2013年5月30日木曜日

HR をよくする座談会


高校(1 年生)時代の交換日記から

Ted: 1951 年 9 月 25 日(火)曇り[つづき]

 一限に筆入れを床に落として、左斜め前の席の Vicky に拾って貰うはめになり(注 1)、いい気持じゃなかった。

 H 時の「ホームをよくするための座談会」は、先週決めておいた司会者 OB 君が取り仕切った。彼は最初に、「ホーム委員長として、[ホームの雰囲気や運営などについて]よいと思ったことや反省すべきと思ったこと」を述べるよう、ぼくに求めた。「ホーム委員長でなく、ホームルーム委員というのが正しい」といいたかったが、それはやめて、「何もありません」と、あごで押さえるようにしていった。どこかで聞いたような言葉だと思ったら、第一回アセンブリーの公聴会で、元生徒会長の UE 君が最初にいった言葉だった。
 少し静かな時間が続いてから、Atcher が「体育委員が運動具の借り出しに手間がかかり、ホームの時間に運動競技をするとき、能率が上がらない」というような発言をした。次に、カンナを見事にかけられた材木のような感じを与える女生徒が、ぼくが以前思っていて最近は忘れていた「生徒会議員は議会報告をして欲しい」という意見を述べた。次にも誰かが議員を非難したので、OB 君が「議員の悪いことが挙げられましたが」というと、 SM 議員が「ぼく、何も悪いことしてません」と、叱られた子どものような発言をした。ぼくは、「生徒会会則に定められていることを実行していないのは悪い」といおうかと思いながら、白い袖にうつ伏せている削りたての生木を見ていて、その機会を逸してしまった。
 HRA が「休み時間と混同しない」自由時間なら設けてもよいなどと割り込んだ。Atcher が、それはもう要らないといって、また静かになったあと、AK 君が初めて発言した。「何も意見の出ない雰囲気を直すために投書箱を作っては」という提案だった。OB 君が「ぼくには、それを討議して貰って採決する権限がないから、三分の二以上の賛成があれば、ホーム委員にいまからこの問題を…」と、変な方向へ持って行こうとした。そこで、まだ座談会であるうちに、ぼくは投書箱の無益であることを述べた。それまで大人しくしていたもう一人の生徒会議員 Yotch がここで、「自分は投書箱に反対です」と、ぼくのように婉曲ではない表現で意見を述べた。その調子が、いまこの問題を否決してしまえといわんばかりになったので、OB 君は「それは困る」と制止した。
 「そうですか」と応じた Yotch は、続いて、それまでの中でこの座談会の主題に最も当てはまった意見を述べた。その要点は、内気な者の多いこのホームをよくするには、そんな「性格をガラリと変える」ことが必要だというのである。ぼくは、「性格をガラリと変える」ことの困難さと不必要性を述べた。社会集団的原理といったものを持ち出し、必要に当たってそれ相当の態度を取り、かつ行動することによって、建設的な雰囲気はいくらも作れるという論を展開した。Yotch が「もう一度いって下さい」といった。ぼくは、大阪城見物の際に天守閣でバスガールが自分の説明のあとにいった「自分ばかり分ったような」とは反対の、「自分でもはっきり分っていないのですが」という言葉で再度の論述を始めたが、笑いのやむまでしばらく待たなければならなかった。(注 2)
引用時の注
  1. Vicky が左斜め前の席にいたのはヨウコ先生の「解析 I 」の時間だっただろう。これを機会に彼女と仲よくなっておけばよかったとは、いまだから思うことである。当時は、男女生徒が教室で親しく話し合っておれば、不良じみていると思われたり、すぐに揶揄の対象にされるというような雰囲気だった。その雰囲気を私がさらに誇張して受け止めていたところもあったかもしれないが。また、Vicky に対しては特に、ライバル意識プラスαがあって、このあとに書いている通り、親切にされるのは「いい気持じゃなかった」のである。
  2. この記述からは、座談会の終り頃になってホームルームの雰囲気がよくなったように見えるが、その後はどうだったのか記憶になく、読者の方々と一緒に、これから先の日記を見て行かなければならない。なお、Yotch は保険会社に就職、のちに関連子会社の社長を長年務め、退職後郷里に戻り、紫中のわれわれの同期会会長と石引小学校クラス会幹事も引き受けてくれていて、私はいまでも世話になっている。

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