2013年4月30日火曜日

ターザンの映画


高校(1 年生)時代の交換日記から

Sam: 1951 年 8 月 30 日(火)晴れ(つづき)

 学校を出たのは三時五分、家へ帰って大和の前へ行ってみたら、ちょうど三時四十分になっていた。五階まで二回ばかり往復し、二つの出入り口を五、六回まわってからやっと Ted が来た。やれやれと思う。妙に神経を使わせ、そして疲れさせる——。
 何とトンマなんだい。こんなに涼しくさせられて温かくされたことは初めてだ。「おめでたき世間知らず」である。Ted は Sam をどんな目で見たかしれないが、たまらなく気の毒で恥ずかしく、その処置にほとほと困った。
 ついに Ted の午後は全然台無しになった。もし得たものがあるとすれば、そこに何か教訓めいたことが考えられるかもしれない。間抜けの(というと『白雪姫』の「抜け作」を思い出すが、そんなコッケイ味のないところの)ぼくは、Ted と反対方向に歩きながら悲しくなった。(注 1)
 おそるおそる先ほど使用しようとした紙片を渡して館内へ入る。暗い! アッ! ボーイが危うく先をかわしたかたわらに白人が倒れている。——チーターが木から木をつたって走っていく。——木の上のターザン、……純金で作られた生命の木とヘビを持って、二人の白人が逃げていく。園前に仁王立ちになったターザン。彼らは持ち物をその場において、くるりと後ろ向きになり、一目散に逃げる。と、わずか数歩走って、彼らは人食い沼に落ち込んだ。みるみる体は引きずり込まれていく。頭が隠れて、手だけが二本、沼上に出ている。その手が花を掴んだ。そして、その花とともに沼の奥深く没していった。……
 神の怒りをしずめるために犠牲となり、いまや風前の灯火となったボーイの命は、ターザンが生命の木とヘビを持ち帰ったことによって救われた。……The End. レコードが三曲ばかりかかった。……全国高校野球選手権大会決勝戦などのニュース。……R.K.O.(注 2)……ジェーンが文明国から帰ってくる。それといっしょに彼女の父の友人の探検隊が来る。……(最初はまずお決まりの筋だ。)(細かく説明すれば長いから、以下は省略する。)
引用時の注
  1. このときのことを全く覚えていないが、 Sam が私に譲ってくれた映画館の招待券が、期限切れで使えなかったということだったか。あるいは、「ターザンの映画なら、京都で見て来た」と私がいった可能性も考えられる。伯母と何かの映画を見に行った日の夕食のとき、伯父が「映画は面白かったか」と聞いたのに対して、私は多分「はい」とぐらいしか答えなかったであろう。そこで、伯母が「ライオンがウォーッと出て来たね」などと話した記憶があり、それはターザンの映画だった可能性があるからである。Sam がこのあと、「おそるおそる先ほど使用しようとした紙片を渡して」と書いたり、映画の内容を記したりしていることからは、先の推定の方が、より確からしく思われる。他方、Sam が自分を「おめでたき世間知らず」と書いていることを見れば、当時、封切りの映画が地方都市では遅れて上映されていたことから、私が京都でターザンの映画を見て来ていた可能性を考えるべきだったのに、そこに気づかなかったことを恥じているようである。券の期限切れに気づかなかったのならば、「いかにもうかつだった」とでも書けばよいことである。——過去の日記からは、いろいろと謎が出て来る。
  2. Sam は、この略号と合わせて、逆三角の中に雷印の入った RKO Pictures のロゴを小さく描いている。

「書くことにつとめる」


高校(1 年生)時代の交換日記から

Sam: 1951 年 8 月 30 日(火)晴れ

 国語の「書くことにつとめる」というところである。たいした文ではないが、われわれの日常生活をもう一度ふり返らせてくれる。昨日とはうって変った紺青の空を眺めながら、深いものを探りあてたときのような気がした。「各自がメモを取る心がけを持っているならば、お互いに労力と時間のむだが省かれて、複雑な社会生活がどれだけ合理化されるかわからない」、「われわれの記憶力は案外たよりないものである。書き留めておいたのが何より正確で安心して利用することができて能率的である」などというのは、もっともであろう。また、「書斎に自分の理想なりモットーなりを書いておくことがどんなに勉強に身を入れさせるか誰でも経験していることであろう」というところを読んだとき、ふと Twelve の「京大目指し…」というのが思い出された。
 今学期最初のブランクの時間は、図書館で送った。新聞、雑誌、そういったものを読むだけで、他に何もできない。解析のノートを出してはみたんだが——。(つづく)

2013年4月29日月曜日

テニスコートを越せば


高校(1 年生)時代の交換日記から

Ted: 1951 年 8 月 29 日(水)曇りのち雨(つづき)

 放課後、新聞部のソフトボールとバットで、Jack、Tacker、それに YMG 先生の弟(と書いたことで思い出した。アセンブリーの座談会のとき、TKS-兄君が分厚いひと重ねの紙とよく削った長い鉛筆ひと束を持って、壇の下に席を占めていた。聞くことさえ困難だった座談を記録することはどんなに難しかっただろうか)の YMG 君(すらりとして眼鏡をかけていて、文化的で勤勉な顔つき)と一緒に遊んだ。場所は編集室横のテニスコートで、編集室側からの打球が相対する教室の壁まで飛ぶとホームランという約束である(Jack が一本記録しただけだった)。その教室の二階から見ていた Bettor(実際のあだ名は Betty から来ているようだが、それは女性名なので、このように変えておく)や、一階で速記の練習をしていた Neg にも打たせる。
 それから大和へ行ったのだ。Sam を気の毒がらせて気の毒だった。歩いて帰ることにした。香林坊で Kim 君(彼こそ純金だから、Gold のニックネームが相応しいが)に出会ったときには、思わず紫中で Jubei さんがぼくに会うたびにしたような丁寧な挨拶をした。彼も「潮目」を習ったとき同級だったが、翌年から野田中へ行き、いまは仕事についているらしい。
 さらに、ずーっと来ると(「絶対的圧力型」先生の文法の進め方には「ずーっと見て行きますと」がよく出て来たね)、近所に住む Brown に出会い、また同じような挨拶をした。彼とはあまり話をしないが、きょうばかりは、彼がぼくに用事があり、自転車を止めた。彼も HR 研究委員だが、HR 研究資料の見本の紙をなくして、ぼくのところへ借りに行ったが不在で、Twelve のところへ行こうとしていたところだったのだ。

学校で習う民主主義の精神がまだ徹底していない:Vicky のアルバイト感想


高校(1 年生)時代の交換日記から

Ted: 1951 年 8 月 29 日(水)曇りのち雨(つづき)

 アセンブリーは夏休みの反省をテーマにしたものだった。休暇中のアルバイトをした生徒六人と司会者が登壇しての座談会から始まった。(その前に、野球場でアイスキャンディーを売っているアルバイト学生と野球見物に来た友人との会話という、声だけのドラマがあったが、これは前奏のようなもので、中味ではなかった。)大和の模型店で働いた Massy がいる。新聞部の三年生 Elecky がいる。Vicky も登壇している。生徒たちの間での呼び名が中学一年で習った「潮目」という文に「クック、ダーウイン、チンダル」に続いて書かれていた学者の名のように聞こえる女生徒(「潮目」を習ったとき同じクラスだったので、つい長い説明を書いた)も出ている。
 司会者は順々に短い質問をした。長身の Elecky がマイクに口を近づけるために腰をかがめ、そうしたために低く下がった両手を後ろへ回したり前へ下げたり、また後ろへやり前へ出し、後ろで帽子を持ち替え、前でまた反対の手に移したりして話した姿は、もしそのとき講堂に「苦虫」がいても笑わないではいられなかっただろう。
 Massy はマイクを横へ向けて、腰のベルトへ手をやり、そこで指をズボンの最上部にあててつまみ上げる格好をしたり、またその指を、早口でマイクへぶつける一音節に一回ほども忙しく動かし続けたりした。一日に七十円だったので、百円の方へ移りたいと思ったが…と話した以外は、何も理解出来ない話し方だった。
 Vicky は全日本学生バレーボール大会の入場券売りをしたそうだ。一日百五十円は結構な収入だ。職業上のいろいろな階級はただ仕事の上の便宜上のもので、個人的に平等であることには変わりはないと学校で習っているが、実際には、まだそのような民主主義の精神が徹底していないということを学ばされたと述べた。
 次に、「はや夏休みは過ぎ去った…『がんばれ』とかすかにわれを呼ぶ声がする…」という意味の替え歌にした "Old Black Joe" の、女生徒による独唱があった(舞台裏から、声のみ)。歌声にふくらみと響きと伸びがあり過ぎて、せっかくの替え歌の妙味が分かりにくかった。
 終わりに、大学進学への努力を続けている三年生が十人ばかり登壇して、休み中どのように勉強したかを語った。誰もかれも「予定の三分の一ほど」、「予定の半分以下」である。ぼくが中学時代に二年間ほど間借りしていた家の U 君(キャッチボールをしたことが一回、正月に遊んだことが二回、映画に連れて行って貰ったことが一回——『シベリア物語』だった——、野球雑誌『ホームラン』を見せて貰ったことが数回、夏休みの宿題の理科について教えて貰ったことが一回…、接触は少なかったようだが、数え上げると結構ある)は東大を受験するそうで、理知的な話し方をする人だが、きょうは Peanut 先生の真似のように「まぁ」を連発していた。(つづく)

2013年4月28日日曜日

時間観念から脱却する刹那


高校(1 年生)時代の交換日記から

Ted: 1951 年 8 月 29 日(水)曇りのち雨

 階下のラジオが二水高校の放送劇をしている。はっきりとは聞こえない。

 Sam、ありがとう。こんなに詳しく書いてあるのに、訂正も何もないものだ。ぼくのホームのを書いたのと比べると、ハワイ・レッドソックスと金沢 K・B ぐらいの差だ。Sam に持って来て貰った二冊のノートを読み返しても、Sam のすばらしさを感じる。

