので、読んで作品の筋が理解出来ないことは、ある程度止むを得ない。しかし、ヒロインが自殺を考えたのは、深刻なテーマのはずであり、それに対する感想を中心に据えるべきではなかったか。「軽妙過ぎて、深みがとぼしい」は、ある意味では、全体的な感想だったのだろうが…。
     Sam の高校 3 年のときの創作への感想を掲載したついでに、消滅したブログに一度掲載した、私の同時期の創作「逍遥試し」を再掲載しようと思う。

2013年10月7日月曜日

Sam の創作「橋」への感想 (3)


友人たちとの文通記録

Ted から Sam へ: 1959 年 12 月 29 日[つづき]
「それはまた…。何故死にたくなったのですか。」
「つまりは、生きることに対する望みを失ったからです。生きていれば周囲の人々に迷惑をかけるばかりですが、こうして死ねば、それによっていくらかの人でも不安や不幸から救うことができるかも知れません。」
という会話が橋のところでなされている。そして、二日後に彼らが会ったとき、
「もしお逢いできたら何故死にたがっていられるのか、もっと突きとめて、そうしないように注意しなければと思っていました。」
という言葉が出て来るのは、読者にちょっと奇妙な感じを抱かせる。「もっと突きとめて」という言葉で、橋のところでの晴子の答えよりも、もっと詳しい具体的原因にさかのぼって聞きたいことを意味しているのだと分らなくはない。しかし、「何故死にたがって」いるかについては、「つまりは」といってだが、相当明瞭な答がすでに与えられ、また、その原因の一端を構成していると思われる彼女の家庭の事情も、喫茶店で話されているのだから、ここでは表現を変えて、「何故生きることに対して望みを失われたのか」とでもした方がよいと思う。——あの頃に君に、デートの場所としての喫茶店の内部の描写が出来たとは、これを読むまで気がつかなかった。——

 「思う」と「考える」の区別については、たとえば、大まかにいって、対象が単純あるいは単一事象である場合には前者、対象が複合的、発展的な石は組み合わせ的な場合には後者、などという考察が出来るのではないだろうか。一雄に「きっと区別は難しいに違いない」といわせているのは投げやり的な感がある。「言葉は思想表現のための便法」(注 1)とはいっても、やはりそれは思想の最も信頼すべき伝達手段の一つであり、ある程度の明確な区別を伴わせて使用することが必要であろう。したがって、「難しい」ですまさないで、区別を探ってみることにも意義はあるだろう。[つづく]
引用時の注
  1. われわれが高校 1 年生の終りに近い 1952年 1 月 26 日の交換日記に、Sam は次のように書いていた。
     「礼儀作法の規則を定めなければならなかったのは、普通あまりにも安っぽすぎる世間の社交のひんぱんな会合を我慢ができるようにし、おおっぴらにけんかをしないようにするためだ」「他人とつきあっていては、最善の人と交わるにしても、やがて飽きがくるものだ」といった Henry David Thoreau の言葉には、たしかに一面の真理がある。
     さらに、「まして私たちは、めいめいの心の奥に、ことばなどでは表現できない深いものを秘めているのだ。そういうものと親しく触れあいたいと思うなら、私たちは沈黙するだけでなく、とても声が聞こえないくらいに、からだとからだとが遠く離れていなければならないのだ。これを標準とすれば、談話というものは、要するに耳の遠い人たちのための方便なのである」とあるのを読むにいたっては、ほとほと恥ずかしくなった。Ted にもっとしゃべるようにといったことが、いかにもぼくの無思慮を暴露したみたいだ。
     だが、なかなか難しいよ。ぼくはまだまだ方便に頼らなければならない。
    「言葉は思想表現のための便法」という言葉は、上記の Henry David Thoreau の文(Sam の学校の国語の教科書にでもあったのだろうか)から来ており、私が高校 3 年のときに書いた短編小説「逍遥試し」でも取り上げていた。

2013年10月6日日曜日

Sam の創作「橋」への感想 (2)

友人たちとの文通記録

Ted から Sam へ: 1959 年 12 月 29 日[つづき]

 私の記憶に間違いがなければ、私が高校三年の夏休みに書いた、大学生の常夫と、あいの子のケートのみが登場人物である、小説というよりは小説的粉飾をわずかにまとった対話形式の小論文といった方がよい作品(注 1)の冒頭も、佐武のこの作品と同じ言葉で始まっていたか、あるいは、その冒頭近くに、この言葉があったようだ。私(当時の私に筆名を与えるとすれば、江二辛苦ぐらいのところか)(注 2)の作品にどのような思想を盛り込んだのだったか、もう十分よくは覚えていない。佐武の「橋」と江二の「逍遥試し」の初めの部分を並べて比較してみたいが、後者はいま、私の手もとにはないので、それを詳しく行なうことは出来ない。(注 3)

