2013年10月16日水曜日

Sam と Ted の写真


 Sam(向かって右手前)と Ted の 1959 年(24 歳)の写真。夏休みに女性の友人たちを誘って旅行したときのもので、場所は志賀高原あたり。Minnie にその友人を連れて来るように誘ったのだが、彼女の友人たちは誰も都合がつかなくて、Sam が彼女の話し相手にと、彼の上司のお嬢さん(Sam の後方に半分見える女性)を誘った。Sam のカメラで Minnie が撮影。Sam の頭上に、遠方の家が小さな帽子のように乗っかってしまった。

2013年10月15日火曜日

日頃の異常な精神の現れの一部


友人たちとの文通記録

Sam から Ted へ: 1959 年 10 月 10 日[つづき]

 時計は午前二時を指している。表通りの騒音もようやくおさまって、風の音と、ときどき通る車の排気音や遠い汽笛の音が聞こえてくる。ここ数日、昼と夜をとり違えたような生活をしており、それが焦慮感となって、普通以上に不安な気持を加えていたが、いま初めて、落ち着いた気分になる。まったく、君の手紙によるところ大である。昼は働き、夜は寝なければならないという固定的な概念、一つの習慣としてきたものが、絶対的なものではない、ということを体得しただけでも素晴らしい。もちろん、不規則で不健康ではあるが、夜は寝るためにだけあるのではないということを再発見したことに意義がある。歴史は、夜作られなければならないのだ。
 取り止めのないことを書いたが、幾分異常な精神が作用している、あるいは、日頃の異常な精神の現れの一部としておこう。
 夏休みの旅の締めくくりを同封しておくから、読んでもらおう。楽しい旅だったと思う。「おおジグリー」
(注 1)も「エルベ川」(注 2)も「若者よ」(注 3)も正しく歌えるようになったが、「先生」には聞いてもらう機会がまだない。「ユーカリ」(注 4)へも、君がいない間は、まず訪れることがないように思う。明日から関東へ旅に出る。
 いろいろな意味でありがとう。

 一〇月一〇日
S 拝
達夫君
[完]
引用時の注
  1. こちらにある「ジグリー」のことだろう。当時私は歌を歌うことが好きでなく、あとにある「先生」こと、われわれと中学同期の女性(高校時代の日記に Minnie のニックネームで登場)の指導をちゃんと受けていなかったばかりでなく、指導があったことさえも覚えていなかった。「先生」が列車の中で「Oh My Darling Clementine(いとしのクレメンタイン)」こちらでは、これが主題歌であった映画『荒野の決闘』のシーンをバックに歌われている。日本版歌詞「雪山讃歌」こちらに両歌詞が掲載・比較されている)を英語で口ずさんでいた記憶はあるのだが…。
  2. こちらの YouTube 動画で聞ける。
  3. この歌は知っている。こちらに YouTube 動画が、こちらに歌詞と楽譜がある。
  4. 私の大連時代の幼友だち姉妹の姉のほうが、彼女の夫と一緒に金沢の中心街・香林坊の近くで、この年の夏に開店し、しばらく続けていたスタンドバー。私が夏休みの帰省中に Sam を誘って一度訪れた。

2013年10月14日月曜日

人生はこれでよいのか


友人たちとの文通記録

Sam から Ted へ: 1959 年 10 月 10 日
 引用に当たって:先に 私 Ted が 1959 年 12 月 29 日付けで書いた Sam への手紙を掲載した。その主題は、Sam が高校 3 年のときに書いた創作を読ませて貰っての感想だったが、冒頭に、「君の手紙にあった悩みのその後の心境について、『あきらめた』という返答を聞かされたのは、何だかあっけなくて興ざめだったが、…」とあった。Ted がここに言及している Sam からの手紙に相当すると思われるのが、以下に引用するものである。社会人となって 6 年目の Sam が Ted からの手紙を受けて、返信として書いたもので、黒に近い青インクで便箋 4 枚半に及んで綴られている。句点の追加など、読みやすくするための若干の変更を加えて引用する。Ted は友人たちへの手紙をおおむね日記帳などに下書きしていたが、この返信のもとになった Sam への手紙の下書きは、なぜか見つからない。
 泥の中の眠りから、いま目覚めたところだ。太陽は、やがて西に沈みかけようとしている。よい眠りからは平安と充足が得られるものだが、このような眠りの後には、一種の空虚さが身にしみる。無目的で不確かな生活の連続は、人生を怠惰にする。
 旅行の最終コースを終えて列車に乗るとき
(注 1)、ほっとした安堵とともに、例え難い空白が去来する。明日からの仕事に対するわずらわしさではなくて、人生はこれでよいのかという疑問が頭をもたげてくるからだ。仕事に追われ通しのときは、それすら心に浮かんでこないのだが、このようにして、心にややゆとりが生じたときに、この疑問のためにかえって落ち着かない気持になる。
 このままの生活が、二年も三年も、いや、もしかすると一生続いて、そして淋しくこの世を去らなければならないのだろうか。そして、一、二年もすれば、誰もが永久的に忘れ去ってしまうであろう。選ばれた一部の人たちのように、その人の社会的功績が歴史を通じて語り伝えられるということがなければ——。
 そのように努力し、優れた才能を発揮することは不可能でないかもしれない。だが、現状からして、それをどうして行なえばよいのか。一個の人間などというものは、水の分子のような存在にしか過ぎない。抗し難い一つのジャンルの中にありながら、それはそれなりに生き方をもってはいる。
 よろこび、あるいは悲しみも、小さな生活の中にすべて求めなければならないのだろうか。例えば、結婚、育児、それから、職業を通じて、いくらかの社会的貢献をすることなどに。
 そして、小説の舞台を求めるならば、広い社会層にわたる雄大さでなくて、悩める魂の奥深い淵を追求してみたい。小説のためには平凡さでなくて、強馬力の発電力を備えた頭脳と肉体を必要とする。単なる興味や酔狂で書けるものではない。一つの信念ある基盤にたって考察すること——。
(注 2)[つづく]
引用時の注
  1. Sam は大手旅行社に勤務し、この頃しばしば旅の添乗業務をしていた。
  2. この段落は、Ted が、「いま小説を書くとすれば、広範な人々が登場する、政治・社会の問題を含んだ雄大なテーマでなければならない」という意味のことを書いた(実際に小説を書きたいと思ってではなく、いろいろな問題に興味をもち始めていることの表現として書いたのだが)ことへの返答であろう。

2013年10月13日日曜日

Ted の高校3年のときの創作「逍遥試し」(5)

×     ×     ×

 《馬鹿なことを考えていたものだ》と常夫は思った。まだ、雨は降り出していなかった。《映像の展開ということを実験したようなものだった。いまさら実験するまでもなく、これは私の幼い頃からの癖ではなかったか。想念の逍遥、独りでいるときの想念の漫歩は…。いや、こういう習慣を持つのは、私ばかりではあるまい。私はその逍遥の中でいろいろな行動をした。よいものもあれば、悪いものもあった。しかし、常に新しいものだった。想念は、よかれ悪しかれ、いつも私の先導者だった。反省といったものも、これによって行われた。
 《これは明らかに、一つの道具だ。創造的な道具だ。――何だか分かりかけて来たぞ。――これが自由に働き得るのは、…》このとき、本当に雨が降って来た。常夫は腕時計を見てはっとした。ケートと別れてから一時間近く歩いていたことを知ったからだ。《彼女は、とっくに目的地へ着いて待っているだろう。もう少しだ。》彼は駆けた。


 谷川の音が聞こえて来た。ぽっかりと格好な入口が、びっしり立ち並ぶスギ木立の間に開けて、彼を迎えた。《おや? いない。》彼は重いものが胸に突き当たるのを感じた。谷川の流れは藍色になって、砕け、砕けて、足下を走っている。
 「ケート!」
と呼んだ。答えはない。
 雨と渓流のリズムだけが、つれなく続いている。
 暗いものが頭をかすめる。


 もう一度呼んでみた。すると、
 「ほほほ。」
という笑い声が、後ろから彼を捕まえた。
 「何だ。びっくりさせるじゃないか。」
 「あまり遅いからよ。」
 「川へでも落ちてしまったのかと思った。」
 「ずいぶん濡れたのね。」
 「君は、…いいよ、いいよ、…君はどうして濡れなかったのだ?」
常夫はケートがハンカチで顔を拭いてくれようとするのをさえぎりながら聞いた。
 「ほら、あそこに。」
 「なるほど。いい洞(ほら)があったね。」
 「ふふふ。…それ何?」
常夫が自分のハンカチと一緒にポケットからつまみ出した紙片を、彼女はとっさに取り上げた。常夫はそれを取り返そうとして手を伸ばした。
 「『最も貴重なものは人間の孤独な心のうちにある。』…あっ、これですね。こんな行動をわたしたちに取らせたのは。」
 「あ、そうだ。想像の糧をこねるヘラである想念の活動が可能なのは、『孤独』の中においてだ。なぜなら、そのヘラは、自らが握らないときには、ヘラとして働かないものなのだから。そのヘラを振るう工程が頭の孤独な逍遥だ。」
 「何を寝言のようなこといってるの。想像をこねるヘラだなんて。」
 「そう怒るなよ。…それで、ことばが理想的には方便に過ぎないとも考えられる、ということが分かるわけだ。」
 「少しも分かりません。」
 「まあ、いいさ。」
 「いえ、分かります。わたしが経験の堆積物を彫る『ノミ』といったのに似たものでしょう?
 「うーむ。それと同じかも知れない。ぼくは回り道をして、やっと君の考えにたどり着いたのだ。……」
 雲が切れて、彼らのささやかな「円形劇場」へ日が射し込んだ。雨は七色に輝きながら、軽く降り続けている。紙切れを媒介にしてケートと手を取り合っていたことに気づいた常夫は、《われわれは、いま、こうしてことばを使わないで語っている。そうすると、われわれはこの瞬間に何を創造していることになるのだろう。…そうだ。われわれの胸の中に…。いや、これは自分勝手な思いかも知れない。…》などと考えていた。(注 1)[完]

×     ×     ×

 この一文を S. M. 君 (注 2)に捧げる。――われわれの間の日記の交換によることばの生活から得た思索の最初の一成果として。――

×     ×     ×

 [以下は、この創作の下書きを記してあった Sam との交換日記の文章 ]
 最後の 2 行は、ちょっと体裁をつけるために表紙の裏に書くつもりのものだ。一成果というほどのものでもないかも知れないし、最初の成果でもないかも知れないが…。昨年「夏空に輝く星」を書いた後に記したようないろいろな弁解は書かないから、これを厳しく批判してくれ給え。(1953 年 8 月 9 日、8:10)
2006年にブログに掲載したときの注
  1. 薄紺色の文字の部分は、引用に当たって付け加えた。(下書きの出来た部分から順次原稿用紙に清書していたので、制限枚数20枚に近づいたことを知ったためか、完成を急いだのか、終りへ来てやや記述の飛躍、あるいは説明不足が目立った。)そのほか、言い回しについては、ところどころ修正をした。特に、ケートの話し方が「てよ・だわ式」になっていた部分は、1950年代にしても古風過ぎると思われたので、書き換えた。
  2. S. M. は Sam の本名の頭文字。

2013年10月12日土曜日

Ted の高校3年のときの創作「逍遥試し」(4)


 丘へ登ると、樹木の深く生い茂った小山の一カ所に、赤茶色の岩肌がむき出しになっているところが望まれた。その下辺りがケートの名づけた「リップの円形劇場」だったと、常夫は覚えている。常夫は急いだ。しかし、赤茶色の岩肌はなかなか近くならなかった。岩肌の上辺りの空は真っ黒だった。
 《銀色に輝いて踊り流れていた渓流も、周囲を取り巻いていた緑の照り返しも、滲み出る清水に潤されて細かい光を見せていた岩壁の濃褐色と淡黄色の縞も、きょうは、いつかほど陽気な姿ではないに違いない。あそこでは、もう雨が降り始めているかも知れない。だが、引き返すわけにはいかない。別れたときは、こんなことになるだろうとは、思いもかけなかったのだが…。私の頭の上にも、大粒の雨がいまにも落ちて来そうだ。ケートも空を気づかっているだろう。とにかく、急がなければ…。》
 さっと強い風が常夫のシャツをふくらませて吹いた。と、冷たいものが一つ、二つ、首筋や腕に当たった。次第に急テンポになった雨滴の落下は、ぽつりぽつりから、さーっという音へ、さらにごーっという唸りへ進んだ。あたりに君臨するものは、常夫たちの逍遥の始めに地上を光と熱で支配していた太陽を暴力で駆逐した不気味な雷鳴と、白く太い無数の棒となって地に突き立つ雨だった。常夫は夢中で足を動かした。シャツもズボンもずぶ濡れとなって、身体にへばりついた。激しい降り方だ。濡れながら、いや、叩きつけられながら、彼は突進した。
 そのとき、常夫は
 「田川さーん。」
と自分を呼ぶ声を聞いた。声の方へ全精力をふりしぼって走った。草を踏み倒し、樹木の間を分け、ただ、声をめがけて、道なき道を走った。
 「ケート!」
と常夫も叫んだ。
 「田川さーん!」「ケート!」
 「ケート!」「田川さーん!」
声は急ピッチで双方から近づいた。そして、しぶきを上げてぶつかった。
 「田川さーん。」「ケート。」
彼らは、ほっと息をついた。ケートの金髪は肩へ水を流していた。雨の凶暴さは少しも衰えを見せなかった。
 「どうしよう。」
 「どこかへ行かなければ。」
 「どこへ?」
 「どこでもいいから。」
 彼らは手をとって、小走りに走り出した。暗くて白い、不思議な、矛盾したような世界を、一つの塊になって彼らは走り抜けようとしていた。
 「あっ!」
と、ケートがかん高く叫んだ。常夫の右手がぐっと下へ引かれ、次の刹那に彼の足は宙にあった。……[つづく]

