「いや、少し別々に歩いてみるのだ。何かよいことがあるかも知れない。」
と常夫は答えた。
「変な『かも知れない』ね。どうして?」 ケートはハンカチで胸を扇いだ。
「ちょっと思いついたんだ。」
「とんでもない思いつきね。せっかく一緒に来たのに。」
「いけないかい? ここから三、四十分だったね。いつか行った K 川上流の、君の命名による『リップの円形劇場』までは。君はここを真っすぐに行くんだ。ぼくは、この裏の小道をたどってみるから。」
常夫は神社の後ろの竹やぶを指さしていった。
「じゃあ、仕方がないワ。一人で考えごとがしたいのでしょう。」
ケートの靴音は、常夫の耳の中で笹のかすかなざわめきに変わった。
× × ×
雲の影がウリ畑を走る。ハスの葉が裏と表を交互に出し隠しして揺らいでいる。《自分のいまの頭の中の様子は、どう呼ぶべき状態なのだろう》と考えた常夫は、思わず一人で手を打った。新しい考えに触れ得たように思ったからである。《ケートと別れて歩き始めて、いま、ようやくことばを秩序正しく頭に並べたように思う。といっても、頭がずっと働いていなかったのではない。まず、ごろごろしていた、まとまらない考えを溶かし、沈殿させ、思惟という作用をする頭の中の溶媒を透明なものにした。透明になった溶媒は、写真の感光板のように、外界のさまざまなものをありのままに捕らえる働きを持つのだ。その働きが続いていたのだ。その働きの効用は、…
《…創造の糧を蓄積することに違いない。創造! そうだ。なぜ、この単語をいままで忘れていたのだろう。創造といっても、無から有を生むことではない。創造の第一段階は、その材料の摂取だ。第二段階では、それを何かの道具でこねる。第三段階でも何かの道具で、おおよその形を刻み込む。第四段階で始めて創造の作品が完成する。第二、第三の段階で使う道具とは、何だろうか。…
《感光板の働きをする溶媒のことに戻って考えなければ…。これが取り込むものは、…光だ。あらゆる波長の光のいろいろな組み合わせだ。われわれが周囲の物体の中から何か一つを選び、その色を、たとえばそこにあるカボチャの葉ならば、『緑』というように、目を閉じている相手にただ一言で伝えようとしても、相手にこれと全く同じ色を想像させることが出来ないと同様に、それらの光、すなわち、われわれの頭の中へ入って来るいろいろな事象も、ことばだけで完全に捕らえることは出来ないだろう。
《創造しようとするものが、ことばの集合体、つまり文章である場合、文章の中でも、とくに、直接思想の加わらない叙景文ならばどうだろう。目に映るものを片っ端から、ことばに変える。それで叙景文が出来るだろうか。出来ないのだ。結果がすべてことばとしてのみ現れる創造の場合でさえ、ことばで作り上げられる以前に何らかの工程を経なければならないのだ。そして、この工程は、それなしには何も創造されないという重要なものだ。これが創造の第一義的なものなのだ。だから…》
常夫は小川をまたいだ。《だから、ここに、ことばも方便に過ぎない場合というものがあるのだ。創造の基本がそれだ。『人類は、ものを創造することが出来る唯一の種』ということを、どこかで読んだように思う。創造は、恐らく、人類の持つ最高の能力だろう。最高の能力の発揮において、ことばが第二義的なものになる。…ありそうなことだ。私の推論は、正しく進んで来ているらしい。しかし、いま何か一つ、未解決のものを残して来たようだった。何だっただろうか。…》涼しい風が常夫の頬をなでた。道は狭く、草深い。
《…ケートは何を考えて歩いているだろうか。…おや、これはポプラ並木の歩道で彼女に尋ねたのと同じ質問じゃないか。結局、この質問のために、きょうの逍遥に厄介な『ことば』の考察の重荷を背負う羽目になった。…いつかこんなことを考えたことがある。父が日本人で母がアメリカ人のケートは、ものを考えるときに何語の方を多く使うのだろう、と。これはまだ尋ねてみていないことだが、案外、ことばを使わないで考えているということも、われわれには多いように思われる。…こういうことを考えると、妙な意識が生じて、考えつつあることが次々にことばになってしまうが…。
《先に考えた、まとまらない考えの沈殿、考察の溶媒の透明化、そして、創造の糧の蓄積、これらは思想その他のものの形成・展開以前の段階だった。しかし、ことばを使わないで考えている、もしくは、映像を『展開させ』ているといえる別の経験的事実は、何を意味するだろう。》急な上り坂になった。急なはずだ。常夫のたどる小道は一気に崖を五、六メートル駆け上がって、小高い丘の上へ連なっている。常夫は半分ほど昇ったところで、前へ出した足の膝へ手をのせて、丘の上を見た。空は暗くなっている。来た方を振り返った。灰白色の雲が青空をどんどん呑み込んで行く。《降りそうだ》と思った。[つづく]