 織女橋という固有名詞が出現することは、Vega というニックネームの少女が登場する江二の「夏空に輝く星」(注 4)とも、この作品が姉妹的なつながりを秘めていることを示していて面白い。一雄の言動は、当時の佐武をほうふつさせる。二人のカズオは、どちらも作者の分身のような感じだが、彼らの性格は、原子の周囲の電子の運動状態において縮退している二つのエネルギー順位が、外部磁場の作用によって上下に分かれるような感じで、陽と陰、積極と消極の僅かの差を与えられ、簡潔にだが、要所要所でよく書き分けられている。一雄の特徴的な笑声は効果的である。
「エーッ!」気合いを掛けて彼女が橋の欄干を越えて川の中に落ちていったのではない。駈けてきた二人が驚いて発した間投詞である。
というところは、人をくいすぎた書き方、というより、この作品の他の部分との調和を保っていない、ナンセンス漫画的感覚の文章である。
晴子は、一昨夜、海王小学校の校庭で右足をを前方に軽くあげると同時に両手を叩く動作をする時に、左足がよろめいて、見ている人達の方へ転びそうになった時のような顔をして言った。
というのも、当時われわれがときどき使用しあった形容様式であり、その様式としては一つの傑作だが、ここではもっと簡潔にした方が、「まあ、カズオさん!」という言葉の響きを損なわないのではないかと思われる。[つづく]
引用時の注
  1. 題名はあとに記してある「逍遥試し」。夏休みの宿題として提出したこの作品は返却して貰わなかったが、下書きが交換日記に記されていた。何年か前にそれを読み返したところ、無口だった私の性格を合理化する「沈黙賛美論」のように思った。
  2. 実際の交換日記上での Sam のニックネームが Something であったのに対応して、私 Ted は Anything だった。
  3. 「逍遥試し」の冒頭は次の通り。Sam の作品は、同じ 1 行目を使って書き始めていたと思う。
     「君はいま何を考えていた?」
     照りつける陽光を受けて、それを豊富な葉の間に抱え込んだポプラの木々が微笑むように立ち並ぶ人道を、しばらく無言で歩いて来た常夫は、ケートにこう聞いた。
     「……」
     ケートは歩きながら、行く手の彼方に霞んで横たわる山の辺りへ向けていた青い瞳をちょっと彼の方へ転じたが、黙っていた。終点で折り返す電車の音が、彼らの後ろの空気を揺すって遠ざかった。
  4. 私の高校 2 年のときの作品。こちらでダウンロードできる。

2013年10月5日土曜日

Sam の創作「橋」への感想 (1)


友人たちとの文通記録

Ted から Sam へ: 1959 年 12 月 29 日
 引用に当たって:Sam は社会人としての 6 年目、私は京都で大学院修士課程 2 年に在学していた年の冬休み、私が帰省して Sam に会ったときに、彼は、高校 3 年のときに書いた創作が掲載されている校誌(あるいは生徒会発行の文芸誌)を初めて貸してくれた。彼の作品への感想を記した手紙を無罫の便箋に鉛筆書きで写したものが、日記代わりに保存してあったのを、ここに紹介する。
 上掲のイメージはその 1 ページ目である。ご覧のように、段落の区切りのない文(作品からの引用部分を除いて)が、2 ページ半ほども続く書き方で、全 4.5 ページにおよぶが、ここでは区切りをつけるなどして、読みやすくし、何回かに分けて掲載する。

 君の手紙にあった悩みのその後の心境について、「あきらめた」という返答を聞かされたのは、何だかあっけなくて興ざめだったが、その代わり、六年前の君の作品を読ませてもらえることになったのは、昨日の大きな収穫だった。

 題と筆名だけから、どれが君のものか見当がつくとのことだったから、まず目次で探そうとしたが、分りにくかった。それで、各作品の初めの一、二行に目を通してみることにした。

 「折口先生を偲ぶ」は問題外である。日記体の「いのち」は、ちょっと注意を引いた。初めの二行は、ひところの私の文章にかなり近い文体だ。しかし、君の匂いはあまりしない。この作品の最後のページを見ると、急性脳腫瘍などとある。これは違うだろう。次の作品は、ページを埋めている字づらが、全然、君の雰囲気ではない。読んでみるまでもない。

