2013年1月26日土曜日

思い出にまつわる歌


高校(1 年生)時代の交換日記から

Ted: 1951 年 7 月 1 日(日)晴れ

 試験の準備をいやでもしなければならないと思うと、時間が長い。「何びとも自分の負担を最も重いものと思う(セネカ)」という原理によって、屋根の下に押しつけられている。空は澄んでいて、その下に散らばるガラクタも秩序あるものも、絵筆を揮うには白のチューブ一本を使い果たさなければならないほどに輝いている。せめてカレンダーに赤字で示されるきょうは負担を忘れたいと思うが、きょうこそ追い込みの日だと、試験問題の作成者たちや、それを解くことになる仲間たちは解釈する。この解釈にも従わなければなるまい。(以上、午前に記す。)

 脚だけの運動は充分過ぎた。Sam の行動の推測は難しい。犀川の方へ回った。河童たちが河原の石ほどもいて、歓声や喚声をあげて流れと戯れている。見下ろしているだけでは、少しも涼しくない。涼しい色の着物の揺らめきのような川の風景から離れて、公園を通った。陰や日向や緑の下で憩いをとっている人々の間を抜け、四本の黒いヘビが真っすぐ平行になって寝ている道(注 1)を歩む。斜め後ろから自転車がぶつかりそうになって来た。避けた。まだ来る。下手な乗り手だなぁと思って、いっそう身を避けようとすると、名前を呼ばれる。髪の長い青年だ。誰だ? こんな奴に知られているはずはないと思いながら、よく見直す。ギター弾きのジカ(注 2)だとようやく分かり、頭を下げた。ジカは、「どこへ行って来たがヤ?」、「いま、どこへ行っとるがヤ?」と質問してから、「先に行くナ」といって、超スピードでペダルを踏みながら去って行った。

 レコードがまたかかっている。軽快で浮きうきする曲だ。目と鼻の間がきゅんとなる。過去の思い出に浸ろうとするときの癖だ。思い出には、しばしば歌が伴っている。東京からの疎開児・SND 君とよく遊んだ七尾の小学生時代の思い出には、♪無限軌道よ轟々進め…♪という軍歌がつきまとう。赤レンガ造りの大連嶺前小学校へ転校したばかりの頃は、「軍旗」(注 3)。瀬尾先生の国語、仲谷先生のホームルーム、チョンス先生の科学(中学2年)などは、「青い山脈」。同じ頃でも英語の授業の思い出は、なぜか「銀座カンカン娘」。ミッタ君が編集長になった頃(中学2年の3学期)は、♪俺は村中で一番/モボだといわれた男…♪(注 4)。イーゼル・ペイント(注 5)を使った絵を描いていた頃(中学3年)は、「ボタンとリボン」。「ビールス的精神学者」先生と YMS 君が争っていた頃は、♪ぼくは特急の機関手で…♪(注 6)。最近の忘れられない事件の頃は、♪ラララ赤い花束車に積んで/春が来た来た丘から町へ…♪(注 7)。歌の種類は、ずいぶん不規則なようだが…。
*
Sam の欄外注記
* 「なつかしのメロディー」でも編曲したらどうだね。


引用時の注
  1. 金沢市石引町の電車通り(当時)をふざけた表現で記した。公園は兼六園。
  2. 高校へ進まなかった中学同期生だったか。
  3. ♪軍旗、軍旗/天皇陛下のみてずから/お授け下さる尊い軍旗/…♪ 小学校(当時は国民学校という名称)3 年生の音楽の教科書にあった歌。
  4. 「洒落男」、創唱・二村定一。榎本健一が歌って有名になった。
  5. 当時発売されたつやのある不透明水彩絵の具の商品名。私はこれを使って描く絵のコンクールに出品し、石川県の中学校で 2 名の金賞受賞者の一人となった。もう一人の受賞者が Vicky だったことを、何十年も後になって、高校同期会の折に知った。
  6. YMS 君は何らかの理由で 2 年留年したことのある長身の男子で、先生の不興をかう所作をよくしていた。「ビールス的精神学者」先生は、彼のクラスの担任だったか。♪ぼくは特急の機関手で…♪ の題名は「僕は特急の機関士で」(機関手とも表記された)。NHKのラジオ番組「日曜娯楽版」で1950年10月から放送された。
  7. 「春の唄」。1937年に国民歌謡として作られた古い歌だが、当時またラジオからでもよく流れていたのだろうか。中学の卒業式も近い頃のアセンブリーの時間か何かの折に、女生徒が歌ったようにも思う。

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