2013年10月11日金曜日

Ted の高校3年のときの創作「逍遥試し」(3)


 「いや、少し別々に歩いてみるのだ。何かよいことがあるかも知れない。」
と常夫は答えた。
 「変な『かも知れない』ね。どうして?」 ケートはハンカチで胸を扇いだ。
 「ちょっと思いついたんだ。」
 「とんでもない思いつきね。せっかく一緒に来たのに。」
 「いけないかい? ここから三、四十分だったね。いつか行った K 川上流の、君の命名による『リップの円形劇場』までは。君はここを真っすぐに行くんだ。ぼくは、この裏の小道をたどってみるから。」
常夫は神社の後ろの竹やぶを指さしていった。
 「じゃあ、仕方がないワ。一人で考えごとがしたいのでしょう。」
ケートの靴音は、常夫の耳の中で笹のかすかなざわめきに変わった。

×     ×     ×

 雲の影がウリ畑を走る。ハスの葉が裏と表を交互に出し隠しして揺らいでいる。《自分のいまの頭の中の様子は、どう呼ぶべき状態なのだろう》と考えた常夫は、思わず一人で手を打った。新しい考えに触れ得たように思ったからである。《ケートと別れて歩き始めて、いま、ようやくことばを秩序正しく頭に並べたように思う。といっても、頭がずっと働いていなかったのではない。まず、ごろごろしていた、まとまらない考えを溶かし、沈殿させ、思惟という作用をする頭の中の溶媒を透明なものにした。透明になった溶媒は、写真の感光板のように、外界のさまざまなものをありのままに捕らえる働きを持つのだ。その働きが続いていたのだ。その働きの効用は、…
 《…創造の糧を蓄積することに違いない。創造! そうだ。なぜ、この単語をいままで忘れていたのだろう。創造といっても、無から有を生むことではない。創造の第一段階は、その材料の摂取だ。第二段階では、それを何かの道具でこねる。第三段階でも何かの道具で、おおよその形を刻み込む。第四段階で始めて創造の作品が完成する。第二、第三の段階で使う道具とは、何だろうか。…
 《感光板の働きをする溶媒のことに戻って考えなければ…。これが取り込むものは、…光だ。あらゆる波長の光のいろいろな組み合わせだ。われわれが周囲の物体の中から何か一つを選び、その色を、たとえばそこにあるカボチャの葉ならば、『緑』というように、目を閉じている相手にただ一言で伝えようとしても、相手にこれと全く同じ色を想像させることが出来ないと同様に、それらの光、すなわち、われわれの頭の中へ入って来るいろいろな事象も、ことばだけで完全に捕らえることは出来ないだろう。
 《創造しようとするものが、ことばの集合体、つまり文章である場合、文章の中でも、とくに、直接思想の加わらない叙景文ならばどうだろう。目に映るものを片っ端から、ことばに変える。それで叙景文が出来るだろうか。出来ないのだ。結果がすべてことばとしてのみ現れる創造の場合でさえ、ことばで作り上げられる以前に何らかの工程を経なければならないのだ。そして、この工程は、それなしには何も創造されないという重要なものだ。これが創造の第一義的なものなのだ。だから…》
 常夫は小川をまたいだ。《だから、ここに、ことばも方便に過ぎない場合というものがあるのだ。創造の基本がそれだ。『人類は、ものを創造することが出来る唯一の種』ということを、どこかで読んだように思う。創造は、恐らく、人類の持つ最高の能力だろう。最高の能力の発揮において、ことばが第二義的なものになる。…ありそうなことだ。私の推論は、正しく進んで来ているらしい。しかし、いま何か一つ、未解決のものを残して来たようだった。何だっただろうか。…》涼しい風が常夫の頬をなでた。道は狭く、草深い。
 《…ケートは何を考えて歩いているだろうか。…おや、これはポプラ並木の歩道で彼女に尋ねたのと同じ質問じゃないか。結局、この質問のために、きょうの逍遥に厄介な『ことば』の考察の重荷を背負う羽目になった。…いつかこんなことを考えたことがある。父が日本人で母がアメリカ人のケートは、ものを考えるときに何語の方を多く使うのだろう、と。これはまだ尋ねてみていないことだが、案外、ことばを使わないで考えているということも、われわれには多いように思われる。…こういうことを考えると、妙な意識が生じて、考えつつあることが次々にことばになってしまうが…。
 《先に考えた、まとまらない考えの沈殿、考察の溶媒の透明化、そして、創造の糧の蓄積、これらは思想その他のものの形成・展開以前の段階だった。しかし、ことばを使わないで考えている、もしくは、映像を『展開させ』ているといえる別の経験的事実は、何を意味するだろう。》急な上り坂になった。急なはずだ。常夫のたどる小道は一気に崖を五、六メートル駆け上がって、小高い丘の上へ連なっている。常夫は半分ほど昇ったところで、前へ出した足の膝へ手をのせて、丘の上を見た。空は暗くなっている。来た方を振り返った。灰白色の雲が青空をどんどん呑み込んで行く。《降りそうだ》と思った。[つづく]

2013年10月10日木曜日

Ted の高校3年のときの創作「逍遥試し」(2)


 常夫は反論する。
 「といっても、それは単純な経験の思想化のときには当てはまるかも知れないが、複雑なものにも当てはまるとは限らない。」
 ケートが答える。
 「ことばは、ある意味では、物事を抽象化しますが、それが私たちの頭へ飛び込んで来るときには、複雑なものを伴っています。いわゆるニュアンスってものを含んで…。」
 「だが、…さっきから逆接のことばばかり使っていて悪いが、ニュアンスは、ことばが一人の人間の内部に収まっている間だけしか働かないと思う。われわれの一人一人が一つの単語に対して持つ感覚は、厳密にいって同じではない。個人ごとに特殊なものだ。そして、その特殊性は、ことばが表現手段として外部へ出されると同時に姿を消すのだ。特殊な感覚がことばの表面から姿を消せば、述べようとしたことがらの意味もほとんどが発散してしまうだろう。」
 「受け取る方で、また色彩を与えるでしょう。」
 「そこで、ゆがめられる可能性がある。」
 「人の感覚はそんなに違わないものよ。」
 「いや、人間は個性の動物だよ。」
 そういって、常夫は、自分たちが不思議な論争を始めていることを発見して驚いた。《ところで、私はこの論争において、どんな立場をとっているのだろう》と、改まった調子で考えた。空を見上げた。青空が灼熱しているかのように白っぽい。ただ、向こうの山に接している部分の空だけは、うす黒い雲でおおわれているが、それがかえって、いかにも夏らしい感じを与える。単調なアブラゼミの声が耳の奥深くで響く。眼前には、秋の好収穫を予想させるように、イネが波打っている。常夫とケートは、いつの間にか郊外へ出はずれていたのだ。
 《どうやら、私はことばによる表現の限界を主張する立場にあるらしい。》常夫は半分ひとごとのように、こう考えた。《そうすると、これは、最近の私が何とかして理解したいと思っている問題と大いに共通するところがある。…共通するばかりでなく、これが、その問題の解決の鍵になるとも考えられる。》
 常夫が考え込んでしまった様子を見てとったケートは、何もことばを返さなかった。常夫は議論を再開したいと思ったが、一度離した推論と会話の糸は、思うように引き戻せなかった。
 最近の常夫が理解したいと思っている問題とは、彼が武者小路実篤の『幸福者』を読んでいて目にとめた「師」の一言である。「師」は、真心を日常生活に生かし得るものにとっては、ことばは不必要だろう、とか、本当に合点がいく人にはことばは不必要だ、とか述べ、しかし、いまの世には、まだことばが不必要だということは許されず、多くの人はことばのご厄介になって始めて、自覚と信仰とを得るのだ、と切り返して、現実において「道をとく」ことが必要であることを説明している。常夫が注目したのは、ここで「師」がことばを一応方便視していることであった。
 理解を伴わないで話をうのみにすることを嫌う常夫は、現実においての必要・不必要はともかくとして、「師」がそういう考えを前提的に述べている根拠を把握したいと思った。そこには、ことばが不必要であることの深い意義が秘められているように思われた。不必要の意義を究めたものには、ことばをまれにしか使わないことが許されるのだ、というような気もした。それで、ますますその意義を掴みたいと思うようになっていた。
 常夫は考えながら歩いた。しかし、考えはすぐにはまとまりそうもなかった。《私が無意識に、ことばの限界を認める側に立っていたことは、ことばの方便性が少し分かりかけているということかも知れない。だが、あるものが、用途あるいは効果に限界があるというだけで、それを全然不必要と断定し得るだろうか。…限界の外に、真の使用目的があるならば、そういう断定も出来そうだ。…》これだけのことを、相当長くかかって考えた。したがって、常夫とケートは相当長い間、沈黙して、田や畑の間を、あるいは、まばらな人家の前を通り過ぎたのだった。
 ケートはべつに退屈しているようでもなかったが、常夫には、彼女と一緒に歩きながら黙っていることが重々しく意識された。彼は口の中が妙に乾くような感じを覚えた。
 とある古ぼけた神社の前へ来たとき、常夫は突然、
 「別れよう。」
といった。
 「えっ?」
ケートは目を尖らしたような表情で、驚きを示した。 [つづく]

2013年10月9日水曜日

Ted の高校3年のときの創作「逍遥試し」(1)

 再掲載に当たって:「逍遥試し」は、高校 3 年の夏休みに、形式と内容が自由で、原稿用紙の制限枚数 20 枚ということだけが決まっていた国語の宿題として書いたものである。最初は論文風の随筆を書くつもりだったが、制限枚数一杯までそういう形式で書ける自信がなかったので、短編小説にしたのだったと思う。そのため、先に掲載した Sam の同時期の創作「橋」に対する私の感想の中で自ら評したように、「小説というよりは小説的粉飾をわずかにまとった対話形式の小論文といった方がよい作品」となった。学校へ提出した清書は返却して貰わなかったが、Sam との交換日記の 1953 年 8 月 5〜9 日のところに下書きが残っていた。それを 2006 年に旧ブログサイト "Ted's Coffeehouse" に掲載したが、同サイトはプロバイダーの事故で消滅した。幸い私のハードディスクに控えを残してあったので、ここに再掲載することにした。前回 (1) を掲載したとき(2006 年 8 月 1 日)に、「大学生になった私自身を背伸びして想像し、それをモデルに、対話と思索を中心にした理屈っぽい創作を書いたようである。いま、引用のための書き写しを始めて、最初と最後くらいしか覚えていなかったことに気づいた」という注を記している。

 「君はいま何を考えていた?」
 照りつける陽光を受けて、それを豊富な葉の間に抱え込んだポプラの木々が微笑むように立ち並ぶ人道を、しばらく無言で歩いて来た常夫は、ケートにこう聞いた。
 「……」
 ケートは歩きながら、行く手の彼方に霞んで横たわる山の辺りへ向けていた青い瞳をちょっと彼の方へ転じたが、黙っていた。終点で折り返す電車の音が、彼らの後ろの空気を揺すって遠ざかった。
 常夫は続けた。
 「高校の国語の教科書に、確か『ことばの論理』という章があった。そこにポーとモンテーニュのことばが出ていたね。ポーはその中で、『考える、ということばを聞くけれど、私は何か書いているときのほか、考えたことはない』というモンテーニュのことば――『モンテーニュだか誰だったか忘れたが』と書いてあったようだが――そんなことばを引用していた。もしも、これが君の場合にも当てはまるならば、こうして歩いているときに、何を考えていたかと聞くことは、無意味だったかも知れないね。」
 これを受けて、ケートが口を開いた。
 「ポーがいおうとしたことは、引いていることばの直接的な意味ではないのじゃないでしょうか。つまり、ペンを手にしていないときは、どんな考えも――もちろん思想的な深みのある考えという意味での『考え』だけど――どんな考えも浮かばないということではなくて、思想は浮かびさえすれば、そして、それが本当の思想であれば、必ずことばで表せる、ということだと思います。そうだとすれば、あなたの質問は、まんざら無意味なものではなかったことになります。」
 「なるほど。それは君のいう通りだ。教科書のその次にあったモンテーニュの文は、『明瞭なる概念には、ことば直ちに従う』というホラチウスのことばを敷衍したものだった。
 「ところで、同じ国語の教科書の、『小説入門』から取られた文章だったかの中に、ことばは感情を規格化し、非個性化するものだ、とあっただろう。そこにも誰かのことばが引用されていた。そう、ヴァレリーだ。『本当に個性的な経験には、それを表現することばはない』と。これを読んだとき、ぼくは、それまで考えていながら、ただ巧みに表現出来なかったことが代弁されたように感じたよ。
 「だって、そうじゃないか。大きな感動をした瞬間に、人は何をいうことが出来ようか。しかし、その人はその瞬間に一つの経験を得て、新しい思想を形成するに違いない。だが、こう考えると、先のポーやモンテーニュと矛盾するようだ。」
 「何もいえないってことは、実際にありますね。だけど、瞬間的な経験がすぐに思想の形成にはならないでしょう? 思想ってものは、経験を積み重ねたあとで、その堆積物に推理のノミで彫りつけるようなものじゃないでしょうか。そうして出来上がる彫り物は、他の人たちから客観的に理解されるものでなくちゃいけないでしょう?」
 「……君は、お父さんが理論物理学者だけあって、すべてを数字に置き換えるような、なかなかきちんとした考え方をするんだね。……」
 常夫は角帽を脱いで額の汗を拭おうとし、ポケットからハンカチを取り出した。すると、ハンカチと一緒に一枚の紙片がついて来て、はらりと歩道へ落ちた。それが空中で一度ひるがえるのを見た常夫は、読書中に抜き書きしたメモだったことに気づき、かがんでそれを拾った。メモには「最も貴重なものは、人間の孤独な心のうちにある――スタインベック」とあった。
 ケートの靴はこつこつと石畳を打って、両のかかとが一直線上を進む進み方で、常夫より数歩先へ出た。彼女の足を後ろから見ながら、常夫は、靴音の快い響きが、あたかも、割り切った考えを生む彼女の頭の働きと彼女の身体の軽快さをそのまま表しているように思った。追いつきながら、常夫は話を続けた。
 「しかし、君は、ことばの論理性を主張しようとするのだろうか。そうだとすれば、いまのたとえでは不十分だね。君は、正しい思想とは、客観的で明快なものに練り上げられていなくてはならないということを述べはしたが、ことばがそれを表現する道具として十分な機能を備えているかどうか、それが問題だ。」
 「そうでしたね。でも、その問題には、たやすく答えられます。あなたは、ヴァレリーのことばがあなたのお考えを巧みに表したものだっておっしゃったでしょう。それは、一つの難しい思想が、ことばでうまく表現出来た例じゃない? あなたがヴァレリーのことばを見つける前に表現出来なかったってことは、ただ、こういっちゃ悪いけど、あなたがそのことばを自分で探し出す労苦を払わなかっただけのことだと思うけれど。」[つづく]

