2013年3月15日金曜日

楽譜のない音楽


高校(1 年生)時代の交換日記から

Ted: 1951 年 7 月 28 日(土)晴れ

 宛名に「殿」をつけた葉書が来た。誰からだろう? りゅうりゅうとした字だ。「金沢市河原町一二 読売新聞社金沢支局」とゴム印で押してある。まだ分らない。裏を見る——と、二行目に「セントラルリーグ」の文字がある。 〈ははーん。〉 一行目から読まなければ…。「弐等賞」とある。気持がわるいぞ(「壱」でないからね。でも、Sam に音楽で 20 点の差をつけられて、総合 2 位にしかなれなかったこともある
(注 1)のだから、「弐」が精一杯かもしれない。でも、同じ取るなら「壱」でないと…。でも、——けさの新聞に「留守家族断食デモ」(注 2)とあったから、「でも」ばかり使うのだ——今回のは「脳」力の問題でなく、運の問題だ)。Sam と Funny のお陰で、この葉書と引き換えに何か貰えるから、感謝するよ(注 3)

 指を折り、嘆息し、「宿題とは進まないものなり」と、つまらない定義をしてみたりしないではいられない。
 またしても、昨年はどうしていたかを見ていると、八月二十日に、昨日ぼくが Octo に対してしたことを、Octo がぼくにしてくれていたことを見出した。手ぬぐいの忘れ物を届けるということだ。そのために、昨日のぼくはシャツを再び、びしょぬれにした。「手ぬぐいとは、自分の物であれば汗をぬぐえるが、他人の忘れ物ではかえってこれを流すことになるものなり」とは、これまた、つまらない定義である。

 何かを期待して、チューブから絞り出した絵具がすぐに固まってしまいそうな日光の中で、脚を動かした。初めはガソリンの藍色の点々としたしみを浮かべて、暑さのもとでだらりとしている電車通りを。次に、公園の木々の中のセミの声とベンチの上の男女のささやきの間を。それから、セミの声がほとんどしない、屋根瓦が白く光り、トウモロコシが軽く揺らいでいる小路を。灰色っぽい家々の並ぶ狭い通りを。明るく軽やかな流れと光を反射している生粋な生命との縁を。スカートと赤い唇の動きも忙しい大通りを。笠森一二君が昨年そこを描いて石川新聞社長賞を得た、金沢で最も都会性のある場所
(注 4)を(しかし、実物はあの絵よりもこせこせしている感じだ)——。これは何かって? 楽譜のない音楽を求めての散策といったらよいかもしれない。
 家へ戻って、顔と腕を洗い、すっとした。ここが一番涼しい!(つづく)
引用時の注
  1. 高校進学のための県下一斉テスト(アチーブメント・テストという名称)に備えて、中学 3 年の 3 学期に行なわれた校内模擬試験。音楽の筆記試験もあり、それで Sam に差をつけられたということは、すっかり忘れていた。(私が得意とした英語は、当時選択科目だったので、模擬試験時にその試験も実施されたものの、総合点には加算されなかった。)校内試験の総合点の話は、この夏休み後にも、高校でのこととして、また出て来るかと思う。私は、いわゆる「点取り虫」ではなかったが、スポーツは苦手であり、また、弁舌を振るって生徒会活動の重要人物になる自信もなかったので、校内で注目されるためには学科試験で頑張るしかないと思っていた。
  2. シベリア抑留者の日本への帰国事業がまだ半ばだった頃であり、抑留者の留守家族が早期帰国達成を求めて断食デモをしたのだったか。
  3. 読売新聞社金沢支局主催でデパートで開催されていた「セントラルリーグ写真展」を見た折に、クイズへの答えを投稿し、抽選で二等の賞品として野球のスコアブックなどを貰った。賞品については翌日の日記に書いている。
  4. われわれが中学 3 年生のとき、石川新聞社主催で金沢の都会性を表現する絵のコンクールがあった。図工室に集められたわが校からの出品作中の、笠森君が繁華街「香林坊」の中心を高所から見て描いた絵を私はひと目見ただけで、「これはすばらしい!」と思った。その印象はいまでも目に焼き付いている。これより前にイーゼルペイントで描く作品のコンクールで県内 2 名の金賞を貰った一人だった私の、このときの作品は、Lotus こと KZ 君の家の屋根の上という、やはり高所からの眺めを描いたものだったが、佳作だった。電車通りとそれに沿った店々が画面におおむね平行に横たわっている、構図的に面白味のないものだったと思う。横町への角に写真館があり、その姿にはやや都会性があっただろうが、香林坊のビル(現在ほどの高層ではないが)のそれには遠く及ばなかった。

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