2013年7月31日水曜日

テレヴィ/テレヴィ


高校(1 年生)時代の交換日記から

Ted: 1951 年 11 月 11 日(日)晴れ

 Jack と金大理学部へテレヴィを見に行っての帰り、これから行こうとする Jubei さんに、4 月 5 日以来で出会った。Sam が楕円と三角と四角で表した感じをハツラツと輝かせていて、「葉書、ありがとう」と、合唱の練習の初日に「話せる人」が KRS 君にいったのと同じことを同じ調子でいった。


Sam: 1951 年 11 月 11 日(日)雨(注 1)

 午前のうちは学校へ。タイプの練習をするつもりで行ったのだが、大部分を卓球や羽球で遊んだ。
 きょうもまた、テレヴィジョンを見に行く。昨日よりは面白いと思わない。
引用時の注
  1. 天気の記録が二人の間で著しく食い違っている。どちらも、それぞれ、金大理学部へテレビの公開実験を見に行っているが…。私が、11月10日の Sam の日記とは違って、公開実験の内容に全くふれていないのは、いまでもあまりテレビを見ないことに通じている。

2013年7月30日火曜日

テレビの公開実験


高校(1 年生)時代の交換日記から

Sam: 1951 年 11 月 10 日(土)晴れ

 ブランク時にはタイプだけしかしなかったので、次の解析のテストが芳しくない成績になる。
 少し前の週の英語の時間に Lesson IX で習ったばかりの公開実験を見に行く。"Television is the wonderful invention. Tele, as in telephone and telegraph, means distant, so television means seeing at a distance."(長くなるから、このあたりで止めよう。)かなり stage setting がよくて、programs は充実していると思う。Actors も悪くはない。Television receiving set に映る actors を興味深く見つめている——。カメラが一台だから、画面に動きがない。さっさと追い立てられちゃう。もう一度回って正面へ。ビールの早飲み競争!「未成年者お断り」か! 鈴を持ってへんな格好に mouth の shape をつくっている河合坊茶(注 1)の顔は、なかなか面白い。二十の扉やトンチ教室のメンバーの顔々も趣きがあるぞ! アイコノスコープ(注 2)は、何と何とのアイノコなんだい? とにかく、They will be giving television broadcatsing in the near future in Kanazawa. というから、嬉しいや。
引用時の注
  1. 河井坊茶(かわい ぼっちゃ、— ぼうちゃ、1920–1971)は、俳優、歌手、放送タレント。本名は秋元喜雄(あきもと よしお)。
  2. アイコノスコープは、被写体の像を電気信号に変換するための電子管(撮像管)の一つ。テレビ放送のプロセスの最初の段階を担う部分で、固体撮像素子による撮像板に変わるまでは、ビデオカメラの心臓部だった(『ウィキペディア』の「撮像管」中にアイコノスコープの項がある)。

2013年7月29日月曜日

ドッジボール、"紅"、"紅"


高校(1 年生)時代の交換日記から

Sam: 1951 年 11 月 9 日(金)雨

 アセンブリーは、一、二年生にはなくなったので、タイプの練習を長時間することが出来た。二限の英語のとき、『アラビアンナイト』の一部を dictation させられた。「アラジンと魔法のランプ」とかいうところだ。マジシャンという名詞の綴りが分らないままに、mazishan などとめちゃくちゃを書いてしまった。そのほかにも聞き違いがあったりで、十指にあまるミスをしでかした。
 保健体育は検眼。視力左右 1.5。正常なもんだ。中央の最下段のところを指されたとき、どうしても縦の棒にしか見えなかったので、おかしいと思いつつ、「分りません」と答えたが、あとでそばへ見に行ったら、数字の 1 だった。
 長町小学校の講堂。Funny とぼくのほかは中学生ばかり。大人は二、三人いたっけ。バレーボールとドッジボール。ドッジボールでは範囲が近距離なので、恐さが多分に加わる。スピードのある球が飛び交う。いやいや、それからあとだ。"紅"、"紅"…。どう書いてよいか分らないけれども、一つの現象として書いておいてもよいと思う。
(注 1)
引用時の注
  1. ドッジボールを一緒にした中の女子中学生に惹かれでもしたということか。Sam は女の子のことを滅多に書かなかったと思っていたが…。いや、「それからあとだ」とあるところをみると、ドッジボールをした後で Funny とアルコール類でも飲んで、顔を赤くしたということか。そもそも、この日になぜ、小学校の講堂でスポーツをしたのかが不明でる。校下の行事としても、週日であるのが不思議だ。

2013年7月28日日曜日

引揚者同士


高校(1 年生)時代の交換日記から

Ted: 1951 年 11 月 9 日(金)曇り(つづき)

 生物は試験の解答があってから、…(どうもうまくまとまらない)…科学する心(としておこう)の話ばかりで鐘が鳴った。
 図画は今度も中学のときの復習のような、商品の箱のデザインをしている。ぼくは昨年通り、野球のボールの箱。色を塗るところまで準備して行ったので、Pentagon 先生が同じことを何度も繰り返す話を終えて、「作業」に取りかからせ、教室内を見回り始められた時には、早く見て貰うために教壇前の席から後ろへ移動した。「何だ、こりゃ。素晴らしい。ホームランか(打者の図案を見て)。ボールを入れるんやな」といわれる。「なかなか、きちんと。何か見て描いたか」との問いに、先生の発音ぶりとは反対の早めで抜け目のない口調で、「Hare Ball では語調がよくないですが、しかし、よく飛ぶウサギのようなという意味を込めて…。これとこれの図案は見て描きました。字の方は少しも」と答えた。時間が終わって、道具を片付けているときにも、先生はぼくの図案の英文字に感心して、「何かそんな図案辞典でも…」といわれるので、「いやいや、こんな字は、いつもいろいろ自分で考えて書いているので、慣れています」と、大きく応じた。スポーツ用品の箱だから、細い字や妙な飾りのついた字をやめて、太くて角張ったのにしたところが気に入られたのだろうか。(注 1)

 そのあとの休み時間に「どうですか」という挨拶で後ろからぼくを捕まえたのは、渉外委員長だったかになった Massy だった。外へ出ようというので、雨水を吸収しきれないで水たまりをあちらこちらに広げている地面の上へ歩を落とした。散り落ちたあとを雨にたたかれて、かさかさと鳴ることも出来なくなっている落ち葉。陽光が温かい。体育館の横を一度通り、同じところを再び通って引き返す頃から、Massy の話は、ぼくを大連の電車に乗せて、静浦、星が浦、常葉橋などへ連れて行った(注 2)。「うん、確かそんなとこ、あったようだ」、「はぁ、あそこか。行かなかった」などと答えた(ぼくは彼より大連に住んだ期間が短いと思う)。保健室前の出口へ戻ると、Vicky や Hicky や Picky たち(いや、Hicky、Picky は誰のあだ名でもない)がひなたぼっこをしている。
 それから、Massy は一人で旅順へ行った、いや、彼の頭の中へ旅順がやって来た。ぼくに行かなかったのかと問う。行かなかったと答える。A・T 君の住所を伯母に聞いて教えなければならないことになる。ぼくも、大連で向かいの家にいた、早く動く口から女性的音声を発し、運動会では長くはない足でひた走りに走り、一、二位を取ることを常とした A・T 君に手紙を出してみようと思う。N・W 君や R・O 君はどうしているだろう。しかし、この二人には、いまのところ、これといって知らせたいこともない。東京、神戸のことは聞きたいが、こまごまとは書いてくれそうもない。

