2013年3月31日日曜日

ヨウコ先生への宿題


高校(1 年生)時代の交換日記から

Ted: 1951 年 8 月 12 日(日)晴れ(つづき)

 (9 日のこと。昨日書いた続き)歩き続けるうちに電車道へ出ることが出来た。岡崎神社を見てから、電車の旅に変えた。伯父の家へ帰りついたのは、夕飯に適当な頃だった。庭の草取りに来た老婦人がまだ働いていた。伯母はホースを引き伸ばして、老婦人に放水の仕方を説明した。老婦人は庭に雨を降らせ、飛び石の上の砂を吹き飛ばし、樹木に生気を与え、涼しさを演出した。伯父が会社から帰ったが、客と縁側で話し続けたので、ぼくは一人先に夕食と入浴を済ませた。風呂から上がると、ようやく伯父夫妻が食卓に向うところだった。扇風機。麦茶。それに似てスピリットのある(という表現は『サンデー毎日』のクロスワードパズルにあったもの)ビール。泡。洗面器を必要としない洗面所。木の香り。大きなガラスの入った縁側の戸。青く涼しい感じのカーテン。犬のコロとエルのじゃれ合う声。伯父の、首を右へ傾けて回しながら笑う笑い。伯母の白く塗った顔。暑くて眠り難い夜——。
 (10 日のこと)金沢着午後八時二十四分。京都と比べるから、小さいという感じ。電車内の窓間の柱毎にある小さな鏡に写る自分の顔は、疲れたようには見えない。家。静寂。暑さの中でいつもとは頭の位置を逆にして寝ていた祖父。

 (11 日のこと)沢山たまっていた新聞を、手に取った次の瞬間には折りたたんでいるような速さで読む。疲れていないと思っても、やはり疲れている。母へ極めて少量の土産話——。
 午後 Jack。公共職業安定所から通知が来て Neg に譲った Sam のこと、Twelve が中耳炎ということ、肺が悪くなり三十二米しか投げられなかった OKB 君のこと、Lotus が映画を見てばかりいること、などを話してくれる。さらに、解析の連立方程式のこと、地鳴欄に掲載の Hotten の「感心な乗務員」のこと。台所町にヨウコ先生を訪ねるため出発。家はすぐに分る。赤ちゃんを抱いて出て来られた先生に、玄関で質問。行列式。黙考。顔、足、胸に目が行く。回答は明日の午後一時〜二時に学校でということに。Jack は先生に宿題を出して得意顔。余談に「順列組み合わせ」nPr のこと。さらに先生方の講習の話。ヨウコ先生「一級免許で校長になれるんや。」Jack「一級やと校長か。」ヨウコ先生「"一級が校長" でなしに、"一級やと校長になれる" んや。」必要条件と十分条件を持ち出されるかと思ったが、出なかった。
 帰路、後ろから紫中の Zu 先生。視力 0.1 の Jack が先に気づく。投げつけるような調子の先生の質問はお決まりのもの。先生はいま芳斉町小学校、宿直に行く、音楽・図工以外は何でも教えとる、と。
 晩、Y 伯母が来る。伯父の家の扇風機やガス風呂、J 伯母に連れて行って貰った大阪見物で、エレベーターで上がった大阪城天守閣、大阪の首つり街道などの話を聞かせる。(つづく)

2013年3月30日土曜日

京都市内歩きのこと


高校(1 年生)時代の交換日記から

Ted: 1951 年 8 月 11 日(土)晴れ(つづき)

 (一昨日の京都でのこと)昼食を済ませてすぐに伯父の家から出かけたのだが、計画がヤボだった。倹約のため(いや、歩くクセがついていると、八円を払って電車に乗り降りするのは面倒でならなかったのだ)、水分を大量に発散させ、むやみにこれを取り入れたくなり、その上、影の延伸と腕時計の針の回転を相手に、一生懸命に競争しなければならなかった。
 伯父の家の近くから四条大宮までは十五円の電車を利用したが、そこから歩いた。四条堀川—四条西洞院—四条烏丸—烏丸蛸薬師—烏丸三条—烏丸御池(このように書いても面白くないね)。御所を通って烏丸上総町から鴨川を涼風に吹かれて渡った。もう四条の方へ戻ろうとしたが、なかなか大通りの曲がり角がない。高木町(これらの町名は、いま地図と照らし合わせて書いているので、そのときは分らなかった地名が多い)から右へ角度が変わって、また川を越した。どちらへ向っているか分らないうちに、再び右へ曲がった。
 ここで勘違いをした。二度曲がったから四条通りに平行に西へ歩くことになったと思い込み、百万遍の交差点で南へ行くつもりで、実際の東へ向きを変えた。右手に森が現れ、銀閣という文字が方々から目に飛び込んで来た。銀閣は北東の方だったはず、いま、そんなところにいるのだろうか? 地図を持って来るのだった、などと思った。考え込み過ぎたら、ついには電車通りをも見失って、完全に方角が分らなくなった(これは面白いぞ)。なんとか、バスの通る広い道を直進した。両側に山がある。右にあったのが吉田山で、左に赤みを帯びて来た陽光(まだそんな時間ではなかったが、そう感じた)を受けて意地悪い顔つきで坐っていたのが大文字山だったとは、帰ってから知った。(明日続きを書くことにする。)

2013年3月29日金曜日

京都から帰る


高校(1 年生)時代の交換日記から

Ted: 1951 年 8 月 11 日(土)晴れ

 ただいま! こちらもやはり暑いね。昨日は十一時五十九分に京都を立った。到着したときには白んで来た空や丸物デパートの暁眠を見ていて気づかなかった京都駅の様子は、昨年の修学旅行でわれわれが見たところの一つをも残していないものだった。間に合わせのバラック建てでは、どうも京都という感じがしない
(注 1)。汽車が動き出すとき、J 伯母さんはつまらなさそうにブリッジの階段を上って行ってしまった。滞在中のぼくは悪印象を与えたかなと心配であり、また気の毒でもある。
 腕時計と皮ふの間にごってり汗がたまる。トンネルを通るときは、動かない空気の中で足を踏んばり、腰に拳を当て、月世界旅行のロケットが引力圏内を離れるときの真似ごとみたいだ
(注 2)。近江八幡で腰かけることが出来た。一時間…二時間…三時間…、周りにいた乗客は誰も彼も、棒についている清涼剤を食べたりして、次々に下りて行く。そして、代りが乗って来る。変化があってよい。ちょっとでも変化がなくなると退屈する。北へ向って走る列車の左側の席だったから、午後遅くの日が射し込み始めた。
 通路を隔てた隣に席を占めていた四人家族の中の父親は、小学校教師らしい人だった。透明な縁の眼鏡をかけ、口の上に台形のひげを蓄えている。「それ、あそこが…」、「ほら、そこだ…」、「あっち、あっち」という調子で、忙しく方々を指差して子どもたちに話していた。野洲というとろでは、戦時中の学童の集団疎開が、この駅でどのようにして行なわれ、幾組もの母と子がどのように悲しんで別れたかを物語った。(つづく)
引用時の注
  1. 私たちは 1950 年、中学 3 年生の春、京都へ修学旅行に行った。同年 11 月、京都駅構内の食堂からアイロンの不始末によって出火し、私たちの見た駅舎が全焼した。それで、その翌年に当たるこのとき、京都駅舎はバラック建てだったのである。
  2. 当時の列車を動かしていたのは蒸気機関車だったので、トンネルを通るときは煙が車内に入らないように窓を閉めた。客車内には扇風機もなく、8 月の暑さに耐えるのが大変だった。

2013年3月28日木曜日

町内の海水浴に合流


高校(1 年生)時代の交換日記から

Sam: 1951 年 8 月 4 日(土)(つづき)

 乗っている電車がもどかしく遅かった。飛び込み台のところにいる機動君を見つけて、ようやくたくさんの知っている人のいる浜茶屋へ入った。晴夫君(謎の答えを書いてしまった)は、先にお母さんが来ていられたからよかったけれども、ぼくは階下の小母さんに服や身の回り品を預かって貰った。一度軽く泳いでから、ここまでに名の出た友人たちと三人でボートを借りて沖へ出た。晴夫君は水中眼鏡をかけてボートから飛び込み、二枚貝をとった。しかし、そんなに多くはとれなかった。機動君がオールをこいで、ぐんぐん沖を目指した。犀川の堤防と同じくらいの距離になった。舟板一枚の下は身長の数倍はあるだろう。北西の方からうねり波(と名づけてもよいだろう)が押し寄せてきているので、それと垂直な方向にボートをおけば、たちまち呑まれてしまう。注意しながらカーブして、波打ち際へ帰った。

 バスが出るとのことだったが、われわれ三人を入れて七人はまだ残ることにした。しばらく排球をして遊んだ。そして、今度は晴(夫と一)が晴(一は夫)
(注 1)に助けられながら、二〜三十米沖にある遠浅へ行き、二枚貝をとり始めた。ボートで調査済みなので、うようよといる。しかし、その深さがぼくたちの身長では及ばないので、泳ぎながらとらなければならない。平泳ぎと立ち泳ぎと水潜りを交互に行なって、手に貝を納めるのである。疲れるたびに遠浅へ戻って休んだ。遠浅といっても、そんなに浅くはなく、ぼくが肩から上を辛うじて出せる程度のところである。晴(夫よりも一)の方がはるかに長く多く休んだ。とった貝は褌の間にはさんで持っている。晴(夫も一)も袋と名のつくものは何も持っていなかったし、こうして持っている方が泳ぐのにも邪魔にならなくてよい。五、六個とる毎に、波打ち際へ戻って貝を手拭に包んだ。晴(夫と一)を比べれば、3 : 1 ぐらいの割合の貝をとった。やがて他の五人が帰るといい始めたので、くたくたになった体を前のめりにさせるようにして駅に向った。

 帰ると、母が佐渡島の緯度よりも高い熱を出して寝ているとのことなので、驚いて駆けつけた。やがて十時になる頃まで、肩をたたいたり、腰をもんだりした。
引用時の注
  1. 「晴夫と晴一」などを、数学の因数分解のように共通因子をカッコの外にくくり出して記してある。晴一は Sam の本名。

Sam: 1951 年 8 月 5 日(日)晴れ

 いつものように午前中を終えて、そうだ、少し早めだった、ワン・マンと同じ苗字の家の子を連れて、日米陸上競技金沢競技会を見に行った。正面の真向かい、すなわち、国旗掲揚台のあるところの入口から入る。
(注 1)
引用時の注
  1. この日の Sam 日記は、ここで中断している。

2013年3月27日水曜日

夏休み中の登校日


高校(1 年生)時代の交換日記から

Sam: 1951 年 8 月 4 日(土)(つづき)

 きょうは町内の海行きである。七時半頃にバスが来て、町内の健康で有閑な人間の大部分がそれに乗りこんだ。ぼくも行きたいが、残念ながら登校日だ。八時のサイレンと同時に家を出る。何だか学校へ行くのが恐ろしいような変な気持だ。「オス!」「お早う!」「やあ」などということばを始終いっていなければならない。
 Funny とダルマさんが雑談しているのを見つけた。久しく会わなかった(ダルマさんには、先日、Ted をおっぽり出して会ったが)のだけれども、話しは何から何までみんな分っているような気がした。2 日にした約束通り、ダルマさんがぼくに一通の手紙を見せてくれた。差出人の住所氏名はローマ字で書いてある。カナザワシナガタホンマチまではようやく読めたが、次が h か k かよく分らないあいまいな字だった。便箋を取り出す。二枚ある。紙は上等でも下等でもなく、派手でもなかったが、汚れてもいなかった。ちょっとまとまった字である。一目見て(書体よりも文体で)、大人になれば父親になる性の人間でないことが分った。例えば、「…ですわ」、「オホ…」、「…ですよ」である。ダルマさんのホームメートが来たが、先生からの手紙といってごまかしていた。ぼくは大げさに感心したり、不審がったり、笑ったりした。ミステークがおびただしくある。字の誤りでなく、文章の誤りである。
(注 1)
 そうこうしているうちに始まった。8 ホームの欠席者は六名である。『二水新聞』第十四号が無料配布された。特別会計から予算を貰うために無料なのだそうだ。やっぱり面白くない。タプロイド版二ページなのに、読みたいと思うところは皆無である。いかに無料とはいえ、いや無料ならもっともっとよくすべきだ。
 清掃主任の先生が欠席とかで、清掃はしなくてもよかった。さっそく図書館へ行き、本を返してから、各々違う目的で二冊を借りた。帰宅したら、まだ十時になっていなかった。それで、いつもの何分の一かではあったけれど、ぼくのものでない時間を与え、やや早く昼食を済ませて、「男の涙」の歌手
(注 2)に田の字を加えた友人と二人で電車に乗り、町内から行っている海水浴場に向う。(つづく)
引用時の注
  1. 私が 7 月 30 日付け日記の後半に書いた、Jack が S さんの手紙を見せてくれた話によく似ている。当時の高校生たちにありがちな情景だったか。
  2. 岡晴夫。1949 年の新東宝映画『男の涙』主題歌、高橋掬太郎・作詞、上原げんと・作曲の「男の涙(夜の裏町)」を歌っていた。

