2013年6月30日日曜日

悩ましげな/息づまる気持で


高校(1 年生)時代の交換日記から

Elecky がTed: 1951 年 10 月 20 日(土)曇り

 悩ましげな…、ああ、悩ましげな…。やや突き出た瞳と唇、白っぽくあせた、泣いたあとのような表情。
 それに引き換えて、快活な、軽やかな、きつね色の輝き…。従順さはなさそうな…。全てが不完全だけれども、全てが完全だといいたい。

 生物の時間は、散歩をしたに過ぎなかった。*
 SH 時には、Purse が議長となり、旅行的遠足の目的地が手取峡谷と決定された。Sam の学校とは違って、われわれのホームは温泉地に見向きもしなかった。
 C 時には、21 番教室で行なわれる高文連・新聞研究会の準備をした。ぼくは T・S 君と椅子を運んでから、黒板に「高文連新聞研究会」、「テーマ 高校新聞を批判する」、「発表者 … … …」などの字を書いた。
Ted による欄外注記

 * 解剖実験用のカエルを捕りに行って、捕まえられなかったのだったか。

Sam: 1951 年 10 月 21 日(日)雨

 昨日そういわれていたので、九時頃から出向いて、学校に行く。まだ早い。白墨をこっそり取って来て、いたずらをしていた。
 タイプの練習はほとんどしなかった。第一体育館で篭球や羽球などをして遊んだ。

 感想はあったが、もう書くべきほどのものはない。

 夜、『白昼の決闘』
(注 1)を見た。夢じゃない。しかし、夢のようなものだ。興奮して、息づまる気持で、登場人物に注意を集める。(駄目だ。どうも表現がまずい。)
引用時の注
  1. 『白昼の決闘』(原題 Duel in the Sun)は、1946 年のアメリカ映画。キング・ヴィダー監督の西部劇。

2013年6月29日土曜日

放課後のソフトボール/土曜午後もタイプ練習


高校(1 年生)時代の交換日記から

Ted: 1951 年 10 月 19 日(金)晴れ

 スポーツの秋!! 図画の時間に講堂の横で写生をしていると、隣の盲ろう学校運動会の音楽と実況放送(盲生徒たちのために、これを場内へ聞かせながら進行するのである)が聞こえて来た。
 放課後、定例生徒議会が行なわれたが、予定した編集室の第二回大掃除は行なわなかった。代りに新聞クラブのボールで、他にも少しの人数を加え、一年生対二年生のソフトボール試合をした。接戦をしていたのだが、九回表にわれわれの守備陣は大いに荒れて、一挙三点を与え、七対三で、ぼくが敗戦投手となった。太陽に向かってバットを振らなければならなかった一回戦に続いて、太陽を背にして打つ二回戦は、一、二年生混合で行ない、Issay、Popeye、Charco らも加わった。Twelve は小さい身体で、よく打ちよく捕った(注 1)。カロチンやキサントフィール の多くなった木々の葉のヨードチンキ色が陰って来て、それが藍色反応を呈したような空気になるまで続いた。
引用時の注
  1. のちに聞いたところによると、Twelve は小学生時代、選手ではないが野球部に所属していたそうだ。Issay と Popeye は野球部の選手、そして、Popeye も Charco も小学生時代に県大会で優勝したチームの投手と三塁手だったという、バットとボールにかけてはそうそうたるメンバーを加えてのソフトボール遊びだった。二回戦で打者と太陽の相対位置が一回戦とは逆になったのは、野球部が練習を終えたので、運動場の野球用スペースへ場所を移したのだろうか。記憶では、野球用スペースの方が夕日に向かって打つことになりそうな気がするが…。

Sam: 1951 年 10 月 20 日(土)晴れ

 土曜日だが、弁当を持って行った。清掃に当たっていたので、一時になってやっと食べることが出来た。直ぐ帰るのはつまらないから、タイプの練習をしようと残る。ときどき、小脳の判断が誤って、ミスをする。平均して、一行に一つぐらいある。

2013年6月28日金曜日

市電が八円に値上げ


高校(1 年生)時代の交換日記から

Sam: 1951 年 10 月 19 日(金)晴れ

 再び「村井藤十郎氏」にお目にかかる。われわれが assemble している決まりの時間を二十分も超えて、しゃべりまくって行った。問題は批准国会に端を発して、講和条約、日米安全保障条約に及ぶ。諺の巧みな引用などで、最後まで飽かずに聞くことが出来た。

 トホホ…! こんなのないや! 「文化祭並びに運動会のスナップ」がアルバム委員によって、音楽室の出口の廊下に貼り出された。よく見ると、驚いたことに、見たような顔の写真がある。さらによく見ると、ぼくだ。まさに跳び箱を越えようとしているところだ。勇ましいぞ。でも、油断もすきもないものだ。知らない間に、ちゃんと記録されてしまったのだ。あのときは確か、ぼくのあとに誰もいなかったはずだのに…と思うと、やや悔しい。一枚貰うことにした。

 またまた、トホホ…!だ。市電、八円に値上げ! 明日から実施! タ・イ・ヘ・ン・ダ。うっかり電車にも乗れないぞ。電車に二回乗ったと思って、写真を注文したんだったのに。

2013年6月27日木曜日

生徒会長は Elecky/Drill, drill


高校(1 年生)時代の交換日記から

Ted: 1951 年 10 月 18 日(木)晴れ

 Charco と Atcher(後者はハンドボールクラブ所属なのだ)が休んだので、一週間富山へ行って来られた Iwayuru 先生の時間に、われわれ二班はゴールへ四本投げ込まれて大敗した。
 放課後、連続二日間にわたる生徒議会が開かれた。傍聴はしなかったが、新聞クラブ内の「同好者」が金を出し合い、Jack と Tacker が昨日買って来たソフトボールで遊んでいたので、われわれのクラブの長身で温和で愉快な、今学期最初のアセンブリーで帽子を回しながら話した、そしていまは、東京の何とか火災に就職が決まって悠然としている Elecky が会長に選ばれたことを知り得た。
 銭湯へ行くと、辞任に成功したらしい Yotch が出て行くところだったが、言葉を交わさない。先週も一緒になったが、そのときの彼は Bettor と一緒にいて、彼らは次から次へと話題を見つけ出していた。
 Yotch の辞任を真似て辞表を書いて来た Purse は、一対約四十で承認されなかった(賛成は彼女自身だけ)。

Sam: 1951 年 10 月 18 日(木)晴れ

 Advertisement, ..., commercial agent, ..., brand, ... このような単語を覚えなければならない。ずいぶん沢山ある。来週の月曜までだ。
 Neg にはやっとこさで毎分百だといっておいたが、 5 分で 545 打った。まんざらでもない。しかし、もっともっと上達するはずだ。一にも二にも drill, drill だ。

2013年6月26日水曜日

元生徒会長の予言


高校(1 年生)時代の交換日記から

Ted: 1951 年 10 月 17 日(水)晴れ[つづき]

 放課後、編集室で「進適の模擬試験に最高点を取った UE 君は、元会長の UE 君でなく、そこの(注 1)UE 君だ」と Jack に話していた矢先、前者の UE 君が他の二、三人の三年生と一緒に足を洗いにやって来た(注 2)。彼らも第二回進適模試のことを話し合っていた。Jack やぼくも、最初、90 点を取ったのは彼だとばかり思っていた。UE 君は「会長は誰になった?」という。昨日は流会になり、きょうの昼食時間に議会が行なわれた。指導部に最も近い階段(階段番号というものがないので不便だ)の上にいた Jack とぼくを追い立てるようにして、S・T 君が「傍聴に行け、傍聴に行け」といってくれた。しかし、19 番教室へ行ってみると、割り込む余地もなさそうだったので、傍聴はやめたのだ。「N…」というような声が誰かの口から出た。Jack が嬉しそうに、「NK 女史?」と問い返す。「こんなシケタ学校はそれで沢山」と UE 君(失礼ないい方だ)。「お前らも来年あたり、新聞部やめて勉強せんなんようになるぞ」(注 3)といい残して出て行った。
 帰りかけたとき、廊下で NK 女史に出会った。Jack が「さよなら」の他に何かいうと、彼女は二間ばかり行き過ぎてから振り返って、「何ィ? いま何ていった?」という。「会長さんや、いうた。」「誰がいね?」「君が。」Jack は気が早い。象のような目の女史はそれには答えないで去ったので、誰が会長かをまだ知らない。
引用時の注
  1. 「学校の近くに住む」の意。「そこの UE 君」は、母と私がこの一年ほど前までの約 3 年間、間借りしていた家の次男、T・UE さん。翌年春、東大へ進学した。
  2. 編集室は、家庭科実習用の補助室を借り受けたものだったので、足を洗うのに便利な水道があった。
  3. この予言は翌々年に現実となった。2 年生の後期まで新聞クラブにいたわれわれが、3 年生になるや否や一斉に他のクラブへ移ったのである。

2013年6月25日火曜日

ちらっと動いた肌色


高校(1 年生)時代の交換日記から

Ted: 1951 年 10 月 17 日(水)晴れ

 社会の時間に隣の Peco が「鞄一杯やさかい、持って行ってくれ」といって、吉川英治の「『佐(すけ)どの』『佐どのうっ』『おおういっ』すさぶ吹雪の白い闇にかたまり合って、にはかに立ち止まった主従七騎の影は、口々でかう呼ばはりながら」という書き出しの本(上巻)を貸してくれた。