 Peanut 先生が「重要思」と書いてあるところを、わざわざ直さないで読んで行き、「ここまでに一つ間違いがあるんだ。誰か」といい終わられないうちに、Sam から「誤字発見器」の名を貰ったぼくが手を挙げて答えたので、TKN 君が「早い奴や」といった。『菫台時報』第十一号の 1/3 くらいの割合で誤字のあるものが、国語の教科書だから、たまらない。
引用時の注
  1. どのアルファベット文字でも同じ四角内に収めて、普通には線である部分とは逆に、隙間の部分をほとんど線状ないしは小さな区画にする図案化を使ったのだったか。この図案化の方式は、大連の小学校で戦後、真鍮の小片に学校の名前を英語の略字で刻んだバッジを作り、帽子の横につけることが友人たちの間で流行っていたが、そのバッジの文字に彼らが採用していたものである。
  2. Massy は、私の大連での住まいの近くに住んでいたのだが、私が大連へ行く少し前に北京へ移っていた。どちらも引揚者である。北京では終戦後授業がほとんどなかったので、Massy は引き揚げ後 1 年下の学年へ編入した。それで、大連の小学校の同窓会総会では、彼は私より 1 年先輩の人たちのテーブルにいる。

2013年7月27日土曜日

自己の非を悟る困難



高校(1 年生)時代の交換日記から

Ted: 1951 年 11 月 9 日(金)曇り

 図
(注 1)のような校内を、金曜日のぼくならば、矢印付きの線で記したようにように移動(点線は二階を歩くことを示す。数字は教室番号、赤字は二階の教室)することに決まっているので、何の授業が済んでどこを通るときに誰とすれ違うということも自然に決まって来る。それで、「いまは誰々に会うだろう」と思っていると、その通り、その人物たちとすれ違う。他のときには見ても、廊下の移動時には決して会わない上級生もあれば、移動時にばかり会う上級生もいたりする。狭いところに少しの人間がいても、広いところに多くの人間がいるような関係が作り出されて不思議なものだ。

 大したことでもないことを書くのに長い時間をかけてしまったが、きょう感じたことの中では、「フランクリン自叙伝」中の、「実際われわれの自然の感情の中でも自負心ほど制御し難いものはあるまい」という真理があやつる「自己の非を悟ることの難しさ」が最も重要なことだった。そして、悟り訂正しなければならない沢山の事柄を自分が持っているのを知った。
 訂正。この二字によって、これまでに書いたことの中で、非だったことを全て取り消したことにしよう。そして、心をさっぱりと拭い、常に新しい出発をするのだ。(つづく)
引用時の注
  1.  図の上部に日付けと天候が英語で書いてある。引用に当たって日本語表記にしているが、実際の日記では、このように、私の書く日付けと天候は英語表記、Sam は日付けが英語表記で天候は日本語表記だった。
     図からわかるように、校舎は中庭を挟んで 4 棟が左右の廊下でつながった形で、さらに図の右下にあるように、一階だけの増築部分があった。略号は上段から順に左から右へ、講=講堂、総=総務部教員室、事=事務室、生=生徒会室、玄=玄関、図=図書室、指=指導部教員室、体=体育館、編=編集室(新聞クラブ室)、化=化学講義室(階段教室、生徒議会議場)、生=生物学講義室、25 の上の文字は汚れと重なって見にくいが、保=保健部教員室。
     登校時に玄関から入らないで図書室脇を回って校内へ入っているのは、玄関が教職員専用だったからか。まず、2 番教室横の階段を登って二階の 9 番教室で第 1 限の授業を受け、次に、10 番教室脇の階段を降りて 18 番教室で第 2 限の授業を受けるところまではたどれる。しかし、そのあとは書き損ねたような線も加わって、線が混み合っていて分り難い。多分、14、15 番教室で第 3、4 限の授業を受けて、ショートホーム時と昼食のために 22番教室へ行き、午後は 23 番教室と、二階の 16 番教室で第 5、6 限の授業を受けたのだろう。

2013年7月26日金曜日

役員補欠選挙は低調/タイプは停滞気味


高校(1 年生)時代の交換日記から

Sam: 1951 年 11 月 7 日(水)雨

 まだ一向に駄目なのらしい。生徒会役員の補欠選挙の候補者は。何の音沙汰も感じられない、低調極まりない状況だ。

 班別にしたそうだ。こんなに所帯が大きくなれば、そうしなければ不公平だからな。

Sam: 1951 年 11 月 8 日(木)雨

 ブランク時はタイプの練習をすることに決める。ダブルスペースでリーダーの第十一課を写した。放課後の練習はなかなか順番が回って来ないから、十一課の単語を覚えたりしていた。140/min 以上の記録を作ったことがない。この頃は停滞気味だ。

2013年7月25日木曜日

発言内容が貧弱・偏頗


高校(1 年生)時代の交換日記から

Ted: 1951 年 11 月 8 日(木)雨(つづき)

 アセンブリーは公聴会。会場からの発言者は障害を持つ前公安委員長(Moga というあだ名らしい。本名 TKN)と、絵画クラブの、丸いおどけた顔の三年生だけだった。Moga は中央におかれたマイクの前に陣取って、何度も手を挙げ、厭世人のような調子で、意味のよく分らないことをモガモガと叫んだ。壇上で発言したのは、司会者(多分、新文化委員長)と、きょうは帽子を前後に振る代りに、「休め」の姿勢の左右の足を替える動作を忙しく繰り返した Elecky 会長と、旅行的遠足の問題のとき、駅との交渉の件で Moga に追求された前渉外委員長(あまり似ていないが、Moga の弟で二年生。講堂で兄弟喧嘩をしたわけだ)と、就職状況を述べた HSD 先生と、進学のことを述べた YMM 先生(だろうと思う)と、総務の先生として、下駄箱と更衣室の問題に答えた MRI 先生だけだった。
 SMM 君が「アセンブリー研究委員会調査」という用紙をぼくに記入するようにとくれた。「始まる前には期待していたのであるが、進行するにつれて興ざめした。発言内容が貧弱、偏頗だったことが、意義あるテーマを持つ今回の集会にもかかわらず、これを意義なからしめた。建設的な発言がない。上級生の態度は、冷静に問題を批判して聞くことの不可能な状態」などと、それぞれの質問に長い回答を記入する。

 Íma; Imáhitotsu; Kíkkyuku(結局)dóbutsu wa ... de dekíteiru; Tekítōni sū("sū" は息を吸う音); Arimúra, Íkeda, ... Míyakuchi, ...(出席の取り方); Kore-mimássima; Kóre wa tsúmari nánkashira ...; Kangáe-nakerebanarán mondái. ——ぼくが習っている全ての先生の特徴あるアクセントを、それぞれよく使われる言葉で示してみた(";" が一人の先生の区切り)。他に、補欠でよく来られる Teihen 先生は、... wáke de áru, 新聞クラブ顧問の IT 先生は、Sórya sódesu-tomo, mazú dái-ichi ni.
(注 1)
引用時の注
  1. 日本語は大体においてアクセントが不明瞭な原語であり、先生方の話し方のアクセントを正確に記録出来ているかどうかあやしい。しかし、少なくともヨウコ先生のものと思われる金沢弁「これ見まっしま(これを見なさいよ)」は、先生に限らず、「見」の次の「ま」にアクセントをおくので、正確といえよう。