2013年3月26日火曜日

ぼくであってぼくでない時間


高校(1 年生)時代の交換日記から

Sam: 1951 年 8 月 4 日(土)

 詩歌とは静かなるところにて思い起こしたる感動なりとかや、である。ぼくの書いているものは詩歌ではないし、さほどの感動も催していない。そしてまた、静かでもない。それでも、多忙で過ぎてしまった遠い日々を思い出して書くということは、詩歌に匹敵するであろうし、そうでなくても書かなければならない。
 「多忙の大半は無駄である」と誰かがいったように、Ted は多忙はあり得ない、少なくともこのノートを開いて一、二ページ書くぐらいの時間はあるはず、と思っているだろう。だのに、ぼくにはそれが出来ないんだ。そりゃ、心の持ち方一つでどうにでもなる。けれども——だ。
 午前中一杯と夜の一部は、ぼくであってぼくでない。——どこかで聞いた言葉の焼き直しみたいだ。でも、これは抽象的過ぎて、ぴったりしない。時間を拘束されるとか、時間を奪われるといった方がよいかもしれない。——夜のほかはラジオのとりこになる(これが、平凡な一日では、唯一の楽しみ)。午後は暑くって駄目。自然現象のほかに、満二歳にならない人間
(注 1)がいるから、インクやノートは絶対に(といってよいくらい)机上において仕事をすることは出来ない。——(つづく)
引用時の注
  1. Sam の父君はすでになく、母君は再婚して Sam とは別居し、Sam は祖母様と暮らしていた。母君は職についていたので、再婚後に出来た娘である Sam の妹を昼の間祖母様のところへあずけていた。「満二歳にならない人間」とは、この妹のこと。

2013年3月25日月曜日

日雇労務者の苦労を思う


高校(1 年生)時代の交換日記から

Sam: 1951 年 8 月 3 日(金)晴れ

 アボットとコステロが出る映画の題名の最初の二字
(注 1)を組み合わせたような穴を、 10 cm2 足らずの厚い紙に開けて貰って出るところで別れる前に、二人で半分以上は口を動かさないで、あまり明るいともいえない道を歩いたネ(注 2)。何度も考えるのだが、やはりぼくは何となく歩きたかったからだ。お日様が沈んで見えなくて、いろいろな人工光線がぼくたちの行くところに輝いていたという以外に、さして珍しいとも思わなかった。ぼくが笠市町といったところは、此花町だった。ぼくたちが曲がった次の曲がり角から向こうが笠市町である。
 Ted が大あわてでせきたてるので、可愛そうでいて、何かしらおかしかった。ぼくが高松へ海水浴に行ったあの日は、たしか三分前に切符を手に入れて、ブリッジを渡り、列車の最後部の一両前まで歩いたのだが、完全に間に合った。それでもまあ、県内とは違い、それに夜だから、仕方もあるまい。
 大急ぎで中橋の踏切へかけつけた。三回ばかり邪魔物が上がったり下がったりした。九時三十二分と数秒で、Ted の乗っていると思われる列車が来た。案外人は少ない。眼前を音もかろやかに通過して行く。アッという間にという言葉の倍くらいの速さで過ぎて行く。人の顔は誰も彼も同じに見えて、誰々であるというほどはっきりとは分らなかった。だから、Ted もどこにいるやら分らなかった。ぼくは踏み切り番の小屋の明かりではっきり顔の分るところにいたから、Ted の方では分ったかもしれない。

 朝は八時までに集合ということになっていたが、事実上、仕事を開始したのは九時近くだっただろう。ぼくは芳正君、機動君と一緒に作業する。現在こそ、てんでんばらばらにそれぞれ違った学校へ通っているが、中学時代には毎朝お互いにうち揃って登校したのだから、気が合う。自由労働組合の人々がやるような仕事をするのである。われわれは二輪車で 80 m ぐらいの距離を石ころや泥を運んだ。相当に力が要る。技術も熟練も要する。「他の誰にも負けないぞ!」という意気込みでわれわれは協力し、頑張った。ときには、あまりスピードを出しすぎて、車を横倒しにして中味をまきちらしたり衝突したりなどしたが、元気旺盛であった。それでも、幾回か同じ作業をくり返すうちに疲れた。しばらく休んだ。
 それから、学校へローラーを取りに行かなければならなかった。われわれ三人と大人の人たち二人で学校の裏門を出て、ジコウソンで有名だったことのある家の前を通り、長町二番丁に入った。十メートルほど入ったちょうどそのとき、川岸の通りをトラックが疾走して行った。三番丁から行こうとしていたなら、いま頃トラックを止めさせるかどうかしていただろうと思ってほっとする。
 石ころ道を引っぱっている間は、戦車が通るときのような凄まじい音がしていたが、宝船路町のコンクリートの道にさしかかると、その音はずっと軽くなっていた。われわれはかなり疲れた。それでも一回も休まないで作業場まで運んだ。お茶を飲んで休んだ。それからの午前中は、モッコかつぎをした。
 ようやく午前が終わった。一時半から仕事を再開するという話だった。家へ帰るなり昼食にし、食べるなり横になった。ふと目をさますと、一時。これから Jack の家へ行けばちょうどよいだろうと思ったが、Jack の家での時間は十分ばかりしかないだろうし、もっと余計に疲れると思ったから、また目を閉じた。
 午後も午前と同じような仕事をした。しかし、午前より疲れはひどかった。休み休み働いた。こんなのをサボっているというのだろうと思った。そして、日雇労務者の苦労を思い、昼の暑い間、正体もなく横になっているのもなるほどと思った。
引用時の注
  1. 凸凹。
  2. 私が京都行きの列車に乗るため改札口を出る前に、見送りに来た Sam と駅近くの夕方の町を散歩したのである。

『青年心理』の本から


高校(1 年生)時代の交換日記から

Sam: 1951 年 8 月 2 日(木)晴れ

  7 月 29 日の日曜に Ted に退屈させないようにと思って見せた本、Ted はそれ一冊だけで、ぼくがいろいろな本を勉強していると断定してしまったらしいね。ぼくは本は読みたいが、あまり読まない。この前のあの一冊は、ちょうど折よくあったから見せたまでだ。あの本を Ted は全部は読まなかっただろうから、ぼくが興味をもって読んだ一部分を抜粋してみよう。
社会的距離における友人関係
  1. 腹心の友だち—離れられない関係。
  2. 親友—ごく密接な関係。
  3. 親しい友だち—しばしば会うが、まだあまり感情的な親しさをもたない。
  4. 知人—よく知っている関係。
  5. 積極的な仲間—グループである仕事を共にするが、他のことでは知らない。
  6. 消極的な仲間—グループで一緒になるが、一緒に何かをしたことがない。
  7. 傍観者—名前は知っているが、話したことはない。
反抗の型
 学校で修養の意味で日記を書かせようとした。中学[旧制]五年の男生徒の一名はどうしても日記を書こうとしない。その理由として、
  1. 日記は他人に見せるために書くものではない。他人に見せることを予定して書く場合はでたらめになる。自分は嘘は書けない。
  2. 嘘を書くことは修養の趣旨に添わない。
  3. 個人の生活には秘密がある。それを先生が知ろうとするのは干渉である。自分はすでに 18 歳である。小学生のように扱われたくない。
親友関係成立の原因(ヘルマン G. Herman)
  1. 彼らは過去の経験、未来の希望について非常に語りたがる。
  2. 多数の友だちとでは親密性がうすらぐので、ごく少数の心から信頼出来る友人を選ぶようになる。
  3. 自分に欠けている性質を友だちの中に見出して、自分を拡大し、補いあいたいと望む。
自我自覚の型
 女学校生徒に「私」という題で作文を書かせ、その内容を分析したところ、
  1. 自分を内面的に深く細く観察する型
  2. 自分を自分以外のものとの関係において全体的に、たとえば、宇宙的存在としての自分とか、社会的存在としての自分として反省する型
の二つに分けられると考えるに至った。
 それぞれ、ぼくの現在あるいは過去の状態とくらべてみて、すこぶる興味があった。そして、未来においてはどうなるかと考えずにはいられない。

 Ted は京都へ行くそうだね。では、これを持って行ってくれないか。Ted はすでに持っているかもしれない。持っていても構わない。ぼくだと思って持って行って、ぼくがしてあるように、Ted の歩いたりなどしたコースをこれに記入してくれ給え。これは修学旅行のときに買ったものだが、一日使った以外は、記念品として保存しておいたものだ。Ted に贈りたいけれども、ぼくの大事な品物の次に大事な品物の一つだから、しみったれているようだけれども、Ted の歩んだコースを記入して土産話を付録にぼくに返して欲しい。だから、(実をいうと)Ted にはやっかいなぼくのあずけ物になるかもしれない。では、しばらく Good bye.

2013年3月24日日曜日

Jack のビッグニュース


高校(1 年生)時代の交換日記から

Ted: 1951 年 8 月 2 日(木)曇り

 こちらから押しかけて行った顔は、よく見てくれたかね。(インクの色が一センチ右の行と相当違うので、目が錯乱するようだ。)事故! きょうも神戸の国電が何かやったね。恒星と恒星が衝突する事故を考えてみよう。壮大だ。新しい太陽系が出来るかもしれない。しかしそんなことの起こる確率は、われわれの手の届く所にある数字で表せないものだろう。宇宙空間に浮かぶちっぽけなほこりのような球の上にとまって、わずかばかりの知恵を振り回している動物が、彼ら自身の作った機械や、少し払えばよかったのを払わないでいた物騒な注意力によって頻発させている惨害は、何とかしてまれにしか起こらないものにしなければならない。まれにも起こらないように? それは、われわれがおかしているミスの数を見れば、望めることかどうかが分るだろう。

 せっかく与えられた時間を半分ほど壊滅させた。甚大な損害だ。ぼくがそうしていた間に Jack はビッグニュースに値する事柄に直面して、彼自身としてなすべきことはなしていたのだ。彼は予定によって、期限切れの本を返しに県立図書館へ行った。そこで彼は当惑し、ちゅうちょし、血液を顔へ集中し、度胸を奮い起こさなければならなかった。そのときの模様を彼はごく自然に彼の日記に書いている。それはいつかの電車の中の Sam とも、映画のときの Sam とも
(注 1)、四月十三日のぼくとも違っている。
 四月十三日のぼく、それは場所も雰囲気も間柄も、きょうの Jack とは少しずつ異なっているが、相手だけは同一である。きょうの Jack とは全然反対のことをしたし、自分でそれでよいとも思えなかったから、問題である。ひょっとすると、あの場合は、あれで仕方がなかったかもしれない。表面的にはそうであっても、自分だけが知っているあのときの心の持ち方には感心出来ない。
 その日、金曜日ではあったが、授業はまだ本格化していなかったので、あの頃何度もやった無駄足を覚悟して、われわれの教科書を取り扱う書店へ徒歩で行ったのだった。一攫千金の夢を売っているところから少し行ったとき、ぎくりとした。数メート先に、赤い風呂敷を持った手を腰に当てるために、藍色のハーフコートの裾を手首でちょっと持ち上げた格好で歩いて行く彼女が見えるではないか。(おっと、古いことを思い出し始めたものだ。)どうしたものかと思い、必然的に足が鈍くなって、一瞬見失った。構わずに宇都宮書店へ踏み込むと、中をすたすたと行く紫色の像(藍色も一生懸命に見ていると紫色になってしまう)が視界に入り、それはすぐに左側へ曲がった。その隙に、ぼくは階段を駆け上がって教科書を求める列についた。そうして待っている間にふと振り向くと、後ろにいて誰かと話している、あの細い目の…(これくらいにしておこう。Jack も彼女の身体の特徴を書いていたが…)。Sam に頼んでまだしてくれない「説明書き」は、どうも Jack に頼んだ方がよさそうだ。福島県生まれということまで知っているからね。(一人の人物
(注 2)について延々と一ページ近く書いてしまった。)

 すばらしいことだとは思っているが、他の人ほど夢中になって喜ぶということの少ないぼくだから、感謝したり、学んで来るべきことを考えたりするだけだ
(注 3)。祖父はぼくに持って行かせるいろいろなものを用意し、母はぼくの身の回りに必要なものをそろえ、きゃしゃながら大連にいたときより丈夫になった伯母も、ぼくにことづける品などをおいて行く。
引用時の注
  1. Sam の日記にあった、友人を見かけながら声をかけそびれてしまった出来事を指す。
  2. 私の日記中で Minnie のニックネームをつけている女生徒のこと。Jack は彼女と中学 2、3 年のとき同じクラスだったので、かなり親しくしていたが、私はこの頃までは、中学卒業時の交換写真を求めたというだけの関係だった。Sam に頼んだ「説明書き」とは、私のアルバム中の彼女の写真につけるべき説明文のこと。
  3. 翌日から伯父夫妻を訪ねて京都へ行くことについて書いている。