 Sam の家から歩いて歩いて「不許葷酒入山門」(くんしゅさんもんにいるをゆるさず)と彫られた石が前に立っている門(注 1)をくぐる頃には、屋根や樹木に接しているあたりの空は、完全に淡い赤紫色になっていた。
 破れたズックの割れ目からは、足が見えていた…。「昔より賢き人の富めるは稀なり」の例にもれていない。Vicky もやはり奨学生である。…おや、どうしてこんなことを思い出し始めたのだろう。空の色が、社会の時間に床に目を落としたとき、ちらっと動いた肌色を連想させ、また、Sam の家へ行く前に大学前で切れた下駄の緒をいい加減にねじっておいたのがよく持ちこたえたなと、忙しく動かしている自分の足を見たことから、その肌色が足だったことにまで思い及んだのである。[つづく]
引用時の注
  1. 天徳院の山門。当時その山門を入って左へ抜ける道があり、その近くに住んでいた。

2013年6月24日月曜日

作句しようという心持ち

 下に引用の日記から使い始めた 11 冊目のノート。Sam が、タイプライターで同じ文字を並べてその文字自体を大きく表す形で "PROBLEMS" の語を打った(つもりだが、 E が抜けていた。それで、M の左上に鉛筆で薄く E を書いてある。遠慮がちな書き方をしたのは私か)紙を表紙に貼って提供した。中の用紙は 1 枚目と 2 枚目がページの端の三カ所にノリをつけて軽く貼り合わせてあった。当時は何の疑問も持たなかった(ソフトな貼り合わせ方から見ると、あるいは、使用し始めてから私が貼り合わせのかもしれない)が、いま貼り合わせをはずすと、中学時代の生徒会活動(Sam が 3 年生で委員長をしていた文化部会)の議事録用ノートを転用したものと分る。4 月 18 日付けの第 1 回部会記録があるだけである。交換日記用としても、1951 年 12 月 31 日の Sam の記述を最後にして、20 ページ余りを使い残している。日記そのものは、さらに他のノートで続けたのだが、Sam は新しい年に新しいノートで書き始めたいと思ったようだ。

高校(1 年生)時代の交換日記から

Sam: 1951 年 10 月 17 日(水)晴れ

 ただ一つ 取り残されて …
 (最後の五が浮かばない)(大したことのない句だ)(いや最後の言葉で生きる)(思いつかない)(「取り残されて」はおかしいな。もっと積極的な言葉でなければ…)
 とにかく、作句しようという心持ちだけでも不思議だ。自然の風物をうたおうとしたのではない。自分だけが…、自分だけが…。やるせない。

 図書館。静かだ。二階へ。うん、あるある。……。失望! 五日間も…。

 「いよう! Neg!」(とはいわなかった。「いっちゃん!」だ。)この前のは何にも、全然。半分だけ。とにかく、「来い」だけは…(そうかい、そうかい。そうだろうと思っていた。)こういう紙は来なかったかい。ふむふむ、そう? 歩く、歩く、歩く、歩く。


 やっと分った。ある目的は達せられなかったが、これははっきり掴んだ。
 全く、全く、きょうの足はそのための。ありがとう。そして次に、「済まない」といわなければならない。

 ♪リール、リール! どこにいるのかリール♪
 何だ! いつまでも何をいってるんだ。
 駄目、駄目、駄目。たったあれだけのことだったのに。
*
Ted による欄外注記
 * ぼくが読むということを考えて、もう少し分りやすく書き給え。

[引用時の注]Sam のこの日の抽象的な書き方は、私の影響を受けたものである可能性が大きいのに、私が上記のような注文をつけたとは、いま思えば妙である。

2013年6月23日日曜日

Twelve は科学書を読む楽しみについて書く


高校(1 年生)時代の交換日記から

Ted: 1951 年 10 月 17 日(水)晴れ

 Yotch は三項目の理由をしたためたホームルーム委員の辞表を提出し、辞任の承認を得るために署名を求めて回った。2/3 を超える 28 名にあと 2 名といって、まだ粘っている。生徒会会則第二十九条には「辞任するときはホームルーム会の承認を必要とする」としか書かれていないのを知らないのだろうか。
 Twelve と国語乙の宿題を見せ合う。彼は科学書を読む楽しみと、科学者独特の探求的な、真と深(などという言葉は使っていなかったが)に満ちた文に接する喜びをうまくまとめていた。(注 1)
引用時の注
  1. ここにふれた Yotch と Twelve の二人は、後年、奇しくも同じ会社に勤務した。のちに子会社の社長も勤めて、いま世話好きである Yotch が、このときなぜホームルーム委員を辞任したのか不思議である。ここで第 9 冊目の日記帳が終り、この日に Sam とノートを交換している。Sam の日記は 10 月 11 日から 6 日間途切れていたが、この日から再開される。

2013年6月22日土曜日

こうなれば、あらゆるところで…


高校(1 年生)時代の交換日記から

Ted: 1951 年 10 月 16 日(火)晴れ

 憤然として、奮然として行動すべき時がいまや到来した。後期の生徒会議員と HR 委員の選挙が行なわれた(で、議員になったとかいうのではない)。
 仕方がない。しかし、冠を落としたような(いままでも冠などつけていなかったが)気持。憎悪、憎悪。これはどうしたことだろう。Crow 先生の慰めるような言葉…(注 1)。こうなれば、あらゆるところで、獅子奮迅の勢いを示さなければならない。
 Yotch は不満顔だったが、きっと新しい雰囲気を作り出すことに成功するに違いない。
 放課後、ぼくが率先して、Jack と Tacker とともに編集室の特別大掃除をした。やかましくするのだ! もっとやかましく! 最初にタライ一杯の紙くずを運び出し、それから、スノコをめくり棚を動かして、土間を掃き、タライに七、八杯の泥と砂と、くしゃくしゃになって見境なくくっつき合った紙と、椅子の割れ木と、ラケットの破片と、五円玉三つを得た。直ぐ前の十九番教室で新議員によって行なわれた会長選挙はいつの間にか終わっていた。金曜日に掃除の残りをやるつもりだ。

 Sam、慎重に考えて、即答してくれ給え。Sam の家にラジオがないとする。そして、それを買えるだけの金があるとする。すると、Sam はそれでラジオを買うかい?
引用時の注
  1. 私は、多分小学生時代の 2 回の転校のせいで、無口になっていた(その傾向は後々までも尾を引いた)ので、中学時代には生徒会議員に選ばれることがなかった。高校生になってから、生徒会活動を経験したいと思い始めていた。ところが、1 年の第 1 期には、まとめ好き・世話好きでないとうまく勤まらないホームルーム委員に選ばれて、いささか閉口した。2 学期初めの一斉試験で学年 2 位の成績だった「知名度」によって、第 2 期には生徒会議員に選ばれるだろうと期待していたにもかかわらず、この日、そうならなくて落胆したのである。「憎悪」とは、私を選ばなかったホームルームの生徒たちに向けたものだろう。「これはどうしたことだろう」は、憎悪心が生じたり、落胆が大きかったりすることに、自分ながら驚いた言葉である。ホームルームアドバイザーの Crow 先生から慰めるような言葉を貰ったとは、落胆が顔に出ていたのだろうか。あるいは、次に書いてあるように、ホームルーム委員の一人には、1 期の私に代って Yotch が選ばれたということに対する同情だったのだろうか。私は、ホームルーム委員の方には、選ばれなくてせいせいしたのだが。

2013年6月21日金曜日

自習時間のこと


高校(1 年生)時代の交換日記から

Ted: 1951 年 10 月 15 日(月)雨、午後、台風 Ruth 通過

 国語乙の試験の第一題は、『奥の細道』から俳句が二つ。第二題は、『徒然草』第十一段の後半。第三題は、「幾山河越え去り行かば果てしなん国を淋しく今日も旅行く」という牧水の歌。いずれも評釈を書くのである。
 解析は Pentagon 先生が来られて自習。図書館へ行ってはいけないというので、しばらくは、 Vicky が英語や社会や生物の教材を次々に出したり、獅子頭の耳とイヌの垂れた耳との中間のような形に横に分けられている髪の束を振りながら、他の女生徒たちと話したりするのを見ていた。そのうちに Jap から紙を貰って、Sam と紫中の TNK 先生の時間に主にしたようなことをし始めた。 難しいのは無理だと思って、まず、折り込み都々逸を取り上げた。彼は Sam がその問題を出したときのぼくと同じく、都々逸を知らなかったので、次のような例を書いた。
 ットが折れた
 チッと折れた
 きゅうは止めて
 うきゅうだ
Sam がしてくれたように字数を説明しなかったのは全く悪かったが、彼は長い文を各行に書いたので、注意しなければならなかった。すると彼は、次のように書いて来た。
 たばた自動車
 ちかち頭
 れー野球
 くでなし
これでは各行の間につながりがなくて面白くない。そこで、これも Sam からいい出して Funny も交えてしたことのある英語の尻取りをした。途中で、名詞に限るという制限をつけた。k がしばしば最後に来て、続けようとして思い出したのが [k] の音ながら,文字は c の場合がたびたびあり、発音記号で尻取りをしてはどうだろうといい合った。

 SH 時に SM 君が、「記念祭特別委員会が十二日をもって解散した。新聞クラブの編集長が承認された。何々クラブの国体出場が承認された」など、初めて生徒議会の報告をした。校内放送は、きょうが第一期最後なので、生徒会の動きやアセンブリーの反省などを扱っていた。

「理」という字から受けるのと同じ感じの…


高校(1 年生)時代の交換日記から

Ted: 1951 年 10 月 14 日(日)雨

 一枚程書いてから「読書心理と人間生活」と題することにした宿題の作文を、どうやら書き上げた。抽象的な陳述の連続で、甚だしく頭を使った。頭を使った割には、一向によいものになっていない。論理を無理に思う方へ引っ張って行こうとした表現は、いらないところで長引いて、五枚以内というのに、五枚目は欄外へ出て二行多く書いた。

 『奥の細道』の石川県に関係する部分と『徒然草』の初め少しとの試験があるが、これといって覚えなければならない事項はない。
 講和会議の前とあととの新聞を整理したが、書き留めたことは少ない。

 この間、祖父が野町まで足を運んで注文して来た厨子を、母が受け取って来た。茶色がかった黒の縦六十センチ、横三十センチ、奥行き三十センチほどのその箱は、祖父を、ぼくが本箱を買って貰った時のような気持にした。早速、それに向かって、「アナンダーラ、カナンダーラ」と唱えている。

 これでも一日!