2013年7月24日水曜日

何にもならない仮定


高校(1 年生)時代の交換日記から

Ted: 1951 年 11 月 7 日(水)雨、8 日(木)雨

 「三振の規則がなかったら…。」オールパシフィックの健闘も、対米選抜戦は 2 対 2 の引き分けで、アナウンサーはこんなことをいっている。「何々がなかったら。」これまでの国語甲のテストでぼくの下にいたのに、「新発意」などの今度のテストで九十九点を取った女生徒に対して、ぼくは Sam が先月二十四日や三十日に書いたような状態になれるだろうか(注 1)。「何々がなかったら」という仮定は、何にもならない話だ。堂々と真正面から。そうだ。今度の八点差を、Vicky はぼくに対して正々堂々とつけたのだ。

 昨日は残念だったが、三回ばかりの練習を何のためにしたのか分らなくしなければならなかった(注 2)。そして、行ったのは NS 医院だった。"... so, do not be regret overtake you." というところで、Mouse 先生が自分の片足を後ろへ引いて、「ありゃ!」と口をとがらせていい、自分の先へ行った「後悔」を見つめている姿をされたのと、母も心配したのとに背を押されて、しぶしぶながらも白くてこわいヒゲの持ち主の NS 先生の診察を受けに行ったのだが、「大したことはないですよ」といわれた。

 一限は生物のテスト。呼吸作用を CO2 の測定によって調べる実験方法二つのうちの一つと、カエルのすい臓に関する最後(六番目)の問題が全然分らなかった。(つづく)
引用時の注
  1. Sam は10 月 24 日に「他の者より幾分でも優越した位置を占めたい」と、また、10 月 30 日に「常に優位を占めていなければならない」と書いていた。
  2. 風邪気味のため、出身中学の文化祭での卒業生合唱の本番に行かなかったことを書いている。何曲歌うのだったか、練習したことが記憶にあるのは「平城山(ならやま)」だけである。

校内が左側通行の理由


高校(1 年生)時代の交換日記から

Sam: 1951 年 11 月 6 日(火)晴れ

 KT 君とこんな会話をする。
「なんでこの学校左側通行のやとな。」
「理論的に説明すると、鞄を右手に持つやろ。そうすると体が反対側に傾くさかい、廊下の左側によしかかって歩くがんかいな。」
「あんな(『あのな』の訛り)、歴史的に述べるとやな、過去においてはやな、武士が左脇に刀を差しとるさかいに、右側通行すると刀がかちおうて、喧嘩になるさかい、壁の方に刀を向けて歩くようになったんや。」

 午後の授業はなくなった。講堂で PTA 総会が行なわれている間にホームの会場準備をし、余った時間は運動場で三角ベースをした。
 最初に「二十の扉」。司会はぼくがする。説明は容易でなかった。とんと舌が回らない。いいたい言葉がいえない。端的な簡単な言葉だけしかいえない。そして遅々として進行しない。タヌキをネコより小さいというなど、時には間違ったことをいったりした。いい加減に止めて、座談会に移る。これは、PTA の説教のようなものになってしまった。

 四時にやっと終わる。自転車で紫中へ行く。長く自転車に乗らなかったので、変な調子だ。広坂を昇ったら、すっかり汗をかいてしまう。案に反して誰も来ていない。Marlo とKKM 君がアコーディオンを弾いているだけだ。菫台の生徒たちめ、試験に悩まされているんだナ。帰るとき、Jack のところへ寄ったが、やはりカジっていた。

2013年7月22日月曜日

「そうりょう」ではなかった


高校(1 年生)時代の交換日記から

Ted: 1951 年 11 月 6 日(火)晴れ

 熱いものが沸き上がってザラザラと皮膚をなでるような気持悪さの加わった寒気を感じる。残念だが、紫中へは行くまい(注 1)。明後日が生物の試験ということは、何とも思っていないのだが、昨日ときょうと、生物を選択した一年生は、細かい字で一枚の半紙に四十七題書かれている「生物科練習問題」の答をお互い同士聞き合ったり、いつになく積極的に Frog 先生が巣にしておられる部屋へ出入りしている。ぼくだって分らないのもあって、調べなければならない。

 ヨウコ先生は重ねて欠席。昨日と同じく Teihen 先生(「底辺」がこの先生の学校でのあだ名だ。いつかこの先生を Teinō 先生と書いたが、それは別の先生のあだ名だった)が出て来て、人数を数えてから、足らないだけの欠席者名を聞き、「質問!」(「質問があればしなさい」の意)とさびた声(というと、昨日それを聞くために日活の前に作られていた長蛇の列(注 2)が思い出されるが、それとは、さび方が違う)でどなられた。昨日はそれに対して、Jack が聞かなくてもよいことに (a+b)10 を展開するとどうなるかを質問したので、ピラミッド型の構成で係数を求める方法(注 3)(Jack やぼくは、すでに知っていたのだ)の他に、nCm という記号で求められることを教えられた。きょうは、プリントを出して少し自習をしたが、Jap が「尻取りしよう」というから、 ox と始めた。彼は早速困り、席を立ってカンニングして来てから X-rays と続けたので、sex で返した。Xmas と来れば、six ともう一度困らせてやるつもりだったのに、時間が終わってしまった。Xt で来ても tax、Xtian ならば、nix と用意万全だ。

 国語甲では、先週行われた試験の講評がある。一問題だけまだ採点されていなかったので、総点は分らなかった。何が馬鹿らしいといっても、言葉の魔法にかかるのが最も馬鹿らしい。新発意(しぼち)という単語は、先生が授業中に「新しくそうりょうになった人」と訳して行かれたように聞いたので、それをノートに書きとめ、頭にも入れていたのだが、「これがほとんど出来ていない」と Peanut 先生がいわれる。「そんなものが…」と思っていると、先生は続けて「これは、新しく僧籍に入った人のことだね」といわれ、「頭に被る布」と同音の副詞を胸に覚える。「僧侶」を「第一番目の子」である「総領」と聞き違えていたのだ。考えてみれば、「発意」の文字からも「総領」ではおかしいと気づくべきだった。「新しく仏門に入った人」と書くつもりで、「新しく物門に入った人」と書いた答案があったそうだが、それと「似たり寄ったり」といわれても仕方のない結果だ。三十点割り当てられている単語の解釈のところでなぜ二点引かれたのか不審だったぼくに、先生は「Ted(とはいわないが)、どうだ」と声をかけられた。
引用時の注
  1. 出身中学の文化祭での卒業生合唱に出るための練習に何度か行きながら、本番には出なかった記憶だけがあるが、その理由を覚えていなかった。少年時代に歌は不得手な方ではあったが、合唱で半ば口パクでもよい出場までも嫌うほどでもなかった。それなのに、どうして出なかったのだろうかと思っていたが、風邪気味で何度か練習を休んでしまったことが原因だったらしい。
  2. 美空ひばりあたりの金沢来演があったのだったか。
  3. 「パスカルの三角形」と呼ばれる。