「どっちから行く?」


高校(1 年生)時代の交換日記から

Sam: 1951 年 8 月 2 日(木)曇り

 おやおや何だろう。「どこもなんともなかった?」「ほんまに?」「大丈夫か。」「痛ないか。」自転車が二台。一台は倒れている。親子でもないらしい。あっ、そうだ。この曲がり角で衝突したのだナ。(しまった! 8 月 1 日のを書いてない! が、まぁ、続けよう)人のよさそうな男の大人が、やっと自転車に乗れるばかりになったような子どもに手をかけて尋ねている。本当に危ない。ぼくがもう少し早く来れば、この人たちのどちらかとぶつかっていたかもしれない。ぼくがさっそうと乗っている代物も、なかなか危険なものである。
 Ted は明日から遠方へ行くそうだが、万が一こんな事故に出会えば、二度と会えないようになるかもしれない(縁起でもない)。とにかく、きょうは、ゆっくり Ted の顔を見てこよう。

1951 年 8 月 1 日(水)晴れ

 こんな色のインクは、目がちらついてあまりよくないね。母が気にくわないから捨てるといっていたのを、使えないことはないといって貰ってきたのだから無理もない。ちょうどインクが切れて、また 10 円を使わなければならないと思っていたところだったから——。
(注 1)

 おやおや、これは気がつかなかった。肩のところに水泡(そんな大げさなものでない。皮膚が少したるんだようなものだ)が出来ている。もうじき、一枚の皮がむけるのだろう。顔のそれはすでに完了してしまったが、肩のはこれから始まろうとしているんだ。

 「どっちからいく?」「こっち!」「いや、こっちからいきましょう」「いや、こっち!」「どうしても? じゃ、きょうそうしましょう。」「いやいや! どうしてもこっち」「では、しかたがありません。こっちからいきましょう。」
 これだけの会話だ。ぼくには、何か感じるものがあった。このような状態をぼくは幼少時代に経験した記憶がない。「どっちからいく?」とはよく聞かれたが、そんな場合、ぼくは面白そうな方を選んだ。ときにはとんでもない迂回になる道を指したこともあった。けれども、祖母はたいていの場合、ひとことで「うん」といってくれたし、そういってくれないときは、すなおにそうしないことにした。道に関する限り、あくまでも主張をまげないということはなかった。また、祖母の方からも、一度だって競争しましょうなんていうことばを聞いたことがない。そりゃ、ぼくが競争しようといい出して、わざわざ遠い道を走って、無理に走ったふうを見せないで、「勝った勝った」と喜んだことはあるにはあるが、そんなときの祖母は競争の様子もなく、あたりまえにゆっくり歩いてきた。
(注 2)
引用時の注
  1. 少し紫がかった色のインクである。Sam は、あとで引用する私の 8 月 2 日付けの日記を見て、弁解の言葉を書いたようだ。Sam のこの 1 日付けの日記は、上にある 2 日付けの日記から分るように、2 日に書いている。
  2. これは Sam の文の中で、私の最も好むものの一つである。

2013年3月23日土曜日

交換日記ばやり


高校(1 年生)時代の交換日記から

Ted: 1951 年 8 月 1 日(水)晴れ(つづき)

 Jack の家へ戻ると、兄さんが帰っていた。金大の教授になっている友人を訪ねたということだ。兄さんは、自分も教授になれるのだが、「しんどいからならん」のだと話した。すると、Tacker が次のようにいって、兄さんを奥の部屋へ退散させてしまった。「大学教授たらていうても、大したことないな。湯川博士みたいながばっかでないさかいな。」
 Tacker は前輪がふにゃふにゃになって来た自転車で、三時半までに帰らなければならないのだと、三時二十分頃から何度も口にして、他の話しもして、帰着すべきだった時間頃にようやく去って行った。
 ぼくがすることを次々に真似してみたい友が二人いる。少なくとも今までに一つの遊びと一つの仕事
(注 1)においてそうだった。そして、Tom はもう一つを Becky と試み、いまや、Jack もそれを始めようとしている。Jack が昨日始めたばかりの交換日記を見せて貰った。彼の昨日の日記に登場している四人の人物の中の一人が交換相手だそうだが、一人はぼくだから、残る三人の中から誰かを推定しなければならない。この推理はちょっと難しかったが、もしそれが交換相手だとすれば全く不要な説明が他の二人に加えられていたから、分った(それで、キュウリ畑が平凡でないのだろうぜ)。しかし、彼らはどうやって交換を行なうのかな?
 Jack の収集を、また見せて貰った(切手でなく、葉書の方)。彼はそれを発信人別に分類した。枚数のトップは Lotus からの六通。二位が彼の古くからの友でかつ Funny の…で、ぼくとは友人であるようなないような人物からの五通。三位がぼくからの四通。これだけがずば抜けている*。今年だけで見れば、合計で二位の人物と Jubei-san とぼくが、いずれも三枚でトップである。こうして見ると、この収集もまんざら面白くないこともない。Sam との交換ノートの誕生にも、目を酷使するような葉書の使用がきっかけの役割を果たしたのだから、葉書の力は偉大である(今年 Sam は、ぼく宛に 13 円ほど使っているよ。お年玉付きは 3 円だから)。
Ted による欄外注記
 * Massy からのも四、五枚あった。書き忘れていた。

引用時の注
  1. 「仕事」というのは、勉強関連ということだっただろう。

2013年3月22日金曜日

夏の午後の静かな町を歩く


高校(1 年生)時代の交換日記から

Ted: 1951 年 8 月 1 日(水)晴れ

 三日がかりで少しずつ試みた英単語の書き取りの正答率を求めてみた。ぼやぼやしている夏休み中にこんなことをやると、どれほど悪い結果になるかと思ったが、そんなことはないし、確実には掴んでいなかった単語がこれで頭に入る。休みになる前に習ったばかりの "The Olympics" のところだけは、少し教科書を読み返してからでないと、自信がない。その前までで、一学期に新しく習った単語が 228 あった。昨年もこんなことをして、100 のうち 85 しか出来なかったが、今度はその倍以上の単語について、違った数は昨年よりも少なく、九割三分九厘の出来だから、どうやら安心だ。

 活字から得たものは少なく、それ以外から何らかを受けた日だった。午前中、学校へ在学証明書を取りに行った Jack が立ち寄って、何やかやを見せてくれといって、それらを見たあと、祖父の話を聞くなどして帰って行った。午後も彼とぶらぶら歩きをする約束をしてあったので、ぼくは木曽坂を下った。数段の石段を上がって、二間足らず歩かないうちに見ることの出来る彼の部屋で、彼は手招きをした。玄関を経ないで、そちらから入ると、障子の陰から脚が長く出ている。寝ころんでいる Jack の兄さんに「こんにち…」といいかけて、「やぁ」に変えなければならなかった。そこに寝ていたのは、兄さんでなく、はるばる訪ねて来た Tacker だった。
 ぼくが脚でから振りをしたあとの午後にたいていそうしてつぶしてしまう行動を、われわれは初めから予定して、笠舞の方へ道を取った。道の白っぽい土と、下駄を横や前や後ろへ滑らせる石ころを踏んで、坂を下り、青田をところどころに見やって進んだ。雲がしばしば太陽を隠すので、直射日光はあまり当たらなくて、空気中の塵埃などで散乱された光が大部分である中を行くわれわれは、Jack が「丑三つ時」といったほどの静かで動きのない夏の午後の町を見出した。Tackar の下駄の緒の寿命が来たので、彼は Jack にとっては平凡でないキュウリ畑
(注 1)の向いにある本家へ寄った。そこから、猿丸神社、Octo の家の前のアパート、中・下・石引町と一周した。兼六園の山崎山の中腹で、Jack と Tacker の意志と物入りによるご馳走をしゃぶった。急激に口腔を冷やすので、歯と歯茎の間に間隙が出来ないかと心配だった。(つづく)
引用時の注
  1. 「Jack にとっては平凡でないキュウリ畑」は、この日の日記の後半にも再度出て来る。この頃 Jack が親しくしていた誰かの家がそこにあったようだ。

2013年3月21日木曜日

昼寝していた友を起こして


高校(1 年生)時代の交換日記から

Ted: 1951 年 7 月 31 日(火)晴れ

 いつ行ってもいる者と、いつ行ってもいない者が、だいたい決まっている。脚のから振りを二回して、洗ってごわごわしていたシャツを湿らせて(この頃は毎日こうなる)、もし次に訪れる友もいなければ三振になるというときにたどり着いたのは、半ゲーム差を二ゲーム差と誤算した友の家だった。窓から顔を見せていた兄さんが、Jack は寝ているといった。彼に近づいて耳を引っ張ったり、鼻を衝いたりしてみたが駄目だ。兄さんに足で蹴られて起きたと思ったら、廊下を伝って奥の方へ行ってしまった。
 戻って来た Jack は、また横になったが、兄さんに口の奥を狭くして出すような声で注意され、椅子にかけ直し黙っていた。それでも、われわれは他の者とそのよにうしているときに感じるような空虚を感じなかった。そのうちに、Jack は自分の赤く日焼けした胸を見つめるようにして口を切った。新しい話でもなかったが、古い話でもなかった。
 Jack はシャツを着てズックをはいた(彼の足駄は歯の入れ替えに出してあるそうだ)。こうして帽子をかぶった彼は、みずみずしい感じがした。この出発は突飛でもあり、熟議の上でもある(われわれ二人の熟議は、単純で大胆で時間を要しない)。途中、敦賀高校と高岡西部高校が覇を争っている球場の近くへ寄って、塀の下に自転車がきれいに並べられ、その上に立って場内を見ている人垣を見物した(入場料は、学生 30 円、一般 50 円なのだね。金沢一高チームに北島、通善、仲田、筆矢、横井、殿田、加藤らの選手がいた頃には、同じここでの試合が無料だったが…)
(注 1)。そこを離れたあとも、Jack が「声かれんかな」と心配したほどの声援がわれわれの耳に届いた。Twelve の家へ入っても、球場の場内アナウンスの声が聞こえて来た。
 Twelve は目の粗いシャツを来てわれわれを迎え、YMG 先生の家が斜め後ろに見える二階の部屋へ通してくれた。青々とした庭が見下ろされる。Twelve がちょっといない間に、ぼくは Jack に Twelve の「京大目差して…」と書いた貼り紙を教えた。Jack が机の前に回ってその紙と目との距離を普通の明視距離以下にして読んでいると、Twelve が戻って来て、「そんなもん」といって引きちぎり、まるめて屑篭へ入れた。エープリルフールの翌々日だったかに、Twelve に出会ってしまい「宮殿」へ行きそこねた Jack とぼくが、この部屋で彼の中学三年三学期の勉強予定表を発見したときも、彼は同じようにしたのだった(その予定表の方は用済みだったが)。
引用時の注
  1. 球場は、旧兼六園野球場で、この日、夏の甲子園大会北陸予選の決勝戦が行なわれていたのだろう。金沢一高チームというのは、選抜中等学校野球大会が学制改革に伴い第 1 回選抜高等学校野球大会となって開催された 1948 年に、仮の校名「金沢一高」として甲子園に出場した旧金沢三中チーム。当時、石川県から選抜出場を果たしたのが珍しかったのと、私が野球に関心が強かったのとで、いまでも上記の選手中、北島、通善、筆矢、殿田の名を覚えている。それぞれ、投手、捕手、遊撃手、一塁手だった。筆矢選手がキャッチボールの練習のときでも、上半身を深く前屈して一刻も早く捕球する姿勢を忠実に実行していたのが印象深かった。

中学生に宿題を教える


高校(1 年生)時代の交換日記から

Sam: 1951 年 7 月 31 日(火)晴れ

 Ted のところへ Tom が訪れたのと同じ目的で、ぼくのところへやってきた者がいる。彼はプールと庭球コートが並んでいる学校
(注 1)の卓球部に属している。宿題は昨年より多くて、質的には難しいと思った。社会科は、昨年われわれがやったアチーブメント・テストがそっくり出ている。それをあちらこちらひっくり返しながら一つ残らず完璧にした。ただ、残念なことに、余力問題のところにのっていた「現在各国の政治首脳代表人物を次の例にならって…」というところだけ、Ted の勧告を実行していないので、出来なかった。
 英語はどんなに難しいだろうかと楽しみ(でもないが)にしていたが、案外出来そうである。ちょうど、ぼくが A Shorter Course of English の教科書でやっているのと同じようなことばかりだったので、比較的骨を折らなくてもよい。Simple Futurity も Volitional Futurity も Voice も Infinitive も七月に習ったばかりだ。And とor の使い方は田中先生に習っていたし、直接話法、間接話法は[例]によってそのだいたいを知ることが出来た。
 国語は、教科書を見ないと分らないのが多い。数学や理科は問題を見ただけでうんざりしてしまうかと思ったが、大したことはない。社会ばかりでなく、昨年のアチーブメント・テストが役立ったのはうれしかった。先生の方でも、この方が問題を作るための労力が少なくて済むし、前年と比較することが出来るからよいのだろう。
引用時の注
  1. われわれの出身中学校のことを書くとき、いろいろな形容の言葉で表す方法を使い合った。あまりにも冗長な表現や特殊な記憶に結びついている場合(これまでに引用した日記中には、そういう表現が多かった)は、引用に当たって「紫中」と書き換えている。

