2013年3月2日土曜日

児童の絵が映し出すもの

高校(1 年生)時代の交換日記から

Ted: 1951 年 7 月 21 日(土)晴れ

 午後、『復活 中巻』を読み上げて、Jack のところへ持って行く。本を返しに行っているといわれ、上がって待つ。明るくて退屈な午後の大部分をそこで一人で費やした。

 夕食の最中に Sarry(従姉。引き揚げ後、進駐軍将校の家庭で働いていたとき、このようなニックネームを貰っていた)が来て、母と大きな声で話して行く。北陸幼稚園の先生である彼女は、幼児の絵について話した。何とかいう幼児の絵の研究の大家が、幼稚園へ来られたそうだ。その大家は絵を見ると、それを描いた幼児の性質、家庭の様子、両親の育て方などを、占い師のように判断することが出来る。その判断は、多くの統計による研究から割り出される心理学的なものである。そして、彼は、幼児の純真な空想と欲望と想像に満ちた、大人によって植えつけられる型にはまった概念を持たない絵を、伸ばしてやらなければならないと主張される。Sarry は持参した幼稚園児の絵を広げて見せた。ピカソが年月をかけて求めたものに、児童たちは一足飛びにぶつかって行っているかのようだ*。海へ行ったとき雨が降ったという絵は、記憶から真似して描けば、次のようなものである。


(うますぎたかな?)児童が好んで用いる色によって、その性格が判るそうである。また、病気のときに描くものにも大体一定の傾向があって、「この絵は○○病の子どもが描いたのですね」と、その大家はピッタリ当てたそうだ。
 Sarry はまた、児童の心理を追求する自分の仕事と家庭(昨年末に結婚したばかりである)の両方を十分にやって行くことは難しくて、幼稚園をやめることになるかもしれないと話した。それについて、母はいろいろ助言した。——Sarry が能動的であるのに対し、彼女の夫はおとなしい人であり、Blondie 夫妻を連想する。——

 かば色がかったクリーム色の空に電線の被覆のはがれたのが、むさ苦しくぶら下がって浮かんでいる。
Ted による欄外注記
 * 一足飛びにぶつかるだけでは、芸術としてはもちろん不足だ。多くの人は、その不足部分を追い求めているうちに、既得の部分を失ってしまい、それを取り返すのが容易でなくなるのかもしれない。

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