2013年7月21日日曜日

「二十の扉」進行方法


高校(1 年生)時代の交換日記から

Sam: 1951 年 11 月 5 日(月)晴れ

 明日のホーム PTA について打ち合わせをしなければならない。内容は「二十の扉」と「座談会」になっているのだが、前者について一応の案を作成してみる。
 PTA と、生徒を二組に分けたのと、合わせて三組のチームを作り、対抗させることにする。やや、ややこしい。「三組のうちの一組が解答者になり、他の二つの組の一つから出題された問題を解きます。出題した組はいわば聴衆になり、他の一組は、問題の答を知りませんので、解答者側に対抗してストップをかけて得点することが出来ます」というのが、ゲーム進行方法。あとは(といっても、あとに何があるか、分らない人たちが多いかもしれない)NHK の決まりを準用することにしておく。

2013年7月20日土曜日

適性検査と素質検査


高校(1 年生)時代の交換日記から

Ted: 1951 年 11 月 5 日(月)曇り

 寒い。風邪を引いてはいけない。
 国語乙は、適性検査とか銘打って、簡単で難しい(先の形容詞は形式が、であり、後の形容詞は、答を出すのが、である)不意試験。初めに六つの問題を紙に写させてから、『徒然草』の「第三十二段を出せ。十分で読み、考え、解答せよ」である。すぐ後で解答の説明があったが、「主人」という答を「作者がそこで見た人」でまけて貰うとして、六割六分七厘の出来だ。習ったことも聞いたこともないところからの出題だから、誰もが苦しんだ。
 体操も、素質とかの検査で、バスケットボールを三十秒間に何回網を通せるかを測った。もっとゆっくり、確実に狙えばよかった。ロビンスの岩本の背番号(注 1)と同じ回数しか入らなかったとはみじめだ。
引用時の注
  1. この頃、松竹ロビンスにいた岩本義行外野手の背番号は 3。「元祖神主打法」で知られる。この年、1951 年 8 月 1 日の阪神戦(長野上田球場)で、自らの記録を塗り替える史上初の 1 試合 4 本塁打を記録(現在もプロ野球記録)した。

2013年7月19日金曜日

パン食い競走で二等に


高校(1 年生)時代の交換日記から

Sam: 1951 年 11 月 4 日(日)晴れ

 延びに延びた長町校下の社会体育大会が、きょうやっと開かれる運びとなる。うかうかとぼくが見に行ったわけだが、珍しく(本当に珍しくだ)パン食い競走で二等になれた。それも、町の運動会のときに要領を覚えたからだ(秘伝は公開しないものだ)。どんな賞品だったと思う? たった(という副詞をつけたくなる)Cuatel(注 1)というものだけだった。ぼくやぼくの家にあまり用はない。これに味を覚えて、太公望や障害物競走に出場したが、等外にあまんじなければならなかった。幼児競走にも出た(いや、ぼくが赤ん坊をだっこして)が、これはみんなに一つずつのアメが与えられた。

 もっと面白いだろう午後の部を犠牲にして、紫中へ行こうと家を出る。長町小の校庭へ。まだ始まっていない。裏門から香林坊、北国書林へ入る。いろいろ探した挙げ句、一冊の辞書を求める。この一冊によって大きな希望がわくだろう。

 金沢大学の秋季作品展と国税庁の職員余技展覧会を、感嘆詞を連発させて見る。前者は油彩と水彩だけだったが、後者は写真、洋画、日本画、書道、俳画、手工芸、生け花と、なかなか盛り沢山である。前者の出品目録は活版刷りで広告の入ったものだったが、後者のはガリ版刷りで、ちゃんと綴じられたものだった。広告はない。どちらの係員もとても親切だったけれども、見に来ている人は少なかった。

 音楽室はどこかの会社の交響楽団が使っていたので、第二音楽室で練習ということになる。先生が音楽室の入り口に「卒業生の合唱練習は第二音楽室で至します」と、誤りのある掲示をして、第二音楽室へ行く。♪♫♬♩…。

 帰るとき Ted のところへ行こうと思ったが、ここへ来ないのに家にいるはずはない、きっと誰かとどこかへ行く約束でもしたので来れなくなったのだろうと、校門を出ると右に曲がった。ぼくの他に誰も右に曲がるものはいなかった。Jack と Neg の家に寄ってみたが、どちらも not at home で、足が棒になった。
引用時の注
  1. 化粧品か何かの商品名か。

2013年7月18日木曜日

米選抜軍対全日本の野球放送


高校(1 年生)時代の交換日記から

Ted: 1951 年 11 月 4 日(日)晴れ

 Sam、二日間にわたる休みなものだから、Crow 先生は金曜日の SH に「休み中は身体に気をつけて」と、冗談のようにいわれたが、Sam はこの二日間をどう過ごしたかね?——「どう過ごしたかね?」ではない! ぼくはきょう紫中での歌の練習に行かなかった。このことについて、Sam はぼくをよく思わなかったに違いない。なぜ行かなかったか? 理由の一つは、そこへ行くためには命ともいうべき身体の部分が痛んでいたこと、もう一つは、それは、すなわち、何かというならば、米選抜軍対全日本の放送を聞きたかったのだ。そして、Twelve がやって来た。もち、ぼくが招待したから。彼の家の第一と第二放送は混信するそうだから。それでも、甲子園球場が雨だったら、来たるべき生物の試験のこと、解析のプリントのこと、月曜の dic のことなどを話すだけで、一時半には帰って貰うかもしれないと、金曜日に断っておいた。
 しかし、雨は降らない。ところが、早慶戦の放送がなかなか終わらない。われわれはいくらか退屈した。やっと終わって、米国国歌と君が代の吹奏、試合開始。「二時十二分であります。ピッチャー別所、プレートの真ん中を踏んで…。」少し変だと思ったが、四時十二分前の聞き違いだろうということにして、ぼくは七十円がロハになったスコアブックへ、Twelve に記号を説明しながら、記入し続けた。一回表、ディマジオ兄の二塁打で二点を挙げた米軍に対して、その裏の日本はゼロ。鉛筆を左ページの 2 イニングの下の七番打者のところへ持って行き、● を一つ書くと、「ピッチャーのパーネル、第二球の…」といっている。二回の表、米軍のストリンガーが打者のはずだが、変だぞ、なぁに、アナウンサーの間違いだろう、ぐらいに思っていると、Twelve も「変だ」と注意する。「四回の裏、全日本の攻撃、第四球もボール、別当、再び四球を…。」「録音や」と Twelve。一回裏から四回裏へ、何の断りもなくすっ飛ばされたのだから、キツネにつままれる。「一生懸命に聞いとっても、本当は、もう終わっとるがやろな。だらくさい!」時間のズレは、ぼくにこう叫ばせた。
 録音では、臨場感に欠ける。畳に手のひらをついて、ひじをゴツンゴツンと曲げ伸ばししていた Twelve もさぞ、つまらなかったことだろう。五時になり、六回裏、川上がショートフライでスリーアウトになった時、Twelve は帽子を拾って立ち上がってから、またひざまずいて、母に「長い間お邪魔いたしました」といった。歌を歌いに行った方がよかっ——いや「よかったかもしれない」ではない!

