2013年10月14日月曜日

人生はこれでよいのか


友人たちとの文通記録

Sam から Ted へ: 1959 年 10 月 10 日
 引用に当たって:先に 私 Ted が 1959 年 12 月 29 日付けで書いた Sam への手紙を掲載した。その主題は、Sam が高校 3 年のときに書いた創作を読ませて貰っての感想だったが、冒頭に、「君の手紙にあった悩みのその後の心境について、『あきらめた』という返答を聞かされたのは、何だかあっけなくて興ざめだったが、…」とあった。Ted がここに言及している Sam からの手紙に相当すると思われるのが、以下に引用するものである。社会人となって 6 年目の Sam が Ted からの手紙を受けて、返信として書いたもので、黒に近い青インクで便箋 4 枚半に及んで綴られている。句点の追加など、読みやすくするための若干の変更を加えて引用する。Ted は友人たちへの手紙をおおむね日記帳などに下書きしていたが、この返信のもとになった Sam への手紙の下書きは、なぜか見つからない。
 泥の中の眠りから、いま目覚めたところだ。太陽は、やがて西に沈みかけようとしている。よい眠りからは平安と充足が得られるものだが、このような眠りの後には、一種の空虚さが身にしみる。無目的で不確かな生活の連続は、人生を怠惰にする。
 旅行の最終コースを終えて列車に乗るとき
(注 1)、ほっとした安堵とともに、例え難い空白が去来する。明日からの仕事に対するわずらわしさではなくて、人生はこれでよいのかという疑問が頭をもたげてくるからだ。仕事に追われ通しのときは、それすら心に浮かんでこないのだが、このようにして、心にややゆとりが生じたときに、この疑問のためにかえって落ち着かない気持になる。
 このままの生活が、二年も三年も、いや、もしかすると一生続いて、そして淋しくこの世を去らなければならないのだろうか。そして、一、二年もすれば、誰もが永久的に忘れ去ってしまうであろう。選ばれた一部の人たちのように、その人の社会的功績が歴史を通じて語り伝えられるということがなければ——。
 そのように努力し、優れた才能を発揮することは不可能でないかもしれない。だが、現状からして、それをどうして行なえばよいのか。一個の人間などというものは、水の分子のような存在にしか過ぎない。抗し難い一つのジャンルの中にありながら、それはそれなりに生き方をもってはいる。
 よろこび、あるいは悲しみも、小さな生活の中にすべて求めなければならないのだろうか。例えば、結婚、育児、それから、職業を通じて、いくらかの社会的貢献をすることなどに。
 そして、小説の舞台を求めるならば、広い社会層にわたる雄大さでなくて、悩める魂の奥深い淵を追求してみたい。小説のためには平凡さでなくて、強馬力の発電力を備えた頭脳と肉体を必要とする。単なる興味や酔狂で書けるものではない。一つの信念ある基盤にたって考察すること——。
(注 2)[つづく]
引用時の注
  1. Sam は大手旅行社に勤務し、この頃しばしば旅の添乗業務をしていた。
  2. この段落は、Ted が、「いま小説を書くとすれば、広範な人々が登場する、政治・社会の問題を含んだ雄大なテーマでなければならない」という意味のことを書いた(実際に小説を書きたいと思ってではなく、いろいろな問題に興味をもち始めていることの表現として書いたのだが)ことへの返答であろう。

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