2013年3月28日木曜日

町内の海水浴に合流


高校(1 年生)時代の交換日記から

Sam: 1951 年 8 月 4 日(土)(つづき)

 乗っている電車がもどかしく遅かった。飛び込み台のところにいる機動君を見つけて、ようやくたくさんの知っている人のいる浜茶屋へ入った。晴夫君(謎の答えを書いてしまった)は、先にお母さんが来ていられたからよかったけれども、ぼくは階下の小母さんに服や身の回り品を預かって貰った。一度軽く泳いでから、ここまでに名の出た友人たちと三人でボートを借りて沖へ出た。晴夫君は水中眼鏡をかけてボートから飛び込み、二枚貝をとった。しかし、そんなに多くはとれなかった。機動君がオールをこいで、ぐんぐん沖を目指した。犀川の堤防と同じくらいの距離になった。舟板一枚の下は身長の数倍はあるだろう。北西の方からうねり波(と名づけてもよいだろう)が押し寄せてきているので、それと垂直な方向にボートをおけば、たちまち呑まれてしまう。注意しながらカーブして、波打ち際へ帰った。

 バスが出るとのことだったが、われわれ三人を入れて七人はまだ残ることにした。しばらく排球をして遊んだ。そして、今度は晴(夫と一)が晴(一は夫)
(注 1)に助けられながら、二〜三十米沖にある遠浅へ行き、二枚貝をとり始めた。ボートで調査済みなので、うようよといる。しかし、その深さがぼくたちの身長では及ばないので、泳ぎながらとらなければならない。平泳ぎと立ち泳ぎと水潜りを交互に行なって、手に貝を納めるのである。疲れるたびに遠浅へ戻って休んだ。遠浅といっても、そんなに浅くはなく、ぼくが肩から上を辛うじて出せる程度のところである。晴(夫よりも一)の方がはるかに長く多く休んだ。とった貝は褌の間にはさんで持っている。晴(夫も一)も袋と名のつくものは何も持っていなかったし、こうして持っている方が泳ぐのにも邪魔にならなくてよい。五、六個とる毎に、波打ち際へ戻って貝を手拭に包んだ。晴(夫と一)を比べれば、3 : 1 ぐらいの割合の貝をとった。やがて他の五人が帰るといい始めたので、くたくたになった体を前のめりにさせるようにして駅に向った。

 帰ると、母が佐渡島の緯度よりも高い熱を出して寝ているとのことなので、驚いて駆けつけた。やがて十時になる頃まで、肩をたたいたり、腰をもんだりした。
引用時の注
  1. 「晴夫と晴一」などを、数学の因数分解のように共通因子をカッコの外にくくり出して記してある。晴一は Sam の本名。

Sam: 1951 年 8 月 5 日(日)晴れ

 いつものように午前中を終えて、そうだ、少し早めだった、ワン・マンと同じ苗字の家の子を連れて、日米陸上競技金沢競技会を見に行った。正面の真向かい、すなわち、国旗掲揚台のあるところの入口から入る。
(注 1)
引用時の注
  1. この日の Sam 日記は、ここで中断している。

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