2013年7月17日水曜日

ラジオのとりこ/湯川博士が「二十の扉」に出題


高校(1 年生)時代の交換日記から

Ted: 1951 年 11 月 3 日(土、文化の日)雨

 ラジオのとりこになる。


Sam: 1951 年 11 月 3 日(土)雨

 「文化の日」、祖母と抽き出しや押し入れをかき回して(何かのマンガにあったぞ)、どうにか家の前に掲げた国旗
(注 1)が、雨に濡れて、その名詞を二つ合わせて作られる音のような形容の出来ない状態になった。(注 2)
 午後から、やや晴れて来たので、学校へ行き、タイプの練習をする。クラブが大所帯になったから、こんなときにでも、沢山練習しておかなければならない。

 合わせて三時間にわたる紅白試合は確かに面白かった。
>
  紅(女性) 白(男性)
回戦 問題 得点 問題
1 五十鈴川の水(出題:高松宮) 1 0, b 植・鉱 こま(出題:湯川秀樹)
2 待てど暮らせど来ぬ人 0, s 2, h, b 文福茶釜を買ったくず屋
3 猿蟹合戦で猿が登った柿の木 1 0, b 三人の女で姦しい
4 男所帯にわくウジ 0, s 1, b 仲人の口
5 野菜サンドイッチ 11, h, b 動・植 一つ五円のコロッケ
Open 0 1 植・鉱 新国連ビル

 注:b = 20 問に達しても答が出なくてカネが鳴る。h = 相手方のお手つき(stop をかけたが不正解)で 1 点獲得。s = 相手方に stop をかけて答えられ 1 点を与える。

どうだい、こんな表は。もちろん、完全なものじゃないよ。最初と最後は著名人の出題で、趣きがあったじゃないか
(注 3)。オープンゲームの出題は、日本の二十の扉の育ての親という方で(名前はちょっと覚えていない)、とにかく外国人の出題は初めてということだったネ。白組の方は全問題で「カネ」になっている。何と愚かしいことよ。他方、紅組が二回もストップを食い、二回もお手つきをするとは、よっぽどおっちょこちょいだ。これらの点から見ると、きょうの二十の扉は全く価値がない。トンチ教室の方は笑うことが多くて、ただただ愉快だった。いろいろ新しい趣向のがあったネ。
引用時の注
  1. サンフランシスコ講和条約が調印されたことによって、独立国に戻るという喜びのあった頃で、「日の丸」が侵略戦争のシンボルだったという反省が起こる前のことである。1960 年代の初め頃でも、母が祝日に国旗を掲げようといっても、私にはまだ抵抗がなかった。
  2. 「はたはたとひらめいている」とはいえない状態だった、ということを回りくどく述べている。
  3. 全く覚えていなかったが、湯川秀樹の出題はいかにも物理学者らしい。「こま」の運動は力学の方程式の対象になるからである。他の複雑な出題と異なり、単純な名詞だったにも関わらず、解答者たちが当てられなかったとは情けない。[後日の追記]このブログ記事の題名だけを見ると、Sam のでなく私の日記だったかと思わされた。

2013年7月16日火曜日

彼女たちの趣味


高校(1 年生)時代の交換日記から

Ted: 1951 年 11 月 1 日(木)晴れ
Ted: 1951 年 11 月 2 日(雨)晴れ

 内面の闘争は続いた。一つの対象に関してではなくて、その種のことに対する全面的なものだ。

 TKN 君は、本当のようなこと、嘘のようなこと、語っている彼も、その話の中で話題になっている者自身さえも、分っていないようなこと、などを知っている

 二限の生物では、国体から帰った Pine を見ることが出来たが、来週中に試験があるという文字も黒板に見た。再来週の H 時が雨になったら行なう予定の討論会に「試験制度、是か非か」をやったらなどと考えている後ろで、Pine はショットがどうだ、ジャンプだ、タップだ、と話していた。
 Ascertain という単語の音とアクセントから受ける感じをその身体にもたせて、…いや、こういう記述はどうでもよい。昨日の昼食時に彼女たちが何を話し合っていたか。映画監督、男優、女優、そして映画の題名を、男子生徒が、たとえば、阪神が松木、近鉄が藤田、大洋が渡辺、あるいは、武智は広島、内尾は阪急、古谷は国鉄(注 1)といい合うように、つなぎ合わせ、違ったといって笑い、知らないといって残念がり、知っていたといって喜んだりした挙げ句、「こんなこと、一生懸命に覚えて…」、「試験に出たら満点や」などといっていた。彼女たちが何を趣味として追い、他方で何を気にしているかの一端が見えた気がした。
 万物の霊長と自負している動物は、自分一人を楽しませるためには、ずいぶん、下等な動物になり下がらなければならないものだ。(前のこととは関係がない。)
 過去を顧みること、このことは、自分に一匹の小さな動物を見せつける。へんな具合にうごめいて這って来たな、と思わせる。そして、反動的に、未来の望ましい大きな動物が頭に映る。これでよい!
 もう一度考えても、TKN 君の言葉は、ぼくを部外者として持ち出したものとして、唯一の驚くべきものだった。(注 2)
引用時の注
  1. 当時のプロ野球チームの選手を背番号、守備位置あるいは打順の共通性で並べたのか。いまとなっては、見当がつかない。
  2. 他人についていわれた言葉だったが、自分のことをいわれたように心に響いたのは初めての経験だった、という意味か。

2013年7月15日月曜日

「やれ! やれ!」/Blank


高校(1 年生)時代の交換日記から

Sam: 1951 年 11 月 1 日(木)雨

 次の文中の「なむ」は、それぞれどんな意味を持っているか。
  花も散りなむ
  いま一度の御幸待たなむ
  かたちより心ばせなむ勝れる
  美しきは花になむ
というような問題で、国語は助動詞を中心とした授業だった。
 社会はきょうで第三章が終わった。先生は「第四章へ行ってもかまいませんか。第四章は相当スピードを上げて行こうと思います」といわれた。それに対して、ぼくが「やれ! やれ!」と叫んだら、みんなの顔がこちらを向いたので照れてしまった。先生は「あんなのがいるから朗らかなんだ」といってから、「では、いまわめいたの、読んでくれ!」とぼくに指名された。乗りかかった舟だから、読まなければならない。あまり力一杯読んだら、途中で%を「パーセントー」と読んでしまって、みんなの顔が二回目の回転をした。

Sam: 1951 年 11 月 2 日(金)雨

 Blank.

2013年7月14日日曜日

見せる羽を持っていない鳥


高校(1 年生)時代の交換日記から

Ted: 1951 年 10 月 31 日(水)晴れ

 何のことはない。もう、赤の上に灰色を重ねた服装に変って登校している。一つの鋭い鋭角を持った幾つかの三角形の寄り合いの、外側を滑らかな曲線で囲んだ感じがかもし出す、寄せつけない雰囲気の笑み。——彼女についての観察は、ずいぶん何度も Sam に知らせて来た。——何を書こうとしたのか分らなくなった。——
 教室に出入りするとき、昼休みにはときとして狭い廊下で、よくわれわれの目は衝突する。——この調子では、長い本論を書き始めることになりそうだ。——などといって書きしぶっては、また、誤解されるかもしれないが、次の結論(「英語会話」が終わってから、ニュースが始まるまでかかって考えたものだ
(注 1))だけでやめておこう。
 「広げて見せる羽を持っていない鳥だ。しかし、だから…」
(注 2)
 It is complicated. It is complicated. It is complicated. It is ...
 短い編集会議を済ませて帰り、富山県営球場での日米親善野球の実況放送を聞いた。アナウンサーが、第一球で「ストラックアウト!」といったり、「新しく新調いたしましたユニフォーム」といったりするので、誰もいない部屋(祖父は外出していた)で、複雑な問題を忘れて、独り笑った。ブンちゃんのホーマーはよかったが、6–2 では、歯が立たない感じだ。
(注 3)
引用時の注
  1. この頃、わが家にラジオを購入したばかりだった。
  2. Vicky とのいわば「無関係な関係」について、高校時代の日記では抽象的な言葉でしか表現しなかった。私の彼女への当時の気持は、具体的にはどういうものだったのかということに加えて、定年退職も近い頃になって彼女と同窓会などで何度か話す機会があったことも、Sam に一度報告しなければと思っていた。しかし、その矢先に Sam は病死し、報告の機会が永遠に失われた。そこで、Sam に報告するはずだったことを英文の短篇小説の形にまとめたのが "Vicky: A Novella" である(私の自費出版書 "Passage through Spacetime" に含まれている)。
  3. 「ブンちゃん(文ちゃん)」とは、中日ドラゴンズなどで活躍した西沢道夫選手(1921–1977)の愛称。1950 年に記録した 1 シーズン 5 本の満塁本塁打は、現在も日本記録である。1977 年に野球殿堂入り。