 Jack はぼくの集めた難題に、頑張ってうち向かっていた。少し加減しなければ可愛そうかな。

Ted: 1951 年 8 月 30 日(木)晴れ

 体操(保健体育というのが本当だろうが Iwayuru 先生はこれを好まない)の時間は草取りだった。皆は口で何かを表現しながら、重労働(というほどではない。むしろ発音の似ている自由労働か)をした。ぼくはどうしても例外で、(注 1)
爪の間に土を溜めながら、うつむいてせっせと仕事を続けた。バレーコートの黒い土を見つめ、何本もの生命を抜き取っているうちに、自分が時間の観念から脱却するという一刹那を感じた。こういう瞬間の自己を見出すことは以前からたびたびあった。春のあまりにもうららかな日の午後や、お盆の頃、梅雨のじめじめした空気が流れ去ったばかりの墓場で参っているときや、秋の夕方の、辺りが茶色っぽくなって長い影が地上に横たわる頃、夕餉の煙が飛ぶように行き過ぎるのを頬杖をついて眺めているときなどに起こるのである。一度起こったそれは、連続的にぼくを襲うのが常である。いままでの考えをぱたりと切断して眼を大きく見開くようにすると、自己の置かれている時間的位置がパッと変わるように思われる。(注 2)。しかし、それはもうろうとはしていない。いま何をしているのだろうか。いまはいつなのだろうか——と、分りきっていることを考えてみたくなる瞬間でもある(つづく)
引用時の注
  1. ここで 7 冊目のノートが終り、次行から上掲イメージの表紙の 9 冊目のノートに書いている。新しいノートの最初のページの欄外に、Sam による次の言葉がある。
     このノートは(と書くのが慣例のようになっているから)、Mangetsu 君が社長[と自称した新聞クラブ代表]だった当時、卓球大会を開催して余った賞品を貰ったものだ。
    なお、表紙に Anything と Something の文字があるのは、日記中で実際に使っていたわれわれのニックネームで、略して Any、Some と書いていた。これをブログ上では Ted と Sam に変えた。不等号は書く文の量あるいは何らかの謙遜を意味しており、それを含めてこのノートの題名として Sam が書いたものである。
     終了した白表紙無罫の 7 冊目のノート冒頭への Sam の注記は、文が分りづらく、登場する人物も誰のことだか分らなくて書き写さなかったが、廃棄に先立ちここに記す(文は、分りやすくするため少々書き換えておく)。
     このノートは小学校六年のとき、ある人から頂戴したものである。その人物は紫中三年のときには Ted のクラスにいた一人であり、驚くなかれ、いつもアセンブリーの時間にヤジを飛ばしていた彼である。
  2. この経験についての日記の記述を修正したものを、私は高校 2 年のときの創作「夏空に輝く星」の中で、「新感情蘇生の瞬間」と名づけて利用している。その修正版の方が、元の日記の表現より簡潔で分りやすいので、ここではそれで置き換えた。同様の感覚は、長年を経たいまでも起こる。「時間の観念から脱却するという一刹那」あるいは「新感情蘇生の瞬間」というより、「"いま" が改めて認識される瞬間」という方が適切かもしれない。

雨中を歩いて


高校(1 年生)時代の交換日記から

Sam: 1951 年 8 月 29 日(水)曇りのち雨(つづき)

 香林坊で電車を待ったが、ちょうど交差点のところまで電車が来たと思ったら、停電で動かなくなった。むしゃくしゃして、決然と雨中行軍を続行する。市役所の前までも行かない先に、電車は動き出して、ぼくを追い越して行ったので、なおむしゃくしゃする。遠いなあーと感じる。久しく歩かないからだろう。自転車ならいま頃着いているだろうなどと思いながら、はねの上がらないように気をつけて歩く。時間の経つのがとても気になる。いくら歩くのが好きだからといっても、これでは誰だって参ってしまう。Ted は本当に気の毒だ。相手の身になって見ないと分らないものだね。どうしても、五回連続という要求は実行しなければならない(注 1)
 歩きながら、いろいろなことを思ったり考えたりした。しかし、取り立てて記すようなものはない。秋の花が美しく咲き乱れている紫中の前を通ったとき、「きれいだ!」と思わないではいられなかった。どこかやはり懐かしい。
 大学病院の少し手前で、Twelve と同姓の友人に出会い、二分ばかり話をした。内容はといえば、Ted とぼくがまだ二円切手を使って通信していた時分に主として話題になったようなことが大半——。
 帰りは犀川の水量がどれくらい増したか見たくなったので、Chawan 君の家のある通りを通って(もちろん、そのときはそうとは知らなかったんだ)、坂を下りた。近道をしようとばかり思って歩いているうちに、川へ出る道を失してしまった。
引用時の注
  1. 日記の交換に私が足を運ぶことが続いたので、以後の 5 回は Sam が続けて交換に来るようにと、私が要求したのだろう。

2013年4月27日土曜日

四次元世界にいるような


高校(1 年生)時代の交換日記から

Sam: 1951 年 8 月 29 日(水)曇りのち雨

 社会の時間が始まる前である。二階の窓からプールをながめている。真下の水面に雲が映って、泉が湧き出るように、ゆらゆら動いている。静かで寂しい。四次元の世界にいるような、永久的で、そして無限な——。
 このプールで、三限目の保健体育のとき、泳いだ。きょうは大勢である。わずか 50 m ぐらいしか泳げないぼくは、どうしても悲しくなる。

 ホームルーム研究資料はどうにか書き上げたが、まだまだ雑だ。Ted にうんと訂正して貰わなければならない。どうしても、きょう中にと思うが、六限まで授業があり、ちょうど雨になって来た。小降りのうちに帰宅したが、この雨では Ted のところへ行けるやら——。(注 1)
引用時の注
  1. ここまで書いたあと、Sam は私のところへ来たのである。そのあとで書いた同日付けの日記が、交換したもう一冊のノートにある。

2013年4月26日金曜日

ホームルームの雰囲気


高校(1 年生)時代の交換日記から

Ted: 1951 年 8 月 28 日(火)晴れ(つづき)

 H の時間には、HR 委員として、まったく困った。二学期の HH の計画を立てなければならなかったが、誰も発言しない
(注 1)。時間の終りにやっと四人が発言した。OBT 君が、「ホームの中でまだ皆が打ち解け合っていないから、HH には何かホームの団結に役立つことを」と、当たり前のことをいった。Craw 先生は感心して聞いておられる。SMM 君が、「討論会をしたら」と。Yotch が、「このホームの雰囲気を変えなければならない」ことを生徒議会議員独特の口調で。選挙管理委員の TKM 君が、「しゃべらない人が多いので、ぼくたちも何だかしゃべりにくくなります」などと、「変えなければならない雰囲気」を説明。なかなか、やりにくい。予定を立てるために、十一日までに企画委員会を持つことになる。

 厄介な結果ばかりを作って帰宅すると、Sam と Jun から来ていた葉書が朗らかな気持をもたらしてくれた。Jack が、大下の打率が .356 と書いてある夕刊の記事を見るために、わざわざ寄って行く。中谷は打数不足となり、ベストテンから姿を消している。
 Jack の打率を下げるために、難問を掻き集めなければならない(これは解析のこと)。ぼくはきょう、昨日の低い打率をわずかに上回る成績しか記録出来なくて、平均すると、きょう一回だけぼくの出題に挑戦した Jack の打率より低い。しかし、ペナントレースは長いから大丈夫だ。
 無理方程式を習ったら,次の答を求めてみ給え。
 (7−4√3)x2+(2−√3)x=2
次の二つの式の因数分解は、もう少し出来る分解をしなかったので、半分減点された。
 (n−1)n(n+1)(n+2)/4 − n(n+1)
 a4+b4

 福島県の(と TAK 先生が昨日いわれたとき、Jack はぼくの顔を見たそうだが
(注 2)、それを聞いても、何のことだかすぐには気づかなかった)福島高校から転校して来た少年と、国語甲・乙の他、図画の時間も一緒になった。WJ という名だそうだ。長身でがっしりした体格だが、性格は温和なようだ。教科書が異なるので大変だ。甲用には三省堂*のを持っていた。ぼくも小学校を二度転校して、少なからず困った。性格の変化までも生じた(といっても、根本的な変化ではないが(注 3))。
Sam による欄外注記
 * ぼくのところへ来たら、それで間に合うのだがね。


引用時の注
  1. いまこれを読むと、なぜ計画の腹案をもって臨まなかったのかと思うのだが。
  2. Jack は、福島生まれの Minnie のことをぼくが連想しただろうと思ったのである。
  3. 話し言葉の相違(七尾の方言から大連の標準語へ、そして金沢の方言へという環境変化)のため、二度とも転校先の児童たちが初めのうち早口で話しているように聞こえたことが、私が無口になったことに関係していたかと思う。

解析の問題に没頭して…


高校(1 年生)時代の交換日記から

Ted: 1951 年 8 月 28 日(火)晴れ(つづき)

 自己が一つのことに打ち向っている間に、外に変化が起こり、目の両脇を覆っていたものがハラリと落ちた瞬間に、外部の変化とそれに無関係あるいは無関心だった自己を比べて、驚くことがある。そういうときに経験する夢のような気持も、ぼくはきょう経験した。昼食後の休み時間に編集室で Jack と解析をしていて、鐘が鳴ってから、道具をしまい、ドアを開けて部屋を出て、それを閉め、ゆっくり歩いて行くと、Pentagon 先生が教壇にもう立っておられたのを見て、まず経験した。この学校へ来て以来、図画の講義を一番前の席で受けられなかったのは、今回を入れて二度しかない。いつもの席にいないと欠席だと思われるかと(それほど Pentagon 先生はぼくをまだ覚えておられないかもしれないが)、時間の終り頃に一度だけあった挙手の機会に、「けばけばしい」と答えて存在を示しておいた。
 同じ経験の二度目も、放課後 Jack と、他に誰もいなくなった(気がついたとき、2 年生の FJW 君が来ていたが)編集室で、やはり解析をしていたせいで起こった。掃除当番だったことを思い出し、「掃除やった!」と、Jack の頭から浴びせるように叫び、飛び出すと、ぼくの班の女生徒たちがすることになっている 19 番教室(生徒議会の行なわれる階段教室
(注 1))の廊下はすでに水拭きされている。18 番教室の前にいた Twelve にも応じないで走って行くと、保健室から出て来られた HRA にバッタリと出会った。帽子を取って礼をして、何かいわれるだろうことを期待したが、Craw 先生は何もいわれない。「掃除、忘れました」といって、すぐにまた編集室へ戻った。(つづく)
引用時の注
  1. 本来は化学の講義室。

2013年4月25日木曜日

夢と『アリス物語』


高校(1 年生)時代の交換日記から

Ted: 1951 年 8 月 28 日(火)晴れ

 『東京キッド』の中の美空ひばりを真似て、よい夢を見ようと、枕をなで回してからポンポンと叩いて寝た。Jack の真似をして(double 真似!)何かを期待した昨夜は、風の強い夜(こう書いているいまも、相当強い風がある)のような雰囲気の夢を見てしまった。おまけに、どんな理由があってそんなものが出て来るのか知らないが、この頃ときどき見て大いに神経を使う遅刻の夢もあとにくっついていた。遅刻、その夢の中で、ぼくはローラースケートで滑るように足を忙しく動かす。それが何度も、無為同然の結果になる。忘れ物! 忘れ物! 忘れ物! こんなにトンマなぼくは夢の他にどこにいるだろう! それなのに、夢の中のぼくは、それをぼくと信じている。幼い頃にはむしろ、「これは夢だ」と断定して、どんな恐怖の前にも平然としていたこともあったのに——。時計の針、涙! まだ、何か足りない!
 こんなことを書いていたら、『アリス物語』
(注 1)を思い出した。小学生のときに読んだのだけれども、不思議に深い印象と未だに解けない謎のようなものを、それは残している。大きくなる。小さくなる。涙。キノコ。ウサギ。チョッキ。ペンキを塗られているバラの花。時計。ビスケット。トランプのクイーン。玉突き。舞踏。ネコ!——これを読んだときには、十分に理解出来なかったのが、そのまま夢のような印象になったのかもしれない。いや、それは実際、ぼくの夢に似たものだったのかもしれない。(つづく)
引用時の注
  1. 原題 "Alice's Adventures in Wonderland"。『ウィキペディア』の「不思議の国のアリス」によれば、『アリス物語』の題名での訳は、「須磨子」名義による永代静雄訳(改作に近い翻案、1912 年)と、芥川龍之介・菊池寛共訳(1927 年)の 2 種類があるということであり、私が読んだのは後者と思われる。高校 2 年のとき、英語の時間に "Alice's Adventures in Wonderland" の一部分を習うことになり、その感想文「不思議の国のアリス」を生徒会誌に載せた。

