2013年4月18日木曜日

Twelve の家で葬儀が…


高校(1 年生)時代の交換日記から

Ted: 1951 年 8 月 22 日(水)晴れ、午後一時曇り

 無為で無意な時間が多い。その中にも何かしらあるなどといえることではない。
 Octo の家へ。トランプが製造されている。二人でする「ナポレオン」を習ったといって、教えてくれる。乗り気になれないが、お相手。数回したが、最初に一度負けただけだった。やめたいが、やめてもすることがないから続けた。そのうちにやめた。すると、恐るべきことが始まった。昨日もきょうも、最初の一行に書いたこと。Octo は彼の尽くせるすべてのことをしてはくれなかった。いや、彼も何をしたらよいか分らなかったに違いない。ぼくが Twelve の家へ行こうといった。そこへの道中でも完全に無言。Twelve の家が見える曲がり角へ来たとき、その家へ出入りする多くの人々が目にとまる。前が田だから、明るすぎるほど明るい。黒枠の中に告別式と書かれた紙が玄関に貼ってあろうとは思われない風景だ。何事だろうと、われわれは立ち止まった。
 向こうで何かが動く気配を感じた。思わず、おかしい気持で頭を下げた。口に妙に力を入れた様子で短い足で立っておられる Chons 先生だ。もう一つの頭が、これも向こうから下がった。われわれはいっそうおかしい気分になった。礼をしているような、うつむいているような格好で、Chons 先生の方へ進んだが、人混みであまり近寄れなかった。もう一つの頭は Clog 先生のものだったが、他にもまだまだ沢山の先生方がおられるのにうんざりした。「どなたが亡くなられたのですか」と聞くまでもなく、それは Twelve の父君らしいことがうかがえた。「諸君たち」先生も、「注射的教訓型」先生も、ソフトボール部の原稿を赤インクで書いて下さったのを掲載しなかったことを怒られた先生も、マイクの線を引っ張って歩いておられた先生も見える(注 1)。それらの先生方は、われわれのいることは眼中にない様子だった。われわれは帽子を手に持ったまま、そろそろとそこから退出した。
 Twelve はどんな気持でいるだろうか。1944 年 4 月 28 日のぼくと同様だろうか(注 2)。1945 年(1944 年だったかもしれない)のある日の嶺前小での S 君のようだろうか。彼は優しくて強い気を持った少年だった。そして、教室で父君の戦死の知らせを受け取ったとき、顔を真っ赤にして涙を絞っていた。(つづく)
引用時の注
  1. Twelve の父君も学校の先生だったので、どこかの学校で同僚だったわれわれの出身中学(紫中)の先生方が大勢、葬儀に来ておられるのだと思った。しかし、後日、亡くなられたのは紫中の習字の先生の夫君(Twelve の親戚、伯父君か)と分った。
  2. 私は父の病死をむしろ平静に受け止めていたが、火葬のあとで、父の親友だった H 氏に「お父さんはもう帰って来られないのだよ」と優しくいわれたときには、目頭が熱くなった。

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