2013年7月11日木曜日

今後も絶えず努力して…/直径 2.135 メートルの円内から…


高校(1 年生)時代の交換日記から

Sam: 1951 年 10 月 30 日(火)

 教育委員会とかの方が来られるというので、昼食時間に掃除をしなければならない。午後から来られるのだそうだが、六限は C 時なので、三、四限と五、六限が入れ替えになった。そのため、ぼくの英語のテストは六限になったので、なお多くの時間、頭の中へいろいろなものをつめこまなければならないことになる。
 「タイプライター部員募集」というプロパガンダがたちまち反響を呼んで、十人近くの新部員が出来た。一年生も沢山いる。
 やっぱりよかった。自分で自分をほめるのはおかしいけれど、少なくとも、ぼくはこの点について炯眼を持っていたといってよいだろう。今後も絶えず努力して、常に優位を占めていなければならない。
(注 1)
引用時の注
  1. 「なければならない」が頻出しているが、実際の日記では、Sam も Ted も、ギリシャ文字の ω に似た速記用の記号でこの言葉を表していた。したがって、「〜する必要がある」ということを書くのに、「〜しω」で済ませるのは、しごく便利だったのである。

Sam: 1951 年 10 月 31 日(水)晴れ

 8.06 メートル。何の記録か分るかい。一学期より、 2 メートル強伸びた成績だ。直径 2.135 メートルの円内から 4 kg のものを、45° の角度で空中に押し出すのだ。
 仕方なく、商業の時間は欠課した。野球は見事に勝ったが、排球の方はあっさり負けた。
 野球の方では、隠し球で相手を刺したり(刺されたのは「話せる人」だった)、死球で一塁へ歩こうとして戻らされて、再びボックスに入ると、次の球がまた死球だったり、珍プレーや珍記録が生まれた。
 バレーの方は第二試合だったので遅くなったため、女子の選手の一人が帰ってしまい、「お客さん」を一人加えて試合をした。

H 時は二十の扉


高校(1 年生)時代の交換日記から

Ted: 1951 年 10 月 30 日(火)曇り一時小雨

 やはり、これは唯一の、そして徹底的な悩みの一つなんだなぁ! 天候を気遣う。「木からもののこぼるる音や秋の風」という千代の句も、そのままには受け取れないで、「雨雲にわななくガラス秋の風」という、荒っぽくて感傷的なものに変ってしまう。(注 1)

 二限の初めに「退屈または疲労のときなどに出る太息」をして YMG 先生に「徹夜しましたか」と聞かれた Vicky は、風邪を引いたと答えた。いつになく、「出してもよいですか」と、答案を真っ先に提出して教室を出て行った。「頭でも痛い?」という先生の問いには、「書けましたから」といっていたのに、次の時間からは、二学期の初めから同じ姿だったかと思われる、白と、背中の両側で 3 の字二つ半が連続した縁になっている黒との姿はなかった。

 H 時は二十の扉。一切を文化委員の AK 君に一任してあったので、彼が問題を作って来た。そして、座席の一列ずつが前へ出て解答者となる方式をとり、SMM 君を司会者に指名した。右端の列から順に解答者となり、SMM 君の、きょうばかりははかばかしくない口ぶりの司会(あとで聞いたところでは、彼はラジオの二十の扉をほとんど聞いたことがないそうだ)で始まった。ほとんどの問題がいたって簡単だったことと、考えている時間が長かったことのため、期待したほど面白い行事にはならなかった。
 ぼくの列は、十九問目で追い込みに成功して、「UE 君(Atcher)が持って来た(ホームへ提供した)バット」を答えた。「UE 君がこの間折ったバット」とぼくがいったときが、聴取者たちが一時間の中で最もスリルを味わったときだろう。時間が足らなくて、六列あるうちの五列までしか行かなかったが、十九問というのは一番長かった。それでも、何らかの質問を次々と間をおかないで出すように努め、十九のうちの半分ほどはぼくが質問した。
 自分が解答者になってみると、ラジオで聞いているときには起こらない次のような感じを経験する。空一面に広がっていた雲が途切れて一片だけとなり、次には長方形のような形となり、その周りにいろいろ具体的なものの姿が踊るのだが、どれもどこかに足らないところがあるように思われる。それには構わないで、質問で答の範囲を狭めて行くと、中心にある長方形が彫り刻まれて、次第に形を成して来る。そして周囲に集まった各種のものの姿は、その数が減って行き、彫刻は完成に近づき、最後に、周囲にあって残った一つのものと一致する。と同時に、回転する地球の像が最後をしめくくる。
(注 2)
引用時の注
  1. 体育実技は晴天ならばグラウンドで球技になるが、雨天ならば、体育館で、私の全く苦手な跳び箱やマットを使う運動をすることになるので、その授業のある日は、もっぱら晴天になることを願っていたのである。
  2. これは、どこかの映画社のフィルムの冒頭の映像の影響か。

2013年7月10日水曜日

AK 君の作句手帳


高校(1 年生)時代の交換日記から

Ted: 1951 年 10 月 27 日(土)曇り、28 日(日)曇り、29 日(月)晴れ

 記録したかったこと、また、それが単なる記録と異なって含んでいると思われる多くのこと、それらをこのノートにとどめようかどうしようかと、一昨日はためらった。そして、書きたくてならなかった。他方では書きたくなかったし、表しつくせそうにもないと思った。
 昨晩は、時間をフルに使わなければならなかった。
 ——じっとこうしていたが、まだ、帰ってから二十数分経っただけだ。色彩を、音の流れを、盛り上がるような動きを…満喫するにはどうしたらよいのかと考えている。——

 芒(すすき)原白痴よろめきよろめき行く
という句をどう思うかい? 何かこう(という言葉は、Peanut 先生がよく使うということから、旅行的遠足のときに、われわれのホームの合い言葉のように、これを盛んに使ったものだ)寂寥として茫漠としている感じがよく出ているじゃないか。これを詠んだ俳人のサナギ、AK 君は遠足の列車の中でも万年筆を動かし、窓から見える情景をとらえ、言葉をつなぎ合わせて十七文字にする作業をしていた。上下のマブタを近づけて強い光が入って来るのを防いだ瞳のように、陰った水面を見せている柴山潟を後ろにした旅館で、高言を吐いている Atcher を中心とした将棋ファンの塊や、いろいろな比喩を交えて話しながら打っている IMK 君が中心の碁の群れの、どちらにも属さないで、長々と横になり句を整理していた AK 君は、「なぁに、つまらんもんや」といいながらも、その手帳を見せてくれた。623、624、…などと番号をつけて、「(蟻の塔何点入)」、「(何何句会何点入)」などという備考が沢山書き添えられている。Yotch も「ようこんな言葉出てくるな。わしらの真似出来んことや」と評していた。「地球儀の丸き論理」がどうとかというのや、何とかの「歓び鳥渡る」は、車中で作った句のようだった。その手帳には、虫が鳴き、花がなよぎ、塵埃も実際の自然にあるままに、いや、それよりも美しく存在し、絵があり、香りがあり、それらの作品は相当なレベルのものだと思わされた。先に引用した句を
  芒原白痴よろめきよろめきて
と、ぼくが字余りをなくするための変更をしてみても、見つめていたスクリーンのフィルムがふと切れるような感じになるだけだ。

