2013年4月9日火曜日

A 先生訪問達成


高校(1 年生)時代の交換日記から

Ted: 1951 年 8 月 15 日(水)晴れ(つづき)

 Sound、ちゅうちょはやめ給え。ぼくが何度も声を出した。「ごめん下さい」と「こんばんは」と。A 先生(注 1)の家。
 二階へ。「休みは退屈だなぁ」の言葉を間に何度も入れながら、市立工業と菫台について質問をされる。主に校舎のこと。先生は菫台の前身、金商の出身だから、古い校舎のことばかり。
 先生「道場はどうなった?」
 ぼく「道場?」
Sound が教室になったといってくれる。
 先生「いま、みんなどこから入る? 昔は体育館の両側の…。門を入って職員室の横を通って…。」
 ぼく「?…職員室は図書館になりました。」
 A 先生は一度学校をやめて材木屋をしていたが、いまは長田町小学校に勤めておられるそうだ。われわれは初めのうち、いまの勤めを知らなかったから、「休みは退屈」の意味が分らなかった。先生は、鼻の奥につかえるものを振り払うように、勢いよい「くすん!」を何度もされる。これが癖のようだ。シュロの葉で作られたうちわの柄はぐらぐらしている。
 Lotus が先生を訪ねることがあるかを聞こうとしたとき、以心伝心のように、先生から先に質問が出た。「KZ どこへ行っとる? 菫台か。クラブは?」さぁ、映画研究クラブだったかと思うが、はっきりとは知らない。昼会ったとき Jack に見せていた彼の手帳の一ページ半に、最近見た映画の題名が細字でいっぱい記されていたのを思い出し、そのことを話した。金大付属高校へ行っている Chawan や Gacha の勉強ぶりを聞きたかったのだが、その機会はなかった。(注 2)
引用時の注
  1. Sound と私が小学校 6 年のときのクラス担任。
  2. Chawan こと Y・H 君は、Lotus こと KZ 君と同様、早く死亡した。Gacha こと H・I さんはカリフォルニア大学名誉教授(日本文学専攻)となり、いま神戸に住む(彼女の父君は学士院賞を受賞した金大医学部教授だった)。専門も働いた場所も離れていたが、彼女は私にとってよいライバルだった。A 先生は 2012 年に卒寿を迎えられ、われわれの喜寿と会わせて祝うクラス会が開催された。

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