2013年10月7日月曜日

Sam の創作「橋」への感想 (3)


友人たちとの文通記録

Ted から Sam へ: 1959 年 12 月 29 日[つづき]
「それはまた…。何故死にたくなったのですか。」
「つまりは、生きることに対する望みを失ったからです。生きていれば周囲の人々に迷惑をかけるばかりですが、こうして死ねば、それによっていくらかの人でも不安や不幸から救うことができるかも知れません。」
という会話が橋のところでなされている。そして、二日後に彼らが会ったとき、
「もしお逢いできたら何故死にたがっていられるのか、もっと突きとめて、そうしないように注意しなければと思っていました。」
という言葉が出て来るのは、読者にちょっと奇妙な感じを抱かせる。「もっと突きとめて」という言葉で、橋のところでの晴子の答えよりも、もっと詳しい具体的原因にさかのぼって聞きたいことを意味しているのだと分らなくはない。しかし、「何故死にたがって」いるかについては、「つまりは」といってだが、相当明瞭な答がすでに与えられ、また、その原因の一端を構成していると思われる彼女の家庭の事情も、喫茶店で話されているのだから、ここでは表現を変えて、「何故生きることに対して望みを失われたのか」とでもした方がよいと思う。——あの頃に君に、デートの場所としての喫茶店の内部の描写が出来たとは、これを読むまで気がつかなかった。——

 「思う」と「考える」の区別については、たとえば、大まかにいって、対象が単純あるいは単一事象である場合には前者、対象が複合的、発展的な石は組み合わせ的な場合には後者、などという考察が出来るのではないだろうか。一雄に「きっと区別は難しいに違いない」といわせているのは投げやり的な感がある。「言葉は思想表現のための便法」(注 1)とはいっても、やはりそれは思想の最も信頼すべき伝達手段の一つであり、ある程度の明確な区別を伴わせて使用することが必要であろう。したがって、「難しい」ですまさないで、区別を探ってみることにも意義はあるだろう。[つづく]
引用時の注
  1. われわれが高校 1 年生の終りに近い 1952年 1 月 26 日の交換日記に、Sam は次のように書いていた。
     「礼儀作法の規則を定めなければならなかったのは、普通あまりにも安っぽすぎる世間の社交のひんぱんな会合を我慢ができるようにし、おおっぴらにけんかをしないようにするためだ」「他人とつきあっていては、最善の人と交わるにしても、やがて飽きがくるものだ」といった Henry David Thoreau の言葉には、たしかに一面の真理がある。
     さらに、「まして私たちは、めいめいの心の奥に、ことばなどでは表現できない深いものを秘めているのだ。そういうものと親しく触れあいたいと思うなら、私たちは沈黙するだけでなく、とても声が聞こえないくらいに、からだとからだとが遠く離れていなければならないのだ。これを標準とすれば、談話というものは、要するに耳の遠い人たちのための方便なのである」とあるのを読むにいたっては、ほとほと恥ずかしくなった。Ted にもっとしゃべるようにといったことが、いかにもぼくの無思慮を暴露したみたいだ。
     だが、なかなか難しいよ。ぼくはまだまだ方便に頼らなければならない。
    「言葉は思想表現のための便法」という言葉は、上記の Henry David Thoreau の文(Sam の学校の国語の教科書にでもあったのだろうか)から来ており、私が高校 3 年のときに書いた短編小説「逍遥試し」でも取り上げていた。

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