2013年10月8日火曜日

Sam の創作「橋」への感想 (4)


友人たちとの文通記録

Ted から Sam へ: 1959 年 12 月 29 日[つづき]
「私がここでこの欄干といっしょに落ちて死ねば、市でも代りの丈夫な欄干を急いで作ってくれるだろうと思ったものですから。」
と晴子がいうところには、鋭い社会批評の片鱗が見られて、ここは私がこの作品の中で一番面白く思ったところである。また、この作品の中では、この前後の、ほとんど発端というべきところが、同時に山になってしまっていると思われる。

 君の文章の傾向について、「コント風の味がある」というようなことを、私は以前に書いたことがあるが、この作も、後半は、君独特の軽妙な奇知で、さっと流されている感じだ。欲をいえば、軽妙過ぎて、深みがとぼしいということになる。

 他にもいくつか気づいた細かい点は、この感想を君に渡すときに口頭で伝えよう。(注 1)[完]
引用時の注
  1.  54 年も前に自分の書いたこの感想を、いま読み返してみると、「細かい点は、[…]口頭で伝えよう」といいながら、書いてあることも、かなり細かい点ばかりという気がする。主題は何で、それがどう扱われていて、その効果がどうか、という大局的な感想が欠けている。第三者(54 年後の私も第三者である)が読むことを意識して書いてはいないので、読んで作品の筋が理解出来ないことは、ある程度止むを得ない。しかし、ヒロインが自殺を考えたのは、深刻なテーマのはずであり、それに対する感想を中心に据えるべきではなかったか。「軽妙過ぎて、深みがとぼしい」は、ある意味では、全体的な感想だったのだろうが…。
     Sam の高校 3 年のときの創作への感想を掲載したついでに、消滅したブログに一度掲載した、私の同時期の創作「逍遥試し」を再掲載しようと思う。

2013年10月7日月曜日

Sam の創作「橋」への感想 (3)


友人たちとの文通記録

Ted から Sam へ: 1959 年 12 月 29 日[つづき]
「それはまた…。何故死にたくなったのですか。」
「つまりは、生きることに対する望みを失ったからです。生きていれば周囲の人々に迷惑をかけるばかりですが、こうして死ねば、それによっていくらかの人でも不安や不幸から救うことができるかも知れません。」
という会話が橋のところでなされている。そして、二日後に彼らが会ったとき、
「もしお逢いできたら何故死にたがっていられるのか、もっと突きとめて、そうしないように注意しなければと思っていました。」
という言葉が出て来るのは、読者にちょっと奇妙な感じを抱かせる。「もっと突きとめて」という言葉で、橋のところでの晴子の答えよりも、もっと詳しい具体的原因にさかのぼって聞きたいことを意味しているのだと分らなくはない。しかし、「何故死にたがって」いるかについては、「つまりは」といってだが、相当明瞭な答がすでに与えられ、また、その原因の一端を構成していると思われる彼女の家庭の事情も、喫茶店で話されているのだから、ここでは表現を変えて、「何故生きることに対して望みを失われたのか」とでもした方がよいと思う。——あの頃に君に、デートの場所としての喫茶店の内部の描写が出来たとは、これを読むまで気がつかなかった。——

 「思う」と「考える」の区別については、たとえば、大まかにいって、対象が単純あるいは単一事象である場合には前者、対象が複合的、発展的な石は組み合わせ的な場合には後者、などという考察が出来るのではないだろうか。一雄に「きっと区別は難しいに違いない」といわせているのは投げやり的な感がある。「言葉は思想表現のための便法」(注 1)とはいっても、やはりそれは思想の最も信頼すべき伝達手段の一つであり、ある程度の明確な区別を伴わせて使用することが必要であろう。したがって、「難しい」ですまさないで、区別を探ってみることにも意義はあるだろう。[つづく]
引用時の注
  1. われわれが高校 1 年生の終りに近い 1952年 1 月 26 日の交換日記に、Sam は次のように書いていた。
     「礼儀作法の規則を定めなければならなかったのは、普通あまりにも安っぽすぎる世間の社交のひんぱんな会合を我慢ができるようにし、おおっぴらにけんかをしないようにするためだ」「他人とつきあっていては、最善の人と交わるにしても、やがて飽きがくるものだ」といった Henry David Thoreau の言葉には、たしかに一面の真理がある。
     さらに、「まして私たちは、めいめいの心の奥に、ことばなどでは表現できない深いものを秘めているのだ。そういうものと親しく触れあいたいと思うなら、私たちは沈黙するだけでなく、とても声が聞こえないくらいに、からだとからだとが遠く離れていなければならないのだ。これを標準とすれば、談話というものは、要するに耳の遠い人たちのための方便なのである」とあるのを読むにいたっては、ほとほと恥ずかしくなった。Ted にもっとしゃべるようにといったことが、いかにもぼくの無思慮を暴露したみたいだ。
     だが、なかなか難しいよ。ぼくはまだまだ方便に頼らなければならない。
    「言葉は思想表現のための便法」という言葉は、上記の Henry David Thoreau の文(Sam の学校の国語の教科書にでもあったのだろうか)から来ており、私が高校 3 年のときに書いた短編小説「逍遥試し」でも取り上げていた。

2013年10月6日日曜日

Sam の創作「橋」への感想 (2)

友人たちとの文通記録

Ted から Sam へ: 1959 年 12 月 29 日[つづき]

 私の記憶に間違いがなければ、私が高校三年の夏休みに書いた、大学生の常夫と、あいの子のケートのみが登場人物である、小説というよりは小説的粉飾をわずかにまとった対話形式の小論文といった方がよい作品(注 1)の冒頭も、佐武のこの作品と同じ言葉で始まっていたか、あるいは、その冒頭近くに、この言葉があったようだ。私(当時の私に筆名を与えるとすれば、江二辛苦ぐらいのところか)(注 2)の作品にどのような思想を盛り込んだのだったか、もう十分よくは覚えていない。佐武の「橋」と江二の「逍遥試し」の初めの部分を並べて比較してみたいが、後者はいま、私の手もとにはないので、それを詳しく行なうことは出来ない。(注 3)

 織女橋という固有名詞が出現することは、Vega というニックネームの少女が登場する江二の「夏空に輝く星」(注 4)とも、この作品が姉妹的なつながりを秘めていることを示していて面白い。一雄の言動は、当時の佐武をほうふつさせる。二人のカズオは、どちらも作者の分身のような感じだが、彼らの性格は、原子の周囲の電子の運動状態において縮退している二つのエネルギー順位が、外部磁場の作用によって上下に分かれるような感じで、陽と陰、積極と消極の僅かの差を与えられ、簡潔にだが、要所要所でよく書き分けられている。一雄の特徴的な笑声は効果的である。
「エーッ!」気合いを掛けて彼女が橋の欄干を越えて川の中に落ちていったのではない。駈けてきた二人が驚いて発した間投詞である。
というところは、人をくいすぎた書き方、というより、この作品の他の部分との調和を保っていない、ナンセンス漫画的感覚の文章である。
晴子は、一昨夜、海王小学校の校庭で右足をを前方に軽くあげると同時に両手を叩く動作をする時に、左足がよろめいて、見ている人達の方へ転びそうになった時のような顔をして言った。
というのも、当時われわれがときどき使用しあった形容様式であり、その様式としては一つの傑作だが、ここではもっと簡潔にした方が、「まあ、カズオさん!」という言葉の響きを損なわないのではないかと思われる。[つづく]
引用時の注
  1. 題名はあとに記してある「逍遥試し」。夏休みの宿題として提出したこの作品は返却して貰わなかったが、下書きが交換日記に記されていた。何年か前にそれを読み返したところ、無口だった私の性格を合理化する「沈黙賛美論」のように思った。
  2. 実際の交換日記上での Sam のニックネームが Something であったのに対応して、私 Ted は Anything だった。
  3. 「逍遥試し」の冒頭は次の通り。Sam の作品は、同じ 1 行目を使って書き始めていたと思う。
     「君はいま何を考えていた?」
     照りつける陽光を受けて、それを豊富な葉の間に抱え込んだポプラの木々が微笑むように立ち並ぶ人道を、しばらく無言で歩いて来た常夫は、ケートにこう聞いた。
     「……」
     ケートは歩きながら、行く手の彼方に霞んで横たわる山の辺りへ向けていた青い瞳をちょっと彼の方へ転じたが、黙っていた。終点で折り返す電車の音が、彼らの後ろの空気を揺すって遠ざかった。
  4. 私の高校 2 年のときの作品。こちらでダウンロードできる。

2013年10月5日土曜日

Sam の創作「橋」への感想 (1)


友人たちとの文通記録

Ted から Sam へ: 1959 年 12 月 29 日
 引用に当たって:Sam は社会人としての 6 年目、私は京都で大学院修士課程 2 年に在学していた年の冬休み、私が帰省して Sam に会ったときに、彼は、高校 3 年のときに書いた創作が掲載されている校誌(あるいは生徒会発行の文芸誌)を初めて貸してくれた。彼の作品への感想を記した手紙を無罫の便箋に鉛筆書きで写したものが、日記代わりに保存してあったのを、ここに紹介する。
 上掲のイメージはその 1 ページ目である。ご覧のように、段落の区切りのない文(作品からの引用部分を除いて)が、2 ページ半ほども続く書き方で、全 4.5 ページにおよぶが、ここでは区切りをつけるなどして、読みやすくし、何回かに分けて掲載する。

 君の手紙にあった悩みのその後の心境について、「あきらめた」という返答を聞かされたのは、何だかあっけなくて興ざめだったが、その代わり、六年前の君の作品を読ませてもらえることになったのは、昨日の大きな収穫だった。

 題と筆名だけから、どれが君のものか見当がつくとのことだったから、まず目次で探そうとしたが、分りにくかった。それで、各作品の初めの一、二行に目を通してみることにした。

 「折口先生を偲ぶ」は問題外である。日記体の「いのち」は、ちょっと注意を引いた。初めの二行は、ひところの私の文章にかなり近い文体だ。しかし、君の匂いはあまりしない。この作品の最後のページを見ると、急性脳腫瘍などとある。これは違うだろう。次の作品は、ページを埋めている字づらが、全然、君の雰囲気ではない。読んでみるまでもない。

 それから少し何げなくとばして、この本の中ほどを開く。「アリャサッサッサ」とある。初めの一行はどうだろうと、ページを返すと、われわれの間でかつて交わされた言葉が出ている。「さたけ しんこう」と読んで過ごしそうな筆名だったため、目次では気づかなかったのだ。昨日の帰り道、当時の君の筆名ならば Something に関係がなければならないとは、考えていたのだったが。(注 1)[つづく]
引用時の注
  1. 高校時代の交換日記をブログへ引用する際に、S・M 君のニックネームを Sam としているが、実際に日記帳に書いていたのは Something、略して Some だった。彼は Something をもじって「佐武深紅」のペンネームで投稿したのである。

2013年10月4日金曜日

大晦日湯へ行く/Sam とぼくの十大ニュース


高校(1 年生)時代の交換日記から

Sam: 1951 年 12 月 29 日(土)雪、30 日(日)晴れ、31 日(月)雨

 歳末! 全身が綿になるようだ! From morning till night I worked and worked. 六日間のアルバイトによって、一千円を得た。うれしい。苦しみに幾倍かして、うれしい。生まれて初めてこんなに多額の金を得た!
 しかし、この六日間、雇われて働くこと意外に、何も出来なかったのは、みじめだった。が、よい体験だった。今年もあと二時間で過ぎようとするとき、開放されて、大晦日湯へ行く。
 年越しそばを年を越してから食べなければならないことになってしまった。百八つの鐘が静かに余韻を残して響く。今年を振り返って…、反省! 何もない。いや、出来ない…。