 「理」という字から受けるのと同じ感じの顔立ち。いつまでも「強敵」としておくことは出来ない。大きくも小さくもなく、心持ち突き出た様子の目と口元は、軽率と虚偽をとがめているように(こんなものは誰でもとがめるに違いないが、その目は、ぼくのそれをことさらにとがめているように)感じられてならない。(注 1)

 いくら辞書を見ても、それに適した漢字が見つからない。
引用時の注
  1. ホームルーム時と二つの講義以外、登校日には毎時間顔を合わせた Vicky のイメージから、日曜日にも逃れられなかったようである。ところで、ここにある「『理』という字から受けるのと同じ感じ」、「とがめる」などは、翌年の夏休みの創作「夏空に輝く星」の第十二章中で次のように利用している。「 〈他人のものを拾って一ヵ月も返さなかったことを知ったら、彼女はどんな顔をするだろう〉 と稔は思い、『理』という字から受けるのと同じ感じを持った彼女の顔の中で、目と口が彼をとがめるような恰好になるのを想像した。」ただし、このヒロインのモデルは Vicky ではなく、何人もの女生徒たちの寄せ集めだった。

2013年6月20日木曜日

卒業生の合唱練習に中学へ


高校(1 年生)時代の交換日記から

Ted: 1951 年 10 月 13 日(土)曇り

 ——数分間こうしていたが、何も書けない。

 FJW 編集長は熱意があり過ぎて、思慮が足りない。意見を述べさせてそれをまとめて行くべき議長をやっていて、前編集長 Gamma や Deco の発言に対して、躍起となって応答していた。

 Dan を誘って行こうと、二時半に家を出た。しかし、彼は宇都宮書店へ行ったということだった。学校の前を通ると、Jack と Tacker がまだ帰らないで遊んでいたようで(何をしていたか聞いたら、「勉強」といっていたが)、ちょうど校門から出て来た。彼らは Dan が出かけたことを知っていて、いまから行けばどこかで会うかもしれない、といってくれた。如来寺の前を曲がったところで、その言葉はもう実現した。Dan に近づきながら、けさ学校で PTA 会長の子息から手渡された紙をポケットから取り出し、もう一方の手で彼の自転車を押しとどめて、「こんな紙貰わんけ」といった。手に取ってから「何や」というから、貰っていないに違いない。「卒業生? 混声合唱? TK(先生)やな、自慢らしい」と、Sam に会うたびに呼吸のことを気にする彼は、高飛車ないい方をする。それでは、一人で行かなければならない。しかし、Octo を誘ってみることにして笠舞へ下ったが、彼は学校からまだ帰っていなかった。
 Marlo と Chorlo が来ていた。Chorlo がシルクハットのような感じのする文字で、「卒業生の合唱練習は音楽室で行います」と小黒板に書き、Marlo がいくつかの赤丸を傍らにつけて、玄関に立てた。先生が一番低いところに立っているように出来ている教室へ行くと、三、四人の小柄な女生徒たちがメダカのように群れている中に KKM 君(紫中在校生)がいて、アコーディオンを引いていた。間もなくわれわれは、作り替えられて明るくなった音楽教室で、フォスター作曲『あこがれ』の「思えば」のところがミスプリントされて「あーーもーーえーーば」となっているままを何度も歌った。きょうはまだよかったが、再来週の日曜日はもっと揃う(何が? と聞かれたら、「練習しなければならないプリントが」と答えてもよいが、それだけではない)そうだから、大変だ。テノールかバスを歌う性の人物は、他に「話せる人」と KRS 君というのが来ていた。

「もう教える資格ない」


高校(1 年生)時代の交換日記から

Ted: 1951 年 10 月 12 日(金)晴れ

 破滅、敗退、転落! 何の欠如だろう。しかし、——。しかし、——。落ち着きのなさ。大スランプ。Jack は躍進した。
 平然としている勝利の女神 Vicky。とはいっても、ぼくはもっと平然と出来る。あの質問は、あの叫びは、あの問答は、決してぼく以上の自信ではない。だが、いまのぼくには、それをいう資格がない。将棋の駒を積み重ねた上のようなところに立っていたのだ。そこへ大震動が来た。三つの不覚が失った大量の点。そのあとへ代って入って来たものは、この錯綜した心理。
 生物の時間には、血が引いて行くような気持になり、三限にはペタペタと色を落としながら、何ごとかを病的に口走り、 Jap(注 1)の顔を見るのも嫌だった。結局はぼくが説明しなければならなかった |x| < |a| と |x| > |a| に納得の行かなかった Jap と、彼の逆数(ではない、逆文字?(注 2))は、ことごとにぼくを沈痛にする。これもいつかの「事件」のように「身から出たサビ」だが…。四限のあとで Hotten に会ったときは、「もう教える資格ない」といわなければならなかった。
引用時の注
  1. 実際の日記では、ここに「(TJ 君をこう呼ぶらしい。こんなことの始まる前に Vicky が "Japan これ教えて" といったように思うのが聞き違いだとしても、Hotten もいつかこのニックネームをいっていたから、確かだろう)」というカッコ書きがあり、TJ 君に対して、ここで初めて Jap というニックネームを使っている。
  2. Jap の姓の漢字二字を上下入れ替えると Vicky の姓になる。

2013年6月19日水曜日

打ち解けて競い合いたい


高校(1 年生)時代の交換日記から

Ted: 1951 年 10 月 11 日(木)晴れ[つづき]

 昨年われわれの先輩が使った T. K. K. 発行の『解析 (I) 』にあった x + 1 < √(25 − x2) が、 Hotten が帰ってからのぼくを考えさせた。階下の姉さん(注 1)に聞いてみたが、かえってこちらから説明をつけなければならなかった。三重の手間をかけてようやく答えが出ることを自分で見つけた*が、これもあまり喜びとならない。
 消えたっ!(注 2)向かいの家の Sound の弟が、「外で本読めれる」と、可能動詞の未然形にさらに可能の助動詞をつけていったのが聞こえる。西洋の古城の、崩れかかってツタがからみついている石壁を照らすのに似つかわしいような月の光が射している。青みがかった銀色の屋根瓦の波を見ながら、挑戦とも、尊敬とも、恍惚ともつかない感情の文字を組み立てることを想像した。それより先には、Ted A と Ted B が次のように討論したのだった。
「せっかく広がっている憧憬的な世界を…」
「しかし、それについて迷っているならば、初めから無関心であり得るという性格だった方がどんなに…」
「迷うことはある。あるにしても、そんな世界を知らないよりは…」
続いて頭の中に並べ立てた文字群の、決して新しくもなく、十分に自分の意志を表していないことに気がついたとき、パッと打ち切られた。ガチャガチャとコーラスをしていた虫たちが、指揮者のタクトの動きが一瞬小さくなったのに応えでもしたかのように声をすぼめ、間もなくデクレッシェンドした。そこはよかったが、あとは変化がなく、念仏のようだ。念仏! 狂ったぼくは、誰の前にひれ伏そうと考えていたのだろう。——ひれ伏すのではない。しかし、あまりこうした考えをもてあそんでいると、実際にひれ伏さなければならないようになるかもしれない。——もっと打ち解けて競い合いたいものだ(注 3)。いまや、そのことで頭が一杯である。
Ted による欄外注記
 * と思ったのは、早まりだった。
引用時の注
  1. 日記には滅多に登場しないが、間借りしていた家の長女、S・T さん。当時、高師付属高校 3 年在学中か、あるいは卒業したばかりで、なかなか優秀な人だったが、数学はあまり得意でなかったのかもしれない。高卒の資格で、私の母が勤めていた盲学校の見習い教員になり、講習を受けて免許を取得し、間もなく正教員になったと思う。
  2. 当時は、停電がときどきあったようである。
  3. このように考えていた対象は、いわずと知れた Vicky。