 それから少し何げなくとばして、この本の中ほどを開く。「アリャサッサッサ」とある。初めの一行はどうだろうと、ページを返すと、われわれの間でかつて交わされた言葉が出ている。「さたけ しんこう」と読んで過ごしそうな筆名だったため、目次では気づかなかったのだ。昨日の帰り道、当時の君の筆名ならば Something に関係がなければならないとは、考えていたのだったが。(注 1)[つづく]
引用時の注
  1. 高校時代の交換日記をブログへ引用する際に、S・M 君のニックネームを Sam としているが、実際に日記帳に書いていたのは Something、略して Some だった。彼は Something をもじって「佐武深紅」のペンネームで投稿したのである。

2013年10月4日金曜日

大晦日湯へ行く/Sam とぼくの十大ニュース


高校(1 年生)時代の交換日記から

Sam: 1951 年 12 月 29 日(土)雪、30 日(日)晴れ、31 日(月)雨

 歳末! 全身が綿になるようだ! From morning till night I worked and worked. 六日間のアルバイトによって、一千円を得た。うれしい。苦しみに幾倍かして、うれしい。生まれて初めてこんなに多額の金を得た!
 しかし、この六日間、雇われて働くこと意外に、何も出来なかったのは、みじめだった。が、よい体験だった。今年もあと二時間で過ぎようとするとき、開放されて、大晦日湯へ行く。
 年越しそばを年を越してから食べなければならないことになってしまった。百八つの鐘が静かに余韻を残して響く。今年を振り返って…、反省! 何もない。いや、出来ない…。



Ted: 1951 年 12 月 31 日(月)雨

 NHK の選んだ十大ニュース
  1. アジア競技大会
  2. マッカーサー元帥解任ならびにリッジウエイ司令官着任
  3. 桜木町事件
  4. 貞明皇后ご逝去
  5. 追放解除
  6. 民間航空再開
  7. 電力危機
  8. ルース台風
  9. 平和・日米安保両条約調印
  10. 社会党分裂
 Sam とぼくについての十大ニュースを選んでおこう。(注 1)
  1. ぼくが Sam を家に招き(1 月 3 日)、ぼくも Sam の家を訪れた(ある日曜日)。そして、紫中での英語や自習の時間に、問題などを書いた小紙片を交換し始めた。
  2. Sam が葉書によって、われわれの通信の契機を作った(4 月 10 日)。
  3. ぼくが「スターリン事件」と呼んだ出来事(4 月 10 日〜5 月 7 日)。
  4. われわれの通信にノートを使い始めた(4 月 25 日)。
  5. Sam がタイプの練習を始めた。
  6. ぼくが夏休みに京都と大阪へ旅行した。
  7. ぼくが Sam に「ホームルーム研究資料」の作成を依頼した。
「三つの歌」が面白くて、これ以上は出て来ないぜ。(注 2)
引用時の注
  1. この 10 大ニュースは英文で書いてあったが、拙いところがあり、ここでは和訳に変えた。
  2. テレビ放送はまだ始まっていない時代で、紅白歌合戦も新春番組として第 1 回が行なわれたばかりの年である。大晦日には、宮田輝アナウンサー司会による NHK ラジオの人気番組「三つの歌」の特別放送があったのであろう。ここに掲載した日記をもって、交換日記の第 10、11 冊目のノートを、余白を残して終了し、新しい年、1952 年には、 12、13 冊目の新しいノートで書き始めている。
     なお、Sam と Ted の交換日記をブログに掲載することは、プロバイダーの事故でインターネット上から消滅した旧 "Ted's Coffeehouse" サイトで、この大晦日の日記から始めたのだった。そして、高校卒業までを掲載し終え、高校 1 年生の未掲載部分へ戻って続けていた。消滅したサイトを、現 "Ted's Coffeehouse 2" サイトに復旧することを試みたものの、交換日記については、目下、高校 2 年生だった 1952 年 11 月 8 日までしか出来ていない(こちらから年月日の逆順でたどって、ご覧になれる。ただし、掲載当時の他のブログ記事も混在する)。しかしながら、未復旧の部分は、私のハードディスクには存在するので、交換日記をディジタル化する目的はこれで達成出来たことになる。したがって、本サイトでの交換日記の掲載はこれで終了し、今後は、友人たちと交換した手紙などを掲載することにする。引き続きご愛読いただければ幸いである。