Ted: 1951 年 12 月 31 日(月)雨

 NHK の選んだ十大ニュース
  1. アジア競技大会
  2. マッカーサー元帥解任ならびにリッジウエイ司令官着任
  3. 桜木町事件
  4. 貞明皇后ご逝去
  5. 追放解除
  6. 民間航空再開
  7. 電力危機
  8. ルース台風
  9. 平和・日米安保両条約調印
  10. 社会党分裂
 Sam とぼくについての十大ニュースを選んでおこう。(注 1)
  1. ぼくが Sam を家に招き(1 月 3 日)、ぼくも Sam の家を訪れた(ある日曜日)。そして、紫中での英語や自習の時間に、問題などを書いた小紙片を交換し始めた。
  2. Sam が葉書によって、われわれの通信の契機を作った(4 月 10 日)。
  3. ぼくが「スターリン事件」と呼んだ出来事(4 月 10 日〜5 月 7 日)。
  4. われわれの通信にノートを使い始めた(4 月 25 日)。
  5. Sam がタイプの練習を始めた。
  6. ぼくが夏休みに京都と大阪へ旅行した。
  7. ぼくが Sam に「ホームルーム研究資料」の作成を依頼した。
「三つの歌」が面白くて、これ以上は出て来ないぜ。(注 2)
引用時の注
  1. この 10 大ニュースは英文で書いてあったが、拙いところがあり、ここでは和訳に変えた。
  2. テレビ放送はまだ始まっていない時代で、紅白歌合戦も新春番組として第 1 回が行なわれたばかりの年である。大晦日には、宮田輝アナウンサー司会による NHK ラジオの人気番組「三つの歌」の特別放送があったのであろう。ここに掲載した日記をもって、交換日記の第 10、11 冊目のノートを、余白を残して終了し、新しい年、1952 年には、 12、13 冊目の新しいノートで書き始めている。
     なお、Sam と Ted の交換日記をブログに掲載することは、プロバイダーの事故でインターネット上から消滅した旧 "Ted's Coffeehouse" サイトで、この大晦日の日記から始めたのだった。そして、高校卒業までを掲載し終え、高校 1 年生の未掲載部分へ戻って続けていた。消滅したサイトを、現 "Ted's Coffeehouse 2" サイトに復旧することを試みたものの、交換日記については、目下、高校 2 年生だった 1952 年 11 月 8 日までしか出来ていない(こちらから年月日の逆順でたどって、ご覧になれる。ただし、掲載当時の他のブログ記事も混在する)。しかしながら、未復旧の部分は、私のハードディスクには存在するので、交換日記をディジタル化する目的はこれで達成出来たことになる。したがって、本サイトでの交換日記の掲載はこれで終了し、今後は、友人たちと交換した手紙などを掲載することにする。引き続きご愛読いただければ幸いである。

2013年10月3日木曜日

辻占売りの拍子木を打つ音


高校(1 年生)時代の交換日記から

Ted: 1951 年 12 月 29 日(土)雪、30 日(日)晴れ

 大したこともしていないのに、時間が不足だと感じる。

 午前 Octo が英語の宿題(To write a brief biography of a great man or woman)を持って来て、見てくれという。Frantz Liszt について書いてあった。このピアノの名演奏家の名を無断で借り、彼の後継者であると広告して演奏しようとした婦人を Liszt は許した上に、彼女にピアノを教えたというエピソードが書かれていた。三、四箇所直してやったあと、解析、国語、英語の教科書を次々に出して、少し話し合う。Octo や Twelve の家へぼくが行ったときよりは、彼らがぼくの家へ来たときの方が、沈黙の時間を少なくする、あるいは完全になくすることがしやすいのは、なぜだろう。(注 1)
 Octo は帽子を被って来ることを忘れたのを忘れて、「あっ、帽子忘れた」と、ぼくの部屋へ戻りかけた。これは Twelve も学校でときどきやる失敗だ。

 母の微熱が続く。
 辻占売りの拍子木を打つ音が聞こえる……。(注 2)
引用時の注
  1. 「ホームグラウンド」の気安さで、連想がよく働き、無口な私も話題を見つけやすかったのだろう。
  2. 辻占売りといえば、太平洋戦争中の幼年時代に講談社の絵本で読んだ乃木希典の伝記に、辻占売りをしていた親孝行な少年を乃木将軍が助けたという明治時代の話があったのを思い出す。戦後もまだ、辻占売りがいたのだろうか。

2013年10月2日水曜日

トランプやリレー小説で遊ぶ


高校(1 年生)時代の交換日記から

Ted: 1951 年 12 月 28 日(金)曇り

 午前十時から午後五時十分まで。家を忘れるほど、こうして遊ぶことの出来るのは、沢山の書物がつまっていて天井の低い Lotus の部屋と、もとの Jack の家付近から遥かに眺めると、からになって台所の隅にぽつんと忘れられているマッチ箱のように見える Tacker の家とである。(注 1)
 Lotus の家へは、ぼくが最初に行き、Jack が最後に来た。Lotus は、生物の宿題でノートを一冊使ってしまいそうだといって、親指と人差し指の先に力を入れて 4H の鉛筆を真っすぐに立てるいつもの握り方で書いたに違いない、美しいノートを見せてくれた。
 Kies が持って来たトランプと彼が提案したリレー小説で時を過ごす。西洋紙を半分に切って、五つに折り、自分の前の順番の一人分だけを読んで書きつなぐこの遊びでも、Lotus の筆は冴えていた。午前に一回と午後に三回これをしたが(その間にトランプ遊びやうどんの昼食が入る)、終りに近づくに従って、Jack や Kies は Lotus を困らせる内容のものを書き始め、「誰が誰といつどこで…」と結果的にはあまり変らない遊びになって行くきらいがあった。
 初めに出た登場人物を最後まで受け継がせることが、しばしばうまく行かない。Kies が書き始めた、フランスの植物学者を叔父に持つビルとフランクの話が、Octo によって日本の生徒の話に変えられたり、Octo が書き始めた、ぼろ服姿のイギリスのローベルト少年が、ぼくによって、片目が不自由な幼児に出会って、二十ルイというフランスの金を与える話になったりする。Lotus が書き始めて、ぼくが結びを書いた、志郎と奈美子の物語は、一つのまとまりを持った少ない作の中でも、優れたものだった。ぼくがスタートを切った、桶屋の六助と空腹の物語は、Lotus が半ば理論的なユーモアで続けたのに、Jack に至って、主人公が年末大売り出しの宣伝マンという仕事をすることになり、前半と後半が別の話になってしまった。
引用時の注
  1. この冬休みの前半、Sam が毎日くたくたに疲れるようなアルバイトをしていたのに、私は毎日のように遊んだ話を書いていた。Sam のアルバイトの日記をまだ目にしていなかったとはいえ、悪いことをしたものだ。

2013年10月1日火曜日

紡績工場の餅つき


高校(1 年生)時代の交換日記から

Sam: 1951 年 12 月 28 日(金)曇り

 生まれて初めて大和紡績の中へ入る。きれいなのに驚いた。たくさんの女工がいる。みんな健康そうだ。
 一メートルもあると思われる大きなシャモジで、数斗は入ると思われる釜の飯をかき回している。ずらりと並んだ食器、食器、食器。
 きょうは、ちょうど餅つきだという。しかし、初めは、ペッタンペッタンという音がしないので、そうとは気がつかなかった。製粉機で餅をつくとはね。変れば変るものよ。

2013年9月30日月曜日

いまは思索を遠ざけなければならない


高校(1 年生)時代の交換日記から

Ted: 1951 年 12 月 27 日(木)曇り

 午前、高文連新聞部報の原稿(十月二十日に行なわれた研究会での講師の話の、速記録を普通の文字へ訳した文から作った概要)を持って登校。ちょうど九時に家を出て、遅れたと思って、編集室のドアを押したが開かない。そこへ Compé と二年生の UN 君が相次いで来て、それからずいぶん待ったところへ、この仕事の責任者の KN 君が、「ずっと先に来ていたのだ」といって現れた。

 やはり馬鹿だ。Jack の家で二時過ぎまで、何をしようか、何をしようかと。将棋に強硬に反対したときは、自分でも、あんまりだと思ったが…。交替交替で書く小説を、ほんの序の口ばかり二つ。追求の対象が漠然としていて、ものにならない。
 Lotus の間接的招待——。Jack のところへは、彼が昨夜の豪雨を冒して、伝えに行ったそうだ。ぼくが Lotus の家へ行っても、何の役割も果たせない(注 1)。しかし、ぼくにとっては、行った方がよいのだ。

 ああ…、もう書けない。母の血沈が 65 もあるそうだ。
 どこか遠くの山にある洞穴の中を恐怖を抱きながら歩いてみたい。いや、そんな状態が、すぐそこに来ているのかもしれない。
 世界よ!生命よ!
 何と狂わしい自分の心だろう。何と窮屈な現実だろう。
 思索! このことを、いまは、あくまでも忌み嫌って、遠ざけなければならないのだ。そして従順に? …それは、たまらない!
引用時の注
  1. 遊びであれ、会話であれ、Lotus には、すべてを取り仕切るようなところがあったので、こう思ったのだろう。

2013年9月29日日曜日

アルバイト/疲れた疲れた


高校(1 年生)時代の交換日記から

Sam: 1951 年 12 月 26 日(水)曇り

 八時二分前に出勤。自動三輪車に 60 枚の枠を積んで。枠の底には「す」が敷いてある。「す」の上には小麦の加工品が並べられている。午前のうちに 18 回、荷物の積み降ろしと縄かけをした。荷に縄をかけるのは、なかなかその要領が分らない。
 疲れているから、すぐ眠らなければならない。

Sam: 1951 年 12 月 27 日(木)曇り

 午前中は停電だったので、仕事がない。肩の付け根のところが痛くてやりきれない。オートバイから降りると、海水浴に行って来たみたいだ。
 眠い眠い。疲れた疲れた。

2013年9月28日土曜日

I want to know what love is, too.


高校(1 年生)時代の交換日記から

Ted: 1951 年 12 月 26 日(土)雨[つづき]

 Mon.: 生物の宿題。午後、Octo と。英語の辞書で野球ゲーム。2–1、2X–1。どちらも延長戦。その他いろいろ。

 Tue.: 八時半頃、自転車の後ろにニンジンを取りに行く箱を乗せて、Jack が立ち寄る。午後駄目になったと。Octo と約束通り。兼六園を抜けて、思いがけなくJack に出会う。イロヤ書店まで一緒に。Jack の待ち人、Dove が来る。晩、年賀状書きで頭が痛くなる。「はるなれやなもなきやまもあさがすみ」を折り込もうとしたのだから。そして折り込んだ。

 筋肉と骨格の宿題を書き上げる。Cat が帰宅して二階で掃除をしているのが、後ろの窓から見えた。
 約束の時間に大学前へ行ったが、いない。それで Octo の家へ。それから、…(図に描いた方がよい)(注 1)。込み入り過ぎて分らないだろうが。Anyway, we walked so much. At last, Jack, Kies and I gathered in Octo's house. After a long while, Octo came back there. We played card games with the card pack Kies bought recently.
 Jack said to me, "I'm thinking of paying Minnie a visit to see how she is faring after a fire." Why? Her house was not burnt! What does it mean that he want to go there? I strongly disapproved his plan. But ...
 Kies said that he talked with Lotus about what love is and that it was very interesting. I want to know what love is, too.
引用時の注
  1. Jack、Kies、Lotus、Octo、それに私が、各自の家を出て、ここに登場する友人宅を尋ね歩いた経路が、黒、青、赤の点線や実線で描かれているが、省略する。次にある英文も参照すると、以下のようなことである。Octo だけは兼六園内の図書館を出発している。彼は自宅へ寄り、私の家を尋ねたあと、私を追って Jack の家へ行き、自宅へ帰ったが、それ以前に他の友人たち 4 人が、彼の家に集まっていた。私は、Octo の家へ寄ったが、彼が不在だったので、Jack の家へ行き、多分 Jack と一緒に Octo の家へ行った。Kies は Lotus を尋ねて、彼と一緒に、Jack の家へ行き、次いで、多分単独で Octo の家へ行った。

2013年9月27日金曜日

アセンブリーは「聞く雑誌:さようなら一九五一年」


高校(1 年生)時代の交換日記から

Ted: 1951 年 12 月 26 日(土)雨

 何もかも一気にやってしまう。
 簡単に経過を記そう。

 Sat. 放課後、『菫台時報』の校正刷りを待つ。その間、KN 君(二年生)を中心にして、Tacker が口火を切った、プロ野球の選手の老後の不安定な生活についての討論や、「即興・私は誰でしょう」や、人肉を食う話など…。字を読めない暗さになったが、広文堂へ行った FJ 君たちが帰らないので、向こうで校正をやってしまうのだろうと判断して、帰宅。

