2013年3月29日金曜日

京都から帰る


高校(1 年生)時代の交換日記から

Ted: 1951 年 8 月 11 日(土)晴れ

 ただいま! こちらもやはり暑いね。昨日は十一時五十九分に京都を立った。到着したときには白んで来た空や丸物デパートの暁眠を見ていて気づかなかった京都駅の様子は、昨年の修学旅行でわれわれが見たところの一つをも残していないものだった。間に合わせのバラック建てでは、どうも京都という感じがしない
(注 1)。汽車が動き出すとき、J 伯母さんはつまらなさそうにブリッジの階段を上って行ってしまった。滞在中のぼくは悪印象を与えたかなと心配であり、また気の毒でもある。
 腕時計と皮ふの間にごってり汗がたまる。トンネルを通るときは、動かない空気の中で足を踏んばり、腰に拳を当て、月世界旅行のロケットが引力圏内を離れるときの真似ごとみたいだ
(注 2)。近江八幡で腰かけることが出来た。一時間…二時間…三時間…、周りにいた乗客は誰も彼も、棒についている清涼剤を食べたりして、次々に下りて行く。そして、代りが乗って来る。変化があってよい。ちょっとでも変化がなくなると退屈する。北へ向って走る列車の左側の席だったから、午後遅くの日が射し込み始めた。
 通路を隔てた隣に席を占めていた四人家族の中の父親は、小学校教師らしい人だった。透明な縁の眼鏡をかけ、口の上に台形のひげを蓄えている。「それ、あそこが…」、「ほら、そこだ…」、「あっち、あっち」という調子で、忙しく方々を指差して子どもたちに話していた。野洲というとろでは、戦時中の学童の集団疎開が、この駅でどのようにして行なわれ、幾組もの母と子がどのように悲しんで別れたかを物語った。(つづく)
引用時の注
  1. 私たちは 1950 年、中学 3 年生の春、京都へ修学旅行に行った。同年 11 月、京都駅構内の食堂からアイロンの不始末によって出火し、私たちの見た駅舎が全焼した。それで、その翌年に当たるこのとき、京都駅舎はバラック建てだったのである。
  2. 当時の列車を動かしていたのは蒸気機関車だったので、トンネルを通るときは煙が車内に入らないように窓を閉めた。客車内には扇風機もなく、8 月の暑さに耐えるのが大変だった。

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