「Humanism の否定、尊重」


高校(1 年生)時代の交換日記から

Ted: 1951 年 10 月 11 日(木)晴れ

 「Humanism の否定、humanism の尊重」、何という理知的な解釈、何と整然とした解答だろう。どうしたら、頭の中が整い、熟知したことをそこへ確実にしまい置き、時に応じて素早く導き出すことが出来るだろうか。
(注 1)
 身近な人のある面にこれほど敬虔の念を抱きたくなる人物が他にいるだろうか。いやいるだろう。そして、もっと正しくそれを踏み行なっている人々も多いに違いない。これもやはり、ぼくの好むエマーソンの言葉に相当する。自分のこの芽は真っすぐに伸ばしてやるべきだろう。
 解析の単元 2 のテストの解答に二ヵ所の誤りを発見したので、ヨウコ先生に伝えに行ったが、a > b ならば |a| > b か、という問題については、先生が勘違いしておられて、昼休みにもう一度行かなければならなかった。そのときには、きょう試験のあった Lotus や OB 君が先生の周りに集まっていた。「これは負けたね」と先生にいわせて引き上げたが、大した喜びも経験出来ない。
 アセンブリーがあるはずだったのに、どうしてなくなったのだろう。昨日、校内放送で「第一期最後のアセンブリーなので、会計(それからもう一つ、何だったか忘れた)から一期の経過報告を行う」といったように覚えている。だから、五限が終わるや否や、外部に異常だと感じさせない範囲の最大限の早さで編集室へ鞄をおきに行った。また、けさから「きょう、アセンブリーあるがか」といういくつかの問いにも「ある」と答えて来た。天狗に目隠しをされた(キツネにつままれる、と言う表現があるが、同様の意味の造句だ)ような気持だ*。
 SH 時に Crow 先生は低いが太くない声で「協力」ということについて話された。先日からの掃除が悪かったからだ。OB 君らがいろいろと、もっともな発言をした。|a| > b のことに神経を刺激されていた HR 委員は、OB 君が「事件」といったその問題に対して何の善後策も考え出し得なかった。[つづく]
Ted による後日の欄外注記
 * 廊下の黒板に掲示され、経過報告は翌日の SH 時に校内放送を通じて行なわれた。経過をいろいろと述べてから、終りに、「今後も皆さんのご協力あらせられんことを希望して、経過報告に変えます」といったが、どこが「変え」てあったのだろう。
引用時の注
  1. 何のことか分らない書き方だが、先に社会科の宿題として「明治憲法と日本国憲法の比較」というのが出たと記していたことから、カッコ内は、その宿題の優れた解答として YMG 先生が紹介した Vicky の答えと思われる。いま、自民党の改憲草案と日本国憲法を比較して、「Humanism の否定、humanism の尊重!」と叫ばなければならない。

2013年6月18日火曜日

精神的食物摂取と創造性追求


高校(1 年生)時代の交換日記から

Ted: 1951 年 10 月 10 日(水)晴れ

 何をしているのか、どうすればよいのか分らない。分ったときには、「こんなことだったのか」と思う。精神的食物をも摂取して成長しなければならないわれわれは、その毎日において、このような迷いに自己を埋没させ、時として目醒める自己をも一息つかせただけで、自己をむなしくして摂取に努めなければならないとばかりに、再びその姿を消すようにしている。しかし、これがわれわれの全てではない。創造的なことを求め、かつそれを形成しながら、他方で新しいものを取り入れるための空洞を心の中においている人々も多い。取り込むことに忙しいわれわれも、出来るだけ「自分の作り出し得るもの」を尊重し、これと新しく取り入れるものとを接触させ、そうすることによって前者を一段と洗練された、より高いものにするという作業を循環的に行なって行きたいものである。——そうするためには、読書の方法が問題となる。(解析の時間のことを思い出して、また、それ以外にも現在のわれわれの生活の大部分に当てはまると思って、書き始めた最初の一行だったが、国語乙の宿題の方へ漕ぎ寄せて行ってしまった。)
 何をしているのか、どうすればよいのか分らない。分ったときには、「こんなことだったのか」と思う。そこに何が不足しているかということ、——読書だけの問題として考えたくない。

2013年6月17日月曜日

今度は教えて貰う羽目に


高校(1 年生)時代の交換日記から

Ted: 1951 年 10 月 9 日(火)晴れ

 今度は教えて貰う羽目になった。不等式の「復習と研究のための問題」が終り、プリントが渡された。Jap に絶対値記号の入った不等式に当てはまる x の範囲を求める問題を説明してくれといわれて、答だけは分ったが具体的に説明出来なかった。それで、彼は Vicky に尋ねた。ぼくも彼女の説明を聞いた。「いま、先生に聞いたがや」といってしてくれた説明は系統だっていたが、少し考えれば分ることだったと後悔した(注 1)。その後悔を取り戻すために、Jap がまだ三題目ぐらいをやっているときに、九題ともしてしまって、彼を驚かせた。驚いた彼が、「|x| が大きいというときは、(範囲が)二つになるがやぞ」と初歩的な忠告をする。「でなければ、わざわざ絶対値記号をつけん」と答えたら、鐘が鳴った。解析の時間は短く感じた。
 YMG 先生はまだ出て来られない。補欠の先生も来られないので、解析を出してする。少し遅れて着実にぼくのあとをついて来る Twelve が何度も聞きに来る。テスト 2 の (3) を考え違いばかりして、貰ったばかりのプリントの裏を汚して、やっとプリントの表を向け、前の時間の続きにかかると時間が終わった(注 2)
 H 時は二学期最初のスポーツ。その時間の始まる前にグラウンドへ出て、ソフトボール用の最も広い場所を確保した。それでも、センターのすぐ後ろは他のホームのホームベースだし、ショートの横へは、さらに他のホームの一塁が入り込んでいた。走った後ろに砂が舞う。腕が太くなった感じに汗ばむ。三塁線とレフト前へヒットした。一本の凡打も左飛だった。(注 3)
引用時の注
  1. 不等式のことで Jap と一緒に Vicky の説明を聞いたのは一学期のことかと思っていたが、それは記憶違いだったようだ。
  2. 先に、解析の時間に配布されたプリントの問題を全部してしまったように書いてあることと矛盾しているが…。
  3. 私は体育が大の苦手だったが、ソフトボールは好きだった。

2013年6月16日日曜日

ああ、眠い/ハンドボールがラグビーのように


高校(1 年生)時代の交換日記から

Sam: 1951 年 10 月 9 日(火)晴れ

 珍しい大失策だ! Cowhide が被われた。球形のものがふらふらと天から降って来て、ガマ口のように開けた中へスポリと納まってくれなくて、名目上は医薬部門を司ることになっている部分の先端につきささって、その機構の一部を破壊した
*(注 1)

 自慢ではないが、ぼくのが最も好評だった。まだまだ素晴らしいものもあるだろうと期待していたのだったが、その期待ははずれた。しかし、そのことは、かえってぼくを安心させた。「正否五分」という横書きの見出しがおかしいといわれたが、縦に見出しを入れる余地がないじゃないかと反駁した。

 ああ、眠い。まだ書くべきことがありそうだが、寝なくてはならない。
Ted による欄外注記
 * 毫も分らん!
引用時の注
  1. 当時もいまも、何のことだか分らない。体育の時間のことらしいが。

Sam: 1951 年 10 月 10 日(水)晴れ

 円板投げの練習ということになっていたのだが、うまくごまかしてハンドボールの試合をした。まるでラグビーのようなものになった。しばしばホールディングを犯したりする。この前の時間に Kinta 先生のいわれた言葉が効き過ぎたのかもしれない。

2013年6月15日土曜日

英語の朗読につかえ、Vicky とは喧嘩のあとのよう


高校(1 年生)時代の交換日記から

Ted: 1951 年 10 月 8 日(月)晴れ、午後曇り[つづき]

 一限、YMG 先生は出て来られなくて、身体を上下にひょっこひょっこと揺する歩き方を特徴とする副校長の MRI 先生が代りに来られた。以前にも代理で来られたが、そのときと同様に、時事に関する英文を黒板に書いて読ませ訳させられた。
Japan's independence has been restored. She is now a member of the free nations. She will cooperate with others in maintaining the common welfare and lasting peace.
こんな程度のものである。ぼくがこの部分を読むように指命されたが、Mouse 先生は一度もわれわれに朗読をさせたことがないので、英語の朗読には慣れていない。大きな声で読んでみると、黙読ではすらすらと読める単語につかえて、書いてない間投詞を発したりした。しかし、MRI 先生も authority のアクセントを最初においたりされるから、大して上手な朗読とはいえないと思った。太っている先生は、両足を床につけて立っていると、上半身をうまく曲げられないのか、礼をするときに右足を後ろへ引いて床から持ち上げられた。
 白と黒の服装の上に赤い羽根をつけてさっそうとしていた Sea-ma(Vicky のことを彼女の友人たちはこう呼んでいる)を、ぼくはどう思って見たらよいのだろう。何だか喧嘩をしたあとのようだ。

2013年6月12日水曜日

読書に関する作文への考察


高校(1 年生)時代の交換日記から

Ted: 1951 年 10 月 8 日(月)晴れ、午後曇り

 自分より上のものに対して、何か徹底的に攻撃し、打ちのめしてやりたい気がする。読書の間にも、その本の著者に対して、こうした気持を起こしやすい。それは、よい読み方とはいえないかもしれない。しかし、反抗したい心、優越したい心は一概に悪いとはいえないだろう。なぜならば、それは高みを求めて止まない気概と急速な向上につながるからだ。そこで大切なのは、攻撃ばかりに気を取られて、蓄えをおろそかにしないことと、猪突猛進にならないことだ。
 交友の理想的な域とはどのようなものだろう。これは人間相互の、かなり厄介な問題だ。四月頃、Lotus に連れて行って貰った映画の中の、粗い細胞ばかりが固まって出来たような二人の男が何かを約束して握手する姿の後ろに大きな虚ろを感じさせられた場面を思い出す。われわれがこのような虚ろさを全く感じないで友に出来る相手は、むしろ人間以外の、万象限りない自然や、作者が心血を注いで生み出した書物ぐらいのものではないだろうか。(国語乙の宿題で、読書に関する作文を書かなければならないので、その案を立てるために、ここでいろいろ考えることを許してくれ給え。)書物という静かな、しかし、変化の多い、あるいは、その中に躍動を含む世界は、われわれを磨き、柔軟にしてくれる。[つづく]