 Sun. 一、二限は授業(注 1)。三限は「さようなら一九五一年」と題したアセンブリー。内容は「聞く雑誌」。先週の H 時に一四ホームが同様のことを行なったときには、Dan が「抜け作」(注 2)を表紙に描いたそうだが、今回の表紙は、Pentagon 先生が S 字型にえいやっと素早く筆を動かし、赤と青で不思議な模様を描いた。第一ページは「ダイジェスト」と題し、今年の回顧。他に校長先生の「随筆」などがあり、「編集後記」の前は「娯楽室:お好み電話問答」。「とんち教室」での生徒役には、会場の生徒が指名する先生方がなるのである(話がややこしい)。青木先生役の某君が演壇を降りて来てマイクを指しつけた三人の生徒たちは、NSD 先生、AKY 校長、IID 先生(Pentagon)をそれぞれ指名した。答のセリフは、
 「それは困りますワ。」
 「アセンブリーで、したら?」
 「短ければ短いほど、よいでしょう。」
というのである(注 3)。校長先生以外は「落第」だった。Pentagon 先生の「なあに、いまのはちょっと練習してみただき(「だけ」をこう発音される)。ありゃ。ちごうたわ」などといわれたのは、聞いちゃいられなかった。
 ブラスバンドが小松高校と泉丘高校の校歌を奏したときには、「菫台のをやれ!」と SIT 君が叫んだが、わが校の校歌は、これから生徒会が歌詞を募集するのである。
 四限の SH 時に、Crow 先生は名前こそ出さかったが、ぼくのことを皆の前で話された。決してよいことじゃない。(注 4)[つづく]
引用時の注
  1. なぜ日曜日に授業があったのだろう。
  2. ディズニーの長編映画第 1 作『白雪姫』に登場する 7 人の小人の 1 人「ドーピー」の日本名。
  3. これらのセリフに合う一連の言葉を即興で考えるのは結構難しい。たとえば、三つのセリフのそれぞれの前で、「今晩、あなたを誘いたいのですが。」「一度一緒にダンスをしたくて。」「では、次回のアセンブリーで、あなたとゆっくり踊ることにしましょう。」などといえばよいのである。答のセリフをいう「とんち教室」での声優・高橋和子さん役は、誰がしたのだろう。
  4. 何のことかさっぱり覚えていない。

2013年9月26日木曜日

原因さえ突き止めれば…


高校(1 年生)時代の交換日記から

Sam: 1951 年 12 月 25 日 X'mas(火)曇り

 有無(「ウーム」だ! "あるべきものがない" という意味)。これほどとは思わなかった。有史以来の大変動だ。信じられない!
 失望して死んでしまうかも知れないと思った。考えないでおこうと思えば思うほど、なお強いその反対の態度に驚く。
 反省! 反省しなければならない。
 Tragheit!
(注 1)いや、それ以下かもしれない。
 谷川徹三が『文化論』の中の「人間の回復」でいっている「人間の回復の第二の問題」、それが失われたのか!
 反省は、ただ心を苦しめ、もがかせる。何か原因がなければならない。それさえ突き止めれば、あとは、その対策を考えるのは難しくない。
(注 2)

 「うーえだ君、うーえだ君、…。」五回呼んだ。いないらしい。せっかく来たのに。明日からは、もう来たくても来れないのだゾ。来年だ。来年まで待てよ!

 Neg が来た。表に稲穂と歯車、裏に双葉が二本の図案が施されている銀貨! 音をたてて手のひらに落ちた。彼はいっていた、正月前に済ましておかねば、と。
引用時の注
  1. "Trägheit" と、a に変音記号をつけるのがが正しい。ドイツ語で「怠惰」を意味する。私がこの言葉を理解したのは、大学でドイツ語を習ってからだっただろう。
  2. Sam にしては珍しい気持の落ち込み方である。具体的な理由を聞かなかったと思う。2 学期の通信簿の成績が悪かったのだろうか。

2013年9月25日水曜日

穴があいたままだ


高校(1 年生)時代の交換日記から

Sam: 1951 年 12 月 24 日(月)曇り

 夢の中で半鐘と消防自動車の音を聞いたが、起きてみる気にはならなかった。「鍋下町」の火事ではなかったらしい。「夜食わじ」でもなかったから、やっぱり本当の火事だろう。何?! 本多町! 平野化学!

  八時四十分〜九時四十分 大掃除
  十時〜 終業式
  終業式後 各ホームにて
 一時間も大掃除をさせるとは、どんなことまで要求しているのだろうか。いつもの三倍の人数で掃除をしたから、いくらか念を入れたつもりだったが、いつもと同じくらいしかかからなかった。一五六枚のガラスを全部磨き上げても、まだ二五分余っていた。


(注 1)

 校長の訓話のあと、指導課からの話。「開校以来…申し合わせ事項として…出来るだけ寛大な…警察の厄介になったことが比較的少なかった(笑声)。」ここで先生は怒った。「何がおかしい」、「私ははなはだ不愉快に思う」、「遺憾である」。顔を大きく前後に振って、硬直させ、すさまじい様相を呈した。次いで、教務課から。「一つ、来年一月一日には、十時までに学校へ来て貰います。二つ、来学期は、八日火曜日から始まります。火曜日から授業がありますから、教科用具を忘れないで。三つ、来年十四日に、来学年度の単位登録をして貰いますから、よろしく。」

 X’mas Eve!
 ♪きよしこの夜
  星は光り
  救いのミサは
(このあとは何というんだい。教えてくれ給え。)
*
 セント・ニコラス、フェドロ少年、スクルージュ、チムちゃん、それから…。
 困ったな、靴下は穴があいたままだ。それに、吊るすところがないぞ。そうそう! 物干竿に吊るしておけ。
Ted による欄外注記
 * きよしこの夜 星は光り 救いの御子は み母の胸に 眠り給う 夢やすく[引用時の追記:この歌詞は一般の「きよしこの夜」で、プロテスタントの「きよしこの夜」は、「救いの御子は」のあと、「馬槽(まぶね)の中に 眠り給う いと安く」と続く。なお、カトリックでは、「静けき真夜中」の題で、「静けき真夜中 貧しうまや 神のひとり子は み母の胸に 眠りたもう やすらかに」という歌詞だそうである。]
引用時の注
  1. 速記文字で、校長の訓話の最初の部分を書いたものか。

2013年9月24日火曜日

ゆず湯


高校(1 年生)時代の交換日記から

Sam: 1951 年 12 月 23 日(日)曇り
 "Jingle Bells"

Dashing through the snow
In a one horse open sleigh
O'er the fields we go
Laughing all the way
Bells on bob tails ring
Making spirits bright
What fun it is to laugh and sing
A sleighing song tonight

Oh, jingle bells, jingle bells
Jingle all the way
Oh, what fun it is to ride
In a one horse open sleigh
Jingle bells, jingle bells
Jingle all the way
Oh, what fun it is to ride
In a one horse open sleigh

 午前中は、タイプのためにという名目で学校へ行く。「京大親学会主催 全国学力コンクール」があるらしい。順番が来るまで第二体育館で円陣パスをしていたら、一昨日突き指をした親指が、また変な具合になってしまった。でも、タイプにはそんなに影響がないから、まあよい。

 三学期の第一週にするだろう第十六課の単語をくる。なかなか長いから、いやになっちゃう。

 ほほう、そういうことでね。役に立つこともあるんだな。「宮沢賢治」か。そのほかに「林芙美子」も。なるほど! なかなか大変な問題だ。「日本の近代作家について調べよ」か。原稿用紙百枚以上、だとはね。明日までに計画表を提出しなければならないと Funny はいっていた。

 きょうは、太陽が赤道より南二三五度を照らす日だ。家ではカボチャを食べる。入浴に行ったら、「ゆず湯」と書いてあった。ゆず湯も何かきょうに関係があるのかな。
(注 1)
引用時の注
  1. 日本では、江戸時代頃から冬至に柚子を浮かべた湯舟に入浴する習慣がある。「ゆず湯に入れば風邪を引かない」といわれている。冬至の日に、ゆず湯を用意する銭湯もある。(『ウィキペディア』の「柚子湯」の項による。)

2013年9月23日月曜日

馬鹿らしい間違い


高校(1 年生)時代の交換日記から

Sam: 1951 年 12 月 22 日(土)曇り

 「これで二学期の授業は終わりました。皆さん、よいお正月を迎えて、うんと遊んで下さい。」毎時間、こんな言葉を聞かなければならなかった。解析は一三五ページの 4 と 5 を省略し、その代わり、「二次関数を実用化するために」と「二次関数を標準形と直線にして根を求める方法」を教えられる。来学期早々、二次関数のところの試験をするということを、前の時間にいわれたにもかかわらず、もう一度、念を押された。
 国語は二週間ほど前に行なわれた文法の助動詞のテストについて説明がある。「玉の光はそはざらん」というところを「ざ」と「らん」に分けたので −2、「目にかなしくも残れるは」の「る」を受け身としたので −2。いまから考えると馬鹿らしい間違いで、結局、30 点満点のところ、ぼくの出席番号から 902/10 を減じた得点しか出来なかった。
 一時間その仕事を行なえば 87〜174 の熱量を必要とする作業を行ない、タイプクラブの会合に出ていたので、家へ帰ったら、一一六ページの 4 の問題の 3 行目の数字を 1 と 2 に直して求めた答の時刻になっていた。
 周りが 48 cm の矩形の紙に、表には 24〜41 の文字を書き、裏には例外はあるが、表より多くの文字を書く仕事をする。
(注 1)

 どうしてもこうだ。駄目。ダメ。DAME! Break all!
引用時の注
  1. もってまわった表現が続く。国語テストの得点と帰宅時間は、計算不可能である。「仕事」というのは、年賀状書きであろう。

2013年9月22日日曜日

先生が Vicky を...


高校(1 年生)時代の交換日記から

Ted: 1951 年 12 月 21 日(金)晴れ[つづき]

 二番目の質問としては、昨日 Vicky が答えて、Peanut 先生がその通り取り上げられた説明について「"子午線" の解釈で、"地球の経線"、だったかな(と Jack に確認を求める)といわれましたが」という言葉で始め、反駁をした。「天頂近く子午線を通過する星を観測してこの地点の緯度をできるだけ精密に測定しておく」という文にあるのだから、地球の経線でよいはずがない。「この場合は、天頂と天心、天極ともいいますが、を結ぶ線を延長した天球上の子午線です」と説明して、先生に「なるほど、物理の先生に少し聞いて来なければならないな」といわせることが出来たのは、一昨日、ラジオの "Easy Science" の時間に地図の話を聞いて、この通りのことを覚えていたのが役立ったのだ。
 もう一つは、本文中に「重力偏差計」とあって、注に「重力偏差針」となっているので、「どちらが正しいのですか。または、どちらでもよいのですか」と質問したのだ(注 1)。先生は、注の「重力偏差針」を「重力偏差計」と思って読んでいて、気づかれなかったそうだ。Dan も、「天頂儀」のルビ「ゼネステレコープ」が間違っていることを、zenith telescope という綴りまで述べて指摘した。(注 2)
 社会。YMG 先生がノートの使い方を見て回られたあと、自習となる。隣席で Vicky が、鼻のつまって狭くなった隙間から呼吸する苦しそうな音を出している。それが耳障りで何も出来ないでいると、時間の終り近くになって、
先生「『白い恐怖』(注 3)見ました?」
Vicky「明日、行くかもしれません。」
先生「行くのなら、一緒に行きませんか。見る前に『キネマ旬報』とか『スクリーンガイド』とかでも読む?」
Vicky「批評、読んでから行きます。たいてい新聞でネ。」
などという会話が始まったから、おやおやと思わなければならなかった。(注 4)
 ぼくの鼻は、どうやら、そこへ紙を当てて、左右一度にそれをしないように注意しながらする動作を、立て続けにしなくてもよくなった。

 おお、複雑。しかし、なんと単純にしか現れないことよ。
引用時の注
  1. 「重力偏差計」が正しい。
  2. いま青空文庫版の寺田寅彦著「小浅間」を見ると、「ゼニステレスコープ」と、正しいルビがついている。当時の教科書は誤植がずいぶん多かったのである。
  3. 1945 年に公開されたアルフレッド・ヒッチコック監督によるアメリカ映画。記憶喪失を取り扱ったサイコスリラーで、イングリッド・バーグマンの絶頂期の作品といわれる。日本公開は 1951 年 11 月。
  4. 風邪を引いているらしい Vicky が、明日映画に行くかもしれないといったのは、「おやおや」の対象の一つだが、それ以上の「おやおや」は、先生が女生徒を映画に誘ったということである。YMG 先生の亡きいま白状すれば、私の心の片隅では「こん畜生!」という思いもなかったとはいえない。

2013年9月21日土曜日

待ち遠しかった質問時間


高校(1 年生)時代の交換日記から

Ted: 1951 年 12 月 21 日(金)晴れ

 Jack と六時過ぎまでかかって、図書館で調べて来た冬休みの宿題(生物学年表の作成。その他に、筋肉と骨格の名称を調べる保健体育の宿題もある)を整理し、ヨウコ先生が黒板に書かれた八題の問題もしなければならないのに、七時四十分まで停電。
 国語甲は、寺田寅彦の「山頂の科学者」(注 1)を終わり、「学習の手引き」欄の問題をしている間、質問時間が待ち遠しくてならなかった。その時間が到来すると、まず Jack が四ヵ所の誤字(先生が読んで行かれる途中で訂正されたのを除いて、ぼくが Jack にも少し発言させようと、見つけて譲ってやっただけで、これだけの数になる)を、「間違っているのではないですか」と、遠慮深い口調で指摘した。その間、彼の斜め後ろの席で、「"ではないですか" じゃなくて、"間違っています" だ」と、気をもんでいたぼく自身は、科学的事項一つを交えた三つの誤りを指摘する質問をした。
 一番目は、「ロゼッタストーンの聖文字」の「聖文字」に「ヒエログリフ」のルビがついていることについて、「これは変ですよ。ロゼッタストーンのことを書いてある本を読んだところ、それには三通りの文字が書かれていて、その一番上のは、 "ヒエログリフィック" というのです」と、それ以上のことをその石について知っているような顔をして述べた。(注 2)[つづく]
引用時の注
  1. インターネット検索で調べて、原題名「小浅間」と分った。こちらで、青空文庫版を読める。
  2. ロゼッタストーンの 3 通りの文字は、ギリシャ語、デモティック、ヒエログリフであり、「聖文字」のルビとしては、「ヒエログリフ」で正しく、この質問は私の勇み足だった。
     上記の 3 種の文字で書かれた文を英語ではそれぞれ、Greek text、Demotic text、Hieroglyphic text と呼ぶ。「デモティック」は同じ形で名詞と形容詞に使われるが、「ヒエログリフ」の形容詞形では、-ic の語尾がつく。私が読んだ本というのは、日本少国民文庫の一冊中の一話「シャンポリオンの苦心」(粟田賢三著)でる。その文には、「デモティック」と同語尾の「ヒエログリフィック」が名詞として使われていたのだろうか。

2013年9月20日金曜日

風邪を引いた/能弁君のいい損ね


高校(1 年生)時代の交換日記から

Ted: 1951 年 12 月 19 日(水)晴れ

 Have caught a cold.
 Sam, let both of us separately choose top ten news items of our life this year. It will be interesting to compare our results with each other.