2013年10月3日木曜日

辻占売りの拍子木を打つ音


高校(1 年生)時代の交換日記から

Ted: 1951 年 12 月 29 日(土)雪、30 日(日)晴れ

 大したこともしていないのに、時間が不足だと感じる。

 午前 Octo が英語の宿題(To write a brief biography of a great man or woman)を持って来て、見てくれという。Frantz Liszt について書いてあった。このピアノの名演奏家の名を無断で借り、彼の後継者であると広告して演奏しようとした婦人を Liszt は許した上に、彼女にピアノを教えたというエピソードが書かれていた。三、四箇所直してやったあと、解析、国語、英語の教科書を次々に出して、少し話し合う。Octo や Twelve の家へぼくが行ったときよりは、彼らがぼくの家へ来たときの方が、沈黙の時間を少なくする、あるいは完全になくすることがしやすいのは、なぜだろう。(注 1)
 Octo は帽子を被って来ることを忘れたのを忘れて、「あっ、帽子忘れた」と、ぼくの部屋へ戻りかけた。これは Twelve も学校でときどきやる失敗だ。

 母の微熱が続く。
 辻占売りの拍子木を打つ音が聞こえる……。(注 2)
引用時の注
  1. 「ホームグラウンド」の気安さで、連想がよく働き、無口な私も話題を見つけやすかったのだろう。
  2. 辻占売りといえば、太平洋戦争中の幼年時代に講談社の絵本で読んだ乃木希典の伝記に、辻占売りをしていた親孝行な少年を乃木将軍が助けたという明治時代の話があったのを思い出す。戦後もまだ、辻占売りがいたのだろうか。

2013年10月2日水曜日

トランプやリレー小説で遊ぶ


高校(1 年生)時代の交換日記から

Ted: 1951 年 12 月 28 日(金)曇り

 午前十時から午後五時十分まで。家を忘れるほど、こうして遊ぶことの出来るのは、沢山の書物がつまっていて天井の低い Lotus の部屋と、もとの Jack の家付近から遥かに眺めると、からになって台所の隅にぽつんと忘れられているマッチ箱のように見える Tacker の家とである。(注 1)
 Lotus の家へは、ぼくが最初に行き、Jack が最後に来た。Lotus は、生物の宿題でノートを一冊使ってしまいそうだといって、親指と人差し指の先に力を入れて 4H の鉛筆を真っすぐに立てるいつもの握り方で書いたに違いない、美しいノートを見せてくれた。
 Kies が持って来たトランプと彼が提案したリレー小説で時を過ごす。西洋紙を半分に切って、五つに折り、自分の前の順番の一人分だけを読んで書きつなぐこの遊びでも、Lotus の筆は冴えていた。午前に一回と午後に三回これをしたが(その間にトランプ遊びやうどんの昼食が入る)、終りに近づくに従って、Jack や Kies は Lotus を困らせる内容のものを書き始め、「誰が誰といつどこで…」と結果的にはあまり変らない遊びになって行くきらいがあった。
 初めに出た登場人物を最後まで受け継がせることが、しばしばうまく行かない。Kies が書き始めた、フランスの植物学者を叔父に持つビルとフランクの話が、Octo によって日本の生徒の話に変えられたり、Octo が書き始めた、ぼろ服姿のイギリスのローベルト少年が、ぼくによって、片目が不自由な幼児に出会って、二十ルイというフランスの金を与える話になったりする。Lotus が書き始めて、ぼくが結びを書いた、志郎と奈美子の物語は、一つのまとまりを持った少ない作の中でも、優れたものだった。ぼくがスタートを切った、桶屋の六助と空腹の物語は、Lotus が半ば理論的なユーモアで続けたのに、Jack に至って、主人公が年末大売り出しの宣伝マンという仕事をすることになり、前半と後半が別の話になってしまった。
引用時の注
  1. この冬休みの前半、Sam が毎日くたくたに疲れるようなアルバイトをしていたのに、私は毎日のように遊んだ話を書いていた。Sam のアルバイトの日記をまだ目にしていなかったとはいえ、悪いことをしたものだ。

2013年10月1日火曜日

紡績工場の餅つき


高校(1 年生)時代の交換日記から

Sam: 1951 年 12 月 28 日(金)曇り

 生まれて初めて大和紡績の中へ入る。きれいなのに驚いた。たくさんの女工がいる。みんな健康そうだ。
 一メートルもあると思われる大きなシャモジで、数斗は入ると思われる釜の飯をかき回している。ずらりと並んだ食器、食器、食器。
 きょうは、ちょうど餅つきだという。しかし、初めは、ペッタンペッタンという音がしないので、そうとは気がつかなかった。製粉機で餅をつくとはね。変れば変るものよ。