2013年3月20日水曜日

大急ぎで帰宅したのに…


高校(1 年生)時代の交換日記から

Ted: 1951 年 7 月 30 日(月)曇り(つづき)

 Jack は寝転んで手紙を読んでいたが、それを持って出て来て、見せてくれた。字は丁寧に書いてあるが、妙な表現や間違いが探そうとしなくても目につく。ピアノの S さんからのもので、東京見物のことが日記風に書いてある。動物園に「足長猿」がいたり、猿の「尼」が赤かったり、「昼弁辨」を食べたり、「不ろう児」がごろごろいたり、後楽園が「聳え」ていたり、上野公園を「県六園」と比較したり、「明日」の何時かに金沢へ帰って来たり、という具合だ。それでも、田舎者(自分でそう書いている)が目を出来るだけキョロつかせていなければならなかった東京の繁華な様子が何となくよく分かる。ぼくは三日から京都と大阪(前者には伯父の家が、後者には伯父の会社がある)を訪れるが、Sam にどんな報告が出来るだろうか。
 上がれといった Jack に時間を聞くと、四時までにまだ一時間ある。彼の部屋へ入ると、Jack は、Tom がけさ来ただの、東急が阪急を二ゲームは引き離しただろうだのと、間もおかないで話し続ける。
 四時十分前! それっ! ぼくは Jack にいいたかったことを唇の内側に残して飛び出した。下駄はガッガッガッと叫んだ。セミの声も砂ぼこりも背中にくっついてしまうかと思われるほど、汗がにじんだ。家の階段を駆け上がると、母は悠然として何か書き物をしている。まだ行かないのか?「ハイホー!」せっかく身体中に汗して、約束に五分遅れただけで帰って来たのに、海岸へ散歩に行こうといった母の同僚の盲学校の先生は、天候が思わしくないので約束を変更したそうだ。

招いた友の観察記


高校(1 年生)時代の交換日記から

Ted: 1951 年 7 月 30 日(月)曇り

 流し、流され、流れた。Massy は非妥協的な人物と分った。Octo を招いておいたから、事態はいっそう悪かった。Octo が先に来たので、つけ難いスコアブックを見せたり、半年ぶりに「精密的野球ゲーム」
(注 1)を持ち出して、「忘れてしもうた」、「してみっか*」と、ノートを分解して得た紙にスコア用の線を引き、「川上は A や。藤村は B'」と決めたりしているとき、Massy が来た。彼が家の前でする呼び方は、何でも速くする性格の通り、短いものである。われわれはたいてい「○○○ くーん」と、「く」にアクセントをおいて長く引っ張るが、彼のは「○○ くん」であり、アクセントを苗字の二番目の音節におく。彼は部屋入って来るや否や、よく聞こえない祖父に向い、丁寧な言葉を口にしてあいさつした。
 Massy は話しの聞き方において注意力散漫だから、よほど大声で話すか(祖父に対してと同様に)、くっきりくっきりいってやらなければならない。大陸の一端を踏んだこともあるだけに、おうようであり、また、「そう?」、「ふん?」などと受け答えする感じはよい。しかし、何ごともせかせかと速いところは、都会的なのか島国的なのか分らない。
 一時間少々で、われわれは次の行動に移った。それは Octo の決定的な発言によるものでもあれば、Massy の意志にもかなっていて、ぼくが想像したことでもあった。
 Lotus の家へ行ったのだが、彼はいなかった。小母さんの弁では、「計算機(計算尺のことだろう)を買いに」行ったそうだ。電車通りで Massy はいった。「ぼくは本屋へ行って来ますから、ご自由に。」こちらが招待されたような調子だ。「じゃ、さいなら」と、Octo とぼくは Massy と別れて、少しの間ゆっくり歩き、ぼくは Octo とも別れた。そこで引き返してイロヤ書店へ行くと、Massy は「ドーラク」ではない参考書類の前で、雪の斜面鼻を上向けてまだ立っていた。Jack の家へ行かないかというと、彼は親戚の家へ行かなければならないから駄目だと答えて、参考書を見上げ続けた。ぼくはしばらく、手に取りもしないで本の背の名を読み続けたり、Massy の軸を後ろへ傾けた頭を見つめたりしていた。彼とイロヤを出て、二度目の別れを告げ、Jack の家へと急いだ。(つづく)
Ted による欄外注記
 * 方言の口語では、終止形が音便形をとったりする。

引用時の注
  1. 私が中学時代に作って、とくに Octo とそれでよく遊んでいた。区別のつく 2 個のサイコロと、統計と確率に基づいて作成した多数の 6×6 の表を使用する。表は投球とそれに対する打者の対応、打球のゆくえ、守備、走塁などの各場面について作り、それぞれ選手のランク別に複数のものを準備した。「精密的野球ゲーム」の名は、中学 3 年の修学旅行のときにこれを持参して、列車の中で遊んでいた折に、それを見たどの先生かがいった言葉から来ている。

映画を見に行くのは


高校(1 年生)時代の交換日記から

Sam: 1951 年 7 月 30 日(月)雨

 朝から雨が降っている。きょうの雨はどうしても気にくわない。そんなに大した雨ではないのだが。
 午前中は大和劇場へ行った。特別興行なので、持って行った券に 20 円をプラスしなければならなかった。映画を見ながら、ときどき笑った。初めのうちに多く笑った。後半は、ぼくももう二年ばかりしたら出会うかもしれない状態が主として描かれていた。『青年心理』の本では、「青年が劇を好むのは決して芸術的立場からくるのではなく、むしろ、劇が人間生活の姿を写し、それがかれらの情緒的想像を活躍せしめて、自分自身をその中に移し、その場面に共演し、そして自分自身の心的生活を拡張することができるからだ」と述べているが、それは適切である。われわれの限られた現実生活から、より広い複雑な人間世界を覗くことによって、いろいろな性格に触れようとするのである。映画や小説の主人公の姿を借りて、自分を優れた、強い、能力のあるものに仮想して、不満を解消させるために映画を見に行くのではない。

2013年3月19日火曜日

青春の迷い


高校(1 年生)時代の交換日記から

Ted: 1951 年 7 月 29 日(日)晴れ

 Sam はいろいろな本を勉強しているね。それらから得たものをぼくに教えてくれ給え。
 つけにくいスコアブックと細いボールペンとまずい図案のメダルを貰って帰ると、背中がベタベタに濡れた。外出するたびにこうだから、かなわない。
 連立方程式をやってみたが、この暑さでは身体がじりじりするばかりで、手ぬぐいを持ち上げたり放したりしているうちに時間が経ってしまう。

 考えてみなければならない。「あばれたくなって来ている」、「変化を望む」。何のことだ? 誇大妄想。必要。どちらだろう。そして、その根底にあるものは、——。それは決して新しいものではない。大きさだけが違う。小さいながらにも発展している。危険だ。このあとはどうなるのだろう。
 これでよいのかもしれない。捨てなければならないものだけは捨てよう。二つはとうとう合流してしまった。といっても、初めからそうなるはず、——。いや、初めは一方だけだった。少なくとも目的は一つだった。初めの目的は、そうだ、一つだった。あとの方は、思いもよらないこと、それどころか、完全にそれを近づけない力が自分の中にあると思っていた。——それがあとから現れて来たというのではない。結果においては、一本の線を中心に引くならば、両側へ分けられるかと思われた二つのことが、決してそうはならないのである。そうだから、二つは、——(混乱して来た)。
 だとすれば、「違っているような」気のするのは、どうしたことだろうか(どうも分り難い書き方だ)。それは普通のことと違う——。普通のこと、それは何だろう。そういう枠を作ることは出来ない。枠がなくても、あれだけは切り離せる。——と思うということは、やはり一緒に出来ないところがあるのだ。一緒に出来ないところを作ろうなどとはしなかった。あのときはそういうものがなかった。想像だにしなかったことだ。それでも同じではなかった。割り切ることの出来ない関係、現象、心理——。そして、これらを支配しているものは——。結局、……である。あのときには、これだけ考える余裕がなかった(いまだって不完全に違いない)。溺没——。恐ろしいことだ。

 もう一度考えたが、「それでよいのかもしれない」。立ち直ろう。何度休んで何度立ち上がっても構わない。進む道は、前に見た通り続いている。ただ、それを踏み違えてはならないだけのことだ。
(注 1)
引用時の注
  1. 頭のよい女生徒(たち)とちょっとした交流が出来ればと思っていたのが、いつの間にかそれ以上を求めたい気持が生じてきていることに、自分ながら当惑したのだったか。

ホームルームの海水浴行き(4):午後の海水浴から帰途まで


高校(1 年生)時代の交換日記から

Sam: 1951 年 7 月 29 日(日)快晴(つづき)

 午後も、ぼくたちは泳いだ。高い波を冒して遠浅まで行った。そこの波はゆったりと静かだった。水中眼鏡を借りて水中を見たが、何もいなかった。ぼくたちは幾度か水に入って、幾度か太陽の光に全身を浴した。皮ふの色がだんだん赤みを増して行く。
 Keti とぼくが一番早く服に着替えた。みんな戻って来て浜茶屋に集まったが、汽車の時間にはまだまだ時間があった。HRA はゲームをやろうといって、みんなに円陣を作らせ、彼の細君(多分そうだろうと思うが、妹かもしれない)にそのゲームを説明させた。彼女は上手に説明してくれた。ゲームは「チョウ・チン・ブラブラ」という名である。「チョウ」は口でいい、「チン」は手をたたき、「ブラブラ」は手を振る。違ったら負けで、オミットされる。たくさんの人でやるほど面白いそうだ。HRA は一番下手だ。ぼくと彼女の間にはさまっていて、最初にオミットされた。いやはや、こっけいなこと、こっけいなこと、涙が出るほどこっけいだった。それでも数度したら、飽きてしまった。
 そこでお互いの雑談に入る。有名な歴史上の人物、小説、戦争、資本主義、等々が多く話題になった。Keti が「荷車を押しとる親子がおって、ある人が後ろの子に、前で引いとるがお父さんかというたら、そうやという返事やったもんで、前へ行って、後ろで押しとるが息子さんかって聞いたら、ちごうて答えたといや。後ろから押しとるが誰や」という、常識中の常識を非常識的に扱った問題を出して笑わせたりした。
 帰りの駅までの道は、とてつもなく長かった。改札してから汽車が来るまでの時間は、これまたとてつもなく長いように思われた。機関車の次の客車の最後部に乗った。暑い夕方の日射しを受けて、どうしてもぐったりしたくなった。津幡で北陸本線を先に発車させたため、七尾線は六分停車をくった。金沢駅で解散。Keti のところで、五円のエネルギー源(というより覚醒源)を補給し、歩いて帰った。(この日の分終り)

2013年3月18日月曜日

ホームルームの海水浴行き(3):「本当の」海水浴と砂浜でのソフトボール


高校(1 年生)時代の交換日記から

Sam: 1951 年 7 月 29 日(日)快晴(つづき)

 Cou が遅れてバスで来た。汽車より十五円高いそうだ。われわれは本当の海水浴を開始した。波はやはり高い。海に入っているときは、どこの海水浴場も変わりはないと思った。
 われわれは遊び道具を何も持っていなかったので、あんちゃんやおとっちゃんばかりでやっているソフトボールに試合を申し込んだ。すぐ、よろしいと返事してくれた。人数は向こうが八人、こちらが七人である。ぼくたちは後攻をとった。相手の三者を難なくかたづけて、ぼくたちの攻撃。ぼくは珍しくトップになれた(ジャンケンで決めたんだよ)。ところが、ショートフライで一死。しかし、続く二番打者から(ぼくより貧弱な打球ながら)、相手の凡失やら暴投やら鉢合わせで、一死のまま大量五点を獲得して、ぼくに再度打順が回って来た。今度こそはと打つと、さっきより少し深いショートフライ。「ショート、バック、バック、捕まえました。落としました。転びました」でセーフ。次打者の三塁ゴロで一挙に三塁に進み、一塁からの暴投でゆうゆうホームインした。三回表も四人の打者を迎えただけだった。ぼくたちは、またもや四、五点たたき出した。ぼくには毎回打順が回って来た。五回目のアットバットのとき、外野の塀(そんなものはない。陸揚げされた舟がその役)にワンバウンドでぶっつける当りを出したが、それがみんなの中で一番大きかった。
 NTM 君が西瓜を持ってきていたので、それを海に持込んで、奪い合いをして遊んだ。とても大きいのだが、ときどきどこへ行ったか分らなくなる。キョロキョロ見回していると背中のところにあったり、取ろうと思ってあわてて苦い液体に喉を通られたり。そのうち、西瓜は Keti の頭に当たって割れてしまった。そこで、急いで浜茶屋へ戻り、包丁で細分した。一同は、なくなるまで争って食べた。甘いはずの西瓜が、ときには、にがくどかったり、ジャリジャリと歯で摩擦を起こしたり、特別な味だった。(つづく)