Ted: 1951 年 12 月 20 日(水)晴れ

 Went to school with many toilet papers filled in the left and right pockets.

 After lunch, Lotus, who had joined the editorial committee of the school magazine Shinju (新樹), said through the broadcast system, "Gokō, Gokwō, Gukyōryoku o onegai shimasu." It seems to have been difficult to say "gokyōryoku" as the first word in front of the microphone even for the eloquent boy.

 放課後、昨日第二面の編集を完成した二年生部員(昨日、ぼくは彼らの編集ぶりを見ている間に、全部の原稿を読んで、誤字を直した。ぼくが書いた就職関係の記事と、Elecky が図書室で昨日の放課後に書きはじめて完成したばかりの論説と、TKT 先生の句会の記事以外には、一つも間違いのなかった記事はなかったことを書いておかなければならない)が、今度も中心となって、編集室の掃除を行なった。ぼくは、第二回 HR 研究委員会が 21 番教室で行なわれるので、板を二枚めくるだけの仕事しかしなかった。

 HR 研究委員会の議題は、二学期に行なわれた HR 活動の回顧、失敗や成功の例、『HR 委員の手引き』作成案などだった。委員会責任者の YMG 先生が調査された統計の結果や、そこから導き出された、HR の運営を阻害する因子の話などで、先生の前置きが長くなった。 先生は、委員一人ずつを指名して、各委員にかなりの時間しゃべらせる進め方をされた。ぼくは自由時間についてのぼくたちのホームでの論争と、自習時間が設けられたことを報告した。うっかり「結局」という言葉を三度もいってしまい、それが、長い話のほんの初めに続いただけで、平均すればそれほど頻繁でないようにするつもりで、「そして自由時間…」と続けようとした。しかし、いうことが尽きて、尻切れとんぼになった。

2013年9月19日木曜日

放課後の編集室で


高校(1 年生)時代の交換日記から

Ted: 1951 年 12 月 18 日(火)曇り[つづき]

 自分の席で書記の役をしていた Purse が、「こんなことをいって、先生に悪いかもしれませんが」を数回口にして何かいったが、要するにどういうことなのか少しも分らなかった。彼女の発言が終わるやいなや、 Yotch とぼくが並んで同時に挙手をした。後に回されたぼくは、「不十分だった検討、行き届かなかった計画・準備などが、行なおうとしたことを不完全に終わらせ、あるいは、行なえばよかったことを否決させたのだろう…」と、簡明な代りに十分ではない、しめくくりのような発言をした。

 A wonderful thing was happening by the brazier of the 12th room (braziers have been used since yesterday in our school). What a wonderful sight it was! There, Vicky in a black overcoat was sitting, facing a rather naughty boy of the nickname Dove. They looked like whispering. They were really talking something. It seemed that Vicky was feeling curiosity and having strangely calm mind and admonitory attitude to Dove.

 After lessons, we, members of the newspaper club, gathered in the editorial room to edit the next issue of the school paper. Editorial work was mostly done by the members of the second-year class. So, we, the members of the first-year class, were only watching how they counted the numbers of lines of manuscripts and how they arranged the manuscripts on pages.

2013年9月18日水曜日

ホームルーム活動の反省会


高校(1 年生)時代の交換日記から

Ted: 1951 年 12 月 18 日(火)曇り

 Yōko-sensei was absent from our lesson. I have to reflect on my not having been earnest in that lesson.

 During the homeroom time, we made the reflection of our activity in the second term. At first, I said, "It was nonsense to have used the homeroom time for self-study two weeks ago." IMK-kun objected to it. ぼくはそれに対して再反論を短い言葉で行なったが、彼は「試験の点がそのためによくなったということがなくても、実力がついたらよいのだから、意義はあったと思う」という趣旨のことを、長々と述べた。いくら試験の前だからといっても、ホーム時に行なうものとしては、ほとんど意義の認められないこの使い方をもっと反省させたかったのだが、SMM 君までが「あの時間はあれでよかった」といい、議長の Atcher が「この問題はこれくらいにして」ともいったので、それ以上の反論は差し控えた。
 次に OBT 君や Yotch や TKM 君が、いずれも Crow 先生の釈明を要求し、あるいは、先生の考えを改めさせようとする発言を行なった。その前にも、発言の隙間を埋めるために、ぼくが討論会へのわがホームの棄権を、反省事項として挙げたのだった。それには、Atcher が弁明を述べた。
 Ryusuké が H 時に初めて口を開いて、先週の土曜日、すぐに採決へ持って行った Atcher の議事進行ぶりを非難し、"You all are idle. All of you are idle. Idleness is held by all of you. Idle are all of you. It is idleness that you all have." というのが、ほんの少し誇張した英訳に過ぎない発言を、降ったばかりの雪をシャベルの背で軽く叩いて、その上を踏みしめるような感じの声で行なった。それに対し、Atcher が "Let me speak please." といって、わざわざ自分の席へ戻り、「このホームのメンバーの協力の足らなさ」を述べた。もう一度議長席に立った彼は、残りの時間を HRA の訓話に当てようという自らの目論みを捨てて、われわれの発言を許さなければならなかった。[つづく]

2013年9月17日火曜日

調子に乗って


高校(1 年生)時代の交換日記から

Ted: 1951 年 12 月 15 日(土)雪、16 日(日)雪、17 日(月)晴れ

 General Winter has come with great violence. Yesterday, we had a power failure, and it forced us to live a primitive life in the evening. I tried with my mother to play twenty questions and quiz games like those of Tonchi-kyōshistu broadcast by the radio. However, she was soon caught by Morpheus and kept just sleep talking.

 I was defeated.
What am I saying?
I was defeated.
Who did win?
Of course, the winner was Vicky.
What did she win in?
Our biology teacher, Mr. ASK, said that she was perfect in two exams. Then, he talked about "the method of hard study." Our teacher of Japanese language B, Mr. TKT, also talked about "study for the entrance exam." I need to make a firm resolution.

 Snow looks like cream on a cake. The color of the sky seems to give one such a pleasure that one may get when one feels to be alive. However, I don't deserve to get it now.
 調子に乗って sentimental feeling を書き始めようとしている。ただでさえ難解なぼくの日記に、英語でそういうことを書いたら、Sam をいっそう困らせることになりそうだ。

2013年9月16日月曜日

早速「日本語で話しても英語で聞く」


高校(1 年生)時代の交換日記から

Ted: 1951 年 12 月 14 日(金)曇り時々雨[つづき]

 In the short home time, the proposal of having the New Year party of our homeroom was rejected at once. Atcher said dejectedly, "By absolute majority, we have decided to have no party."
Atcher がこんな風にしゃべったのかって? 「日本語で話しても英語で聞く」——。
 When I was about to go home, it started to rain very hard. So, I entered the library to stay there for a while. There was Hotten, who was copying some passages about the election from "Shakaika Jiten (Social Studies Dictionary)." He said, "We'll have an event entitled 'A magazine to listen to' at our homeroom next week. Because I am the election clerk of our homeroom, I'm thinking of talking about my duties."
英語で書くと、面白い話でも真面目なものになってしまいそうだ。

2013年9月15日日曜日

「英語の勉強の仕方」を聞いて


高校(1 年生)時代の交換日記から

Ted: 1951 年 12 月 14 日(金)曇り時々雨

 第二放送、午後六時からの「英語の勉強の仕方」を聞かなかったかい? 北島先生は、"A big black bug bit a big black bear." とか、やたらに "I say" の出て来る文章とか、面白いことも話したね。松本先生は、初めから愉快な話しぶりで、「相手が日本語で話しても、英語で聞くようにする。頭で暗算する」とか、「英語の勉強をするためにアメリカの映画を見る。夢に出て来る人も英語を話す」とか、「目に入るものを片っ端から英語に変える」とかいったね。

 The final game of the debate contest of our school was held during the assembly time. The problem given was "What the student council should be." The game was fought between the home-17 team and the home-24 team. The latter insisted the importance of the independence of the student council from teachers and parents; and the former, consisting of a girl and two boys of the nicknames Iro and Kassho, stated that the student council was one of study activities. The points of the argument given by the home-17 team were abstract, but those given by the other team was concrete. The judge, Mr. Hisada, told us that the home-24 team had won the game by the score of 10 to 7.(注 1)

 早速実行してみたが、こういう日記は、暇なときでないと書けない。[つづく]
引用時の注
  1. 当時は苦労して書いたようだが、いま読むと下手なところが目立ち、いくらか手を加えた。

2013年9月14日土曜日

敵と思ってはならないのだ


高校(1 年生)時代の交換日記から

Ted: 1951 年 12 月 13 日(木)曇りときどき雨[つづき]

 SH 時に Crow 先生が、Iwayuru 先生の 14 ホームでは何千円ものホームルーム会費がたまっていて、今度、忘年会か新年会をするそうだといわれたので、SMM 君か Atcher が緊急企画委員会を開かなければと考えたらしく、放課後、残らなければならなかった。結局(Frog 先生でなくても、手っ取り早く肝心なことを述べようとするときに便利な言葉だ)、何も決まらなくて、明日の SH 時に、何か行なうかどうかと、行なう場合には日と会費をはかることになった。

 図画の時間の前に、12 番教室へ入って行くと、紫中同窓会の幹事長になった先輩が、教壇の上で HRO 先生に質問していた。黒板には、われわれが 10 日前に試験で制限時間内に読まなければならなかった『徒然草』第三十二段の、「月見るけしきなり。やがてかけこもらましかば、くちをしからまし」というところが書かれている。どこが疑問なのだろう。二年生の試験に出たのだろうか。

 分った。敵と思ってはならないのだ。少なくとも、何かの相手とさえ思ってもいけないのだ。でなければ、(注 1)負かすことの容易な相手に常に負けなければならないだろう。入学当初は敵と思わなかったから、何でもなかったじゃないか。(あるいは、Vicky がスランプだったのかもしれないが。)
引用時の注
  1. ここに「自ら課する精神的負担のために、」という句があれば分りやすいだろう。いまは「精神的負担」の代りに「プレッシャー」というのが流行だが、英語とは異なるアクセントで使われるこのカタカナ語を、私は好まない。

2013年9月13日金曜日

国語甲と生物の試験結果


高校(1 年生)時代の交換日記から

Ted: 1951 年 12 月 13 日(木)曇りときどき雨

 今日の一限は金曜日の一限の授業になったから、昨日の五限と解析が二時間連続になる。
 図画の時間には、前二回の作品が返された。しかし、ぼくは、箱のデザインはしばらく貸してくれと先生にいわれ、写生はどうしてか、返却される中に抜け落ちていて、どちらも貰えない。Pentagon 先生の評価には、A、丸で囲んだ a、a、a'、B、…と多くの段階があることを初めて知った。写生の方には、一枚一枚、数行におよぶ文で批評が書かれている(いつかも書いたっけ?)。
 国語甲では、試験の結果が発表される。悪い。この前の中間試験からこの科目で俄然調子を上げて来た Vicky が、4.5947... を立方根とする数の得点をしたのに、ぼくは、3 乗すると 1331 になる数も引き離され、Dan と同点だった。Jack がほぼ 0.01408 の逆数だけ得点したのは、大きな進歩だ。
 次の社会の時間は、眼鏡のつるが耳に落ち着かなくて、何度も手を上げ下げしているうちに終わってしまう。
 毎時間、黒板に大カッコを多く書き、そのカッコの最後に入る項目を書くときに「いま一つは」といわれるのが癖である先生のところへ、放課後、Jack と一緒に試験の結果を聞きに行く。簡単だったと思った中間試験が、今回の英語と同じ点数である。アチーブメント・テストの上半分(下半分は同科目の実習の先生が出題・採点される)も、そのときと同じ一つ(一つの問題が二つの試験で同じだったのだ)で減点された。炭酸同化作用についての中学校でも習った程度の文章の、「[  ]内で行なわれる」というところで、「葉緑素の…」と書こうとしたのだが、[  ]内に入りきらないので、おおざっぱなことでよいのかと思い、「細胞」としてしまったのだ。つまらないことで半端な点数になった。Jack の中間試験の点も、ぼくと同じではないが、やはり 11 の倍数だ。それでも、彼としては結構なものだ。(注 1)[つづく]
引用時の注
  1. 点数をややこしい表現で記してあるが、私の国語甲は、Vicky に 11 点も引き離されて、86 点だったのであり、私としては確かに悪い。英語の期末試験や生物の中間試験についても、いかにも残念そうに書いてあるが、それらは 99 点だったようである。