2013年4月24日水曜日

二学期最初のタイプ打ち

高校(1 年生)時代の交換日記から

Sam: 1951 年 8 月 28 日(火)晴れ

 朝のホームのあと、Ted に頼まれたことを実行するため、HRA に依頼した。しかし、きわめてあいまいな資料が一枚あっただけで、見通しは明るくない。

 表と裏がひっくり返ったようなものだ。社会と国語の時間に座席変更があった。社会では、ぼくの主張が通って、ちょうどよいところに席を占めることが出来たが、国語や解析では、先生の方で前もっておよそ決めてあったため、それに従うことになった。国語で一番前にいたのが、一番後ろになってほっとした。解析では逆に、一番後ろから一番前の端の座席に変えられてしまった。「よいところばかりに」などと、勝手なことは望めないものだ。

 今学期最初のタイプ打ちをする。一分間に 60 も打てない。大ノロマだ。初めからやり直すという気持で努力しなければならない。一例を示そう。この次は、「海」の詩を打とうかな。


次のような図案の応用をさっそく試みたわけだ。

薄暮の散策


高校(1 年生)時代の交換日記から

Ted: 1951 年 8 月 27 日(金)(つづき)

 夕食後、二限の TAK 先生の言葉(書物ばかりと取り組んでいることの生理的悪影響)を思い出し、電灯をつけるには早い反面、つけないでいては薄暗い頃でもあったので、散歩に出る。上野町百何番地の辺りから四十何番地という家がある通りから、上鶴間町四番地一帯へ。三月二十日頃に Funny とSam が来たのは多分この辺だろうと思っているとき、Train の姿が網膜に大写しになったので、左右をきょろきょろ見ながら歩くことを慎まなければならなかった。天徳院の門の横辺りから、門よりも遠ざかる向きに伸びる道を取っているとき、TOK 君に会った。彼にこちらから話しかけたことはないが、中学二年のとき Octo と同じクラスだった彼の方から硯や筆を借りに来たことがある。彼は、「おい、どこへ行く」と厳しい質問をする。小立野新町の番地をだんだん大きい方へたどると、四十番地から五十番地は下り坂の先らしく思われる。数歩下りてみたが、袋小路になっているようで、その先へ行くことはやめた。(注 1)
引用時の注
  1. 当時は、職員と生徒の住所入り名簿が生徒に配布された(夏休み前だったと思う)。それでこのとき、近くの町に住む、少し目立つ二人の女生徒たちの家はどういうところだろうかと、名簿で覚えた番地を散歩がてらに探したのである。訪れる気は全くなく、番地から家を探し当てることに、ゲームに似た楽しみを感じていた。

2013年4月23日火曜日

二学期の初日


高校(1 年生)時代の交換日記から

Ted: 1951 年 8 月 27 日(金)

 それやこれやあれやが蘇生したように始まった。例年通り(だそうだ)すぐに授業がある。午後は大掃除。
 体育館が赤い屋根になって出来上がった以外に、目につくほどの変り方をしたものはない。
 YMG 先生の時間には、自分の夏休み中の一つのこと(休み中の生活全体を一つとしてもよい)を捉えての作文を書かされた。ある一つのことで、四十分弱の時間に立ち入って考え、さらに新しいことを模索出来るようなものは思いつかなかったので、休み全般にわたる反省を書いた。
 「奥の細道」の時間には、その日が何か特徴のある日である場合の例にならって、課外の講義が多かった。
 生物の ASK 先生は、われわれに向って「死」という言葉を使いかけて、休み中に目撃したり新聞で読んだりした不慮のあるいは不注意による災難を挙げて、弁解がましい話をされた。そのあとで、Fe を F と書く間違いもあり、先生にとって芳しくないスタートである。
 Jack が昨日実行出来なかった解析の試合の、ぼくへの問題を持って来ていたので、編集室に残って、それをやってみた。Jack に一日の勉強時間数を尋ねられた(きょうは帰宅後も数字と取り組んだ)。
 その先に、編集室で遅い昼食をした。われわれのホームが昼食抜きで中庭の掃除をしたからだ。鎌でイチジクの葉を切り落とす者がいたり、セミの穴を掘り返してナメクジを発掘する者がいたり、ため息をつきながら掃除の定義を下す者がいたり、かと思うと、風呂敷のような大きな手で落ち葉と草と土を掴みあげてモッコへ入れる者や、three idle sons(注 1) がしたように精を出して鍬を使う者がいて、恐ろしく非能率的ながらも、時間を何とか過ごす合間に、ゴミの位置を変える(だけのようだったが、捨てたと公認される)作業を成し遂げた。(つづく)
引用時の注
  1. "Three idle sons" の代りに "several idle and greedy sons" となっているが、同じ話をこちらで読むことが出来る(英文)。

即製褌でプールに飛び込む


高校(1 年生)時代の交換日記から

Sam: 1951 年 8 月 27 日(月)晴れ

 第一限 大掃除
  二限 始業式
  三限 ホームルーム
  四限 45
(注 1)
  五限 21
  六限 11
と黒板に書いてある。ぼくは教室の掃除にあたった。始業式は、校長の簡単な訓話で終わった。最初と最後がとっても味気ない訓話だった。サンフランシスコ講和会議をワシントン、ワシントンといっておられたので、くすぐったかった。優勝旗が三本、カップが八、盾が二、おそらく県体などでの優勝に対するものであろう。ホームへ行って、HRA から二学期に際しての話があり、ホームの役員改選をした。
 第四限からさっそく授業開始。保健体育である。ぼくが「何をするのですか」と聞いたら、「"一体" で体重測定をして後、プールで水泳の予定」と返事される。体重は六月に比べて 1 kg 減であった。ゲッソリする。
 新学期早々から誰も褌なんか持って来ていないのに、Kinta 先生、強硬な態度である。「どうしてもプールに入って泳げ、褌ぐらいなくっても恥ずかしいことなんかあるか」である。ぼくは仕方なく即製褌でプールの中に飛び込んだ。ぼくを入れて八人ばかりしかいなかった。Kinta 先生自らも海水パンツをはいて来て泳ぐ。たいして上手ではない。この次は「どんな種目(フォームといった方がよさそう)でもよいから、100 m 泳げ」と命令。ぼくはその半分だって、やっとこなんだ。困ったナ。
 次の英語は、さっそく一学期の続きをする。商業は二学期に関しての話だった。
 放課後、委員会室で執行委員会が開かれ、早くも十月の運動会のことが議題として提出された。
引用時の注
  1. 添字もある算用数字の意味は不明。Sam の通っていた高校に特有の記号であろう。

2013年4月22日月曜日

始業に備えて


高校(1 年生)時代の交換日記から

Ted: 1951 年 8 月 26 日(日)曇り(つづき)

 母の勤務校の食飲会——というのが行なわれることもあるが、きょうのは職員会だった——は、なかなか大変だ。午前九時から、昼食抜きで午後四時過ぎまで。茶釜のあだ名のある S 校長は、毎日昼食をとらないそうだ。そのお相手とは大変(また書いてしまった。何しろ、十三行の中にこの単語を三つも書いた葉書を読まされたものだから(注 1))なことだ。帰宅した母に Dan の家を聞いて(二、三度行ったことがあるが、あの付近の三軒ほどの家々はよく似ているので覚え難い)、そこを訪ねることにした。行ってみたら、大きくてはっきりと分る表札があったので、何をちゅうちょしたのかと、ばからしくなった。きつね色の身体と黒い口をした子犬がいる。一昨日だったか母がそうといってくれるまで、何度も見かけながら誰かと思っていた彼の妹も顔を見せた。(注 2)
 宿題のことから切り出したが、そのあとは Dan の方からばかり話題を出した(そうさせていたぼくが悪い)。彼は大学のことや、来月四、五日にあるスタンダード・テストとはどんなのかさっぱり分らないということや、先生が明日は授業があるのかどうかをいってくれなかったから分らないということなどを話した。ぼくもそれらが分らなくて、彼が少しでも知っていたらと思って来たのだが。ここへ来るときも、校門から出て来られた YMG 先生に会い、先生が「お元気です(このあとへは疑問の終助詞がついたはずだが、聞き取れなかった)」といわれたかと思ったら、質問する間もなく、もうすれ違ってしまっていた。
 Dan はあんなによい身体をしていて、運動会が嫌いだといった。Vicky の通知表の平均点が 8.8 だといってくれたときには驚いた。合計点で 5 ほど負けていることになる。(注 3)
引用時の注
  1. 私は 1949 年以降の親しい友人たちからの便りを、いまもほとんど保存しているが、その中に該当する葉書は見当たらない。Jack が彼宛のものを読ませてくれたのだったか。
  2. 母がなぜ Dan の家やその家族のことをよく知っていたのか、その理由をいまは覚えていない。
  3. 私には体育実技という大苦手の科目があったので、彼女よりそれくらい劣っているのは驚くほどでもなかったのだが。

夏草標本完成/告別式の真相


高校(1 年生)時代の交換日記から

Sam: 1951 年 8 月 26 日(日)晴れ

 夏休みもきょうで(本当をいえば、昨日なんだろうが)終りだ。午後は昨日と同じように、図書館へ行った。昨日の本の他に、もう一冊借りて調べた。あと五種だけ、はっきりしないのがあったが、そのままにしておこうと思って帰る。十時頃までかかって、終に完成した。


Ted: 1951 年 8 月 26 日(日)曇り(注 1)

 始まる。始まる。
 Jack と解析の試合の約束をしていたので、短く感じた午前を過ごしたあと、特別早く行ったが、彼は父君の商売の手伝いに行って、不在。
 Twelve の家へ行く。告別式は彼の父君のじゃなかった。彼の親戚である、紫中の D 先生の旦那さんが亡くなられたのだそうだ(注 2)。いらない心配をした。
 Twelve は昨日の二十の扉を聞かなかったのだろうか。耳が痛いはずだが——(注 3)。ジョン・フォスター・ダレスの『戦争か平和か』について。まだ下書きで、「殺戮」などの難しい字を使って、半紙一面ほどあった。
 Twelve の家へ行く途中で、二十人町の Chawan の家も分った。帰りにもわざわざその前を通ったが、その家には沢山の表札が出ていて、彼を呼び出すことが困難に思えた。結局、何のためにそこを通ったのかという質問への答えをなくした。目をよくしばたたいて、下唇を上唇の外側に出し、その間から空気を鼻の方へ吹き上げるという動作をしょっちゅうしていたあわて者(チャワチャワしているから Chawan)の勉強家に、何か話を聞きたい気がするのだが…。(注 4)(つづく)
引用時の注
  1. 同じ日の天候の記述でも、Sam と私とでは、とこどき異なっていた。
  2. このことをすっかり忘れていたので、先に「Twelve の家へ行くと、葬儀が…」の記事を掲載した際、間違った注を書き、その後、訂正した。
  3. 「夏休みがもう終わるのに、宿題がまだ出来ていない小学生」というような出題があったのだろう。
  4. 金大付属高校へ行っていた彼(小学校同級生)を実際に訪ねて、受験勉強の参考になることをいくらか学んで来たのは、高校 2 年になる直前頃だった。