2013年7月9日火曜日

ホーム PTA の計画


高校(1 年生)時代の交換日記から

Sam: 1951 年 10 月 29 日(月)晴れ

 急に予定を変更して、秋季校内球技大会の選手を決定しなくてはならなくなった。種目は春季のときとだいたい同じだが、ソフトボールが野球になって、二ホーム合併に変っている。男子と女子に分けて選手を決めることにする。女子の方は、合議制による互選で決めたようだ。男子の方は、推薦ののち、挙手によって決定を行なった。
 来週の火曜日にホーム PTA というものが催されるそうで、それについても決めなければならなかった。生徒と父兄が一緒になって何かするのだそうだ。内容について話し合ったが、意見が出ない。だいたい、リクレーションと座談会をするということにして、あとは委員一任になってしまった。
 久しぶりにタイプの練習をしないで帰り、Keti と松本運動具店へソフトボールのほころびを直して貰うために行く。「ついこの前、この店から買って行ったんですが…」と恐縮させてから、「なるべく早く直して下さい」といおうとしたが、その言葉は、ぼくのいわない先に向こうの方でいってしまった。

2013年7月8日月曜日

小学校でバザーを見る


高校(1 年生)時代の交換日記から

Sam: 1951 年 10 月 28 日(日)晴れ

 月曜日の H 時に「逸話・美談」の発表を行なうことになったので、そのための原稿を書いた。自分の見聞でなくて、過去に誰かの書いたものを探せばよいのだ。

 十一時頃から、長町小学校で行なわれているバザーを見に行く。PTA や青年会や少連の組織などを図表にして一面に貼ってあるところが最初の展示室。売店の方は用もなかったから、ついついと見て過ぎた。いわば校下の商店の投げ売り品売り場のようなものだ。余興室で、ゼスチュアだけは巧みだが、何が何だかさっぱり分らない劇を途中から見て途中で帰ることにし、いやでも通らなければならないように設計されている食堂の前を通らないで、廊下に積んである障害物を乗り越えて出た。そのため、生徒作品展覧室を二度通ることになってしまう。なかなかよい作品があると感じる。図画などもイーゼルペイントをうまく生かして、油絵のような感じを十分に出していた。構成などもガッチリしており、小学校の生徒がこんな素晴らしいのを描くのかと疑いたくなるほどである。工作などにもすぐれたものが見られたが、これは明らかに竹馬的作品だと思った。

 久しぶりでする卓球は、なかなか面白いものだ。一度覚えた技術はもう忘れないものらしい。もちろん、進歩していないことは確かであろうが、それは仕方がない。ゲームともなれば、一応の作戦をも立てなければならないし、相手の弱点も看破する必要がある。ぼくのよく使う作戦図は、相手のバックへサービスして、相手がバックでゆるく返すところを強打するというのや、バックへ数本連続に打ち込んでおいてフォアへ強打するといったようなものだ。相手の弱点、弱点と突いていって、自分をつねに有利な立場におくことが大切だ。

2013年7月7日日曜日

タイプライター競技会


高校(1 年生)時代の交換日記から

Sam: 1951 年 10 月 27 日(土)

 四限の生物が珍しく休講(先生が結婚されたとかで)になったので、十二時前に帰宅出来た。
 午後は、また学校へ行く必要があった。タイプライター競技会があるのだ。小松、桜丘、泉丘、北陸などの各高校も参加する。二時というのが、やがて三時近くになって始められた。競技会の途中で、電燈をつけなければならないようなことが起こったりした。
 会では最初に、「滅多にない機会だから…」ということで、写真を撮った。それから、ぼくのホームの主任でありタイプ・クラブの顧問である NKJ 先生が開会の挨拶を述べ、競技の開始となった。規則は「原稿通り打つことを原則とする」(だから、原稿にミスがあってもそのまま打たなければならない)ということで、また、「誤字、余字、脱字は二点減点、スペースの誤りは一点減点を原則とする」というのだ。
 もち!ぼくも参加した。しかし、ぼくなんかはてんで問題にならない。なかなか素晴らしいのが沢山いる——。

2013年7月6日土曜日

校舎の窓からの光が…/旅行的遠足


高校(1 年生)時代の交換日記から

Sam: 1951 年 10 月 26 日(金)曇り

 どちらもあまりカジッていかなかったが、どうやらうまく切り抜けた。英語の方は、question を耳で聞いて、その答を答案用紙に書くのである。問題の一部を紹介すれば、"Why a thick fog dangerous?" "Which large city is noted for its thick fog?" などである。
 社会の方は、「統制経済の意義目的」だなんて、とてつもなく大きな問題で閉口した。資源の公平分配、国民の経済生活の擁護と福祉のため、などと書いておいた。
 この頃は毎日、学校を出るのが五時頃になる。それまで、タイプの練習をしているからだ。あまり遅くなったので、うっかり学校に弁当箱を忘れて来て、夜になってもう一度学校へ取りに行った。こんもりと暗いあたりの中に、校舎の窓からもれてくる電灯の光が、魔物の歯のように無気味だ。


Ted:

 旅行的遠足。人間。たわむれ。
(二十六日)

2013年7月5日金曜日

解剖用カエル


高校(1 年生)時代の交換日記から

Ted: 1951 年 10 月 25 日(木)曇り

 まだ咳がやまない。旅行的遠足のコースが大聖寺—橋立—片山津と変更になったことも、まだ書いていなかったね。
 一限の生物は解剖だったが、試料を捕まえていなかったので、Wacker や M・ST 君(彼はいつどこから移って来たのか、上石引町に住みながら、百々女木や木曽坂を知らない)と、始業の前に裏門を出て、先週の土曜日の生物の時間に何を調べるともなく足を動かしたのと同じ道を探し歩いた。じめじめした緑と黄土色の朝は、決して晴れ晴れしくなかった。どぶんどぶんと音がしても、小さな奴ばかり。三つ目のサイレンを聞いてから引き返したが、途中でいまから捕りに行こうとする TKN 君に会い、Wacker は彼と二人でもう一度坂を降りて行った。三つのうち一つのサイレンは他所のだったか、授業はまだ始まっていなかった。カエルを持って来たのは、女生徒に一人と、かなり遅れて入って来た TKN 君だけだった。
 アセンブリーでは、選挙管理委員長の後期役員選挙報告と新生徒会会長の挨拶があった。Elecky は、長身を演台にもたせかけて、「個人的理由で辞表を提出しましたが、否決されまして、悲憤に絶えません」、「自分もいささかそのようなところはありますが、議員の中には誠意のない方がありまして、なかなかはかどらず、それに、私の事務運営のまずさも加わって、未だに文化委員長が選出されていません」などと述べて、簡単に済ませた。副会長の三十一ホーム・MYM さんは、前期初めの TT 君と同様に態度保留中で、われわれの前に姿を現さなかった。
 SH 時に、SMM 君は昨日の交渉結果を発表し、旅館をどうしようかという討議に入りかけたが、「ホーム委員、直ちに交替して下さい」といって、席へ戻ろうとした。「構わん」という声が出て、「生徒要覧に書いてあります」と答えたが、それでも、「やれ! やれ!」といわれ、司会を続けることにした。先日から旅行のことを決めるのに、「喧々ごうごう」という言葉の七割程度(?)のすさまじさだった。これでは、Deco が C 時に編集室でいった言葉のように、「この部屋がコンクリートで固め」られることになる。それでも、明るさだけは、かもし出されつつある。