2013年9月12日木曜日

ホームルーム対抗討論会を傍聴


高校(1 年生)時代の交換日記から

Ted: 1951 年 12 月 12 日(水)晴れ[つづき]

 討論会。わが 15 ホームは棄権(らしい)。Atcher は何をしているんだい。21 番教室で 13 ホーム対 17 ホーム、6 番教室で 12 ホーム対 14 ホームの討論を聞く。司会者、3 名ずつの選手、それに審査員を会わせると、聴衆より多いかもしれないという状況である。序論 3 分、本論 5 分、質疑応答 10 分、結論 3 分となっていて、是非を論じ合うのでなく、双方が自由な論旨を述べてまとめればよいのである。
 21 番教室では、SMM 君が司会をしていた。Jack のホームからは、Hei-chan と Kies が出ていた。他方の 17 ホームは、毎日新聞の連載漫画の主人公の名をあだ名とする生徒と、烏帽子型の頭をして力強い格好の KNT 君だ。他に、一名は出なければならないことになっている女生徒。
 6 番教室へ入って行ったときには、Lotus がいくつもの項目にまとめた結論を、父君譲りの口(多分)で、てきぱきと述べていた。それが終わると、Dan が、もう質問してはいけないのかと質問したが、その答にいかにも残念そうだった。そこで、司会の YMG 君が Lotus の結論の各項目を、兄君に似た声で(語調などは、アナウンサーぶって発音していたようだ)復唱し、次いで、相手方チーム 14 ホームの結論の発表を始めさせた。こちらは社会性とエチケットという 2 項目だけしか挙げなかった。——おっと、テーマを書いていなかった。「ホームルームから何を得るか」というようなものだった。——あとで聞くと、チームワークが足らなかったのだろうと思われる Lotus のホームが負けて、「社会性とエチケット」が勝ったそうだ。
 21 番教室では、時間をうまく使い、各論ですこしずつ優位な意見の述べ方をした 13 ホームが 85 点対 75 点で勝った。SMM 君は、採点の先生のボソボソとした批評の後を受けて、「結局、85 対 75 で、13 ホームにしょうはいが上がりました」といった。賞杯? そんなものは出ない。上がるのは軍配だろう。一緒に傍聴した Massy は、「勝敗」と受け止め、「プラスマイナスゼロね」といって笑った。批評の間、各選手は、Tacker の表現によれば、「裁判所で判決をうけるような、しんみりとした様子」だった。明日の放課後に準決勝、そして、明日と明後日の時間割を全部入れ替えて明後日とされたアセンブリーの時間に決勝が行なわれる。

2013年9月11日水曜日

思慮の浅い採点


高校(1 年生)時代の交換日記から

Ted: 1951 年 12 月 12 日(水)晴れ

 体操、training trousers を泥だらけにして、soccer をする。
 国語乙、『徒然草』二十九段が終わってから、先生が質問を聞かれたので、「この段ではなくて、試験の解答についてですが」といって、「で」は原因と理由の格助詞でもあるから、正しいはず、と質問した。先生は、場所を表す「で」だろうと思って間違いにしたと。思慮の浅い採点をされたのではたまらない。
 続いて、大意を読み取る試験がある。二三四段、一七〇段、三一段の三題だ。いずれも百字以内で書くのである。最初の一題は、四つに分けて、その中の一ヵ所、二題目は、後半に少しばかり、意味を取り損ねたところがあることに、佐成謙太郎の口訳を見て気づく。
いとはしげにいはむもわろし。心づきなき事あらむ折は、なかなかそのよしをもいひてむ。同じ心に向はまほしく思はむ人の、つれづれにて「今暫し、今日は心静かに」などいはむは、この限りにはあらざるべし。(一七〇段から)
分るようで分らないのは、英語のリーダーの二、三課先をよむようなものである。
 解析、p. 134 の (1) まで進んだ。ぼくは次ページの 7 を考えている。ヨウコ先生にこれで顔が立つ。P. 134 の (3) について、Otaké と Daihachi が、また一方では、 Vicky と Jap が、ああだこうだといっている。「"矩形状" だから、正方形でよいのだ。矩形でなければならんとしたら、2.499... できりがないぞ」と、ぼくが口出しした。すると、Daihachi が「もう一辺は2.511... か」といって、Otaké に「2.500... として、どこかで 1 や」と笑われた。(注 1)[つづく]
引用時の注
  1. どういう問題だったのか、これだけでは想像がつかない。

2013年9月10日火曜日

早めに年末の反省/作文の課題は「忘れ得ぬ人」


高校(1 年生)時代の交換日記から

Ted: 1951 年 12 月 10 日(月)曇り[つづき]

 Mouse 先生は四十点以上を全部読み上げられる。この科目でだけ一緒になり、机が隣だが、まだ言葉を交わしたことのない MYK 君や、それに、Otaké や Jap や Garap らも九十点以上を取っていた。さる八日の五限に成績が発表された試験での Vicky と同じ点しか、ぼくは取れなかった。Vicky は、英語研究クラブに属するだけあって、完璧だった。彼女は、科目によっては、試験後に多少自信なさそうな様子をしているときもあるが、常に素晴らしい成績を収め続けている。YMG 先生が「手ごわいおなご」といっていたが、全く、その通りだ。

 昨夜の煩悶はどうだ…。天地がひっくり返るようなことが起こるのを望んだりする。空想が現実になったら、人類はいかに素晴らしい生活を営む動物であり得るだろう。いや、子どもじみた考えに空気をつめ込んで、ふくらませ、もてあそぼうとするのではない。しかし、しかし、…。

 三週間後にこのノートに書くべきことを書いてしまおう。
 「いままでの中で、精神的苦悶の、それも得体の知れない悩みの、最も多かった年。その苦悶の報償として、どんなものも得られなかったではないか!」


Ted: 1951 年 12 月 11 日(火)曇り

 「で」と書いても「によって」と同じじゃないかなぁ? 通釈をしただけでは駄目なところが一つあったのを見落としていたなんて馬鹿らしい。もう一つの問題は、確かに参った。
 図画。あれでも 10 点が貰えないのか。Pentagon 先生は、「ちと惜しいですね」とばかりいっている。
 国語甲は、作文。「忘れ得ぬ人」、それも平凡な人でなければならないというのだ。どこで誰がどんな善行をしたのを見て深く感銘を受けたとか、どこそこで見かけた人がどうであって、未だに心に残っているとかいう記憶が全く出て来なかったから、抽象的な、気違いじみたものを書いた。Peanut 先生は、どう読み取られるだろう。もっとしっかりした末尾を書きたかったが、時間が来てしまった。読み返す暇もなかった。
 H 時は、いつか SMM 君のいっていた撤回が不首尾で、スポーツとなる。討論会には、わがホームから誰が出るのだろう。

2013年9月9日月曜日

目撃/失点理由が分からない


高校(1 年生)時代の交換日記から

Ted: 1951 年 12 月 9 日(日)晴れ

 「○月○日(月曜日)午後五時半頃、上石引町K湯で煙草を吸っているところを目撃したので、副会長などとはもってのほかだと思う」と訴えたいところだが…。KMB 先輩は、紫中の名捕手だったし、もっと真面目だったら好きなのだがなぁ。

 難しい。どうするのが最善か。出て来ないのに出したい。何が結論か。
Sam による欄外メモ:十二月九日(土)トンチ教室、折り句「せいぼ」、〆切り二十四日。(引用時の注:NHK ラジオの「とんち教室」は、土曜日の晩の放送番組だったと思うが、九日は日曜日であり、「十二月八日(土)」の間違いであろう。)


Ted: 1951 年 12 月 10 日(月)曇り

 社会は、まぁよしと。国語乙の TKT 先生が小声で整理番号とともに読み上げられた点数は、鑑賞の第三問題がまだ入ってはいないが、1529番はえらく悪い。Vicky は九十点台の中の七の倍数と三の倍数とに挟まれた整数の点を得ているが、ぼくは、その得点を 4 で割り 1 を加えて 2 で割ったものを初めの得点から引いただけしかない。その時間が終わるやいなや、図書室横へ駈けつけたが、答案は「いま、ここにない」ということだった。Vicky と同点の者が、もう一人他のレッスン・クラスにいると聞かされて、余計に不愉快だった。明日こそ、どこが違っているか、見せて貰わなければならない。あれだけの点がなぜ失せたか、さっぱり見当がつかないのだから。(注 1)[つづく]
引用時の注
  1. 減点の一部は、先生の早合点によるものだったことが、12 月 12 日付けの日記に記されている。

2013年9月8日日曜日

思わしくない/「芭蕉の理想と[  ]は高まい」


高校(1 年生)時代の交換日記から

Sam: 1951 年 12 月 8 日(土)

 やはり思わしくない。



Ted: 1951 年 12 月 8 日(土)曇り

 応用問題は連立方程式のものだった。あまりにもこれに精力を傾けたので、検算をするときには、胸の中に土の塊があるような気持だった。YMG 君でさえ出来なかったそうだが、Junbo はぼくと同じ答をいっていた*。
 芭蕉と西行の芸術に対するうち向かい方や見方といったものについての文章があって、[ ]内を埋める問題の最後、
  であるから芭蕉の理想と[  ]は高まいである。
がちょっとはっきりしない。信念**、精神、境地、努力、…と二字の熟語(二字とは決まっていないのだが)を並べてみてから、「技術」を選んだのだが、これではしっくりすると思えない。Jack の「空想」や Tacker の「現実」は、類意語や反意語を持って来ただけのことだ。
 図画は、あれだけのことを教えただけで百点満点で採点する問題を作るのは無理と思われる。Dove が真っ先に、先生が赤鉛筆を最も減らさないで済むであろう答案を出し、続いて時間の 1/3 ぐらいで、残るわれわれが自分たちの鉛筆を十分に動かしきって提出した。

 "8:30 Natukasino Melody." Sam が栃木県の県庁所在地と同名の書店でタイプライティングの本をめくって、ラジオ番組を打ったらどうなるかなといい、こんなチャンポンになって滑稽だといったのは、夏休みのことだったかい? ぼくの英訳は不完全だけれども…。

 木曽坂を下りながら考えた Jack との遊びは、いままでに考えた中で最も知的な遊びの一つだ。
Ted による欄外注記
 * Jack も出来なかったのだから、皆はどうかと思ったが、Octo も Massy も出来たそうだし、Jap から「210 人と 945 人」と聞いた 「Vicky も嬉しい!」といっていた。
 ** 誰かが「信念」が正しいそうだといっていたのを聞き、なるほど、しかし、「信念が強い」とはいうが、「信念が高まい」というのは変だ、と思った。しかし、ぼくもちゃんと候補に挙げていたのだ!(12 日に記す)

2013年9月7日土曜日

何と無造作に生命が…


高校(1 年生)時代の交換日記から

Ted: 1951 年 12 月 7 日(金)晴れ

 十二指腸虫が皮ふから入るとは思わなかった。ハワイ二世なんとかのチームが来日したのは今年だったかな? ハンドボールだったかな? しまった! バスケットボール・チームだったよ。保健体育ではこれだけを間違えた(これだけでも、相当な痛手になりそうだ)。
 生物は実習の先生が二題出した中の初めの、「つぎ木」についての問題の五つか六つの小問中、一つまたは二つが先生を満足させないような解答になった。
 明日は解析…。何だか精神的なものがからみついて来るぞ。
 午後二時。何をして明日を迎えたらよいのだ? 他のことで、あまり頭を使いたくないし…。

 祖父がロシア語の単語で覚えているのがあるかと聞いたので、紙に書き出してみたが、二十三、四しか出て来なかった。Г、Ю、И、Д などの文字があったっけ。(注 1)

 何と無造作に生命がふっとばされたことだ。こっぱみじんにされ、ぼろぼろになり、ふくれあがり、倒れ、叫び、よろめき、逃げまどい、探し歩き、泣き合っている…。(注 2)
引用時の注
  1. 半ば寝たきりだった祖父とこのようなやり取りをしたことは忘れてしまっていた。この注を書いている時点の私の年齢は、当時の祖父のそれに近い。
  2. 長田新・編『原爆の子:広島の少年少女のうったえ』(岩波、1951)を読んでの感想である。さる 9 月 5 日、アマゾンに古書として出ているこの本の紹介ページに、上記の感想を引用した短い書評を投稿しておいた。

2013年9月6日金曜日

人権に対する認識を深め…/「小売商はいかにしたら…」


高校(1 年生)時代の交換日記から

Sam: 1951 年 12 月 6 日(木)

 思ったよりも、うまく行きそうだ。八枚ばかり試作してみた。それでも、なかなか難しいぞ。文の配置は、よく考えなければならない。

 社会の時間がちょうど第六限にあったので、中央公民館へ、「世界人権宣言三周年記念講演と映画の会」に行く。会はすでに始まっていた。人権を人絹と間違えた人がいるなど、笑えない喜劇もあるという。とまれ、われわれはもっと人権に対する認識を深め、それを守って行かなければならないのだ。
 映画は二本あったが、一本は基本的人権についてのもので、もう一本は CIE の「交換学生の…」というものだった。これはアメリカの生活の一面や、彼我の考え方の相違などを知るのに、大変役立ったと思った。


