2013年4月11日木曜日

トルストイの言葉に思う


高校(1 年生)時代の交換日記から

Ted: 1951 年 8 月 16 日(木)曇り、午後晴れ(つづき)

 接近、それがわれわれを最も危なく…。だから、A 先生はそのことに感心してはいなかった。二水や菫台が一番評判がわるいそうだよ。(注 1)

 ——そのこととこのことは別かもしれないが…。初めはたいして気にもとめないでいて、それから真価を認め、それから…。
「人々に対する吾々の感情は彼等を一つの色に塗りつぶしてしまう。」(『トルストイ日記抄』、一九〇〇年八月七日付け日記から)(注 2)
決して一つの色とは思っていない。そのつもりでも、もう一つの色がどこにあるか分らなくなりかけているのじゃないかな…。それでは駄目だ。もしかすると、そんな…

 夥多のことを考えたが、書けない。昨夜 Sound と、家々の中から道路へはみ出している電灯の光線が作る自分たちの影の動きを速く感じながら帰るとき、『復活』の中で何が復活したのか、いまのぼくは何を復活させなければならないかが分ったように思ったが、そもそも漠然とした考えだったから、忘れてしまった。

 独りだ。祖父は Y 伯母の家へ。それというのも、母が田舎へ墓参に行ったからだ。一昨年までは、毎年ぼくも行ったのだが…。昨年は、母が日光で講習を受けていたので、ぼくは一人で宇波という海辺の村(注 3)にある父方の H 伯母の家へ行った。そこは祖先の墓のあるところからやや離れている。今回は、京都から帰って疲れていたのと、宿題で忙しいのとで、母に同行することを拒否した。
 夕食にはぼくも Y 伯母の家へ行って来た。カボチャとナスをどろどろに煮た、酸っぱいスープが出た。中華料理風の味だ。Y 伯母と母は、姉妹でも料理の味が異なる。
引用時の注
  1. ここまでは高校生男女間の「不純」交際のことを書き、次の段落では、自らに芽生えた思いについて書いている。これが「不純」とは無縁であっても、そう思われたくないという気持や、そこへ知らず知らず落ち込んではいけないという抑制心との闘いが、私の高校時代にはあった。
  2. トルストイの日記はこのあと、「——吾々が愛を持てば、彼らはみな吾々の目に白く見え、愛を持たなければ、黒く見える。ところがすべての人々には黒いところと白いところとがあるのだ。愛するもののうちに黒いところを、そして主要なことは愛しないもののうちに白いところを探せ」と続いている(除村吉太郎訳、岩波文庫、1935、p. 184)。このあと私が、人々が二色だけで出来ているかのように、「もう一つの色」と書いているのは、ここに引用した通りトルストイが白と黒を使って記していることによる。『トルストイ日記抄』は、私のこの夏の日記に既出の京都行きの際に、持参して読んでいたことを覚えている。京都から帰ったあとの私の日記に単語や短い言葉を並べた記述がよく出て来るのは、その影響らしい。
  3. この辺りの村々はその後、氷見市(富山県)に編入された。

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