2013年4月21日日曜日

歌でも飛び出せばよいが


高校(1 年生)時代の交換日記から

Ted: 1951 年 8 月 25 日(土)晴れ

 四時から五時半までの予定で Jack の家へ(Sam がこの間にぼくのところへ来たら、よっぽど不運だということにして)。ニュースはほとんどない。昨日一回目に別れるとき、もし Jack の家へ行くことがあったら誘ってくれといっていた Lotus がひょっこり来たのは意外。誘わなかったが、結果的に誘わなくてもよかった。彼は、蔵で寝ている間に誰か来たということだったので、それが Jack かと思い、謝りに来たのだった。彼の Jack とのちょっとした会話が、ぼくとの溝を掘り返しているように思えた。それから彼は、タイガースが 10A–9(注 1)でカープを破ったことを、タイガース・ファン特有で共有の、快活で自信ありげな、誇らしげな調子に自らを作り上げながら語った。こんな日の彼は、考えさせられなくてよい。考えさせられるのも悪くはないが、毎回そうであっては、——などというと、彼が光線によって色の変るレインコートのようであることを望んでいるようだ——。ともかく、タイガースはよい色だ。彼は、風呂へ行かなければならないからと、ぼくの一歩先に帰って行った。
 アチャコと美空ひばりが父子を演じた映画がぼくにさせてくれた復活は、ただイノシシのように猛進することだけを教えてくれたようだ。当分はこれだけでもよい。
 明朗さや活発さ、それは心が曲折していると、表面に出なくなるものらしい。歌でも飛び出せばよいのだが、それはとうてい無理だ。これこそ「うらやましい」。(注 2)
引用時の注
  1. 現在 10X–9 のように書くところを、当時は 10A–9 のように書き、A を「アルファ」と読んだ。アメリカ人がスコアブックに X と書き込んだのを、そばで見ていた日本人がギリシャ文字の α と見誤ったことが始まりとか。他の説もあるそうだが、知らない。戦後もかなり経ってから、アメリカが X ならばと、日本でも X と書くようになった。
  2. 私は長年、自分は歌は下手だと思い込んで、ほとんど歌わない人間で通して来た。これが改まったのは近年のことである。

2013年4月20日土曜日

嫌いなものでも一度は


高校(1 年生)時代の交換日記から

Sam: 1951 年 8 月 25 日(土)晴れ

 午後、夏休みの宿題である生物の「夏草の標本」を持って、図書館へ行く。普通植物検索表というのを借りて調べ始めたが、前部の標本の科名を知ることはきわめて困難である。まだ全部調べ上がっていなかったが、眠くなって何もしたくなくなったところで、自転車を飛ばして帰った。

 Ted と約束しながら行かなかったのは、本当に済まないことをしたと思った。と、そこへ Ted がわざわざ来てくれた。嬉しかったが、気の毒だった。そして、気の毒な話ばかりして、気の毒な理由で別れなければならなかった。しかし、それで不満を感じるような Ted ではないだろう。
 「違った趣味の分野」だから、仕方がない。Funny としばらく納涼踊りを見たあとで、彼の「首がだゆくなった」という言葉をきっかけにそこを離れ、彼の家で将棋をした。慎重に慎重を重ね、全精神を集中し、六局ばかり対局した。十一時半までそれをしていて、再び納涼踊りを見に行く。
 Gold が踊っている! たまらなくなって、Funny を放り出し、Gold のあとに続いて踊った。「オコサノオコサデホントダネ」というのである。初めのうちは、勝手が違っていたし、十日ばかりやらなかったので調子が出なかったが、だんだん雰囲気になれて来ると、愉快でたまらなくなっていった。Gold のほかにも紫中三年のクラスメートだった者が何人かいた。みんな楽しそうだった。
 続いて「炭坑節」。これを踊るのは初めてだったが、Gold の真似(エテ公と同種かいなんていい給うな。こうして覚えるのが最良なのだ)をしているうちに、すぐ分った。ちょうど十二時に終わった。それから Funny のところへ行くと、「まさか?」と思ったといって、舌をまいていた。
 Ted は、踊りはどうだい。ぜんぜん嫌いかね。ぼくはどんなに嫌いなものでも、よくないといわれるものでも、一度はどんなものか見たい、体験したいと思うね。生っかじりかもしれないが、何も分らないよりは、少しだけだが知っている方がよいだろう。多くの場合、きっとそうだ。昨晩は、Neg のところで「麻雀」というものの手ほどきも受けたよ。

シャツは裏返しでなかった


高校(1 年生)時代の交換日記から

Ted: 1951 年 8 月 24 日(金)晴れ

 Lotus に第二スメル館へ連れて行って貰うことになっていたので、午前中はどうでもして終わってしまえばよかった。といっても、したいことと、しなければならないことは沢山あった。Lotus の家へ行くと、Jack はまだ来ていなかった。岩波書店発行の『少年美術館』の 6、7 を見せて貰う。
 第二スメル館では、『エノケンの底抜け大放送』と『東京キッド』。全くの娯楽もの。しかし、Jack は「感激し」、ぼくは頭が痛くなるまで考えなければならなかった(注 1)。歌と人生、いやこんなことじゃなかった。何だったかな?
 Lotus の話、——父君が東京から帰っていて、Lotus の将来の進路として医者か科学者を勧めている。自分はそれに反対で、芸術家になり、理性で想像し得る最善の境域を求めたい。現状に満足していては、進歩と発展はない。『チボー家の人々』は難解。——Jack と別れて二人きりになってから、——「君は心に反した行動をしていない? ぼくはしているんだ。だから、君とぼくの間に溝があるんだ。Okabe、彼は分っているがいわない。君と一緒だ。ぼくも一緒だ。」(何のことだろう。全然分らなくはないような気もするが。)それから、英語のことを少し。

 夕食の最後から二切れ目のトマトを口に入れたとき、Lotus が来た。解析の予習の質問。シャツを裏返しに着て来たといい、顔を出した母に「失礼します」と断り、直しにかかる。何のことはない。それを直せば、今度こそボタンを肌の方へむけて留めなければならないことになる。何を勘違いしたのだろう。
 ちょうど Lotus の勘違いのように、いまのぼくは、このままではどこか直さなければならないような気がするのだが、ガラリと裏返しにする必要はないのだ。ただ、そう思う心をなくすればよいのだ。あくまでも、心の持ち方の問題だ。どうやら暑苦しいホールで見た、ところどころ短く抜けていて、「歌もたーのーしーや、ッド」と飛んだりする映画は、ぼくがここら辺で一度しなければならなかった復活を助けてくれたようだ。
 Lotus のいった「溝」の問題もあるが、——さっき質問に来たような Lotus ならば、心配はいらない。それにしても、Lotus はよく映画を見ると同時に、よく考える人物だ。そしてまた、考えさせる人物だ。
引用時の注
  1. その後の映画鑑賞の経験と照らし合わせてみると、これは、考えごとで頭が痛くなったというより、当時の映画館の換気がよくなかったせいか、二本立てを見ると大抵頭が痛くなったという一例であろう。

2013年4月19日金曜日

大きな宿題は終えたが…


高校(1 年生)時代の交換日記から

Ted: 1951 年 8 月 23 日(木)晴れ一時雨(つづき)

 Lotus も将棋は知らない*。タイガース、フライヤーズ、そしてブレーブスのファンたちは、回り将棋をした。長く続くから、根気負けしてしまった。それを終えて Lotus は、何のためにインクを持って来たのか分らないうちに、帰るといい出した。ぼくは残ろうかと思ったが、帰った方がよさそうだと思い直した。八坂の下で Lotus が「どちらから行く?」という。近い方がよいに決まっている。木曽坂の下の竹やぶが見えるところまで無言。口を切ろうかと思わないこともなかったが、駄目。Lotus が読書について質問。彼の読んでいるものは『チボー家の人々』十巻中の八巻、ジャック青年、internationalism。文芸クラブ(彼の所属はこのクラブだった! 彼だって、いま頃になってぼくのクラブを尋ねたりした)は読書クラブに過ぎないということなど、文学のことばかり。別れるとき「あれは、Okabe じゃないかな」と、とんでもないことをいった。

 夏休み中の負担は、どうにかこうにか、綴じ上げてしまった(初めの意気に比べて、はなはだ心細い結果だ)。それなのに、なおセミの声もうるさく感じられ、曇っている空も重々しく見える。
 夕食後、母に、「話、話、話して。それから、それから」と、幼児のようにねだる。
 Popeye が数人の一番右になって、野球道具をたずさえて帰って行く。このところ毎日見る。健康で頼もしい。
Sam による欄外注記
 * Lotus もそうだとは残念!

いくら何でもひどい言い方だ


高校(1 年生)時代の交換日記から

Ted: 1951 年 8 月 23 日(木)晴れ一時雨

 家にいても何も出来そうになかったから、約束通り Jack と解析の復習をし、試合をするつもりで、彼のところへ行った。Lotus から電話があって、もうすぐ Jack の家へ来るということだった。われわれが何も始めないうちに、Lotus は来た。彼は、風呂敷包みを持っていて、すぐにそれを開いて質問し始めた。風呂敷包みの中味は、Right Glorious のインク箱、解析の虎の巻、生物のノート、そして生物辞典だった。連立方程式を分裂方程式とおどけていってみたり、「Jack の頭は伸びるからいいな。ぼくの頭はもう停滞しているぜ。進化論じゃない。退化論だ*」といったり、手を口の近くへ上げたりまた下げたりして話すのに忙しい。

 Lotus が、Jack の手紙コレクションを引き掴んで有無をいわさずに見始めたときには、Jack が被告のように神妙な様子になったのでかわいそうだった。しかし、大事にはならなかった。第一音を低く、長音の第二音はぐっと高く、同じく長音の第三音をたぐるようにあとに続けて、第四音にいたって最初の高さに戻るように発声した姓名の下へ疑問の終助詞をつけてから、Lotus は「あきちゃったよ」といった。いくら何でもひどい言い方だ。ゲームか何かのように考えている。(注 1)(つづく)
Ted 自身による欄外注記
 * マクス・ノルダウの退化論というのがあるのだね。漱石の「倫敦塔」の劈頭に書いてあった。

引用時の注
  1. Lotus がいった姓名は、当時私が気にし始めていた Minnie のものだった。私の定年退職から間もない頃に開催された中学の同期会で、私は Minnie と久しぶりに再会した。その二次会のとき、彼女は私に、「(中学生時代に)わたしにラブレターをくれた人たちは皆早く死んだのね」と、Lotus と Funny について、あっけらかんといった。彼らのどちらかが学校の彼女の靴箱にラブレターを入れていたことも、彼女は話してくれた。それは、シャイな Funny のほうだっただろうか。

2013年4月18日木曜日

Jack がぼくに手伝わせた


高校(1 年生)時代の交換日記から

Ted: 1951 年 8 月 22 日(水)晴れ、午後一時曇り(つづき)

 Jack の家へ傘を返しに行き、とうとう今月十一日以来、連続して彼に会うことになった。この四十一日間の休暇中、帽子をかぶらない日も一日もないことになるだろう。
 Jack は危険だ。きょう学校へ行ったのかと思ったら、行かなかったそうだ。油車、油車と書いている。似ていてそれでない方が、ぼくには張り合いがある。いや、あり過ぎる。Jack は、ぼくも考えはしたが困難だと思ったことを、もっと難化させて、その仕事をぼくに手伝わせた。それはするべきことではない。何も盛れないばかりか、はなはだしく奇形なものになる。いずれにせよ、したくない。しかし、させられた(注 1)。あとは構わないことにする。そのことになると…。そのことでなくても…。ああ、悪魔!