2013年3月17日日曜日

ホームルームの海水浴行き(2):海辺での二十の扉


高校(1 年生)時代の交換日記から

Sam: 1951 年 7 月 29 日(日)快晴(つづき)

 Keti と Monkey はさっそく、まっしぐらに海へ突進したが、他の者はみなござの上に坐ったり寝転んだりしているだけだった。HRA(ホームルーム・アドバイザー)が何か面白い遊びはないかと、ぼくにもちかけてきた。突然のことなので、ぼくは「さぁー?」を三回ばかり繰り返した。そして、二十の扉ぐらいどうでしょうというと、大衆向きだねといって賛成してくれ、みんなに呼びかけて、さっそく始めた。一人が一題を出し、出題者が司会者を兼ねることにし、司会は出席簿順にすることにした。
 ぼくは終りから三番目。一人目も二人目も「植物」。ぼくが二人ともに「食べられますか」と質問したので、ぼくが「問題は植物です」といったとき、目ざとい(?)女生徒の一人が「何か食べ物かもしれない」ともらして質問したが、これに対するぼくの答えは「いまの状態ならば無理です」だった。それで、だいぶん範囲が限定された。しかし、十八問目になってやっと、「汽車の窓から見られましたか」という質問が出たが、時すでに遅く、二十問目を通過して二十五問目でやっと正解が出た
(注 1)
 HRA の出題は「動・鉱・植物」で、「砂浜で砂と遊んでいる子ども」という長ったらしいものだった
(注 2)。十七問でぼくが「子どもが砂浜で砂と遊んでいる状態」といって、それを正解として貰った。
 それよりももっと難しかったのは、「キセルにつめられた煙草」である。「この海岸で見られますか。」「ええ、さっきまで…。」「身につけるもの?」「違います。」「のむ・食べる、関係あり?」「あるといえばあり。」「ビールとかサイダーですか。」「いいえ」「のむ方に間違いはないね。」「ない。」「あまいのとからいのに分けて、あまい方?」「まさか。」「これは復習ですけどね…。」といった具合。「煙草を喫むの "のむ" だとは思わなかった
(注 3)」とは誰もの言葉。概して、海水浴や夏に関係のあるものが多かった。(つづく)
引用時の注
  1. 正解は書いてないが、Sam のこの日の日記の前の部分から、「汽車の窓から見えたブドウ(あるいはナシ)」というような出題だったかと思われる。
  2. 「子ども」を当てるのに、ヒントが「動・鉱・植物」というのは奇妙だが、当時の NHK 番組「二十の扉」では、出題がある場所での人物の状態である場合には、ヒントを「動・鉱・植物」にするというような決まりがあったかもしれない。その意味では、このあとに書かれている Sam の解答が、むしろあるべき出題の形であろう。
  3. かつては「煙草をのむ」とよくいったが、いまは「煙草を吸う」が普通のようである。「喫む」と書いて「のむ」と読むことがなくなった影響だろうか。

ホームルームの海水浴行き(1):汽車にやっと間にあう


高校(1 年生)時代の交換日記から

Sam: 1951 年 7 月 29 日(日)快晴(つづき)

 (日は二日さかのぼる)この日ぐらい、時間を恐ろしく感じたり長く感じたりした日はない。朝は七時十一分までに七尾線の客車に乗っていなければならないので、集合は七時までということになっていたが、家を出て亀×兎ぐらいの速さで歩き、途中で時計を見ると、とっくに汽車が発車してしまった時間だった。そこから兎×兎の速さで走った。六枚町を少し過ぎたところで、七時の時報を聞いてほっとし、やっと間にあったことを知ったが、それまでは、遅れてしまっていたらどうしようかなどと考えて、とても心細かった。
 人数が少なかったので、割引は望めなく、二分前に切符を手に入れてやっと客車に乗り込んだ。からからになって汚れている浅野川を渡ると、ハスの花が咲いている。青畳の彼方に潟の水が光っていた。本線と右側ですれ違った。本津幡を離れると、国道が左側に平行して走っていた。宇野気あたりから砂地となって、ブドウやナシの畑がうねうねと続いていた。高松で下りてから、海岸までしたたか歩く。平凡な、つまらない町だ。ここには機業と行商が多いそうだ。
 浜茶屋へ入った。大人三十円とのことだったが、われわれは早かったし、大勢だったので、1/6 だけ割安にして貰った。(つづく)

2013年3月16日土曜日

本あさり


高校(1 年生)時代の交換日記から

Sam: 1951 年 7 月 29 日(日)快晴

 午前十時頃から出かけて、片町と香林坊にその位置を占めている書店の「本あさり」というのをやる。真っ先に見るものは将棋関係の雑誌、それからその他の雑誌、その次は何でも面白いと思うもの、——といった具合かな。行った目的は、石川県地図を買うことだった。40 円のを買った。それより10 円安いのもあったが、それは気にくわなかった。

 驚いたな。でもすばらしいや。うれしいよ。ぼくはこんなもので入賞したというのを始めて聞いて、始めて見た。何にしても、めでたいね。「壱」でなかったからといって、残念がる必要もあるまい。その幾十倍、幾百倍の人はそんな結果を与えられなかったのだからね。もとは、頭と目を少し働かせて、手を動かして、鉛筆で紙に字を書いて、箱の中へ入れただけだから。七月三十一日に富山の国際劇場で運命を決めることになっているもの
(注 1)よりも、よほどましだよ。賞品も予期以上のものだったし(といって、中味は知らないが)。くどくどと書けばきりがないが、とにかく喜んでいる。

 地元勢全滅か! 何といっても悔しい。

 (日は一日さかのぼる)Funny は賭けにみごと敗れて、映画一回の損失をしたとのこと。日米対抗陸上で砲丸投げのアメリカの誰やらの記録が 15.18 m だったのを、彼は 18 m だと思い込んで張り合ったのだそうだ。彼らはこんなことを主張し合うのがとても好きらしい。そして、議論すればするほど、自分の意見が正しいと思いこんで、ついには賭けという最後の手段によって決定するのである。それは間違っているかもしれないけれども、ひじょうに活発だ。あくまでも、主張が正しいか誤りかの結論を知るまで頑張るのである。(つづく)
引用時の注
  1. 宝くじのことか。

夕闇中の「密議」


高校(1 年生)時代の交換日記から

Ted: 1951 年 7 月 28 日(土)晴れ(つづき)

 あるき過ぎて、頭が痛い。母は眼鏡がないといって騒いでいる。ぼくまでが何も手につかない。——大捜索の結果、眼鏡はタンスの中から出て来た。母は落ち着いて新聞など読み始めた。家の中は電気をつけたばかりだ。ぼくは外に憧れた。
 下駄をつっかけて、向かいの家の Sound を呼んだ。弟が取りついで、兄さんは行水しているといった。少し待つと、シャツを着ないままで「何や?」と、家を訪ねられたときの決まり文句で出て来た。門柱の半ば朽ちたところをほじくりながら、「何でもない。話しに来た」と答えた。Sound はシャツを着て出直して来た。休みのことから始めて、お互いの学校のことを話しているところへ、どこかへ行く Dan が自転車で通りかかり、「何を密議しとる?」と、あらゆる話し方を混ぜ合わせたかのような調子でいった。彼らは、明日町内から行く海水浴の時間とバスのことを話した。それから Dan は、写真を当てて入賞したぼくの名が、どこかに出ていたといった。 〈読売新聞社は、ひとの名を無断で掲示するとは、けしからん。〉 Sam や Neg の名を出して弁解しなければならなかった。
 Dan が再びここを通って帰って行ったあとも、Sound とぼくは話し続けた。北斗七星が Sound の家の屋根の上にあって、ヒシャクの水をいれるところのもとの上に当たる一つ
(注 1)(α、β、γ、δ、ε、ζ、η の内のどれだい)がぼんやりしている。
 Sound の話は、「生徒会のクラブと学校のクラブがある」、「アセンブリーは四限で眠い」、「解析は一次関数とグラフから始めて因数分解まで」、「社会は二人の教員に習う」、「実習が面白い」、「三百何番教室から百何番教室へ移動するのが一番大変」、「英語のテキストはハイスクールXXX」、「国語はXXX」、「生徒会のと図書部のと二枚新聞を買わんなん」、「旧式な試験方法、たとえば、産業革命について書け」、「通知表は 1 から 10 の方式」など。(これらの答えが得られるようなたくさんの質問をした経験のないぼくだから、「宮殿」を訪問したときの Sam を思い出して役立てた。)しまいに、われわれは座り込んで話した。ぼくは、「NSMと一緒のホームになった」と、小六のときのわれわれの同級生のことを持ち出した。「拳闘やっとるてな。ごっつい。あいつ付属へ行ってから
(注 2)、がらっと変ったな。道でおうても…。」これは同感だ。しかし、Sound も市工へ行ってから変ったと思う、よい意味で。
引用時の注
  1. 「水をいれるところのもとの上」という表現は、われながら分かりにくい。次に示してあるギリシャ文字中の δ の横に、Sam がつけたのか、私自身があとでつけたのか、二重線がある。δ 星ならば、「水をいれるところと柄の接点」とでも書くべきであろう。
  2. NSM 君が中学生時代には女子師範付属中へ行っていたことを指す。同校には高等部がなかったので、付属中卒業後、私が行っていた地域の高校へ来ていた。

2013年3月15日金曜日

楽譜のない音楽


高校(1 年生)時代の交換日記から

Ted: 1951 年 7 月 28 日(土)晴れ

 宛名に「殿」をつけた葉書が来た。誰からだろう? りゅうりゅうとした字だ。「金沢市河原町一二 読売新聞社金沢支局」とゴム印で押してある。まだ分らない。裏を見る——と、二行目に「セントラルリーグ」の文字がある。 〈ははーん。〉 一行目から読まなければ…。「弐等賞」とある。気持がわるいぞ(「壱」でないからね。でも、Sam に音楽で 20 点の差をつけられて、総合 2 位にしかなれなかったこともある
(注 1)のだから、「弐」が精一杯かもしれない。でも、同じ取るなら「壱」でないと…。でも、——けさの新聞に「留守家族断食デモ」(注 2)とあったから、「でも」ばかり使うのだ——今回のは「脳」力の問題でなく、運の問題だ)。Sam と Funny のお陰で、この葉書と引き換えに何か貰えるから、感謝するよ(注 3)

 指を折り、嘆息し、「宿題とは進まないものなり」と、つまらない定義をしてみたりしないではいられない。
 またしても、昨年はどうしていたかを見ていると、八月二十日に、昨日ぼくが Octo に対してしたことを、Octo がぼくにしてくれていたことを見出した。手ぬぐいの忘れ物を届けるということだ。そのために、昨日のぼくはシャツを再び、びしょぬれにした。「手ぬぐいとは、自分の物であれば汗をぬぐえるが、他人の忘れ物ではかえってこれを流すことになるものなり」とは、これまた、つまらない定義である。

 何かを期待して、チューブから絞り出した絵具がすぐに固まってしまいそうな日光の中で、脚を動かした。初めはガソリンの藍色の点々としたしみを浮かべて、暑さのもとでだらりとしている電車通りを。次に、公園の木々の中のセミの声とベンチの上の男女のささやきの間を。それから、セミの声がほとんどしない、屋根瓦が白く光り、トウモロコシが軽く揺らいでいる小路を。灰色っぽい家々の並ぶ狭い通りを。明るく軽やかな流れと光を反射している生粋な生命との縁を。スカートと赤い唇の動きも忙しい大通りを。笠森一二君が昨年そこを描いて石川新聞社長賞を得た、金沢で最も都会性のある場所
(注 4)を(しかし、実物はあの絵よりもこせこせしている感じだ)——。これは何かって? 楽譜のない音楽を求めての散策といったらよいかもしれない。
 家へ戻って、顔と腕を洗い、すっとした。ここが一番涼しい!(つづく)
引用時の注
  1. 高校進学のための県下一斉テスト(アチーブメント・テストという名称)に備えて、中学 3 年の 3 学期に行なわれた校内模擬試験。音楽の筆記試験もあり、それで Sam に差をつけられたということは、すっかり忘れていた。(私が得意とした英語は、当時選択科目だったので、模擬試験時にその試験も実施されたものの、総合点には加算されなかった。)校内試験の総合点の話は、この夏休み後にも、高校でのこととして、また出て来るかと思う。私は、いわゆる「点取り虫」ではなかったが、スポーツは苦手であり、また、弁舌を振るって生徒会活動の重要人物になる自信もなかったので、校内で注目されるためには学科試験で頑張るしかないと思っていた。
  2. シベリア抑留者の日本への帰国事業がまだ半ばだった頃であり、抑留者の留守家族が早期帰国達成を求めて断食デモをしたのだったか。
  3. 読売新聞社金沢支局主催でデパートで開催されていた「セントラルリーグ写真展」を見た折に、クイズへの答えを投稿し、抽選で二等の賞品として野球のスコアブックなどを貰った。賞品については翌日の日記に書いている。
  4. われわれが中学 3 年生のとき、石川新聞社主催で金沢の都会性を表現する絵のコンクールがあった。図工室に集められたわが校からの出品作中の、笠森君が繁華街「香林坊」の中心を高所から見て描いた絵を私はひと目見ただけで、「これはすばらしい!」と思った。その印象はいまでも目に焼き付いている。これより前にイーゼルペイントで描く作品のコンクールで県内 2 名の金賞を貰った一人だった私の、このときの作品は、Lotus こと KZ 君の家の屋根の上という、やはり高所からの眺めを描いたものだったが、佳作だった。電車通りとそれに沿った店々が画面におおむね平行に横たわっている、構図的に面白味のないものだったと思う。横町への角に写真館があり、その姿にはやや都会性があっただろうが、香林坊のビル(現在ほどの高層ではないが)のそれには遠く及ばなかった。