2013年6月11日火曜日

向性指数、タイプ打ち、祭り


高校(1 年生)時代の交換日記から

Sam: 1951 年 10 月 8 日(月)晴れ

 Kinta 先生が出張とかで休講になる。六人ばかりでホームのバットとボールを利用して「ワンバウンド & フライ」をする。保健体育でハンドボールをしたよりも、さらにくたくたになった。ぼくの打球は快音を残して左翼方面へライナー性のフライとなって飛んで行く。が、残念なことには、最外野の守備者にキャッチされてしまう。一球でアウト! あっけないが、すっきりした気持になる。ピッチャーをしているとき、球を回転させないで投げる方法に気づいたが、大して効果はなかった。ただ、ひいき目に見て、あまり遠くへは飛ばされないように思った。
 ホーム時は向性検査。これで同じものを三回受けることになる。確か第一回目に受けたときは、 68 だったと記憶する。そして、ひどく驚いた。それは、Funny の 1/2 ぐらいの指数だったっけ。第二回目は「職業科学習ノート」で受けた。あの時は、その前の経験でこりていたので、向性指数がちょうど 100 になるようにあんばいしておいた。こんなものは、一度やってしまったあとでは興味もわかないし、正確な結果は得られない。「出来るだけ」とは思うが、やはりうまくいかない。なかなか判断に苦しむ問いもある。「88」という数字で表された。こんなものかもしれない。無答があると分母が複雑になるので、それは避けて、重答か不定答にしておいた。
 生物テストの答案が返される。四題のうち完全に合ったのは(三)、完全に違ったのが(一)、他の二つは各々 −6 で、「総得点は、ある数の二乗からある数の 1/3 を引いて得た答(ある数は 3n で表せる数)と同じである」と、ぼくの点を聞いた友人にいっておいた。
*
 一分平均 78。タイプ打ちの結果がこんな数字で現れて来た。まだまだ大したことはない。それでも、人差し指一本で切り盛りしていた頃にくらべれば、長足の進歩に違いないが、まだまだ及ばない。せめて、「カッチン」という間に規則正しく 2 字ずつ打てるようになれば完璧だ。それには、おそらく今年一杯かかるだろう。(今日は数字ばかり記している。)

 祭りである。第二回目の停電が終わってから、「参拝に行く」という名目で出かける。なかなかにぎやかだ。店がずらりと並んでいる。昨年と違っているのは、パチンコやマーブル・ゲームなどのないことぐらいだ。
Ted による欄外注記
 * 「」内の記述だけからは総得点として三通りの可能性があるが、妥当なのは、次に書いてある「一分平均」と、ちょうど同じ数じゃないかい?

2013年6月10日月曜日

さてどうする?


高校(1 年生)時代の交換日記から

Ted: 1951 年 10 月 7 日(日)晴れ[つづき]

 それから——、別れの時が来た。ぼくたちは先に帰国した。そして、中安藤町の親戚の家に間借りしたばかりの頃だったか、ぼくたちのあとの大連からの引揚者たちで金沢に到着する人びとの氏名と列車の到着時刻が新聞に掲載された。その中に母の知人で、臥龍台にあった家へぼくも行ってダイヤモンドゲームで遊んで貰ったり、成人したお子さんがかつて読んだ本を貸して貰ったりしたことのある KT 小母さんの名があり、母は駅へ出迎えに行くことにした。同じ列車で A さん一家も到着すると分り、ぼくも母と一緒に駅へ行った。そこで短い再会をして再び別れた。
 白峰の田舎まで雪道をたどって行った A さん姉妹から、間もなく便りが届いた。「とうとう、またお話が出来るようになって嬉しいわ。」そして、大連の埠頭を出るときのことや、舞鶴の収容所での生活など。ペンで絵を描いて、「山道はとてもこわいです。"なだれ" という、雪が丸くかたまったのが落ちてくるのです。ゴーとすごい音がします。その下に人がいると死ぬのです」と書いたのがあった。姉の R 子さんからの手紙だ。これを読んで、彼女たちの安全を心から祈らないではいられなかった。
 で、きょう見かけたのは、「もう三ヵ月で中学校も卒業ですね。卒業してから私はそちらの泉丘高校にと思っていますが、四年間山の中にひっこんでいたので、実力がついていなくて心配です」というのが最も新しい便りだった妹の Y 子さんだ。
 「おや、こんにちは。」わざわざ線路を横切って近づいてから、「おや」でもあるまい。「やぁ、こんにちは」だろうか。ぼくは眼鏡をかけるようになったから、誰だかちょっと分らないに違いない。「タバタです」とは、いいにくい言葉だ。そうそう、ここに書いてある。Sam のところへ持って行くノートを包んだ黒い風呂敷の、もとの白色が灰色になった糸で名前を記してあるところを広げてみる。……しかし、足を返そうとはしなかった。香林坊で Octo に出会ったとき、彼女を乗せた電車がぼくを追い越して止まった。そしてまた発車し、遠ざかって行った。……さてどうする?(注 1)
引用時の注
  1. 「さてどうする?」と書きながら、このときは、何もしなかった。私と同じ中学から泉丘高校へ行った友人たちはいたが、女生徒のことを尋ねるのは気が進まなかったし、転居した方が連絡して来るべきだと思ったりもしたからだろう。しかし、Y・A さんとは大学 2 年の正月休みに不思議な縁で 9 年ぶりに再会し、近年彼女が亡くなるまで兄妹のような(私の方が 2ヵ月ほど先の生まれ)親しい関係が続いた(ブログ記事「幼友だちが逝く」参照)。

2013年6月9日日曜日

A さんを見かけながら…


高校(1 年生)時代の交換日記から

Ted: 1951 年 10 月 7 日(日)晴れ

 どうしてあのとき引き返さなかったのだろう。この間も、道に五円札が落ちているのを見た。一、二歩通り過ぎてから、拾おうかと思ったが、戻る気にはならなかった。これの二十倍ぐらいの値だったら戻っただろうと自分に尋ねてみた。——きょうのはこんなことではない。県庁前の付属中側の停留場で電車を待っていた、やや面長で健康そうな顔色をした女生徒は、A さんに違いなかった。五年ほど前に、格別親しくしていたのだ。わが家が一足先に引き揚げることになった前日、同じ家に住んでいながら、しばらく顔を合わせなかった彼女と一歳年上のその姉に、同じくわが家に住んでいた、「バカヤロ」を「バタロ」としかいえない年齢のカズオちゃんを使者にして「最後だから…」というようなことを伝えて貰って遊んだ日以来だ(いや、もう一度彼女たちの顔をちらりと見ていた。それについては、あとでふれる)。
 一九四六年十二月頃から翌年二月まで、よく一緒に遊んだり話し合ったりした。母たちは生活のために苦労していた。袋はりの内職や、タンスの中のものを持ち出しての立ち売り…。そんな状況の中で、ぼくたちは毎日のように遊んだ。廊下へ出れば寒さが肌を刺す冬の大連でのことだ。いろいろな事情で五家族がわが家に入り込んでいた。そうなる前には、わが家の後ろの高い崖の上にある家に彼女たちは住んでいた。
 中国の保安隊という軍隊に学校を接収され(校庭の方からは中国語の不思議な号令がよく聞こえて来たものだ)、学校での授業がなくなったあと、グループという名称のもとに町内の子どもたちが集まって、年上の子どもたちから勉強を習った。そのとき、ぼくは彼女たち、A さんの家で勉強したことがあった。間もなく、市内の個人の家も半数が中国に接収されることになり、親たちの郷里が同じ A さん一家にわが家の二階へ入って貰った。ひたすら引き揚げの開始を待つ寒い日々に、彼女たちとぼくはゲームをしたり、さざめき合ったりして楽しい時を過ごした。「二十の扉」がラジオで放送されるようになるとは知るはずもなかったが、ぼくが習いに行っていた英語の先生の教材で覚えた "twenty questions" もした。[つづく]

言葉の不思議な力


高校(1 年生)時代の交換日記から

Ted: 1951 年 10 月 5 日(金)晴れ
Ted: 1951 年 10 月 6 日(土)晴れ

 言葉はわれわれを笑わせたり、重大な事件に巻き込ませたりする不思議な力を持っている。また、小さな球体の表面にごろごろと生きているわれわれが吐き出す言葉の多くはつまらないものである反面、深くて偉大な言葉も古くから多く生み出されている。
 体操クラブ員の空中転回を見て、誰かがとっさに「因数分解!」といったのや、不等式の表す x の範囲を数直線上に一連の斜線を引いて答を示す問題の答を黒板にあいまいに書いた生徒に、ヨウコ先生が「両端ですか、真ん中ですか」と質問したとき、Jap がすかさず「なか、はし(中、端)!」とその生徒の名前[中橋]をいったのは、大いに笑わせる言葉だった。一日のうちには、真剣な言葉も聞けば、どこまでが本当か分らない言葉など、いろいろな言葉を聞かされる。

 昨夜は母を迎えに行った。駅は停電にこそならないが、Sam がぼくを送ってくれたときにあったような広告用や装飾用の華やかな人工光線は見られなかった(注 1)。改札口から出て来る人の列に、意味を解しないで本を読むときに文字の上を走らせるような視線を投げ続けた。
引用時の注
  1. 金沢駅の 3 代目駅舎への改築工事が始まっていたのか。

2013年6月8日土曜日

続・運動会


高校(1 年生)時代の交換日記から

Ted: 1951 年 10 月 4 日(木)晴れ

 一限が始まる頃になって教室へ入って来たTwelve を見るやいなや、英語の宿題を見せ合った。Some も前に出題されたように、一日と一週間にしたことを書くのだったが、われわれはよく似たことを書いていた。Twelve が Story of Insects という本を読んで十時に就寝したのに対して、ぼくは Die Leiden des jungen Werthers(英語の宿題だが、ここは本の原題のドイツ語を書いた)を読んで十時に就寝したのである。Beautification week in our school や athletic meeting や concert をどちらも書いていた。

