2013年2月24日日曜日

MR 君の休み中の計画


高校(1 年生)時代の交換日記から

Ted: 1951 年 7 月 17 日(月)雨のち止む(つづき)

 MR 君は model plane など作って、おとなしく家にいた。彼が家にいたため、明日、へんな結果が生じることになってしまった。仕方がない。二階の彼の部屋へ上がる。彼宛にきょう出した葉書中の想像は正しかった。休み中の計画(という名において、堅苦しいもの)が、ミカン箱を左右の脚の下に置き、椅子に腰かけて使えるようにした机の前に貼ってある。
 「十二時間以上勉強すること
  京大目差して」
(注 1)
などと書いてある(「十二」の文字には◎印が添えてある)。「努力」の二字を書いた紙もその横に貼ってある。貼り紙は合計五枚もある。額に市長賞を入れて掛けてある。後ろの本棚には、父君の日本古典文学書がずらりと並ぶ。
 「わっしゃ、生物悪かったわーィ」、「英語に 8 があるさかいな、これないがにせな。単語どうして覚える?」、「夏休み終わったみたい気して仕方ない。秋みたいやな」、「何する? 話するか? 対談。Please sit down!」などの言葉で、小柄な秀才君との時間は始まる。「でかなったがんないかいや」と、改まって白い顔でぼくを見上げたりする。会話にはあまり弾みがつかない。

 彼の隣りの妹の机の上にある英語の宿題のプリントで、ぼくは誤字発見機
(注 2)の性能を試した。野田中の二年生である彼の妹のプリントを作ったのは仲谷先生だ(注 3)。先生は相変わらずそそっかしい。tuilp、真験、自分自信、ひと目でこれだけの誤字を見つけた。一枚目のプリントの上部に Home Task とあり、その横の文字が勇ましく面白い。「自分でやれ」。二枚目の下三分の二ぐらいに、蟬が鳴き、雲の湧いている詩(英語じゃないよ)が書いてある。詩のあとに自分の名の果(たかし)の代りに多加志と書いて、タカシと仮名をつけてある。阿呆の呆より一つだけ上の果に飽きて、多加志を売ろうとしているらしい(注 4)。先生は、一九四九年九月十二日(月)に "We can see neither the little girl nor his father." を訳す問題を出された。この答案にぼくが、his を斜線で消し、her と書き添えて出すと、"O! I am sorry." と朱書して返って来た。好きだ。いまでも、"O! I am sorry." が必要だ。
 MR 君の玄関で、「いつか遊びに来い。いつ来る?」というと、「気の向くとき」と答えた。それは物騒だ。しかし、明日届く葉書で条件などを伝えられるのだから、心配はいらない。「明日驚くな」ともいわないで別れた。

 雲がちぎれて来た。紫。橙。そして空色。昨日から何もしていない——。だけど、時は流れている——。
 何もしていない。赤い。ガチャガチャガチャガチャ、ヒクヒクヒクヒク、ジーなどの音。涼しい。澄んでいる。赤い。青い。そして、全てが藍色がかっている。
 Neg の声はすぐにそれと分る。彼のはずだ。Sound とその弟もいる。Neg は、明日来るぞ、と Sound に告げて、飛ぶように去った。
 下駄の音。手も脚も赤い。ときめく胸は白い。
 また、下駄の音。小石を押しつぶすような自転車の音。
 赤は灰色になった…。空色は薄くなったが、空色だ。
 黒くなって来る…。
 これは詩じゃない。姿と思と始だ。
 何も聞こえない。さあ!
 何が始まろうとしているのだ?
 待っていても始まらない。
引用時の注
  1. この文字を見て、それまで地元の金沢大への進学しか考えていなかった私は、「そういう手もあるか。伯父が京都に住んでいるから、困ったときには相談にも行けるのだ」と、京大を志望する気になった。MR 君は、私の進路によい示唆を与えてくれた陰の恩人である。
  2. 私がよく誤字を指摘することから、Sam は彼のアルバム中の私の紫中卒業交換写真への説明に「誤字発見機」と書いていた。
  3. 仲谷先生は、私が紫中の 2 年生のときのクラス担任で、英語も習ったが、学年途中で転任された。
  4. 「多加志」はペンネームだったのだろうが、「阿呆の呆より…」などと、私も恩師に対して失礼なことを書いたものである。しかし、このあとで「好きだ」と書いているところを見れば、先生のあっさりした性格を好んでいたのである。

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