2013年3月14日木曜日

「五十一」


高校(1 年生)時代の交換日記から

Ted: 1951 年 7 月 27 日(金)晴れ(つづき)

 Jack は、ぼくがこの間やって五十分間の生命を殺したも同然にして、もうする気にならないことをしていたところだった。その彼は、笑うようにふくらんだ声で、われわれを迎えた。彼の兄さんが部屋へ入って来られたとき、ぼそっと立ったままだったわれわれは挨拶をした。兄さんは、海の底にいるような声で、「勉強しているか?」などと質問し、髪に櫛を入れてから、どこかへ出かけて行かれた。
 Jack は兄さんが帰郷してもたらした物質から精神にわたるいろいろな話をした。ぼくは、その主語のない文章のところどころで針を立て、Twelve にも分らせるように仕向けることを怠らなかった。よい兄さんを持ち、一つのことに猛烈に乗り気になる友は、「School するか?」といい出し、Twelve が「学校?」とお決まりの質問をした(われわれも皆、そうしたのだった)。けれども「学校」は行なわれず、神戸市立湊川(だったかな)高校の先生の手製のトランプは、「マージャン」というゲームに多く用いられた。得点をつけたところ、Octo が彼の好きなチーム
(注 1)の現在と同じように、優勝街道を独走した。「五十一」というのは、鉢合わせになるところが気にくわない。嫌悪を感じる。しかし、ゲームはゲームだ。そんなことを思っていても始まらない。
 米谷先生
(注 2)訪問の件は、Lotus が帰らなければ、と決定を回避した。Lotus がどうでも、先方とこちらにとって一切支障のない日を選ぶのは困難なことである。引っ込み思案の多い彼らのことだから。——ぼくは、きめることなら、ズバズバと決めるけれども、実行するときには、たいてい口がいうことを聞かない。彼らにしても、Twelve は「場所へ出」れば、また、Octo は義務と責任の前には、そして Jack は自分の胸を躍らせる計画に対してならば、微塵のちゅうちょもしないのである。
引用時の注
  1. 読売ジャイアンツ。
  2. この日集まった一同が中学一年のときに国語を習った先生。戦争未亡人だったが、この後間もなく再婚し、武藤姓となられた。

Romantic とは


高校(1 年生)時代の交換日記から

Ted: 1951 年 7 月 27 日(金)晴れ

 自分の「時」が自分のものでないような気がする。十分に使いこなしていない。四角い箱の中へ丸いものをごろごろと入れて、沢山ある隙間の空気が押し出されていないままのような、そんな使い方だ。大きなものを見るには、まだまだ小さ過ぎるレンズ、その中に入るものだけを自分のものとして、満足しているような状態。

 それは…、本能の働きが加わっているに違いない。「本能!」これだけで片付けられるものだろうか。(科学の話のようだけれども、ぼくが経験する不可解な人間心理のことだ。)障害物だ。害虫だ。なぜこういうものが存在しなければならないのだろう。そして、そういうことの悦楽、歓喜。何という無意味だ。あってよいことだろうか。しかし、ある。抵抗し難い。

 縁側から首を乗り出して、セミの声が溢れさまよっている道路を見下ろして考えた。「Ted の最も軽蔑しているものの一つ」と Sam が書いたのは、約束したことをやっていないことかな、と。『復活』のニェフリュードフが福音書を読んでいて発見した「人は何事にまれ、誓いを立てて約束してはならぬ」という第三の戒律の意義はどんなことだろうと考えた。そうしているとき、Octo が来た。彼は滅多なことに賞賛の言葉を述べたり、好奇心を高めたりしないように見える。何が彼を支配しているかを想像することは難しい。
 すぐに Twelve が来て、われわれは Jack の家へ向かった。
 道々、romantic とは何かを考えた。結論は得られない。(つづく)

2013年3月13日水曜日

鼻緒/Ted の会話は…


高校(1 年生)時代の交換日記から

Ted: 1951 年 7 月 26 日(木)晴れ(つづき)

 ぼくの報道によってSam の頭の中で形作られていた「十二時間君」は、実際の MR 君と比べてどうだったかね。ぼくが Sam と彼を互いに紹介しなければならなかったのに、失礼した。Sam と Jack に伴われて「宮殿」へ行ったときのような、いや、それよりも悪い状態を MR 君との間で作り出したのは、きょうばかりは何だか気のおける Sam がいたせいだといいたいね。
 一本の糸でつながった下駄の鼻緒で、Octo の家へ何とかたどりついた。彼に紐を貰ったが、下駄の裏に打ちつけてある金具がはずせないから、穴へ通さないで、いいかげんに巻きつけた。昨日に続いて不愉快な帰り方だ。こんなことをしていたら、祖父の葉書とぼくの葉書二枚を投函し忘れて帰って来てしまった。ぼくのは、「そんなことでイカーン」先生と、Jubei-san が次のような「横顔」原稿を書いた先生に宛てたものだ(この原稿は、その先生自身によって『紫錦』への掲載がボツにされた。そんなことをするから、われわれが卒業するときの号で、先生は Sam と TKD 君の筆の餌食になった。Jubei-san の原稿は、彼が可愛そうだったから、ぼくの「半不要」のものの中へつっこんで保存していた。しかし、二枚目は見当たらず、ここに一枚目を半公開する)。
 かつて戦場の土地を踏んだ軍隊靴を半靴として、授業始まりのベルとともに、ドスドスと靴音を重く長く響かせながら、リーダーを片手に教壇へと立つ先生の顔、金歯、手、靴、総じて親しさを感じさせ、教室が明るくなる。何といっても、先生を特色づけるものは、あの靴であろう。形といい、靴音といい、いまさらながら神の神技振りに感心させられる。先生を少なからず敬遠している者があるならば、象徴的な先生の靴を研究し理解すれば、心中も解り、近づきやすいようになるであろう。先生の授業は靴のようではない。授業も半ば過ぎようものなら、黒板をドンドンと打ち、手真似や顔筋の巧みな操りによって講義される様子は、絶対、役者に劣るものではない。自分が常に感心させられることは、先生が坊主にして、英語を前記のように[熱心に教え]、そしてまた、野球観覧をすること、どこに興味を感じたかは知らないが、その観覧振りは…

 「馬鹿野郎!」と、下品な罵声が聞こえる。すべての理性を失ったかのように叫び合っている。どこでだろう。何のことだろう。白地に黒で書かれた「城東木材…」の文字だけが見える暗さだ。
 昼の間、手にうろこのように輝いていた汗の玉は、いまは見られない。能率的な涼しさだ。

Sam: 1951 年 7 月 26 日(木)快晴

 午後は沈黙の時間が多かった。十時に朝食とも昼食ともつかないものを食べたあと、相当に歩いて、相当に沈黙の時間をもった。不規則な半日だったので、少し体の調子がくずれかかった。
 こんなことをいって、Ted を苦しめたりはしたくない。けれども、Ted の会話は弾力性のないものであることがしみじみ分った
(注 1)。「京大を目指して」の彼は好感がもてる。きょうの彼はいつもの本当の彼ではないとぼくは見る。

引用時の注
  1. 当時の私は、まったくその通りだった。いまでも、話相手あるいは状況によっては、そういう状態になる。

2013年3月12日火曜日

午後の記憶


高校(1 年生)時代の交換日記から

Ted: 1951 年 7 月 26 日(木)晴れ

 What shall I do? What shall I do?『英文法精説』の未来時制のところを読んでいたので、こんな言葉が出て来た。この言葉はきょうのぼくを表している。午後、家にいると、hundreds and thousands of という形容句が当てはまりそうな数のセミが鳴いている声よりもさらにやかましい木と金属の闘っている音が、光に照らされた光景のようにはっきりし過ぎるほど、向かいの製材所から耳に届き、鼓膜をゆすぶる。
 期待していた Octo よりも先に Sam が来た(結局、 Octo は「忘れ」ていた)。Sam は分ってくれない。それは、Sam がどうかしているのだ。Sam が分ってくれなかったから、きょうは頼まなかった。
 Sam が脚を超速度人間にして遠ざかった行くのを常にぼくが追っていなければならなかった、青くて白い中で褐色が飛び跳ねている犀川岸の散歩は、頭の中に一つの流れを与えてくれた。撹乱がなくなって、何もかもが一筋になった。そんなときに、われわれは Octo に出会った。あのとき、ぼくが何も話さずに考えていたことは……、何もなかった。
 黄色く、白く、青く、精彩のある帯のように長く横に広がる夏の一部、——それが遠い昔のようだ。水を飲ませて貰って少し経つと、口の中に黄土色の苦みを覚えた。自転車、何かに気兼ねするような顔で、手の甲で鼻の下の汗を拭っていた Octo。猿丸神社の横辺りを下るとき、何度もずるずると滑りかけたぼくの下駄の音。そうしたものはみな、あれから三時間にしかならないいまの記憶では、ちょうど Sam の自転車のベルの蓋に吸いつけられた像のようだ。Sam のまだ白い顔の中でぼくを笑うと同時にとがめているように動いた唇や、ハンドルや、Octo が上部をへしゃげさせて被っていた緑色の勝ったカーキ色の戦闘帽なども、丸い小さな半球面に、——あるところは大きく引き伸ばされ、あるところは付随的な点景としてこまごまと——、映っている。(つづく)

2013年3月11日月曜日

飛び入り君


高校(1 年生)時代の交換日記から

Ted: 1951 年 7 月 25 日(水)晴れ

 数学の問題の答を出すようにも、空白の画用紙に感情を盛るようにも、粘土細工をするようにも、乾ききった道路へ水を撒くようにも、思想を急ごしらえすることは出来ないものである。だから進まなかった。そして、母が盲学校の先生から十四冊一度に借りて来た The Asahi Picture News の「だから」に目を通してしまった。(午前中は、これだけのことしか出来なかった。)
 住所と名前を書くのに「三」を三つも書かなければならない友、Massy から旧仮名遣いの返事が来た。大和の二階の模型店でアルバイトをしているそうだ。だから、Sam と Neg と一緒にセントラルリーグ写真展を見て投票して来た日に、大和で彼に出会ったのだ(といっても、彼は Neg の肩を叩いてからトイレへ行ってしまっただけだったが)。

 兄さんが明日帰ってくることを楽しみにしている Jack のところへ行かないではいられなかった。海水浴の話を繰り返し聞かせて貰ってから、兼六中学校の運動場へ行き、キャッチボールとバッティングをした。初めのうちは、他に誰もいなかったから気持がよかった。しかし、Jack の悪投を拾うために、ぼくが土手の木々の間から飛び降りたときから、調子がよくなかった。まず、そのとき枝にひっかけて、シャツの背をトランプの札一枚ほどに四角く引き裂いた。また、Jack が打っているとき、先日のアセンブリーで「ダン・ダル・ダン」と答えた公安委員長君にどこか似たところのある高校三年生ぐらいの男生徒が来て、「打たせてくれ」といった(Jack はこれを日記にかけといっていた)。われわれは、いやいやながら承知した。
 ぼくが正規のプレート位置から投げ、Jack はショートとレフトの間ぐらいのところで守った。軽く投げているのに、その男生徒君はさっぱり打てない。ようやくバットに当たっても、腰を突き出すようにして走る Jack が容易に捕球してしまう。かなりの回数、打たせた。いくらカモなバッターでも、ホームベースの前に広がる 90 度の範囲を二人で守っているのだから、くたびれる。彼はようやく、「代ってやる」といった。ぼくが彼の球を打つ。引かれていたラインの石灰を蹴散らして、はだしの足を真白にしながら打った。途中で彼が外野(?)へ行き、Jack が投手となった。このときから、ぼくは三塁ファウルフライのようなのしか打てなかった。Jack と交替しようと思ったが、男生徒君の頭に一発叩き付けないと気が済まない。彼の頭上を強烈に突き破る一発が出て、彼に「運動会をさせる」ことが出来たところで、Jack と代ったのだが、Jack が一本打っただけで、可愛そうにも、白い半ズボン姿の男生徒君は、「代ってくれ」といった。Jack は淡褐色のグランドの砂をにらみながら、彼にバットを渡してしまった。