 三限までを四十分授業で行なって、昼食と準備をし、続運動会が正午から開催された。体操クラブの美しく、またハラハラさせる演技が最初の種目だった。「兄弟競走」と名づけられている二人三脚に出たが、前の走者と衝突して倒れてしまう。起き上がってからフィールドとトラックの境目のところでよろけながらも、力を奮って駈け続けた。Ryusuke が「皆やめたがいや」という。ぼくが、追い抜けそうにもない三位の走者ばかりを見つめていた目を後ろへやると、本当にあとには誰もいない。ホームのために一点さえも取れなかったのが残念。
 二百米走。Charco は走る前から勝利者だった。彼と一緒に走らなくてよかった Jack は Dan を半間ほど離して覇を取った。ホーム対抗継走では、われわれのホームの AK 君がバトンを渡す前のカーブのところまで Jack を押さえていたので、天晴れと思っていたら、最後に抜かれた。さらに女子がさっぱり奮わなくて、得点圏外に落ちてしまった。他方、Jack の健闘も、第二走者以下がよく、また最終走者が Charco の十一ホームの前にはおよばなかった。(注 1)
 フクチャンがその言葉を書いた旗を持っている漫画もあった戦争中の標語「打ちてし止まむ」の「う」を同じ行の最下段の音に変えた題がつけられていた二年男子の競技は騎馬戦だった。「化粧競走」では、走る前に顔に水をつけ、手を後ろに縛る。半分走ったところに、メリケン粉の中に飴を隠した入れ物があって、そこで顔を粉の中へつっこみ、飴をくわえてから再び走るのである。ゴール付近へ行って、どんな形相でやって来るかを見物した。誰だか分らない顔で走って来る。目の中までも白いのがいる。ファッファッと煙をはくように粉を飛ばしながら来るのもいる。片側だけ白いのや、口だけ白いのもいる。走る石膏面はコッケイで可愛そうだ。
 クラブ対抗リレーは、文化クラブと運動クラブのレースが別々に行なわれた。われわれの新聞部は、Jack が最初に走り、あとは皆二年生でつなぎ、三位となった。 脚、足、脚、足、脚、足…。
 各ホームの得点が閉会式で発表になり、賞状と賞品の授与がある。一年生では、Jack の活躍した十三ホームが一位。Charco が気をはいた十一ホームが二位。わが十五ホームは六位。>(注 2)
引用時の注
  1. Charco こと MYK 君は高校時代に石川県の男子百米走選手として国体に出場し、後に金沢大学の体育学の教授となった。定年退職後、父親のあとを継いで、僧職に専念している。
  2. 「六位」と書くと、まだ下があったように聞こえるが、1 年生のホームルーム数は 6 しかなかった。

道也先生の言葉に疑問


高校(1 年生)時代の交換日記から

Ted: 1951 年 10 月 3 日(水)晴れ[つづき]

 『徒然草』第十二段「同じ心ならむ人と…」を習ったが、さっき Lotus が不等式について聞きに来たことは、ぼくにこの朋友論を、伯母の家へ行くまでの短い道々思い合わせて考えさせた。
 そぐわないもの、相容れないもの、それはあらゆる物質の分子の間に大きな隙間があるように、われわれの間に、狭い場所にごちゃごちゃと生きているわれわれの間に、無数に浮かんでいるのである。埋めても、埋めてもなかなか埋めきれない小穴といった方がよいかもしれない。しかし、それはそのままでよい。それで強く凝集していることが出来れば、何も穴を埋め尽くす必要はないのだ。

 未来へ、未来へと——。これと反対の向きに少しでも流れる——流れるのではいけない。それは完全に退歩だ。反対の向きに手をかざして目を向ける——これが「半白の老人」だと、漱石の書いた「野分」の道也先生は決めつけた。「少壮の人に顧るべき過去はない筈である。前途に大なる希望を抱くものは過去を顧て恋々たる必要がないのである。」少し反対したい。あとで考えよう。

 母から三枚目の葉書が来る。伯母の家へ夕食に行くと、祖父がきょう母宛に書いた葉書をぼくにことづける。講習の終わる明日の午後から、母は京都の伯父の家へ行くのだから、投函しても間に合わない。保管しておいて、母が帰ってから見せよう。
 祖父の葉書を読んでみる。表の差出人の名前の上にわざわざ「父・」と書いてある。「謹啓、仲秋の御天気は如何にも爽快です。結構で有益なる講習も最早残り二日になりました。」祖父が講習を受けているようだ。「Y 男さんが先日来風邪で欠勤してゐますから達夫さんも風邪にかからねばよいがと気づかってゐますよ。」優しいことだ。「今日は雨の多い金澤も準日本晴れの気候で大層暖かき二階座敷の縁側で此葉書を認めたのです(十一時十分前)。」「実に一日千秋の思ひで暮らしてゐますよ。」これでは、伯母の世話が行き届いていないように聞こえる。

2013年6月6日木曜日

宿題の明治憲法と日本国憲法の人権の比較もしてしまった


高校(1 年生)時代の交換日記から

Ted: 1951 年 10 月 3 日(水)晴れ

 大きな顔が出来ない。ううーんッ、えええーッ。
 昨夜、伯母の家で母に葉書を書いた。運動会のことを葉書の半分ほどまで書いて、急に話題を変えたつもりで、祖父が「世界よりも広い満州」を駈けめぐった夢を見て、目が覚めたときには脚が丈夫になったような気がした、といっていたことを書いたが、やはり走ることに関係していたと気づき、その通りをまた書いた。伯母が細かい字で数行書き加えた。
 Dic(誰かのニックネームではない。Dictation の略として使う)があって、次の課へ少し入ったと思うと、もう鐘が鳴る。ぞろぞろと二階の教室へ移り、次の鐘を待つ。YMG 先生は出張で自習。宿題の明治憲法と日本国憲法の人権の比較もしてしまったので、解析の教科書とノートを取り出して、
a4 + b4 + c4 + d4 ≥ 4abcd
の証明を考えたが、出来ないうちに再び階段を踏んで、いまいた真下の教室へ行く。
 その笑うのを見ていると、笑わされ方も笑い方も高尚なのに感じ入るが、なぜか見ている自分を一緒に朗らかな気持にさせない人が笑い始めた!——今年初めてセミの声を聞いたのはこの教室でだったようだ。一昨日講堂にいたときはまだセミの声がしていたが、きょうはしない、——と考える。いつの間にか、第四限も終わっている。ホームルームへ入っているときの目は、自分のいるところを原点とすると、(−4, 2) に当たるところを向いている時間が最も長い。
 あの二人を統合したら、どんな人物になるだろう。どんなにわれわれの心を惹きつけるだろう。いや、実際にそんなことが起これば、そこに生じるのは全く奇怪な存在かもしれない。それぞれが、いまの人物であるところによさがあるのだろうが…。(注 1)
 五限は解析。一学期には、左隣との五十センチほどの間隔をほとんど保ち続けて、手を伸ばしたり身体をのりだしたりして聞き合うことは滅多になかったのだが、この時間は Jap との間隔を何度も短くした。生徒が後ろの黒板で問題を解いた結果を先生が説明するときは、教室中の顔がぼくの方を向く。ぼくの席は真ん中の一番後ろだから、振り向き遅れると、みんなの目でじろじろ見られるような具合になる。こんなことが繰り返されるうちに、ぼくの脳は現在を飛び出して、未来の中にさまよった。[つづく]
引用時の注
  1. Vicky は美貌の持ち主でもあったが、私は彼女の知性に惹かれ、他方、容姿の面では同じホームルームにいたある女生徒に惹かれていた。

自分の中に天空を


高校(1 年生)時代の交換日記から

Ted: 1951 年 10 月 2 日(火)曇り

 どうしてこれほどまでも悔いの多い時間の過ごし方をするのだろう。その下で雲が、一面に張りつめたり、ちぎれてある形を作ったり、ぶつかって壊しあったり、一斉に走ったりしている、遥か遠くにある、いや、どこまで昇ってもそこへ行き着くことのない天空、それを自分の中に作り上げなければならない。きょう、自分の中にあったものは、きょうの空にあったのと同じような雲である。それを漂わせている自分の中の天空は、未完成のもの、製造中のものである。それを覆い隠してしまって、製造する労働者さえも入れようとしない雲が広がった。
 昨夜からの考察と行動の細かいことは書けない。たっぷりの時間と文学者の知る限りの語彙を与えられても表現出来ない。別に変ったことがあったのでもない。しかし、変ったことでないとして、いつまでもこういう状態に甘んじてはいられない。
 整然としていること…、一方ではこれを要求していながら…。
 他の場所から自分の家へ持って来たという普通とは反対の弁当を済ませてから、自らのために勝手な理由を捻出して出向いて行ったのは Jack の家だった。Jack と一緒に彼の家を出たわれわれは、見つけて追いついて来た映画帰りの IKB 君と、それからあとの行動を共にした。人間の興味の分らなさが頭を占め、われわれがせむし男になったり、馬より長い顔になったりしたとき
(注 1)は、これが真実のようなものだと思ったりした。ああ、われわれはその先に、電車を待つ Lotus を見つけて避けたのだった。
引用時の注
  1. デパートの遊技場辺りにあった凹面鏡に自分たちの姿を映してみたのである。