 「静かになりなさい。静かになりなさい。」
 「涙が欲しい。泣けるだけ泣きたい。」

 どう有利な解釈をしても、山本有三の『心に太陽を持て』の題名をそのまま使った小説を書く前の Lotus に(中学一年の冬休みのことだ)「笑ってばかりいるのはどうかと思」われたほど、いまは笑っていられるぼくではない。Lotus の小説は、彼対われわれ(Twelve を初め、Jack や Octo も入っているかもしれないが、皆、ぼくと同様に笑ってばかりいた者たちだろう。何といっても、Twelve が深刻な対立者だった)のトラブル記のようなものだった。その中のぼくは、武者小路実篤の「ダルマさん」のようだったかもしれない。ぼくは、あれから変っている。Lotus も同様の小説はもう書かないだろう。もし書いたとしても、その中に登場する Lotus 自身もぼくも相当変化した者でなければならない。ぼくは彼にいいたいことが沢山あるように思うのだが、実際にはいいたくないことや、彼の知っていることばかりのような気もする。(何を書こうとしていたのだっけ?)
引用時の注
  1. 何をさせられたのか、まったく記憶にないが、文脈からは、Jack が「ピアノの S さん」に渡す手紙に協力して共同執筆したのかと想像される。

Twelve の家で葬儀が…


高校(1 年生)時代の交換日記から

Ted: 1951 年 8 月 22 日(水)晴れ、午後一時曇り

 無為で無意な時間が多い。その中にも何かしらあるなどといえることではない。
 Octo の家へ。トランプが製造されている。二人でする「ナポレオン」を習ったといって、教えてくれる。乗り気になれないが、お相手。数回したが、最初に一度負けただけだった。やめたいが、やめてもすることがないから続けた。そのうちにやめた。すると、恐るべきことが始まった。昨日もきょうも、最初の一行に書いたこと。Octo は彼の尽くせるすべてのことをしてはくれなかった。いや、彼も何をしたらよいか分らなかったに違いない。ぼくが Twelve の家へ行こうといった。そこへの道中でも完全に無言。Twelve の家が見える曲がり角へ来たとき、その家へ出入りする多くの人々が目にとまる。前が田だから、明るすぎるほど明るい。黒枠の中に告別式と書かれた紙が玄関に貼ってあろうとは思われない風景だ。何事だろうと、われわれは立ち止まった。
 向こうで何かが動く気配を感じた。思わず、おかしい気持で頭を下げた。口に妙に力を入れた様子で短い足で立っておられる Chons 先生だ。もう一つの頭が、これも向こうから下がった。われわれはいっそうおかしい気分になった。礼をしているような、うつむいているような格好で、Chons 先生の方へ進んだが、人混みであまり近寄れなかった。もう一つの頭は Clog 先生のものだったが、他にもまだまだ沢山の先生方がおられるのにうんざりした。「どなたが亡くなられたのですか」と聞くまでもなく、それは Twelve の父君らしいことがうかがえた。「諸君たち」先生も、「注射的教訓型」先生も、ソフトボール部の原稿を赤インクで書いて下さったのを掲載しなかったことを怒られた先生も、マイクの線を引っ張って歩いておられた先生も見える(注 1)。それらの先生方は、われわれのいることは眼中にない様子だった。われわれは帽子を手に持ったまま、そろそろとそこから退出した。
 Twelve はどんな気持でいるだろうか。1944 年 4 月 28 日のぼくと同様だろうか(注 2)。1945 年(1944 年だったかもしれない)のある日の嶺前小での S 君のようだろうか。彼は優しくて強い気を持った少年だった。そして、教室で父君の戦死の知らせを受け取ったとき、顔を真っ赤にして涙を絞っていた。(つづく)
引用時の注
  1. Twelve の父君も学校の先生だったので、どこかの学校で同僚だったわれわれの出身中学(紫中)の先生方が大勢、葬儀に来ておられるのだと思った。しかし、後日、亡くなられたのは紫中の習字の先生の夫君(Twelve の親戚、伯父君か)と分った。
  2. 私は父の病死をむしろ平静に受け止めていたが、火葬のあとで、父の親友だった H 氏に「お父さんはもう帰って来られないのだよ」と優しくいわれたときには、目頭が熱くなった。

2013年4月16日火曜日

「灰色の時間」と晩夏の哀愁


高校(1 年生)時代の交換日記から

Ted: 1951 年 8 月 21 日(火)晴れ、夕立あり

 考えている時間が一番多い。何もしていなくて、ただポカンとしている、Zu 先生の表現によれば(Sound が先日いってくれた)「灰色の時間」。それをなくしたいものだとは、いつもある時間を過ごす前に思うことだ。思いはしても、灰色の時間は、いまだになくならない。
 ぼくの場合、ただポカンとしているというより、何かを考えている。考えていることは、とんでもなく大きいこと。可能か不可能か分らないことと、有か無か分らないこと。——全てを挙げて没頭することの出来る目的、われわれの見ている何もかもが、こうではなかった場合のこと、超宇宙的な別の世界——というよりも、われわれがそこへ飛び込んだならば、あまりの相違に闇も同然だと思う現象の展開されるところ。そうかと思うと、今度はいかにも些細なこと——。

 Jack は彼の部屋の真ん中より少し奥に、がらくたに取り囲まれて立っていた。整理をしていたところだそうだ。昨日のことについて、Jack は初め、行かなかったという。あとで、新しいノートを見せてくれる。その中の記述によれば、学校へ行ったが、時間まで待っても彼女が来なかったので、家へ向う間に行き違ったそうだ。彼はこの頃、ビールの泡のような感じである。一度、しんみりと説得される必要がある。(注 1)

 Jack の家で傘を借りなければならなかった。涼しさが寂しい気持をもたらす。頭がむやみに澄んで行くような——。それはよいが、澄んだ水面には、輝く空気をふれさせ、これを含ませてやらなければならない。
 渋いものを口に入れた感じに陥らせるウマオイの羽の音楽。過去の寂しさと涙を思い出させ、十分には大きくならないでストローの先を離れて破裂するせっかちなシャボン玉のような気持を持ったときの(こんな表現を書いていたら、実際に悲しくなって来た)自己と宇宙とを比較させ、また、胸に水を浴びせるようなコオロギの音楽。分りやすい曲だ。感動させられる調べだ。
引用時の注
  1. 私は Jack の行動を批判しているが、自分もこの頃、頭の中がしばしば Jack の友人女生徒と同姓の女生徒で占められていたことを思えば奇妙である。

2013年4月15日月曜日

学校で「ボヤ中のボヤ」


高校(1 年生)時代の交換日記から

Sam: 1951 年 8 月 20 日(月)晴れ

 『拳銃の嵐』なんて映画は、Ted は嫌いだね。では、この次の『純愛の誓』というのを二人で見に行くかい。ぼくも少ないが、Ted の方がもっと少なくしか銀幕を見ないらしい。でも、全然嫌いじゃないんだろう? ぼくは大好きだ。しかし、無料か(無料ならどんなつまらないものでも見る)、三十円以下で為になるもの以外は敬遠するね。
 せっかくの機会だから、Ted と一緒に映画を見ることにしようじゃないか。ぼくだって、それに Ted だって、痛くもかゆくもない(けっして損にならないということ)からね。もし Ted が断るならば、ぼくは今月中に上映される二本ともを一人で見に行くか、または他の友だちを誘わなければならない。そんなことをするよりは、Ted と行く方が何倍もよい。Ted が観光花火大会のとき、ぼくを呼びに来たように…、でも、あのとき、ぼくはいなかったね…済まなかった…あのときは欲望を抑えきれないで一人で飛び出したのだ——。

 火事! いつもなら「さようなら」か「さいなら」といって Ted と別れるのに、「さい!」に縮めて、あわてて飛んで行ったのに、火事はとっくに済んだあとだった。駆けつけた消防自動車の数の逆数ほどの「ボヤ中のボヤ」だったそうだ。学校は何ともなかった。校門のところに同ホームの女生徒が数人の友人とどこかへ行くらしい服装で立っていた。ぼくの方には全然気がつかなかったらしい(そんなことはどちらでもよい)。
 帰ってしばらくすると、Neg が自転車で来て、スジカイマチ(「折違町」。どこか、すぐ思い出せるかな
(注 1))まで一緒に来てくれないかという。さっそく出発。昭和通りはところどころ工事中だったので、思うようなスピードは出せなかった。用件を済ませてから、車庫前まで二人で語り合いながら来て別れた。

 茂君(こんな名前の人物はたくさんいるがね)が荒木先生のところへ行かないかと誘ってくれた
(注 2)。ぼくの自転車には電池がないので、自転車屋から借りた。広坂で岩君に会い、三人で訪れた。先生の家の前で少しばかり話したあと、四人で散歩に出かけた。いろいろの話が出る。ときには、ぼくの全然知らない話もあったりして、黙って聞いてばかりいなければならないこともあったが、先生は退屈させないよう、巧みにみんなに同じように話す時間を与えて下さる。
引用時の注
  1. 折違町は JR 金沢駅のすぐ近くにある。私が京都へ行く日に、見送りに来た Sam と一緒に歩いたのだったか。
  2. 荒木先生には私も中学で理科を習った。この先生の名も「茂」で、几帳面な先生だった。若くして亡くなられた。

「傍観者」を「知人」に


高校(1 年生)時代の交換日記から

Ted: 1951 年 8 月 20 日(月)晴れ(つづき)

 「話が合わない。」これは Jack の言葉。彼は Sam や Minnie に対して、こういって遠ざかろうとしているようだ(うがち過ぎかもしれないが)。(先日 Minnie のシラミ事件と書いたのは、文法の時間に Sam のいう「アバン的アプレ型」先生が彼女の頭を指して「シラミがいる」という例文をいわれたので、彼女が泣き出してしまったということだ。(注 1))共作の『復活』読後感に、Jack は二面性のある人物は「いけない」と書き、ぼくは「神でない限り、誰でも二面を持ち、日向と木の下闇という異なる場所でつねに一つの面を持ち続ける人はほとんどないといってよい」と書いた。しかし、いつでも一つの面しか持たないで、その一面の上にあらゆること——それは、実にいろいろなことだ——をのせているとしか、ぼくの目には映らない人物…(いま、ぼくはどうかしている。先に考えたことが根本からくつがえされそうだ)…とにかく(というのは無責任な言葉だが、ここではこれを使って少し考える時間を先へ延ばすしかない)、Jack は敬遠し始めている。ぼくも、その二人(とくに Sam を除いた一人)に対しては、何でもずけずけとはいえないような気がする。(こんなことを書いている時間も惜しいくらい、知らないことは多いのに。それでも、この考察は何かになるだろう。)
 そういう気はしても、「傍観者」なら「親しい友だち」の下(Sam がこれらの分類を紹介してくれたノートが手もとにないので、その名称(注 2)が分らない)くらいにまで引き上げたい。ぼくの欲望(たったいま、この言葉に気づいた)は、Sam とぼくの間には、この通信帳の始まりという形で運河を通じさせた。しかし、運河以外のところの交通(感情などの)では、Sam からぼくへはよいとして、ぼくから Sam への場合、いまなお…。

