2013年2月11日月曜日

溺れた者の救助法を習う


高校(1 年生)時代の交換日記から

Ted: 1951 年 7 月 9 日(月)薄曇り

 国語乙の先生の話は、「彦星と棚機津女(たなばたつめ)と今宵逢ふ天の川門(あまのかわと)に波立つなゆめ」の歌から始まって、「盂蘭盆」、「はやりにて撫子(なでしこ)飾る正月に」等々、尽きない。これは面白く聞いていたのだが、あとの試験の点数発表が全然気に入らない。

 『大地—分裂せる家—』の王淵(ワン・ユアン)のように、二つの選択の間をさまよう。さまよっていても、行き着くところは「何ものをも恐れることのない」ところでなければ、われわれは険しい山の途中で、麓へも下りられず、頂上の友の足元へたどり着くことも出来ない落伍者となるのだ。淵は、行き着くところへ通じる道を美齢(メイリン)と手を取り合って、はっきりと見ることが出来た。行き先を見分けるのは、決して一度だけでよいのではない。

 伝聞や記憶の間違いは多い。Jack がいってくれたオールスター戦のことに、間違いが沢山あるのに驚く。五割でなくて、四割四分四厘だし、最終回でなく八回だし、木塚は飯島だ。しかし、Vicky は多くのことを確実に把握している。肺胞の説明をすらすらとやってのけた。手を挙げたのは彼女一人だった。これを認め…。話が元へ戻りそうだ。やめておこう。

 体操の時間、夏休みに行なわれる大会(日米対抗陸上、何とかのバレーボール、何とかのハンドボール)の宣伝や、夏のスポーツ(水泳、登山)に必要な常識的訓話がある。溺れた者の救助法の説明は愉快だった。
「バタバタやっとる間はそばへ寄ってはいかん。死ぬちょっと前に行って、あごに手をかけて引っさげて来る。ちょっと静かになったと思うて、はよ行ったらダメや。死んだふりしとったがが、ヤーと力一杯しがみついて来たらどうも出来ん。油断ならんもんや。」
これが、その要約である。先生が水を吐き出させる手本を示すために「溺死しかけの者」にさせられた、背が低くて女子のような顔の、しかし、きりりとしている友は、先ほど食べたばかりのものを吐き出しそうで、かわいそうだった。(つづく)

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