Sam: 1951 年 12 月 7 日(金)

 商業は「小売商はいかにしたら将来発展出来るか」という題で論文を書かされたのだが、1. 過去における商人についての反省、2. 小売商の認識と営業方針、3. 小売商以外の分散機関との関係、4. 商業共同組合、について述べておいた。
 保健の試験の方は、半分は生物のようなものだった。だいたい書けたつもり。
 明日の解析の試験の準備をしなければならない。

2013年9月5日木曜日

英語の試験は芳しくない/「友が皆我より偉く…」について


高校(1 年生)時代の交換日記から

Sam: 1951 年 12 月 5 日(水)雨

 雨が降ってきたので、練習不可能となり、まだ二十分ぐらいあるのに終わったが、早飯をする気になれない。

 "I have nothing further to say on the subject." というのは、どう訳したらよいだろうかね。これのほかに、"Fill in blanks." のところで、"In time television may be ( ) popular ( ) the radio now." を間違えたりしたから、芳しい成績ではない。
 第六限はアセンブリーに変更され、一年生は出席しなくてもよいことになったから、いつもの二倍ぐらいタイプの練習が出来る。アセンブリーの方は、金大・某教授の「家」についての講話だそうだ。



Ted: 1951 年 12 月 6 日(木)曇り

 昨夜は、NJB の「バイバイ・ゲーム」と ABC の「頭の体操」を半分ずつ(アースをとってないせいか、電波の調子のよいときでないと、民間放送はよく聞こえないようだ)聞いたりして、九時に寝てしまった。
 試験問題は、大したものではなかった。しかし、労働組合の争議権を知らなかった。"It may work." と "... if it works ..." の、ピッタリした訳が書けなかった。"I hope he will soon get well ." の soon を最後に書いても間違いではないだろう。啄木の「友がみなわれよりえらく見ゆる日よ花を買ひ来て妻としたしむ」という短歌を鑑賞して、百字以内の文を作るのがあった。YMG 君は、妻が死んだのだといっていた。ぼくは、「自分の努力が足りないことを自覚して、これからいっそう励もうという作者の心構えが…」などと書いたが、どうだろう*。これだけが「問題のある」問題の全部だ。
Ted による欄外注記
 * Jack が先生に聞いたところ、死んだのではなく、暮らしが貧しいのだと説明されたそうだ。

2013年9月4日水曜日

「おぼしき事いはぬは…」


高校(1 年生)時代の交換日記から

Ted: 1951 年 12 月 5 日(水)曇り一時雨

 どうすればその場に当たって自分の力を、どこかにひっかかって出て来なかったり、出し損なって方向違いに走ったりしないで出し切れるかぐらいは、周囲が平常とは違うのだから、考えてみないでもない。

 先生が皆の意見を聞く国語乙の授業は、整理番号順に当てて行かれた。いままでに何度も当てられたか自発的に発言した者は省かれたので、つまらなかった。『徒然草』第十九段に「おぼしき事いはぬは、腹ふくるるわざ…」とあったのを、「あはれ」と感じた。
 黒板にどこかの高校生のだという三首の短歌が書かれていて、その鑑賞をしてもよかったのだが、大抵の者は、第二芸術論についてそれを否定、または肯定する、あるいはそれらの中間を取る意見を述べた。Dan が「俳句は造花をするのと同じようなことだから…」といったのは、まとまった考え方の一つだった。
 第二芸術と考えないという論では、芭蕉や蕪村や啄木や日本独特のよさや簡潔で深遠ということなどが引き合いに出され、その反対の論では、字数の窮屈なこと、世界的でないこと、人生いかにあるべきかを詠んだ句が見当たらないこと、などが一人ひとりの短い論旨(というほどでもないが)の中心だった。
 何でもつらつらとしゃべればよいのに、「あと回しにして下さい」という者が数人いて、中学での音楽の歌唱試験のことが思い出された。NKM 君が「私は」といってから、「桑原武夫ですが」といったので、一同は笑った。桑原の原を隆起させて、山にしてしまい、Peanut 先生と混同したような名をいった者もいた。

2013年9月3日火曜日

生徒議会が進行やり直し


高校(1 年生)時代の交換日記から

Sam: 1951 年 12 月 4 日(火)

 この前の定期考査の答案が返される。予想していたより九点だけよい。
 第三限にはずっと前の英語の試験が返されたが、これは九十点満点のところ六十点以上が四人しかいなかったそうだ。残念ながら、ぼくはその仲間入りするのに一割だけ不足していた。先生がぼくの方を向いて、「そこらあたりに相当出来そうな人がいるんだけど、案外駄目でした」といわれたときは、悲しかった。

 C の時間に議会が開かれる。議題は、
  一、執行委員補選の件
  二、執行委員・議員の掃除復活に関する件
  三、会則修正の件。
 まず、一について、新会長の Ban 君から、現在執行委員が一年二名、二年一名不足していて、補選の必要があるが、それには手数と時間がかかるので人選を執行委員会にまかせてほしい、と議案説明があり、討論なく可決。二については、従来、執行委員および議員に対しては掃除が免除されていたが、生徒会の活動が不活発であるようならば、復活してはどうか、と会長から要望があり、続いて、三、会則に役員の任期その他の点に不備があるから修正しては、と執行委員会側から動議があったが、それについて再び某議員が会則の一部を修正することを動議し、これが採択され、討論のないまま採決し可決。
 折から遅れて入って来た三年の議員が、ただいまの採決はおかしいではないかと質問し、ついに議長は「私のミスで」といわざるを得なくなった。そこで、議事がもめ始め、某議員の動議は撤回され、第一歩からやり直し。まず、修正の必要があるか否かについて討論採決し、修正の必要が認められ、第二歩として、議会側から五名の会則修正委員を指名するという動議があり、可決。これに対して執行委員会側から発言がある。そこで、再び二について、それを某議員が動議として提出したが、これは否決。このとき、会長が立って、掃除の復活は勿論望むところではないが、生徒会に対して誠意を示してもらいたいと発言する。かくして三時二十分閉会。

2013年9月2日月曜日

Vicky が遅刻して


高校(1 年生)時代の交換日記から

Ted: 1951 年 12 月 4 日(火)曇り時々雨

 昨日から三十分遅く始まることになったのに、Vicky は遅刻して解析の教室へ走り込んで来て、「のびた!(注 1)」と叫んだ。
 六限、座席の決まっていない生物の教室へ行くと、前の方がほとんど一杯だったので、いつになく後ろへ行って鞄を置いた場所が、真ん中の列を対称軸として「のびた人」と対象の位置だった。確かにそうだったはずだが、彼女が、「血が凝固しなかったならば、出血したときに、どんどん…」と、中学で習った復習のような答えをしたときには、私から逃げた(のじゃあるまいが)ような、最窓側の位置にいた。AS 先生が、骨髄内で赤血球が製造されて、そこから骨膜へ来ている血管へ、どのように運搬されるかを、「戦時中、山奥の工場で飛行機を作って」という例えで話されたのは、これで三度になる。
 血(を沢山書く日だ)液が顔にばかり集まって、不愉快な気分だ。先週のきょうもこうだったようだ。一週間毎に熱の出る風邪かな? 一斉テストだというのに、体の調子が悪くてはいけない。
引用時の注
  1. 「疲れた!」の意。

2013年9月1日日曜日

HRA の話はいつも…


高校(1 年生)時代の交換日記から

Sam: 1951 年 12 月 3 日(月)

 破れても泥んこになってもかまわないシャツとトレパンをつけて来いといわれた。ラグビーのボールを小型にしたボールを使ってする競技だ。アメリカン・フットボールをモディファイしたものだそうだ。
 H 時には、ホームで文集を発行するかどうかと、掃除用具の不足をどう解決するか、の二つについて話し合おうとしたのだが、ほとんど意見が出ない。前者は保留、後者はホーム PTA のほうから金を出して貰って、ほうきを買うことにする。
 そのあと、HRA から小説についての話をして貰う。先生の話はいつも経済を基盤としたものになる。それと、『リーダーズ・ダイジェスト』あたりを読むととか、『産業経済新聞』あたりを見るととかいわれるのも癖だ。
 英語はどうしたわけか休講になる。NHK broadcast program は一枚だけ打てた。日曜から火曜までである。これならば、二枚の紙に全部打てそうだ。文字の位置の決定に大分時間をとられた。
(注 1)
引用時の注
  1. NHK ラジオの毎週決まっている番組を英訳して表にしたものを私が作り、そのタイプ打ちを Sam に頼んだのである。

2013年8月31日土曜日

『徒然草』第二十六段や第二芸術論


高校(1 年生)時代の交換日記から

Ted: 1951 年 12 月 3 日(月)晴れ

 国語乙は、先生がわれわれの意見を聞く時間だということで、少し変った授業の進め方だった。前半は『徒然草』第二十六段について先生が解釈を進める間に次々と質問を出されるという形で、後半は、フランス文学者・評論家、桑原武夫の「俳句の第二芸術論」の説明があり、それに関して自分たちの思うことを述べるのだった。Jack が真っ先に手を挙げ、「必ずしも」などという、こういう問題を論じるにふさわしい数個の言葉を挟みながら、「第二芸術」を是とする論を述べた。その途中で鐘が鳴ってしまったが、水曜日の時間にこの続きをするそうだから、楽しみだ。少し考えておこう。
 解析の時間、ヨウコ先生の質問に誰も答えないので、先週から三回ほど連続になるが、一日を通じて三回あれば多いほうの挙手の機会に、ぼくが手を挙げて授業の進行を早めた。しかし、答えてみると、やや見当違いの答だったことに気づく結果となった。
 『徒然草』第二十六段に「忘られぬものから」とあるところを、先生がそのまま読んで行かれたので、脱字があるのではないかと、図書館脇の部屋へ単身乗り込んで、先生にいって来た。いま、『対訳徒然草新解』を開いてみると、「忘れぬものから」となっていて、教科書のほうは、脱字でなく余分な字が入っていることになる。[口訳]では、「忘れられないものの」となっているが…?(注 1)
引用時の注
  1. 「脱字」と思って先生にいいに行った内容と、それに共通する日記末尾のこの疑問は、口語的発想のものだった。

2013年8月30日金曜日

障子張りなどの日曜日


高校(1 年生)時代の交換日記から

Sam: 1951 年 12 月 2 日(日)曇り

 朝のうちに障子張りを済ませなければならなかった。1ヵ月に一回ぐらいの割合で北国新聞についてくる細長い紙の一部分で買ってきた紙を張る。ベタベタッ、ベタベタベタ。シューッ! ピンピン。スゥスゥスゥ。シュッ。いっちょあがり! 熟練しだしたのと済むのがちょうど一緒ぐらいだ。

 もう正午に近い時刻になってから、理髪店へ。晴夫君が働いている。ぼくは彼にして貰うことになる。電気バリカンのガーガーいう音と、のど自慢とをごっちゃにして耳へ入れる。ソロリソロリソロリ。馬鹿ていねいにしてくれる。どちらかといえば、恐る恐るのたぐいだ。同年齢でありながら(No, no, 彼は満十五歳十一ヵ月だ)、彼はこんな技術を得ている。いや、いま得ようとしているのだ。

 ぼくの家から右手へ四軒目の家でドリルを借り、長町小学校の少し手前の向かい側の店で、ボルトとナットを買ってきて、やっと作り上げた。
(注 1)

 風呂へ。浴槽内で狸君に合う。進学についてだいぶん迷っているらしい。必要と思われるものの説明を一応しておいた。もう四ヵ月もすれば、やがて新しい生徒がぼくたちの学校へ入ってくるのだ。
(注 2)
引用時の注
  1. 何を作り上げたのか、ここだけでは不明だが、何週間か前に関連の記述があったようだ。
  2. 短い四つのパラグラフだけからなる日記だが、高校一年生の初冬の日曜日の雰囲気がよく出ていると思う。

2013年8月29日木曜日

朝のイザコザ


高校(1 年生)時代の交換日記から

Ted: 1951 年 12 月 2 日(日)晴れ、夕方雨

 SCAP へ英語弁論大会を聞きに行きたいが、アチーブメント・テストを控えての日曜日とあっては、快く付き合ってくれるものは誰もいないだろう。Sam と昨日約束しておけばよかった。

 大変な剣幕のようだ。おや、泣き出した。「母さんを見下げないで!」だって。彼女の母も階段を上がって来ているらしいぞ。朝食に用いた食器を半片付けの状態にして部屋を出て行った母が、妙な調子でいい返しているぞ。なぜ、そんなに堂々めぐりの話を続け合って興奮しているのだ。溝掃除に出てくれとのことだといったとか、うちにも男はいますといったとか、水道代がどうとかで済みませんといったからどうだとか、人情だからとか、裏を考えるとか、奥さんは気兼ねな生活というものを知らないとか、私は愚か者だからとか…(朝記す)。(注 1)
引用時の注
  1. 泣きながら「母さんを見下げないで!」といったのは、間借りしていた家の長女だろう。家主の家族と間借りしている家族の間には、いかに平和が保たれていても、時として衝突が起こる。大連から引き揚げ後、何軒も移り変わって長年続いた間借り生活の間、母の苦労は大変だっただろうと思う。