 何のために? 何度考えても、机上(頭の中の)には白紙がおかれている。武者小路実篤の『人間万歳』。
 Jack は午後学校へ、ピアノの S と会見し、解析の質問に応じ、その他のこと(何か知らない)をするために行った。
 鼻血の固化したのが鼻から出て来た。どうも軽快な気持になれない。
引用時の注
  1. 中学 2 年生のときのこと。「アバン的アプレ型」先生は、中年で温厚・真面目な国語の先生だったと思う。その先生ともあろう人が、いささか配慮のない形で例文をいわれたものだ。
  2. 「知人」である。こちら参照。

2013年4月14日日曜日

何もしたくない/続々枕草子なんか書けない


高校(1 年生)時代の交換日記から

Sam: 1951 年 8 月 19 日(日)晴れ

 もう目の前に二学期が迫っている。何かしよう、何かしなければならないと思うが、何もしたくない。
 昨日は県立図書館が休館であることを知ってがっかりしたので、市立図書館も休館かしらんと思って、視察に行った。休館ではない。やれやれ。ノートと鉛筆を持って来るのだったと、ため息。ついでに Jack の家までと思って行ってみたら、味噌蔵町まで行ったがすぐ戻る、という返事だった。しばらく待ったが、べつに大した話もないのだし、他人の家の前にぶらぶらしているのも気に食わないから、だまって帰る。


Ted: 1951 年 8 月 20 日(月)晴れ

 ああ、あーああ。続々枕草子なんか書けない。ぼくも、考えた何分の一も表現出来ないでいる。書くことはただ、どこを通った、誰に会った、etc.(つづく)

缶に描かれたような空


高校(1 年生)時代の交換日記から

Ted: 1951 年 8 月 19 日(日)晴れ一時雨(つづき)

 初めは説得的、次は焦燥的・依頼的。次は多くの人名と書けるだけの皮肉と。その中にも初めの二つの要素がなくはなかった。驚愕。背を伝う汗。同調子。始まりは不意で、いおうとすることもなく、終わりそうもないところで終りの言葉。

 セミの鳴き方もいけない。ニックネームの繰り返し。(注 1)
 雨。新しいことにぶつかったようでもあり、何もかもが流され、清められたようでもある感じ。Tom を送って Jack の家へ。Jun が来ている。用件と昨夕の話と。

 恐ろしいことは、没頭と忘却と冒涜。
 缶詰の缶の表面に描かれたような、滑らかな色の空。雲もある。子犬を連れた小柄な飼い主。小学校同級生中の「傍観者」(注 2)
 何をしたらよいかが分らない。分っていても実行出来ない。女生徒の三文字。
引用時の注
  1. 本ブログへは Minnie という、女生徒のニックネームがたまに登場するが、日記帳では Min と略記していた。金沢ではアブラゼミのほかにミンミンゼミがよく鳴く。
  2. 「傍観者」とは、「名前は知っているが、話したことはない」人のこと。Sam の日記「『青年心理』の本の興味をもったところ」中の「社会的距離における友人関係」のリスト参照。

2013年4月13日土曜日

昼・宵とも歩き回る


高校(1 年生)時代の交換日記から

Ted: 1951 年 8 月 19 日(日)晴れ一時雨

 昨日のことから記す。午前中、 Jack が出向いて来る。何をしたのだったか。戦後最高気温の日のことだから、能率は上がらなかった。午後も Jack。用事全くなし。外出。Jack は油車が気になる。足駄の歯は落ちる。大和二階の模型店で Massy に出会う。よく歩いた。大きな古い家に Jun。彼は身体を暑さに持て余すことはなさそうだ。シャツとベルトの間まで汗をためたあとのオアシス。

 Jack と別れるときも、夕食のときも、その少しあとまでも、断然見に行かないつもりだった花火を見に行きたくなった。Sound と? つまらない。Sam がよい。電車で——。いない。長町小の運動場にいた木倉町の四番打者(注 1)が、松本運動具店の向かい、宝船寺と探してくれる。いるはずもない。
 Tom と危ないところでの出会い。公園の方へ。(暑いので、どうしても切れ切れの調子でしか書けない。)広坂。百間堀に面した公園の下。人が密集していて、頭伝いに歩けそう。手を引っ張り合い、駆け抜ける。インク色の空。尾を振りながら赤い球が上がって来る。開く。音! 赤い柳の枝。下へ伸びる。手のよう。今度は一度に、緑、黄、赤など、全ての華やかな色の句点が、四方八方へ。あとに残るものは、深紅のしわ(注 2)。それもすぐにない。橙色。海綿の破裂。赤と緑の星があとにしばらく残るもの。きゅっと引き絞るような力を前に見せておいてから、雷鳴。
 Sam か Jack に会わないかと思ったが、顔の区別がつかない。歩き続けて、木々の葉の間から見なければならないことも。腰を下ろす場所を求めて、県庁の門内へ。気に入らない。Tom、歌を口ずさむ。香林坊の方へ。片町へ。ショウウインドウに幕の下りる大和デパート。大橋の欄干。広小路で電車に乗る。上石引町通り。道路に椅子が並び人々の塊。歓声がして、爆発の音。そのときには、すでに何もない。足の裏が固くこわばったようだ。水も湯も一緒。(つづく)
引用時の注
  1. われわれの友人 Funny のこと。
  2. 翌夏、国語の宿題で書いた私の創作「夏空に輝く星」の中に、この辺りの花火見物の描写を取り入れた。それを読んだ母から「深紅のしわ」について、「『しわ』 は、美しいものの表現としてはふさわしくない」といわれ、「深紅の絞り模様」に変えた。母が指摘したのは、ここだけだったと思う。

花火の宵


高校(1 年生)時代の交換日記から

Sam: 1951 年 8 月 18 日(土)快晴

 自転車のペダルを踏みながら、ぼくは考えている。入浴しているときとか、こんなとき、いろいろなことを、いろいろな場合を考える。それに最も適した状態なのかもしれない。自転車のスピードはあまり速くない。速過ぎては、考える余裕を与えない。いまの場合、考える余裕を与えないほうがよいかもしれない。しかし、それだけのスピードを出せるだけの状態に至っていない。
 「馬鹿だ、馬鹿だ。何て馬鹿なんだろう。」しばらく考えてからそれを打ち消した。何のために自転車に乗り、何のためにどこへ行こうとしているのか、それさえ分らなくなった。
 得たものは、——「それは、きっと二週間ばかりするうちに何もかもなくなってしまうだろう」——不考者だ! 不孝者だ! 不幸者だ!

 花火が打ち上げられている。たまらない! 自転車だ。それで公園まで行ってみよう。数分おきぐらいに、辺りの空気を震わせて青空に爆裂する。そのたびに、ダルマが落ちて来たり、ビラが風に流されて行ったりする。夕食のため一応家に帰り、六時頃再び出かけた。ビラを大奮闘の末やっと二枚ばかり拾ったが、「26.9.22 抽籤 第 7 回ダイヤモンド定期預金…」、「今夏のファッションモードは皆様のマルエキ…」という馬鹿げた広告宣伝ビラばかりしか取れなかった。あっちあっち、こっちこっちと飛び回っている間に、辺りが暗くなって来て、やがて夕やみが迫って来た。

2013年4月12日金曜日

真夏の放浪

高校(1 年生)時代の交換日記から

Ted: 1951 年 8 月 17 日(金)晴れ

 午前中からもう、夜汽車の中のように、身の置き場に苦しむ。英語。他のものはする気にならない。Octo。最大限の軽装。ためておいた話。十一時の時報。時間が足りないとも思えない。その足で Twelve。下のような図を小母さんが書いて下さる。Twelve はその図の左下の、親戚か何かの家で毎日留守番と。
(注 1)


 地図が丁寧だったから、すぐに分る。いた。宿題の進度 0 と(本当かな?)。日米対抗陸上は五日だけ、中耳炎、など。十二時数分前に辞する。出さないように努めた汗もどっとふき出る。黒い塀が多い問題の通りも、白と緑が空気を染めている。
 弁当
(注 2)のあと、のろのろ歩きで Jack の家へ。県立図書館。三十一日まで休館。予定破壊。SCAP 図書館(ただし、『二匹の仔熊』)。油車—里見町—油車。Jack の目の代用。発見。ぼくはどんな感情をも経験しない。Jack はどうだか。午前中たどった地図の道を逆に。庭から Twelve。四つの部屋は彼の支配下。テーブルの下に解析の教科書。部屋を歩き回るわれわれ。会話。Jack 不明瞭。Twelve つっけんどん。肋骨。涼しい提灯。腹這い。井戸水。
 切り上げて、もう一度油車。女子師範付属前。Jack のいう「ありがた迷惑」。出会った Dharma 先生から説教。Waka や Oni や Hamasuke が通って行く。その間、われわれは束縛される。先生は足を地上十数センチのところでぐるぐる動かして蹴る格好をしたり、手を拳にして胴体の前後左右に振り回す
(注 3)。「身体を。そして、しっかりやりなさいよ。正座法が一番だよぅ。」その声はこのノートのページのようにガサガサしている。
引用時の注
  1. 図の左下、Twelve が行っていた家の付近は、ここではプライバシー保護のため消してある。
  2. 母が墓参に田舎へ行っていたため、近くに住む Y 伯母が私に弁当を作ってくれたようだ。それをいったん家へ帰って食べたのだろう。
  3. 中学で体育を教わった Dharma 先生は、柔道をたしなんでおられた。

野菊の花が色白く…


高校(1 年生)時代の交換日記から

Sam: 1951 年 8 月 17 日(金)晴れ

 Ted がこの次来たら頼もうと思うことが一つ出来た。Ted は前々から頼まれることを欲していたから、承知してくれるだろう。それは中央図書館の借出書(携なんとかという券)を貸して欲しい。違反になるかい。大丈夫だろう。

 自転車を走らせて久しぶりに郊外へ出る。イネの穂が花をつけていた。カンカンと照りつける太陽の下であるが、どこか秋らしい。野菊の花が色白く、さわやかな風にふかれていた。そこで、二、三種の夏草を取った。これまでのぼくの概念で夏草であると思ったものを取った。
(注 1)

