2013年5月10日金曜日

ブレーブスが敗れると…


高校(1 年生)時代の交換日記から

Ted: 1951 年 9 月 7 日(金)晴れ

 「中庸な判断」ということこそ、ぼくの性質の中で自慢出来る少ないものの一つだったように思う。これがくじかれたのはどうしてか? きょうはまだ何も判断を誤っていないが、なぜか、こう自分を責めてみたい。
 「敗戦投手・天保(注 1)」と明け方の夢で叫び、起きて新聞を見たら、本当にそうだった。阪急ブレーブスのファンになってから、いま頃の時期になってもまだ下位にくすぶっているというシーズンは初めてだ。阪急が敗れると、妙なことに、ぼくは自分の遅滞や退歩を責める。「敗戦投手・天保」は、自分に反省をうながす機会を作り上げる。

 Pentagon 先生は大きな声で恐ろしくもない説教をした。木魚を叩くような声、白目の部分が薄黄色い目、文法的な間違いの多い言葉、…先生のすべての調子が「図画科の講義を他の学科と同様に静聴する」ことを不可能にする雰囲気を教室に満たしてしまうから仕方がない。壁を真っ赤に塗られた室内で方程式を解け、あるいは、思索に耽れ、といわれるようなもので、なすべきことにしっくりしていない環境でことをなすのは困難である。暗い部屋で楽しい遊びをしようとしても、気持がはずまないのと同じである。

 Hotten がうちへ寄って、連立方程式を初めから習って行く。彼ともあろう者が、解析において、紫中でのぼくの「歌う練習」の進度と同様とは、どうしたことだ。

 Vicky はどう解釈したのだろうか。(これでよし。悩ましく不可解な問題で、われわれの通信帳に書くことを避けたものは一つもなくなった。(注 2)
引用時の注
  1. 天保義夫は 1942 年に阪急軍へ入団、1943 年にノーヒットノーランを達成。戦時中の工場での勤労奉仕で右手中指などを負傷したが、海外の情報が乏しい中でナックルボールを習得し、1946 年から 5 年連続 2 桁勝利。1949 年には 24 勝を挙げ、うち 7 勝は巨人からで、「巨人キラー」として名を馳せた。1950 年には 18 勝しているが、負け数が 24 で、不名誉なパ・リーグ最高記録となっている。この日記の年、1951年は、9 勝 10 敗という落ち気味の成績だった。(『ウィキペディア』を参考にした。)
  2. 「書くことを避けたものは一つもなくなった」といっても、書き方が抽象的で、Sam には何のことか分らなかったに違いない。この「悩ましく不可解な問題」については、後年、英文の短篇小説 "Vicky: (A Novella)" で扱ったが、Sam が故人となった直後のことだった。

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