 足を洗って引き上げてからのわれわれは、Jack の部屋で人工空気流動を起こしたり、口の開閉によって、それが閉じているときよりも熱発散の表面積を大きくしたりした。それでも暑い。ぼくがつねに携行する黒の風呂敷をたたみかけるだけで、いとまするとの意志が Jack に通じる。彼はシャツの破れを二本の昆虫針で留め、「見つからんようにして帰れや」と行ってくれたのだったが、途中で手を後ろへやってみると、昆虫針は役目を果たせないで、破れがだらんとぶら下がっていた。針を抜き取り、先日ズックの底がはがれたときと同様に、小さな欠陥の大きな不愉快を感じつつ帰って来た。

2013年3月6日水曜日

これを壊すのは絶対にいやだ


高校(1 年生)時代の交換日記から

Sam: 1951 年 7 月 25 日(水)晴れ

 明後日のホーム行事の打ち合わせのため、十時十分前ほどに家を出た。本当ならば、ホーム委員長とそろって行くことになっていたのだが、Keti は九時頃、「きょうも明後日も行けない」といってきた。十時までというのに、学校へ行ったら二、三人しかいない。昨日タイプの講習に行ったとき、ホームルーム・アドバイザーから「明日は行けないから、よろしく」といわれていたので、Cou(あだ名「田舎」の英語を略して使う)と一緒に宿直室へ行く。「トントン」とノックする。返事はあったようだが、戸があかない。Cou が「おらんがんないか」といって、窓の方へ回って中をのぞく。誰もいないような気配だと報告してくれる。
 「ほんとやな」と念を押して、戸を引く。戸はあいた。先生が二人。よくは知らないけれども、確かに本校の先生が昼寝(朝寝?)をしていられる。「しまった」と思ったら、一人の先生がムックリと起きられた。「きさま」といわれたとき、やっと、ぼくが「失礼しました」ということができた。「宿直の先生はいらっしゃいませんか。」「おられん。何や。」「8 教室を使用させていただきたいのです。」「事前の許可は。」「受けてあります。」「ホームは。」「8 ホーム、中島先生。」「うん、わかった。とっちりと使いなさい。」「(やれやれ、うれしや、と心の中で)さよ(ここで戸を閉めにかかり)なら。」
 しばらくして、ホーム会計が姿を現した。十時をしたたか過ぎたが、集まったのは十数名。「これでは困った、団体割引にならん」とは、Cou の発言。「一人百円集めるぞ」の声に、聖徳太子の姿があちらからもこちらからも集まって来た。「何か打ち合わせんなんことないか。」「ない。」「では、明後日、七時十分前まで。さよなら。」みんな帰ってしまった。ぼくが一人残るのも悔しかったから、遅れて来る者のため、黒板に四行ほど伝達事項を書き、Cou と一緒に校門を出て歩いた。
 学校から駅までの道はしたたかある。田丸町の専光寺の前まで来たとき、「宝物虫干」という貼り紙を見た。すぐに、「虫干しや」の句が思い浮かんだが、中の七の「甥の○○」の○○が浮かんで来ない。「僧なんとか」だったということまで分ったが、やっぱり駄目だ。Cou に、何かの教科書にあったと思うが、といって聞いてみたが、知らなかった
(注 1)
 1ヵ月以上も金沢駅を見ていなかった。そのすばらしさに目を丸くした。Cou のように毎日見慣れている者にはどう見えるか知らないけれども、ぼくは一人で感心していた。こんなことをいうと田舎者といわれるかもしれないが、「金沢駅は改築しなくてもよい!」と思わずにはいられなくなった。これを壊して新しくたてる。そりゃ、新しいよいものが出来るのはよいけれども、これを壊すのはいやだ。絶対!
(注 2)

 三時半頃に行ったのに、鍵がかかっていて、小一時間待たされてしまった。その間、第二体育館で遊んだりしていた。きょうは最後の日なので、先生から問題が出され、それを清書した。先生が閉会の辞を述べられている間も
 As I was riding to Rose-Green, in a smooth, ... plain part of ...
とやって、名残りを惜しんだ。ぼくの場合(に限らないだろうが)、多くの単語の意味やスペル
*を知らずに打っているのだから、うまくいかない。
Ted による欄外注記
 * 「スペル」は動詞だ。「綴り」は "spelling" といい給え(Mouse 先生から習った)。
引用時の注
  1. 私も知らなかったが、いまインターネット検索で、「虫干や甥の僧訪ふ東大寺」(蕪村『蕪村句集』)と知った。
  2. Sam の思いにも関わらず、金沢駅舎は翌 1952 年 4 月、3 代目に改築された。こちらに、初代(明治時代)駅舎の写真が載っている。なお、現在の駅舎(4 代目だろうか)は、2011 年に米国誌 Travel + Leisure(ウェブ版)の「世界で最も美しい駅」14 駅の一つ(日本では唯一)に選定された(こちら参照)。

従兄から口頭試問を受ける


高校(1 年生)時代の交換日記から

Ted: 1951 年 7 月 24 日(火)晴れ(つづき)

 夕食後、母と伯母の家(正確には間借りしている家の二階、ここからすぐ近くである)へ行く。伯母と Y さん(従兄、先日登場した Sarry の弟)は、縁側に安い値で買って来た簾(すだれ)をつるすのに苦労していたところだった。風の落ちた縁側で、母は伯母の口説き話を聞き、ぼくは Y さんの質問に応じた。
 Y さんは、大連商業から予科練に行き、われわれが引き揚げて来たときには、金沢駅で迎えてくれ、その頃から白雲楼ホテルに勤め、いまは倉庫精練で働いている。『復活』に出て来る政治犯人・ノヴォドヴォーロフの性格を述べた「自信が強過ぎる」という言葉が当てはまりそうだが、これは内緒だ。正月頃に訪れた折には、マッチ棒で手品をやってくれたが、口上の勇ましさの通りには芸が成功しないから、見ている方が心配だった(これも内緒だよ)。
 Y さんは、社会科で何を習っているかという質問に続いて、「イギリス首相は? アルゼンチン大統領は? フィリピン大統領は? インドネシャ大統領は?」と、ぼくにテストをした。ぼくは中学の終り頃、Sam も知る通り、各国政治首脳の写真を新聞から集めて自作の大きな世界地図に貼りつけることを趣味にしていたから、答えはすらすらと出た。「ブラジル大統領は?」と聞かれて、「バルガス」と答えると、Y さんは「え、バルガス?」という。
 帰るときに Y さんは、「試験みたいだったな。それでも何か得るところがあっただろう。ぼくもまた、たっちゃんに新しいこと習うよ。きょうはブラジル大統領を覚えたよ」といった。何だい。自分の知らないことまで出題したのだ。それでも、アメリカの独立宣言の年や、運輸相、通産相、労相が誰であるかを知らなくて、「新聞クラブ、しっかりせんか」といわれたのには、返す言葉がなかった。

2013年3月5日火曜日

誰が誰となぜ何を


高校(1 年生)時代の交換日記から

Ted: 1951 年 7 月 24 日(火)晴れ

 加賀谷、上井 — 谷本のバッテリーで戦ったチーム
(注 1)は金沢市工に 14–3 で敗れ、阪急は 6 位に落ち、中谷は 5 位に下がった。すべてが面白くない。
 押しかぶさるような重責を経験しながら、午前を過ごした。昼食という、午前を午後と同じ軽快な感じにさせない境界線を越えてから、Jack の家へ海の土産話を聞きに行った。シャツをまとわないで、赤くなった背と腕と肩と胸を痛そうにしていた彼は、目を細めて、像を少しでもはっきりさせようと努めながら、「入って来いや」と、ぼくを迎えた。
 波、砂浜、ソフトボール、昼寝、舟、写真、西瓜、汽車、一時間、某大学生、伊藤先生、口、飴、Tacker、市長令嬢、寝顔、くたくた、へとへと、夕飯、ぐっすり、などの単語を挿入しながら、「とにかくおもろかっ」た一日を物語ってくれる。そうしているところへ、昨日別れるときにきょうの行動を契約した Tom が、Jack の得意科目のプリントを持ってやって来た。
 勉強と会話。そのあとで、筋が通らなかったり、偶然通ったりすることによる笑いを楽しむゲームをした。Who, (with) whom, when, where, why, how, what—こう沢山では、複雑過ぎて面白くない。そこで、一、二、五、七番の 4W で行なう。「私と私の右横に坐っている人を除いたこの部屋にいる人(これを読み上げることになったのは Jack で、この主語は Tom のことになった)が、Jack と、Jack という大泥棒を逮捕しようとして、追い回した」とか、「大下選手が、Jack のお母さんと、悲しかったので、婚約した」とか、誰かと誰かが「心中しようとして、自殺した」とか(これらの「名作」の最後の言葉はみな、ぼくのものだ)、夢あり、不可能あり、犯罪ありで、大変な事態だ。(つづく)
引用時の注
  1. わが金沢菫台高校の野球部。この年は夏の大会の県予選で惨敗したが、翌年秋には、北信越大会で準優勝するまでに成長した。上井君(「UW 君」として、これまでにも日記に登場している)は小学校時代、県内随一といってもよい名投手だったが、肩をこわしたのか、中学時代から一塁手として活躍していた。それで、彼がこの試合でリリーフ投手を務めたことを、私はすっかり忘れていた。

無行為への後悔


高校(1 年生)時代の交換日記から

Sam: 1951 年 7 月 24 日(火)晴れ

 ぼくはまだまだ主観的で、思考の範囲が狭いね。とくに、とっさの判断を要するときは、ひじょうに妥協的で、意気地がない。Ted! 『五人兄妹』の映画
(注 1)を見たかい*。その劇場で感じたのだ。いや、映画を見て、それについて自分と比較して、そう考えたのではない。そのときのぼくの状態から感じたのだ。経過を話さなければ分らないだろう。きょうのことに関係しているのは二人だが、直接感じているのは、広い世界にただ一人だ。
 昨夜、階下の人に北国夕刊からの招待券を貰った。ぼくにとって、招待券は珍しいものだから、一人で行かなければならないと思っていた。ところが、けさになって考えてみると、N
(注 2)もきょうの招待券を持っているように思われた。さっそく一緒に行きたいと思ったが、午前中はいつもどこへも行けない。ようやく十一時頃になって、なすべきことが終わったので、よほど行こうかと思ったが、時間が遅いこと、N が家にいないかもしれないこと、いてもすでに見てきてしまったか、行かないかもしれないこと、などを考え合わせると、行きたくなくなった。
 十二時半頃出かけた。劇場に入って間もなく、その回の上映が終わった。タイプの練習があるので、終わったらすぐ席を立って外へ出た。いや、出ようとしたとき、ふと右の方を見ると N がいる。いま入って来たばかりのようだ。
 なぜか知らないけれども、ぼくは即座に首を左に向けていた
**。そして真っすぐ出てしまった。出てエレベーターの前へ来るなり、「しまった」と思った。まだ、二時三十分。ニュースだけは見ていても遅くならない。N のところへ行って、始まるまでの時間、話し合ったり(話したいことは山ほどあった)、一緒に映画を見たりすればよかった。そんなことをしなくても、「オス!」ぐらい、いいに行けばよかった。いつかも電車の中でそれと同じことをやったのを思い出した。そして、あのときぼくはどうしようと思っただろうか。
Ted による欄外注記
 * 新聞広告と町に出ている広告で見たよ。
 ** だから向性指数が百以下だったことがあるんだ。[引用時の注:「向性指数」とは、中学時代に受けた性格テストの結果を表す指標で、100 以上が外向的、100 以下が内向的という目安だったようだ。]
引用時の注
  1. 1939 年の映画 Five Little Peppers and How They Grew だっただろうか。
  2. ここに私の欄外注記があったが省略する。内容は、ニックネーム Neg 以下、N で始まる私の知る実名を 16 も書いて、終りに疑問符をつけたものである。Sam はこれに対して答えていない。それらの中に該当する名はなかったのだろう。

2013年3月4日月曜日

問題の方がミスが多い


高校(1 年生)時代の交換日記から

Ted: 1951 年 7 月 23 日(月)晴れ(つづき)