 またまた見事に気に食わないものを書き上げた。ホームルーム・アドバイザー(HRA)に夏便りを書こうと思ったのだが、まるで友だちに対してのような書きぶりになったし、字を大きくしたため、もう三行ばかり書きたいことが書けなくなってしまった。ぼくの性質(いくらか Ted の影響を受けた)をそのまま表したようなものであるが、HRA に対しては少々失礼にあたるだろうから、投函するのに気がとがめる。破って書き直す、いや、もう書かないことにしよう!
引用時の注
  1. Sam は夏休みの初め頃、夏草の採集という生物の宿題が出たことを書いていた。その宿題のための夏草取りだろう。この注を書かないほうが、この日記は詩的に響くかもしれないが…。

2013年4月11日木曜日

トルストイの言葉に思う


高校(1 年生)時代の交換日記から

Ted: 1951 年 8 月 16 日(木)曇り、午後晴れ(つづき)

 接近、それがわれわれを最も危なく…。だから、A 先生はそのことに感心してはいなかった。二水や菫台が一番評判がわるいそうだよ。(注 1)

 ——そのこととこのことは別かもしれないが…。初めはたいして気にもとめないでいて、それから真価を認め、それから…。
「人々に対する吾々の感情は彼等を一つの色に塗りつぶしてしまう。」(『トルストイ日記抄』、一九〇〇年八月七日付け日記から)(注 2)
決して一つの色とは思っていない。そのつもりでも、もう一つの色がどこにあるか分らなくなりかけているのじゃないかな…。それでは駄目だ。もしかすると、そんな…

 夥多のことを考えたが、書けない。昨夜 Sound と、家々の中から道路へはみ出している電灯の光線が作る自分たちの影の動きを速く感じながら帰るとき、『復活』の中で何が復活したのか、いまのぼくは何を復活させなければならないかが分ったように思ったが、そもそも漠然とした考えだったから、忘れてしまった。

 独りだ。祖父は Y 伯母の家へ。それというのも、母が田舎へ墓参に行ったからだ。一昨年までは、毎年ぼくも行ったのだが…。昨年は、母が日光で講習を受けていたので、ぼくは一人で宇波という海辺の村(注 3)にある父方の H 伯母の家へ行った。そこは祖先の墓のあるところからやや離れている。今回は、京都から帰って疲れていたのと、宿題で忙しいのとで、母に同行することを拒否した。
 夕食にはぼくも Y 伯母の家へ行って来た。カボチャとナスをどろどろに煮た、酸っぱいスープが出た。中華料理風の味だ。Y 伯母と母は、姉妹でも料理の味が異なる。
引用時の注
  1. ここまでは高校生男女間の「不純」交際のことを書き、次の段落では、自らに芽生えた思いについて書いている。これが「不純」とは無縁であっても、そう思われたくないという気持や、そこへ知らず知らず落ち込んではいけないという抑制心との闘いが、私の高校時代にはあった。
  2. トルストイの日記はこのあと、「——吾々が愛を持てば、彼らはみな吾々の目に白く見え、愛を持たなければ、黒く見える。ところがすべての人々には黒いところと白いところとがあるのだ。愛するもののうちに黒いところを、そして主要なことは愛しないもののうちに白いところを探せ」と続いている(除村吉太郎訳、岩波文庫、1935、p. 184)。このあと私が、人々が二色だけで出来ているかのように、「もう一つの色」と書いているのは、ここに引用した通りトルストイが白と黒を使って記していることによる。『トルストイ日記抄』は、私のこの夏の日記に既出の京都行きの際に、持参して読んでいたことを覚えている。京都から帰ったあとの私の日記に単語や短い言葉を並べた記述がよく出て来るのは、その影響らしい。
  3. この辺りの村々はその後、氷見市(富山県)に編入された。

不思議なめぐり合わせ


高校(1 年生)時代の交換日記から

Ted: 1951 年 8 月 16 日(木)曇り、午後晴れ

 珍現象。ヨシミヤへインクと原稿用紙を買いに行き、百円札で支払いをした。店の少女が持って来た釣り銭と一緒に、「Alligator 北米産の鰐」と書いた小紙片が戻って来た。
 きょうはこれ以上書かないつもりだったが、どうしても書きたくなった。Funny が監督だった野球チームの名前を単数形にして書いた小紙片(注 1)は、このノートから出て、二枚の葉書の間に挟まってポケットへ入り、そこへあとから百円札が割り込んで、紙片を挟み込んでしまったのだろう。もう少しで、この紙片はポストの中へ行くところだったよ。このような不思議なめぐり合わせは、われわれ人間だってやっている。(つづく)
引用時の注
  1. われわれの友人 Funny の別のあだ名はワニだった。それで彼は、自分の率いる町内の野球チームに "Alligators" の名をつけていたのだろう。そのことを聞いた私は、ワニの英語として知っていた crocodile(アフリカ・アジア産のワニ)との相違を辞書で調べ、Sam に伝えるために「Alligator 北米産の鰐」と書いた小紙片を日記帳に挟んでおいたのである。この小紙片が釣り銭と一緒に戻って来て、きまりの悪い思いをしたことは記憶していたが、どこで何を買ったときのことだったかは、すっかり忘れていた。

2013年4月10日水曜日

年下の子と海水浴に


高校(1 年生)時代の交換日記から

Sam: 1951 年 8 月 16 日(木)晴れ

 今年最後になるだろうと思って、午後から金石へ I 君を連れて海水浴に行った。海水浴の人と、お盆で里帰りする人で、電車にはかなりの乗客があった。
 われわれは浜茶屋に入った。入りたくなかったけれども入ることにした。さっそく海へザブン。I 君は泳げない。ぼくの海水パンツがやっと隠れるくらいのところで、懸命になってもがいている。波がくれば、それこそ大あわてである。海は好きでないらしい。この前、町内から海水浴に行ったとき、やっと木槌になったといっていたが、珪化木で作ったような木槌だ。平泳ぎの真似をして見せてくれたが、右手と左手がばらばらだし、おしりがポコンと飛び出している。クロールの真似をすれば、ひざから先しか曲がらないし、二、三回バタバタやると、それでおしまいである。ばからしくなった。でも、ぼくにもそんなときがあったと思うと、気の毒になった。
 I 君を待たせておいて、ぼくは遠浅まで泳いで行った。遠浅の位置は、この前やその前のときとだいたい変っていなかった。潜ってみると、ヒラメの泳いでいるのが見られた。しばらくして波打ち際へ帰ってくると、I 君は怒っていた。そして、ひとつも面白くないから帰る、といい出した。ぼくはいろいろなだめてみたが、どうしても帰るといい張って着替え、さっさと帰ってしまった。ぼくも責任はもたないよといって、さよならした。
 友だちとならこれまでよく海水浴にきたことがあるが、自分より年下の子どもを連れてくるということは、これが初めてである。だから、どうして遊ばせればよいか分らないから駄目だ。ぼくは、それから何回も遠浅と波打ち際を往復して遊泳した。
 家へ帰るとすぐ、I 君のところへ行った。I 君はいたって平気だった。

2013年4月9日火曜日

A 先生訪問達成


高校(1 年生)時代の交換日記から

Ted: 1951 年 8 月 15 日(水)晴れ(つづき)

 Sound、ちゅうちょはやめ給え。ぼくが何度も声を出した。「ごめん下さい」と「こんばんは」と。A 先生(注 1)の家。
 二階へ。「休みは退屈だなぁ」の言葉を間に何度も入れながら、市立工業と菫台について質問をされる。主に校舎のこと。先生は菫台の前身、金商の出身だから、古い校舎のことばかり。
 先生「道場はどうなった?」
 ぼく「道場?」
Sound が教室になったといってくれる。
 先生「いま、みんなどこから入る? 昔は体育館の両側の…。門を入って職員室の横を通って…。」
 ぼく「?…職員室は図書館になりました。」
 A 先生は一度学校をやめて材木屋をしていたが、いまは長田町小学校に勤めておられるそうだ。われわれは初めのうち、いまの勤めを知らなかったから、「休みは退屈」の意味が分らなかった。先生は、鼻の奥につかえるものを振り払うように、勢いよい「くすん!」を何度もされる。これが癖のようだ。シュロの葉で作られたうちわの柄はぐらぐらしている。
 Lotus が先生を訪ねることがあるかを聞こうとしたとき、以心伝心のように、先生から先に質問が出た。「KZ どこへ行っとる? 菫台か。クラブは?」さぁ、映画研究クラブだったかと思うが、はっきりとは知らない。昼会ったとき Jack に見せていた彼の手帳の一ページ半に、最近見た映画の題名が細字でいっぱい記されていたのを思い出し、そのことを話した。金大付属高校へ行っている Chawan や Gacha の勉強ぶりを聞きたかったのだが、その機会はなかった。(注 2)
引用時の注
  1. Sound と私が小学校 6 年のときのクラス担任。
  2. Chawan こと Y・H 君は、Lotus こと KZ 君と同様、早く死亡した。Gacha こと H・I さんはカリフォルニア大学名誉教授(日本文学専攻)となり、いま神戸に住む(彼女の父君は学士院賞を受賞した金大医学部教授だった)。専門も働いた場所も離れていたが、彼女は私にとってよいライバルだった。A 先生は 2012 年に卒寿を迎えられ、われわれの喜寿と会わせて祝うクラス会が開催された。

2013年4月8日月曜日

暑い中のムダ足


高校(1 年生)時代の交換日記から

Ted: 1951 年 8 月 15 日(水)晴れ(つづき)

 昼も「大仕事」をしていたとき、Jack の声。大和デパートへ、と。途中、彼の家へ寄る。前で Lotus が待っていた。二枚のスメル館入場券があると(注 1)。三人で大和へ。入場料は三十円。No money.
 Lotus は二十二日頃から東京へ。敦賀高校 6–4 高知商業。宝船路町も勝つ。これらを歩きながら知る。Jack も Lotus も、ぼくが旅行中にはそれをつけているだけでも暑さが増すと思った腕時計をしている。無言。暑くて何も分らない。帰路、公園の中を通る。干上がった流れ。何かの幹にセミ。投石。はずれる。公園出口。両手の親指を接近させてから、さっと前後へ開いた Lotus。散る紙片。白、黄色。二枚のスメル館入場券の末路。たぶん複雑な表情で見ていたぼく。歩行停止。いつかのように、丁寧な「さようなら」。細くて白く、ひじだけが黒い Lotus の腕。右側を少し行ってから左側を。それぞれの思いで見送った Jack とぼく。「何も破らんかていいがにな」と Jack。そうかもしれない。
 あたかもプールの縁に坐っていて水しぶきをかけられたかのように、シャツをぬらしながら、Jack の部屋の真ん中におかれた飯台の上の、紙に線を引いて決め込んだ「プール」を見つめる。古橋も橋爪も浜口もマーシャルも駄目。種目毎に世界新。四百米自由形にいたっては、三着までが圧倒的な記録を樹立。四着でもタイ記録。計算方法を変える必要あり。(注 2)(つづく)
引用時の注
  1. スメル館とは、大和デパートの中にあった映画館だろう。Jack は映画を見るのではなく大和へ行こうと私を誘ったが、Lotus は Jack と映画を見るつもりだったらしい。私はそこで遠慮して帰ればよかったのだが、気が利かなかった。
  2. サイコロを使ってする競泳ゲームを考案して遊んだのだったか。

