2013年2月18日月曜日

真っ白な Affability


高校(1 年生)時代の交換日記から

Ted: 1951 年 7 月 13 日(金)小雨のち晴れ

 困難な仕事だったけれども、今度は出せるから、形式上は成功だ。控えは取らなかったが、あれから十五行書いた。六つの人名がその中に入っている。外国人も一人いる。どうだね。
(注 1)

 何ともいえない一瞬を経験した。その一瞬は、それまで分らなかった affability というものを分らせてくれた。それは確かに、affability だった。Affability と呼ばなくては、ほかに呼ぶことの出来ないものだった。これを示したのは、しなやかな身体や豊かな胸を持っている存在だ。その存在の、生木の切断面のような雰囲気を持つ顔の中で動く唇を見ていると、空で変化する雲を見ているよりも飽きることがない。しかし、ぼくは、その奥に何か胸につかえるものを感じていた。存在そのものは軽やかなのだが、周囲には重々しさがたれ込めている感じがあった。その存在は潤いを与える役をする。潤いを受け止めるには渇きが必要だ。その渇きが、不自然に起こって、不自然な潤いが与えられる。これまで、その存在がぼくに与えていたのは、そういう印象だった。
 ところが貴重な一瞬がこの印象を破って、affability という言葉で呼べるものをその存在の中に発見させたのである。その存在が弁当を開きかけているときだった。ぼくの役目がその一瞬を作ることを余儀なくした。
 そして、それは affability だった。以前にも多く経験しているはずの、しかし、それと気づかなかった affability だった。あのとき、何を持って相対されるとぼくは予期していただろうか。—— Affability というものに気づいていなかったぼくには、予想不可能だったのだ。
 真っ白な affability ——。Affability には万人向けのものと、それよりも小さい正整数のない正整数同士のものとがあろう。細かく分類すれば、用途にもいろいろあるだろう。しかし、きょう見たのは、対人関係の根本、われわれが転がるためのベアリングとしての affability である。澄んだ川底を転がっている石ころのようなわれわれであっても、整備された舗装道路を高速で駆け抜ける車が持つような優れたベアリングを必要とする。水面を透して射し込んで来る日光を受け取っているだけでは不足なのだ。われわれは常に与えようとし、与えられようとしている。全てのわれわれの間で——。
(注 2)(つづく)
引用時の注
  1. 友人への手紙を書いたということであろう。「あれから十五行書いた」とあるので、途中までは Sam に見せてあったもののようだ。宛先も内容も、いまは記憶にない。
  2. 小学校でクラスは異なっていたが美人の噂の高かった女生徒(中学時代は学校も異なっていた)と、高一のホームルームの時間だけ出会うことになり、彼女は気になる存在の一人となっていた。先方は澄ました人物で、こちらには無関心だろうと思っていたことが、「周囲には重々しさがたれ込めている感じがあった」という表現になったのだろう。この日、ホーム委員としての役目上、彼女に話しかける必要が生じ、さわやかな愛想のよさで応答され、感動したのだと思う。具体的なやり取りを記しておかなくて、記憶にもないのは残念な気もするが、喜びを抽象的に記し、そうすることをまた喜ぶのも、青春時代特有の現象であろう。

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