2013年6月5日水曜日

ホームルーム旅行に出発


高校(1 年生)時代の交換日記から

Sam: 1951 年 10 月 1 日(月)曇り一時雨

 九時二十六分というのだから、のんびりしていてよい。六時二十四分ので行く Funny がぼくの家の前を通って行った。彼らは山中行きだ。
 八時半に Keti が呼びに来て、腹が痛いと訴える。それでも我慢して行くらしい。それならば、さほどのことでもないのだろう。すでに、NTM 君ともう一人が来ていた。間もなく HRA が来られる。ぼつぼつとホームの生徒が来る。一昨日の連絡がうまくいったらしいことは疑いない。
 8 ホーム以外にも二、三のホームが同じ列車で行くらしい。申し込み者総数のうち、二人だけが来なかった。発車の五分前に団体券の購入申し込みをし、二分前に手に入れて、大急ぎで乗った。待っているみんながブーブーいっていたそうだ。
 その先に、駅の待合室で AR 君に出会った。彼は商用で七尾まで行くそうだ。思いがけないところで会って驚いた。
 車窓の風物はさほど珍しくない。IKD 君と将棋をした。ひざを台にして、将棋盤をのせる。列車は絶えず震動しているから、盤は安定しない。三回ばかり停車する時間をかけて、やっとぼくが勝った。
(注 1)
引用時の注
  1. ホームルームの旅行の記述は、行きの車中までで終り、このあと 10 月 8 日まで Sam の日記は飛んでいる。

学園祭の諸行事


高校(1 年生)時代の交換日記から

Ted: 1951 年 10 月 1 日(雨)[つづき]

 副校長が「これで記念式を終わります」という簡単な閉会の辞を述べてから、金大法文学部教授・小竹文夫氏の講演会が始まるまでも、また待たされた。演題は「現代史上の東洋」で、戦後独立したアジア諸国のことから、米ソ対立の間にあって日本を初めこれらの国々がどうあるべきかを正午まで一時間にわたって話された。アジアが社会主義に陥りやすい二つの理由として、一つにアジアの民族主義を挙げ、もう一つを挙げるために挿入された、西欧とアジアの気候による農法の相違の説明が長かったので、どう続いて来たのか途中で忘れてしまうほどだった。世界の経済を協定する機関が出来、国毎に分業を行なったら、戦争を起こしたくても起こされなくなるだろうという理想を最後に述べられた。
 そのあと、21 番教室で科学の展示会を見た。Twelve がそこをなかなか離れようとしないので、一人で 1 番教室の絵画クラブ展を見てから、運動場を通って伯母の家へ弁当を食べに帰る。
 午後は、Jack と音楽会を聞く。彼は、朝の式に出なくてもよかったので、同じく出なくてよかった Lotus を訪ねたところ、Lotus が独断的な主張をあまりに強く押し立てるので、何度も衝突した、と話した。
 19 番教室では映画が、体育館では篭球の試合があったが、音楽会だけで満足しておいた。(注 1)
引用時の注
  1. この日の日記を読み返して、体育館落成記念式(前の記事)よりもあとの行事は文化祭かと思ったが、最後に「篭球[バスケットボール]の試合」が出て来たので、この記事の題名を表記のようにした。しかし、「篭球の試合」は体育館落成記念行事で、他の一連の行事は「文化祭」の名目のものだったかもしれない。

2013年6月4日火曜日

式辞で校長が英文を引用


高校(1 年生)時代の交換日記から

Ted: 1951 年 10 月 1 日(雨)

 HRA の Crow 先生に式に出るようにいわれたので、伯母の家で朝食をとり、祖父が天井や柱の木の種類を見分ける方法から人生と経済問題にまで及んで話すのを聞いて、八時半に裏門から登校する。一度ホームルームへ入ったあと、講堂へ行き、昨日運動場でぬれたのがまだ乾ききっていないベンチに腰かけて待つ。二十数分遅れて始まり、教育委員会、県知事代理、県会議長、PTA 代表などの祝辞、それから校長、生徒代表の言葉の順で、それぞれ懐から出したものを広げて読む。工事報告の長身、禿頭のおやじさんは、出まかせのような金額をペラペラと読み上げたりして、薄紫色の幕がかかっているだけの壁の裏にご真影があると思ったのか、そちらに向かって深々と頭を下げて降壇した。県知事代理は「だいり」を最後に特別大きな声で読んだ。どれもこれも体育館落成を祝う言葉として「健全なる精神は…」を引用し、講和の成立を入れることも忘れなかった。
 自らの姓の最初の字と同じ「秋」を最初に持って来た校長先生の話は一番丁寧で、声は最初 p だったが、漸次 fff となって行った。昨日の開会式と同じことをいっている、…やっと十時か、…あそこに据えられている松は「心にくしと見ゆ」…などと思っていると、校長先生は英文の引用を始められた。クーベルタン男爵の主張した競技精神で、「人生の主眼は闘うということそのものにあって、勝利を得ることは第二の問題である。したがって、最も肝要なことは、勝つか負けるかではなく、どうすれば立派に闘うことが出来るかにある」という内容だった。[つづく]

日曜にもホームルームの用事


高校(1 年生)時代の交換日記から

Sam: 1951 年 9 月 30 日(日)

 ぼくがゆっくりし過ぎたのと IKD 君があわて過ぎたのとで、会い違いになって、彼の家まで空足の往復をした。予定より十五分ばかり遅れて観音町一丁目の HRA の家に着いた。雨が降り始めた。細かい雨だ。橋場町の花屋で 10 円札を 10 枚出して花束を買う。主計町を通って小橋に出て、岩根町の目的の家に着いたぼくたちは、その家に入り込んだ。ぼくが花束を渡した
*。それから、HRA とその家の父母との間にいろいろな話が取り交された。 IKD 君とぼくは大部分黙って聞いていた。聞いていてためにならない話は少しもない。
 そこを辞すると、昨日ぼくが忘れていた旅行会での旅館の申し込みに行かなければならなかった。普通の旅館は駄目だったので(あっても五十円以上だった)、厚生寮に申し込んだ。三十三円で OK とのこと。万事うまく行きそう。急にひどく雨が降って来た。HRA は電車、IKD 君は先生のところから借りて来た傘、ぼくは循環バスで、それぞれ帰宅する。もう明日を待つばかり…。
**
Ted による欄外注記
 * お見舞い?
 ** ご苦労様。よくそれだけ尽くせたね。

2013年6月3日月曜日

三重の偶然/降雨切り上げ


高校(1 年生)時代の交換日記から

Ted: 1951 年 9 月 29 日(土)晴れ

 校内美化週間が終り、一学期に続いて十四ホームが一位となる。合計点六十六。八点が一回、九点が二回の他は全部十点だ。昨日、一昨日と十点を取ってこれに迫ったわが十五ホームは、わずかに及ばず、三点差で二位。平均するとわがホームは九点。ここに三重の、面白い偶然の一致が見られる。この間の一斉試験で一位だった Vicky は十四ホームの所属で、二位のぼくの平均点がちょうど九割、Vicky との差が合計でちょうど三点だった。
 神は助け給うた。汗を流さない程度に照りつけるので皮膚をバリバリにする秋の太陽が、明日一日われわれを照らしてくれればよい。明後日はくじ引きの結果、体育館落成式に参列しなくてもよいし、明々後日は明日の代休日だし、何かいろいろ出来そうだ。ともあれ、明日だけ終わって欲しい。
(注 1)
引用時の注
  1. 翌日は運動会で(この頃はもう体育祭という名称だったかもしれないが、翌日の日記には行事の名称を書いてない)、スポーツの苦手な私はそれが早く終わって欲しいと思っていたのである。

Ted: 1951 年 9 月 30 日(日)曇り時々雨

 開会式に校長先生が「スポーツにはいろいろの種類がある」で始まる言葉を述べ、生徒会功労賞授与があり、楽隊のブガブガに合わせて、あやふやな「若い力」を斉唱し、ラジオ体操をやり、曇り空の下で競技が始まった。男子百米では、スタートの遅れた Charco が機関車の勢いで、五、六十米あたりで六人を抜いて一着。あとの組で Jack も一着になり、彼の願望が成就した。
 幼稚園児の「トントコ踊り」に拍手したり、「綱取り」に出るために整列していて「チョット拝借」を見損なったり、「オット危ない」とはどんな競技だったかと思っているうちにスプーンレースが始まったり、その間あいだにも雨が降り、のろのろと進行した。ちょうど真ん中の種目、女子全員による綱引きのとき、しばらく忘れていた雨がやって来たが、構わずに続けようとしてピストルが鳴り、「ヨイショ」の掛け声が二回ほどかかった。と思ったら、ボスン!! 綱が切れる。その音が、同時に空に大きな穴のあいた音ででもあったかのように、雨が激しくなる。一同、わらわらっと校舎へ駆け込む。
 ホームルームで昼食をとり、H 時があり、帰宅したのは、のど自慢の中ほどのときだった。プログラムの残りは、いつか晴れた日の午後に行なう予定となっている。

尽くすだけのことは尽くした


高校(1 年生)時代の交換日記から

Sam: 1951 年 9 月 27 日(木)晴れ
Sam: 1951 年 9 月 28 日(金)晴れ
Sam: 1951 年 9 月 29 日(土)晴れ[つづき]

ホーム旅行についてお願い

 先日ホームで片山津旅行は金沢発六時二十四分、着六時〇四分ということに決まっていましたが、本二十九日の交渉の結果、二水高ほとんどが上り六時二十四分を利用するので、申し込みが遅かった関係上、駅の方で絶対に駄目だと断られ、やむなく金沢発九時二十六分、着八時二十八分に変更しました。都合の悪い方もおられるかと思いますが、この点後了承下さいまして、ご協力、ご参加いただきたいと思います。くれぐれもお願いいたします。
ホーム委員長