と常夫は答えた。
「変な『かも知れない』ね。どうして?」 ケートはハンカチで胸を扇いだ。
「ちょっと思いついたんだ。」
「とんでもない思いつきね。せっかく一緒に来たのに。」
「いけないかい? ここから三、四十分だったね。いつか行った K 川上流の、君の命名による『リップの円形劇場』までは。君はここを真っすぐに行くんだ。ぼくは、この裏の小道をたどってみるから。」
常夫は神社の後ろの竹やぶを指さしていった。
「じゃあ、仕方がないワ。一人で考えごとがしたいのでしょう。」
ケートの靴音は、常夫の耳の中で笹のかすかなざわめきに変わった。
雲の影がウリ畑を走る。ハスの葉が裏と表を交互に出し隠しして揺らいでいる。《自分のいまの頭の中の様子は、どう呼ぶべき状態なのだろう》と考えた常夫は、思わず一人で手を打った。新しい考えに触れ得たように思ったからである。《ケートと別れて歩き始めて、いま、ようやくことばを秩序正しく頭に並べたように思う。といっても、頭がずっと働いていなかったのではない。まず、ごろごろしていた、まとまらない考えを溶かし、沈殿させ、思惟という作用をする頭の中の溶媒を透明なものにした。透明になった溶媒は、写真の感光板のように、外界のさまざまなものをありのままに捕らえる働きを持つのだ。その働きが続いていたのだ。その働きの効用は、…
《…創造の糧を蓄積することに違いない。創造! そうだ。なぜ、この単語をいままで忘れていたのだろう。創造といっても、無から有を生むことではない。創造の第一段階は、その材料の摂取だ。第二段階では、それを何かの道具でこねる。第三段階でも何かの道具で、おおよその形を刻み込む。第四段階で始めて創造の作品が完成する。第二、第三の段階で使う道具とは、何だろうか。…
《感光板の働きをする溶媒のことに戻って考えなければ…。これが取り込むものは、…光だ。あらゆる波長の光のいろいろな組み合わせだ。われわれが周囲の物体の中から何か一つを選び、その色を、たとえばそこにあるカボチャの葉ならば、『緑』というように、目を閉じている相手にただ一言で伝えようとしても、相手にこれと全く同じ色を想像させることが出来ないと同様に、それらの光、すなわち、われわれの頭の中へ入って来るいろいろな事象も、ことばだけで完全に捕らえることは出来ないだろう。
《創造しようとするものが、ことばの集合体、つまり文章である場合、文章の中でも、とくに、直接思想の加わらない叙景文ならばどうだろう。目に映るものを片っ端から、ことばに変える。それで叙景文が出来るだろうか。出来ないのだ。結果がすべてことばとしてのみ現れる創造の場合でさえ、ことばで作り上げられる以前に何らかの工程を経なければならないのだ。そして、この工程は、それなしには何も創造されないという重要なものだ。これが創造の第一義的なものなのだ。だから…》
常夫は小川をまたいだ。《だから、ここに、ことばも方便に過ぎない場合というものがあるのだ。創造の基本がそれだ。『人類は、ものを創造することが出来る唯一の種』ということを、どこかで読んだように思う。創造は、恐らく、人類の持つ最高の能力だろう。最高の能力の発揮において、ことばが第二義的なものになる。…ありそうなことだ。私の推論は、正しく進んで来ているらしい。しかし、いま何か一つ、未解決のものを残して来たようだった。何だっただろうか。…》涼しい風が常夫の頬をなでた。道は狭く、草深い。
《…ケートは何を考えて歩いているだろうか。…おや、これはポプラ並木の歩道で彼女に尋ねたのと同じ質問じゃないか。結局、この質問のために、きょうの逍遥に厄介な『ことば』の考察の重荷を背負う羽目になった。…いつかこんなことを考えたことがある。父が日本人で母がアメリカ人のケートは、ものを考えるときに何語の方を多く使うのだろう、と。これはまだ尋ねてみていないことだが、案外、ことばを使わないで考えているということも、われわれには多いように思われる。…こういうことを考えると、妙な意識が生じて、考えつつあることが次々にことばになってしまうが…。
《先に考えた、まとまらない考えの沈殿、考察の溶媒の透明化、そして、創造の糧の蓄積、これらは思想その他のものの形成・展開以前の段階だった。しかし、ことばを使わないで考えている、もしくは、映像を『展開させ』ているといえる別の経験的事実は、何を意味するだろう。》急な上り坂になった。急なはずだ。常夫のたどる小道は一気に崖を五、六メートル駆け上がって、小高い丘の上へ連なっている。常夫は半分ほど昇ったところで、前へ出した足の膝へ手をのせて、丘の上を見た。空は暗くなっている。来た方を振り返った。灰白色の雲が青空をどんどん呑み込んで行く。《降りそうだ》と思った。[つづく]
0 件のコメント:
コメントを投稿