2013年7月4日木曜日

選挙告示


高校(1 年生)時代の交換日記から

Sam: 1951 年 10 月 25 日(木)雨

 もう忘れてしまっていたのに、いまになってやっと作文が返される。あまり露骨に書き過ぎたような気がする。そして、何だかまとまりがない。
 とうとう発表された。選挙告示である。「会長、副会長、ならびに会計が進学および就職準備のため辞職したので、ここに補欠選挙を行なう」とある。横に選挙規定が記されている。立候補するには、二十五名以上の推薦者の署名が必要なのだそうだ。投票は十一月二日に行なわれるという。欄外に別の書体で、「一、二年生諸君の奮起を期待する」と記されている。

2013年7月3日水曜日

Funny に Ted の問題を/際限なく小さく…


高校(1 年生)時代の交換日記から

Sam: 1951 年 10 月 24 日(水)雨

 何もかも、それは 5 以下の数字で表されるだけだったけれども、増していた。まずまず良好。特別の状態にある者以外は、現在の自己の状態を少しでもよく見えるようにしようと努める。四肢に「うん」と力を入れてみたり、「ぴん」と背伸びをしたりするのだ。そして、他の者より幾分でも優越した位置を占めたいのだ。
(注 1)
 ふふふふ。試みに、Funny に Ted の問題を拝借して出してみたら、面白いこと。連立方程式

 x + y = 5 (1)
 (x2 + y2)(x3 + y3) = 455 (2)

の実根を求める問題だが、(1) から x = 5 − y として (2) に代入して、y を整理のつかないものにしていた。ああ、そうだ。これのぼくの解答を書いておこう。
(注 1)
引用時の注
  1. 高校の通信簿の評点は 1〜5 でなく、1〜10 だったし、この日はまだ通信簿を貰う時期でもないが、Sam は何かの科目の成績について、中間評価を貰ったのだろうか。一つ前の文は、その科目が体育であることを思わせるが、他の科目についての比喩的表現でもあり得る。
  2. 解答は別紙に書いて挿入してあったようで、いまは見当たらない。興味のある読者はご自分で解いてみられたい。
Ted:

 このような気持があるから、人生において誰もが苦悩を経験するに違いない。この気持——何と表現したらよいか分らない。
 ウシの足の下に押しつぶされようとしているアリ。
 土中のモグラ。
 どぶの中をはうミミズ。
 空はいまにも降り出しそうだ。風は重く、空気は酸い。
 どうにか一歩横ばい。それも束の間、池の底はかき回され、泥水が渦を巻く。

 国体選手の壮行会が講堂で。篭球クラブとバドミントンの二人。語られた言葉のほとんどが聞き取れない。声の消し合い。何が彼らをそれほど絶叫させたのだろうか。
 新 HR 委員の Atcher が欠席したので、SMM 君とぼくが旅行の申し込みに行く。SMM 君は生徒会文化委員であり、アセンブリー研究委員会にも乗り出しているから、明日のアセンブリーの世話もしなければならない。それも、彼が中心になって一度やってみるように上級生からいわれたという。彼の口は流暢に動く方ではないが、、ホームでも生徒会でも、なくてはならないものになろうとしている。

 際限なく小さくなり得るということが、われわれの「見かけの生活」を色とりどりにするのででもあろうか。
(二十四日)

2013年7月2日火曜日

クラブ活動は速記/こうしてはいられない


高校(1 年生)時代の交換日記から

Sam: 1951 年 10 月 23 日(火)晴れ

 クラブ活動は速記であった。基本文字と濁音および半濁音。書き写す必要もないから、きわめて退屈だ。「トテチテタ」、「キュウリ」などはどう書くのかなどと質問して困らせようと試みた。
(注 1)

 電話でジャンケンをしようとするならば、結果は聞かなくても明らかである。それをあえて試みるというところが、見ているものに笑いを起こさせるのである。当然起こるべき事態を想起するとき、笑わずにいられないではないか。
引用時の注
  1. 新聞クラブの活動だろうか。Sam はタイプ・クラブにも入っていたので、話がややこしい。彼は早い時期(中学生時代?)から速記の練習をしていた。
Ted:

 反駁ばかりをした。毎週の H 時が待ち遠しくてならない。それでも徹底的な不人気には驚いた。だが、いまでは、それを歎こうとも思わない。反駁ばかりといっても、誰もが判然と納得のいくようにしたので、ある程度は成功した。
 雨の降り出した Pentagon 先生の時間の前半もあまりに退屈なので、右手がむずむずした
(注 1)。そして、その時間には反省に成功した。
 多くの出来事があった。いやだ。いやだ。
 外界は進行している。こうしてはいられない。
(二十三日)
引用時の注
  1. 図画の先生は、前半を講義に当てたのだろう。

2013年7月1日月曜日

ホーム時のソフトボール/いろいろと書きたいが…


高校(1 年生)時代の交換日記から

Sam: 1951 年 10 月 22 日(月)晴れ

 二ページの間に日付けが五つも出来た。
 言葉は不便だ。No, No, 便利過ぎる。
 ホーム時の予定は「日光浴」ということにしていたのだが、sunshine はわれわれに恵みを与えてくれなかった。しかし、ぼくたちは大丈夫。ソフトボールをして遊んだのだ。昨日の雨で、グラウンドはまだ十分には乾ききっていなかったが、使用状態は大混乱を呈していた。ショートの直ぐ後方で、Funny らのホームがバレーの円陣パスをやっている。レフトのすぐ横に、別の組のホームベースがある。セカンドベースは、センター後方にホームベースを有している組のと同じようなところに並んでいる。ぼくの守備しているすぐ後方 2 m ぐらいのところでは、バッティングをやっている。少し空いているのは、投手捕手間だけといってよい。
 行対抗とか出席簿順とかいうのはややこしかったから、ジャンケンでチーム分けを決めた。ぼくらのチームには、Keti がいた。彼とぼくで半分以上の打者をアウトにした。ぼくらの方が最後のインニングの前までは、無得点におさえていたが、最終回、Onew の適時打で一点だけ許した。わがチームは恐らく、第九回後期宝くじでは六等になるに必要なだけの桁数
(注 1)は得点したただろう。
引用時の注
  1. 「2 桁」を意味するのだろうが、Sam は宝くじにいやに詳しい。自分で買っていたのだろう。
Ted:

 いろいろと書きたい。書かなければならないこともある。しかし、書くことを遠慮するとともに、それだけの時間を他のことに捧げなければならない。許してくれ給え。
(二十二日)