このような文だ。書き上げたら三時半になっていた。まだ、昼食は食べていない。謄写版で葉書を刷るというのは生まれて初めての経験。
 今度は、一人一人の住所を書かなければならない。不参加者には送る必要がないから省く。金沢局区内…金沢局区内…。どれもこれもみんな金沢局区内だ。原則として番地という字は省いた。男生徒には君を、女生徒には様をつけておく。ホーム全体の生徒に、例えそれが事務的な連絡であるとしても、葉書を出すというのは素敵だ。
 書き上げると、さっそくその足で本局まで葉書を入れに行く。いっときも早くみんなに届けたいからだ。本局に着いたのは、五時十五分前だった。
 やっと、ほっとした。これでどうにかなる。尽くすだけのことは尽くした。…

2013年6月2日日曜日

さぁて困った


高校(1 年生)時代の交換日記から

Sam: 1951 年 9 月 27 日(木)晴れ
Sam: 1951 年 9 月 28 日(金)晴れ
Sam: 1951 年 9 月 29 日(土)晴れ[つづき]

 「輸送課! 輸送課ですか。いまね、二水高校のね…、はいはい…そうですか、…そうですか、…分りました、…ええ、どうしてもですね、…よろしい、そう告げましょう。」まるで、お好み電話だ(注 1)。やっぱり駄目らしい。
 団体でなければ、六時二十四分のに乗って貰っても差し支えないがね、割引は一割だ(とんでもない、そんなのはいや、一割引なら動橋までで一〇八円だ)。でなかったら、五時何分の一番で行くかい(馬鹿、六時二十四分ので、ぎりぎり一杯の早さだ)。どうだい(どちらも駄目にきまっている)。
 「では、金沢着の時間は早くなりませんか。」「それも同じだね。元への変更は出来ない。」「止むを得ません。では、金沢発九時二十六分、着二十時二十八分と言うわけですね。」「そうです。」「分りました。いろいろご迷惑をかけて済みません。」
 さぁて困った。一応は HRA に報告して…。「こういうわけです。どうしましょう。」「そうか。何なら目的地を湯涌あたりに変更するか。」「構いません。が、みんなが同意してくれないでしょう。」「そうだ、雑費としておいた二円を使って、葉書で連絡したらよいだろう。」「ええ、ぼくも道々そう考えて来ました。」「さっそく葉書を買って来て…。」「はい。」「その間に先生が原稿を書いておこう。」
 「こんちは!…葉書下さい、…三十三枚…、六十六円ですね、七十円で取って下さい、…はいありがとう。さいなら!」
 HRA は急ぎの用があるからといって、ガリバンと鉄筆と原紙と生徒の住所録をおいて行かれる。何だ、この文は。この長い文に読点が二つしかない。さっそく葉書の大きさに合わせて、適当な文に直して書いて行く。しかし、結果的には大して変らなかった。[つづく]
引用時の注
  1. 当時 NHK ラジオのバラエティー番組「とんち教室」で行なわれていたゲームの一つに「お好み電話問答」があった。出演者たちが電話での相手方の一連の返答を一度聞かされた上で、それに当てはまる話しかけを即興的に演じるゲームである。のちに『サザエさん』の磯野カツオ役を長年担当することになった声優・高橋和枝が返答者役を勤めた。ここでは、返答だけを聞いているので「お好み電話問答」の出題を聞かされている感じがした、ということを記しているのである。いま、この日記を読み返して、「問答」のついた番組名全体に思い到るのにしばらく時間がかかった(記憶が正しかったことは、ウェブサイト "FUKUSHI Plaza" の 1949 年のページ、ラジオ欄で確認出来た)。Sam は、番組名の通りに書けば、問いと答えの両方を聞いたようなことになると思い、「お好み電話」としたのだろう。

駅へ懇願に


高校(1 年生)時代の交換日記から

Sam: 1951 年 9 月 27 日(木)晴れ
Sam: 1951 年 9 月 28 日(金)晴れ
Sam: 1951 年 9 月 29 日(土)晴れ[つづき]

 零時半、サイレンが鳴って授業が終わる。引き止めた連中にホームに入ってくれと頼み、先生のところへ行く。「ただいま、すぐホームに入って…」の放送が二回ばかり繰り返された。先生は事務室の電話のところにおられた。なかなかうまく行かないらしい。ホームへ行くと、掃除が途中ほどまで出来ていて、廊下や教室の周りに寄りかかっていた男女生徒からブーブーいわれた。先生が来られるまで少し待って貰いたいといっておく。やがて来られた。先生が電話された結果では、やはり駄目だった。しかし、われわれはどうしても六時二十四分のでなければならないと、無理とは分りながら主張した。そして、今度は電話でなく口頭で聞きただし、六時二十四分にして貰うよう懇願することになる。九時二十六分のになっても不平をいわないで参加するよう、一応要望しておいた。それで解散。ぼくと NTM 君が自転車で(一台しかなかったので、一人が乗り一人は歩いた)駅へ行く。
 昨日とは違った顔の人がおられた。「昨日、団体申し込みに参りましたが、時間が変更になるとかの電話をいただきましたので、確かめたいと思って来ました」と最初に説明し、最後に二水高校 8 ホームであることを告げる。「その通り! 輸送課の方から書類が返って来ている。」「そうですか。弱ったなあ。どうしても六時二十四分になりませんか。同じ学校の生徒が大部分、六時二十四分ので行くのに…。立ち続けでも何でも構いません。」「うん。だから困るんだ。二水高校何ホーム三十名、何ホーム三十一名と、そんな申し込みばかりで一杯になってしまったんでんね。君たちのは、もう一日早ければよかったんだ。」「輸送課に問い合わせていただけませんか。」「あぁ、一応電話してみましょう。」[つづく]

2013年6月1日土曜日

駅から時間変更通知


高校(1 年生)時代の交換日記から

Sam: 1951 年 9 月 27 日(木)、28 日(金)、29 日(土)三日とも晴れ

 I am very busy! I am very busy! Typewriting! Going to the station! Writing! Sōji (英語では表せないや)! Etc. 続く、続く、続く、…。それから、それから、…。あれだ、…、これだ、…。

 生物の試験の前の休み時間に、スピーカー放送で HRA に呼び出された。何事だろうと思って行くと、「昨日申し込んだのが遅かったか、向こうの都合で時間の変更を伝えて来た。金沢発六時二十四分を九時二十六分に、金沢着十八時四分を二十時二十八分にということなんだ。どうしたらいいだろう」である。昨日は Con と(彼は汽車で家へ帰るのだから、格別面倒ではなかったが)駅へ行き、さんざん迷ったあげく、ようやくのことで申し込みを終えて来たのだ。それが、変更とは? さっそく放送係へ行って「8 ホームの方は、ただいますぐホームへ集まって下さい」ということを四限終了後放送してくれるよう頼んで、あたふたと生物教室へ駈けた。
 気が気でない。8 ホームの生徒のうちまだ一人も答案を出さないうちに、まだ検討すべき余地は残っていたが、さっさと提出して、校門に立った。なぜって? ぼくのように試験を早く出してしまって帰ろうとするものや、何かの都合で早く終わったりした生徒が帰らないようにするためである。こんなときは、校門が一つしかないことがありがたい。零時二十五分頃からぼつぼつ帰る生徒が見え始めた。二十八分頃からは、いよいよ激しくなる。Keti など数人が来た。頼むから残ってくれ、というと、「何でや」、「わしらだんないやろ」、「おまえらで好きながにしてくれ」と、勝手なことを一人一人勝手に口にする。でも、「とにかく」といって、引き止めた。[つづく]

生徒会紙が差し押さえに


高校(1 年生)時代の交換日記から

Ted: 1951 年 9 月 28 日(金)晴れ[つづき]

 『菫台時報』第十一号発行停止! 編集室で五十部ずつにして重ねられていた新聞が、差し押さえられ、持って行かれた。生徒会長 Tachi 君と Gamma 編集長が口論をする。発行責任者である会長は未検閲のものをなぜ印刷に付したかという。間違いだらけだともいう*。ぼくが見ても田舎臭い感じの紙面になっている。

 校内美化週間の最終日となり、屋外の掃除をする。「地球デコボコになって、表面積の計算難しなるぞ」、「回転の速度、鈍るかもしらん」というユーモアのほとばしるほど、われわれが手にした鍬は、中庭の土も雑草も苔も、もろともに耕した。TKM 君がやにわに、イヌの吠え声で示唆された花咲か爺さんのように、深い穴を掘り始めた。次に彼の動作は、緑色より茶色の割合の方が多い「ゴミ」をそこへ埋没する作業に移り、最後に、穴を掘ったために出た土を被せた。どこかへ分散したり、密度が変って体積が減ったところもあったりしたのか、掘った土は余ることなく、平坦な地面がそこに横たわった。

 FJW 新編集長は口ばかりの人物かと思ったら、熱意のあるところを Jack とぼくの前に示した。熱意さえあれば、新聞部を立ち直らせることも不可能でないだろう。それにしても、ぼくが入る新聞部は、中学でも高校でも、どん底の状態を経験してばかりいる。Jack が、外部から編集室へのちん入者が多くて、保存すべき何ものも棚に残っていないこと、新聞部の歴史さえもなくなりかけていることを問題にして、顧問の IT 先生に相談に行くというので、ついて行った。先生は腰から上をせり上げるような格好をしながら、口の右側をより大きく開く特徴の話し方で、「考えて見まっし」といわれた。
Ted 自身による欄外注記
 * 発行回数が年三回となったため、生徒議会で広告を載せないことに決定したが、それが徹底しないで第二面に五つの広告を載せたことが第一の問題だった。