2013年4月7日日曜日

生徒会活動と勉学の両立


高校(1 年生)時代の交換日記から

Ted: 1951 年 8 月 15 日(水)晴れ

 うちばかりが暑いのかな? 何度アルコール柱を見ても三十度以上あり、大連の暑さのようには、からりとしていない。腕と鼻の下と背中から、塩分を含んだ水が最も激しく湧き出る。朝から疲れたような気分だ。ほうきで三十八度線を突破(これは母にだけ通じる言葉だった。借りている二階の部分が二部屋なので、その境界を三十八度線に例えて、二部屋とも掃くことを、これを突破するといっている)。
 ラジオでいま本校出演の「我等の学園」が始まった。Sam は聞いていないかい? 「ただひたすらに学問の道に進まんとするわれわれに悪魔はささやきかける…。」アセンブリーで見たのと同じだ。しかし、自分の学校の連中が放送しているのだと思うと、改めて真剣に聞く気になる。声が何だかたどたどしいぞ。「ホームルームの運営」(いつかも書いたのだが、聞きながらまた書き留めたい思いになる)。「一身上の都合」(という理由づけ)、…『二水新聞』(注 1)の「主張」にも論じられていたが、その最後の「結局 "生徒会と勉学は両立し得るか" ということは問題ではない。その可能性がどうであろうと両立されなければならないのである」とは、投げやりな感じだね。この主張者自身、どうなければならないかが分らないでいる。そして、両立されなければならないことだけを、理由もなく、くっつけたようだ。(注 2)(こうしているうちに終わってしまった。前にアセンブリーの記憶を反芻して、われわれの通信帳にちょっと記したのと同じ内容だったので、一言一句まで思い出したりした。)
 さて、予定の宿題をうっちゃって、別の大仕事にとりかかった。それがまだ終わっていないので、いまからする。(9:34)

 ついに完成。結果がどうであろうとも、なさなければならなかったことだし、これでベストを尽くしたのだから…、もうよいだろう。
 Sam に頼もうとしてまだ頼んでいなかったことがなくなってしまった。まずいものになっているかもしれないが、Sam と一緒にしたところで…。量だけは二人分ほどある。(注 3)(つづく)
引用時の注
  1. Sam のかよっていた高校の生徒会紙。
  2. これに関連して次のことを思い出す。私は高校 3 年のとき、生徒議会で生徒会長候補に推薦された。推薦者(Kies のニックネームで日記に登場している K・T 君)は、「生徒会と勉学が両立し得ることを示せる人物だと思う」などと推薦理由を述べたが、私はそれまで生徒会の要職についたことがなく、その自信がまったくなかったので、受験競争の激化を理由に辞退した。結局、生徒会長は 2 年生から選ばれた。
  3. 「別の大仕事」とは何だったのか、いまでは記憶にない。

町内対抗少年野球試合


高校(1 年生)時代の交換日記から

Sam: 1951 年 8 月 15 日(水)晴れ

 Ted よ! 「続々枕草子」を書いてくれたまえ!
(注 1) ぼくはだんだんこのノートから離れて行きそうだ。

 十時半から犀川スポーツパラダイスで、宝船路町チームの少年野球試合第一回戦がある。ぼくの守備位置にあたるところは雑草がやたらに繁っていて、おまけに地面はガタガタである。それで、守備をするときはベースから 5 m ほども前へ出て、バントに対して構えるような形になる。猛ライナーにでもあおうものなら、受け止める余裕がないだろう。遊撃、左翼、中堅などは、ぼくよりもさらにコンディションの悪いところで守っていた。
 両軍とも打撃はてんでお話にならない。ぼくたちのチームは相手のトップバッターを四球で歩かせたが、次打者のショートライナーで併殺し、さい先のよいスタートをした。その裏、二人の四球と一安打で無死満塁としたが、四、五番打者が三振と凡フライに倒れたため、二死となり、六番打者の四球で押し出しの一点をあげた。しかし、七番打者は三振してチェンジ。ぼくたちは相手に三点だけ与えた。ぼくの守備は、内野安打を一本許した(もちろん、イレギュラーバウンドのため)が、刺殺二つと挟殺の際の刺殺を一つとった。
(注 2)

 正午頃家に帰ると、ホームルーム・アドバイザーが来ていかれたと祖母が話してくれた。何のためだろう。
 午後、同じ場所で片町との試合をしたが、今度は一回表に九点を許し、 33 対 1 のスコアで敗退した。おそらく、大会新記録になることだろう。
引用時の注
  1. これより先に私が「続枕草子」という形で、古文体で Sam に何か苦言を呈したことがある。それで、この日まで日記を 9 日分書けなかったことについて再度苦言を貰う必要がある、ということをこのように表現したのである。
  2. このあとを読むと、Sam たちの宝船路町チームは一回戦を勝ち抜いたようだが、同チームの最終得点が書いてない。また、一回戦の相手チームが何町か分らない。夜、眠気と戦いながら書いたのだろう。

2013年4月6日土曜日

土をもたげたばかりの芽


高校(1 年生)時代の交換日記から

Ted: 1951 年 8 月 14 日(火)晴れ

 種をまいたら刈り取らなければならない。作物は「実りました」と告げに来てはくれない。
 他方、われわれ自身は大木に成長しようとしている。しかし、いまは土をもたげたばかりの芽に過ぎない。いま、何をなさなければならないか。

 立派な労働をもしている Sam は、沢山の蘊蓄を持っているから、何をしても強い。奇想天外を楽しむ遊びは面白かったね。一枚を十二枚に切った紙には、いろいろな色が塗られた。いや、そう感じたのだ。そして、それらに感覚的に素早く数字を与えた採点も気に入った。まずいのは言葉の掃き溜め場のようだ。Jack はそういうのをよく書いたね。

 Sam は海のおおらかな空気と、その中で健康と英気を得ながら遊んだ Sam 自身のことを詳しく美しく書いてくれたね。ありがとう。海の詩をここに書き写しておく。
   The Sea
The Sea! the Sea! the open Sea!
The blue, the fresh, the over free!
Without a mark, without a bound,
It runneth, the earth's wide regions 'round;
It plays with the cloud; it mocks the skies;
Or like a cradled creature lies.
   —Procter
(注 1)

   
海よ! 海よ! ひろい海よ!
青きもの、新鮮なもの、とわに自由なものよ!
目じるしもなく、際涯もなく、
それは地球の広い地方をかけまわる
それは雲と遊び、空を愚弄する
或は揺籃の子のように寝ている
   ——プロクター

引用時の注
  1. Bryan Waller Procter (1787–1874) はイギリスの詩人。ここに引用したのは、詩の最初の一節である。全体はこちらで読める。

A 先生訪問計画は三球三振


高校(1 年生)時代の交換日記から

Ted: 1951 年 8 月 13 日(月)晴れ(つづき)

 空振り、空振り、見逃し。見事な三振。Minnie のシラミ事件(といっても、本当にシラミがいたのじゃないぜ。Jack がきょう思い出させてくれたのだが、もとはといえば、やはり Jack から聞いたのだ)に劣らず恥ずかしいことだ。最後の見逃しは全く痛い。球は真ん中低めに入って来て、すぅーっと外角へ流れた。(野球をしたのかって? 違う違う。野球に例えているのだ。)
 初めからスコアを記そう。滑り出しから悪かった。母にわがままだといわれながらも、夕食を早飯にした。WK 君(大連時代の友人、東京在住)への手紙を書いていたのだったが、それも打線は続かず、二枚目の二行まで書いて、切れていた。サインも決まっていなくて、Sound とのスクイズは失敗。せっかくの盗塁(早飯)も、ここで走者を殺した。Sound は風呂へ行っていたのだ。
 次のインニング、A 先生の家の前で、われわれ、Sound とぼくのチームはウエイティング・システムをとった。そして、好球にバットを差し出したが空振り! 先生夫人の姿を見かけてようやく声をかけたところ、A 先生は Y 薬局の向かいの運送店で映画があるので手伝いに行っていると告げられたのである。
 次の球にもまた空振り。運送店で「A 先生いらっしゃいますか」と聞いたら、「学校へ行ったやろ」との答だった。
 第三球、よく引きつけてから打てば、きれいにミートできたものを、身体をのり出したので、あまりのスピードボールを見送らなければならないことになってしまった。運送店で「待っていたら」といわれたのに、われわれは石引小学校へ向ったのだ。「よしみや」の少し手前で、手拭を片手に急ぎ足で来られる A 先生に出会い、「やぁ、大きくなったなぁ」といわれ、われわれが「こんばんは」のほか何もいわないうちに先生は数メートル後方へ去られた。
 球はキャッチャーミットへストン、である。失敗のあとで見上げた月は、あのとき「あのう」とでもいえばよかったのに、いわなかったわれわれのように、ぼーっとおぼろだ。次回にきょうの言い訳をしなければならないという仕事が増えた。次の攻撃は明後日と決定。

2013年4月1日月曜日

他人に何も寄与しないもの


高校(1 年生)時代の交換日記から

TTed: 1951 年 8 月 13 日(月)晴れ

 高まる喜びの面。いまは、そればかりに打ち向わなければならない(と書いたということは、すなわち、いままで何もしなかったから、いまから忙しくなるということだ)。

 Jack と学校へ行く。連立方程式の行列解法についてのヨウコ先生の説明には納得出来たのだが、もう少しじっくりやらないと、行列要素の求め方が頭に残っていない。Jack が勧めるように、他の友人たちに先駆けて実用に供したいものだが——。

 高まるということは、ありそうにも思えないが(あるのかもしれない。分らない)、いまのわれわれの中で発展しかけていること——、そればかりではない、他にもやたらにわれわれが広げむさぼりたいものがある。他人には何も寄与しないもの、それを求め拾う。なぜだろう。(つづく)

Sound と第二回会談


高校(1 年生)時代の交換日記から

Ted: 1951 年 8 月 12 日(日)晴れ(つづき)

 めっぽう暑い。Jack、変ったことなし。首を傾けた(そうして重心をとるんじゃないかとは、Jack の言葉)Sam 三塁手。Funny の真似をして、「ガンバレー」といってやろう。

 どこまでも、どこまでも。
 こんなことでは小さい。

 Sound を呼び出して、第二回会談。しかし、何についてするかは、会談の真っ最中でも不定である。ただし、ぼくの発意で、一つの訪問を取り決めた。Sound は一つうなずいて承諾した。ぼくが中学入学以来一度も行っていない訪問先だ(Sound は Yocchi と一度だけ行ったそうだ)。
 Sound は昨日石引町小学校の校庭で見てきた無料映画について話した。『空から飛び出せ』
(注 1)という題で、保守的と進歩的、というよりも原始的と文化的である二家族を取り上げたものだそうだ。今晩、それが近くの善隣館で上映されるというので、いろいろな人たちが涼しさにありついた満足げな顔で、われわれの前を通って行く。そうしているうちに始まったらしく、音楽が聞こえ出す。Sound は見に行こうかといったが、昨夜終了したのは十二時だったというから、行かないことにした。明日の訪問を再確認して、いまから机に向って何か出来そうな気持で家へ入ったが、駄目だ! 耳にまといつく映画の音楽やセリフも暑い気持で、うちわを使うばかりだった。
引用時の注
  1. 島耕二監督による 1950 年の日本映画。詳細はこちら参照。