 それは、Jakkan 先生が卒業式後に補習授業をしていて、ぼくがそれに顔を出していたときのことだったからね
(注 1)
 「You shall die. タバタ、訳して見ろ。」
 「君は死ぬでしょう!」
 「なんだ?! You shall die. イコール I will kill you. だ。」
とやられたのは、Jack が Minnie から交換写真を手渡された日だった。
 Jakkan 先生は、「これが出来たら、帰ってもいいわ!」といって、難問を出すから楽しみだ。そういうことが二回以上はあったのだが、一度も帰らなかった。覚えている一度は、二年のときで、社会の時間だった。「タバタに "若干" というあだ名つけたの誰だ! "若干" は英語でなんというか。出来たら帰してやる!」("若干" とは先生の方じゃないか
(注 2)。)もう一度は、"You shall die" と同じ頃で、ぼくが Minnie(こう乱用すると、Funny に悪いかな。いや、そんなことはなかろう)と同じ教室で講議を聞いた、後にも先にもない期間のことだ。"May I ...?" という疑問文の答えとして、"No, you (  ) not." のカッコ内に当てはまる言葉をいえばよかったのだ。このときは完全に帰れたのに、帰らなかった。(あっさり答えて帰るのと、講義を聞き続けるのと、どちらを望んだかということになるかな。)

 Tom は三枚のプリントに、一つも間違いのないように答えを書き込んだ。こうなると、問題の方がミスが多い。和文英訳問題の「英語の勉強をする」という部分に、この英語を使えと言う意味で「(study hard)」とあるなど。次のような問題もあるから、われわれは鉛筆を投げ出し、プリントを振り回し、畳をたたいて笑った。「少年よ (boys) 大志を抱け (be ambitious)。」ほとんど出来上がっているではないか。

 Tom の写生を見るために公園までお供した。図書館を後ろに、茶屋と木々と小画家がよく描きたがる長く伸びた道とを前にしたベンチに、彼は道具を置いた。これで三日目だという彼の絵は、明るくて力強くて弾性があった。油っぽい絵具の匂い、鮮やかになったり鈍くなったりする自在な色合い、それらが混じて浮き上がらせる感情と響き…。強い魅力を感じた。
(注 3)
引用時の注
  1. 私の中 3 のときの英語の先生は Jakkan 先生ではなかったが、中 2 ではこの先生から英語を習ったし、中 1 のときのクラス担任の先生でもあり、のちのちまで何かと助言を貰ったりした関係で、私はその補修授業を受けたのである。
  2. Jakkan 先生は授業中によく「若干すね…」といわれ、また少し難しい話のときには、しばしばクラスのめぼしい生徒を名指して「○○、分るか」といわれた。それで、級友たちがよく聞く先生の口癖は「若干すね…。タバタ、分るか」であり、先生のあだ名を「若干」にするとともに、私の顔を見れば「若干、タバタ、分るか」といって面白がる級友たちもいた。あとの方が Jakkan 先生の耳に入り、先生は私のあだ名が「若干」だと思われたようである。
  3. すっかり忘れていたが、この日の兼六園の観察が、私の高 2 の夏休みの創作「夏空に輝く星」の冒頭を書く一つの参考になったようである。

宿題は進まない/英語の宿題を教える


高校(1 年生)時代の交換日記から

Sam: 1951 年 7 月 23 日(月)晴れ

 何ら新しいことはない。町の道路工事は遅々としているが、それでも、もはや半分近く終わってしまった。それなのに、ぼくの宿題の方は、わずかなのに、いっこうに進まない。
 午後一時から三時までの最も暑い時刻をどうやら送って、さっそく自転車で出かけた。
 セミの声がだんだん珍しくなくなって来た。何かをしていて、ふっと注意してみると、必ずどこかで鳴くセミの声が聞こえる。


Ted: 1951 年 7 月 23 日(月)晴れ

 足りない。そうだ、足りないのだ。何かをなし続けた。
 感情と思想と呼吸の交流のない午後を送ろうとしていたときに、誰かが呼びに来た。Lotus? 珍しい! いや、そういうことはない。それでも早い!——違っていた。Tom だ。肩から掛けたものと、手に持ったものと、脇にかかえたものとを、彼は携えていた。それらが一人一研究の商売道具だとは、あとで公園へ行ってから知った。英語のプリントの解答を教えてやらなければならなかった。問題は未来時制を中心にした和文英訳のものが多い。直接話法と間接話法の相互間の変換の問題もあった。系統立てて文法のことを習っているからうらやましい。ぼくがそれを深く教えて貰ったのは、中学の卒業式も済んでからのことだった。(つづく)

2013年3月3日日曜日

一年前の自分は小さく


高校(1 年生)時代の交換日記から

Ted: 1951 年 7 月 22 日(日)晴れ

 もう一週間になる。何もしていない。煩悶、憂愁。無駄だ。流れは速過ぎる。
 こいつが難局の根源かも知れない。目の酷使を続けても、進んでいない。あとにも多くのことがつかえている。

 昼寝が出来るとは、そして、それを要求するとは、変ったことだ。しびれを感じ、一切を反省させられ、争い、起き上がろうとしているうちに、いつか自我のない状態に入っていた。ちょうど五十分。そのあとは、病床から立ち上がった病人であるかのような気持と、全快したような気持との混合したものを経験した。白い光を見つめる。心の中までが白くなったようだ。そうして机に向っているうちにも、流れの浪費を行なっただけだった。
 停滞した感情のはけ口を求めて、ためらいをいくらか交えた放棄作業のあと、Tender を呼んでみた
(注 1)。Octo はシャツのボタンをとめながら出て来た。手の垢をこすりながら話した。
 空虚だ。整うのを待っている。スタートの方法が昨年とは相当変ってしまった。これでよいのかどうかは結果が示してくれる。しかし、それを待っていられない。

 天徳院で盆踊りがある。複雑で浅いなんとかぶしと、短調で深いセミの声。求めるものと途中に転がっているものと。渦と清流と。——何かがある。何だ? アンターレスほどの大きさにした目を見はっても、至上のものはひと目では分らないだろう。だからこそ集注しなければならないのだ、少しでも。
 昨年の日記を出してみる。その頃の自分が小さく思われる。きょうは昨日の次に暑くて、Tom と Mangetsu の家へ行ったと書いてある。八月五日のはどうだい。「八時に登校。校長先生の訓話の後、校内水泳大会があった。"第三コース、清水君、日本。第四コース、ブロウナー君、アメリカ"」?
(注 2) 七月二十四日の叙景に「大日輪は山のかげにかくれた」とある。『少年クラブ』の連載小説「緑の金字塔」などを読んでいた影響だろう。
引用時の注
  1. Tender とは友人のニックネームだろうが、誰のことか忘れてしまった。「呼んでみた」とは、家の前で、「○○ 君!」と叫んで呼び出そうとしたことを意味する。
  2. 校内水泳大会について書いた後に続いて、断りもなく、日米対抗水泳大会中のアナウンスらしいものを書いているのは妙かつユーモラスだが、ここに疑問符を書いたのは、ユーモアが一年後には解せなかったということか。

彼の字は美しすぎる


高校(1 年生)時代の交換日記から

Sam: 1951 年 7 月 22 日(日)晴れ

 私鉄スト! これでは、せっかく海水浴を計画しても、延期しなければならない。組合側と会社側のどちらも支持する者、あるいはどちらも支持しない者の論理は、「盗った者は悪いが、盗られた者も悪い」というものだ。いまの気持ちはそれと一脈通じるようだ。

 KMT 君とチビ君から同時に便りが届いた。さほど変ったこともない。静岡は七月二十日から暑中休暇で、九月一日まで四十日間だという。KMT 君は夏休みの大部分を海岸で送る計画だそうだ。
 チビ君は相変わらず字が美しすぎる
(注 1)。でも彼の内容は愉快だ。彼の葉書に対して答えたり批評したりすると、すぐに紙面が尽きてしまう。彼の住所がゴム印で押され、「守口局区内」と「方」と自分の氏名がペンで書き加えられていた。ぼくが配達局名を書かないで出したので、消印の下に注意書きがしてあったそうだ。彼もまた、昨日 Gold が口にした名前を書いている。もと三年八組の生徒はいつまでも忘れないものと思われる。

 午後から Gold のところへ行く。家の前で会社から帰って来るのとバッタリ会った。彼はとても物憂そうで、囲碁をするという約束だったが、そうする様子もなかった。折よく彼の兄さんが帰って来られたので、一番、相手して貰った。九目置かせて貰って開始し、一時間半ほどを要したが、結局、五目の差で辛勝した。すぐにいとまして、穴水町二番丁へ行ったが、きょうは休講らしかったので引き返した。
引用時の注
  1.  * 平成の流行語を Sam が時代に先行して使ったのかと思ったが、次に「でも」という逆接の接続詞があり、肯定的な内容が来ているので、「美しすぎる」は否定的な意味、すなわち、「いかにも下手である」の婉曲表現と分る。

2013年3月2日土曜日

児童の絵が映し出すもの

高校(1 年生)時代の交換日記から

Ted: 1951 年 7 月 21 日(土)晴れ

 午後、『復活 中巻』を読み上げて、Jack のところへ持って行く。本を返しに行っているといわれ、上がって待つ。明るくて退屈な午後の大部分をそこで一人で費やした。

 夕食の最中に Sarry(従姉。引き揚げ後、進駐軍将校の家庭で働いていたとき、このようなニックネームを貰っていた)が来て、母と大きな声で話して行く。北陸幼稚園の先生である彼女は、幼児の絵について話した。何とかいう幼児の絵の研究の大家が、幼稚園へ来られたそうだ。その大家は絵を見ると、それを描いた幼児の性質、家庭の様子、両親の育て方などを、占い師のように判断することが出来る。その判断は、多くの統計による研究から割り出される心理学的なものである。そして、彼は、幼児の純真な空想と欲望と想像に満ちた、大人によって植えつけられる型にはまった概念を持たない絵を、伸ばしてやらなければならないと主張される。Sarry は持参した幼稚園児の絵を広げて見せた。ピカソが年月をかけて求めたものに、児童たちは一足飛びにぶつかって行っているかのようだ*。海へ行ったとき雨が降ったという絵は、記憶から真似して描けば、次のようなものである。


(うますぎたかな?)児童が好んで用いる色によって、その性格が判るそうである。また、病気のときに描くものにも大体一定の傾向があって、「この絵は○○病の子どもが描いたのですね」と、その大家はピッタリ当てたそうだ。
 Sarry はまた、児童の心理を追求する自分の仕事と家庭(昨年末に結婚したばかりである)の両方を十分にやって行くことは難しくて、幼稚園をやめることになるかもしれないと話した。それについて、母はいろいろ助言した。——Sarry が能動的であるのに対し、彼女の夫はおとなしい人であり、Blondie 夫妻を連想する。——

 かば色がかったクリーム色の空に電線の被覆のはがれたのが、むさ苦しくぶら下がって浮かんでいる。
Ted による欄外注記
 * 一足飛びにぶつかるだけでは、芸術としてはもちろん不足だ。多くの人は、その不足部分を追い求めているうちに、既得の部分を失ってしまい、それを取り返すのが容易でなくなるのかもしれない。

2013年3月1日金曜日

午後からの海水浴行き


高校(1 年生)時代の交換日記から

Sam: 1951 年 7 月 21 日(土)晴れ

 十時が二時になったのでのんびり出来た。Ted が誠意をもって届けてくれたものを、十一時頃に返却に行った。そこは静かだった。五人近くの係の女生徒が、椅子にかけて何か話していた。その中の一人にタイプの講習で顔見知りになったのがいたので、双方で自然ににっこりした(別に大したことでもないが、書いてしまった)。本を返してから、特にあてもなく、カード箱ををあっちこっちひっくり返して、二冊の本の名を記入し、係員に提示したが、一冊しかなかった。分類番号は、日本十進分類法で 143 の 4。帰宅後、シソの葉を取る手伝いをした。

 午後一時半頃、金ちゃんを誘いに行ったが、二時を大分過ぎてからやっと会社から帰って来た。心ばかりが急いだが、致し方なかった。Neg を小一時間も、北鉄金沢駅で待ちぼうけさせた。普通ならば、ぼつぼつ帰りかける時刻に出発する。海は波が高かった。われわれは、泳ぐというより、波に抵抗した。そうしなければ、瞬く間に、なぎさに押し返されてしまう。波が来なければ、ひざのわずか上までしかないところでも、白い牙を立てた波が来ると、われわれをひとのみにして、越して行く。——
 時間が時間だったので、一分間何円というような海水浴だった。六十円持って行ったが、電車賃にその 2/3 を使い、パンとコーヒーを買ったら、無一文になった。帰りに電車を下りると、金沢の大地図をバックにして、宣教師らしい外人がバイブルを手に、英語のような日本語で、物珍しげに見ている人たちに話しかけていた。彼らは四人の仲間からなっていた。一人はオルガンの前に腰かけていた。オルガンには賛美歌の本が数冊置いてあった。一秒のことで電車を見送ってしまったので、講習には間に合わない時間になった。

 Gold(少しもったいないニックネームだが、これを金ちゃんに与える)と二人で歩いて帰る道中の半分近くは、かつてぼくの第四指(人差し指が第一指だよ)とうわさされて困ったことのある人物について、彼がしつこく食い下がって来るので、いやになってしまった。どうせ Gold にとってはこんな話が面白いのだということはよく知っていたから、ばくぜんとしたことばかりいっておいた。いまは考えてもみないことだが、否定しても Gold は決して信用しないので、逆効果になる。その辺が何となく難しい。