2013年2月19日火曜日

夏休み前日


高校(1 年生)時代の交換日記から

Ted: 1951 年 7 月 14 日(土)晴れのち小雨

 普通ならば Sam のブランク時間である時間には、ホームへ入った。大掃除の割当をして、奉仕に取りかかったが、一番楽だと思ったわれわれの作業は最も辛いものだった(セネカの原理
(注 1)かも知れないが)。われわれが担当したのは中庭だ。イチョウとカエデの枝が切り下ろされて、山積みになっている。われわれはシャツやズボンを泥まみれ、露まみれにしながら、それらを引きずって運んだ。運んだ跡の地面には、密林から大蛇が這い出して通りすぎたかのように、ベトベトで拾いたくもない細かい枝が、長く平たく連なる結果となった。
 次の時間はクラブ。ぼくの好まない計画の討議だ。しかし、絶対的理由があって、決定事項には参加しないから、平気で聞いていた。
 最後の時間には再びホームへ入った。Crow 先生は、紺色のズボンの前をベルトの上へ繰り返し引き上げながら話された。「恥ずかしいということを考えないで下さい。かといって、恥を知らないでは困ります。恥を克服するつもりで、ひとつ、一学期に不十分だったところを、二学期にしっかりやって下さい」と、われわれがいままでに何度となく聞いて来たのとあまり変わらない内容だ。先生が教壇で頭を下げられ、それに対してわれわれが「さようなら」といったり、いわなかったり、礼をするものと、しないものとさえいたりした後で、わがホーム選出生徒会議員の SM 君、ホーム会計の OB 君、それにホームルーム委員のぼくは、重大な相談をしなければならなかった。それは、恥ずかしくて、困難で、不運で、失敗で、ある理由があって Crow 先生には相談することの出来ない問題だった。ことの中心に Crow 先生 が関係しているのだから。三者会談は成功した。ホーム会計が、この場合にそれが出来得る限りの善処だと思われる発案をしたからである
(注 2)
 枝の引きずり作業時からズックの底の剥がれがひどくなり、右足を踏み出す毎に、前部のペランペランが裏へ曲がったり、床でペタンと音をたてたりするので、不愉快だった。(つづく)
引用時の注
  1. 7 月 1 日付けの日記に引用したセネカの言葉「何びとも自分の負担を最も重いものと思う」を指す。
  2. ホームルーム・アドバイザー・Crow 先生の幼い子息の一人が病死し、ホームのメンバーから香料を徴集したのだが、徴集が完了したのは先生が忌引きも終わって出勤された後で、私は先生に渡しにくくなり、そのまま保管していた(少しの遅れぐらい構わずに渡せばよかったと思うのは、後の知恵である)。この「三者会談」では、その金の扱いを討議して貰った。OB 君が、学年終了時に先生への感謝の記念品代とすることを提案し、その執行については、私から次期ホームルーム委員に依頼することになった。私は、その依頼をする際にも、私が渡しそびれたという理由での恥ずかしい気持があり、それを紛らわすために、古文調で説明を書いたメモを後期ホームルーム委員の M・U 君に手渡した。彼は、「候文のすばらしい手紙を貰った」などと、そのときのことを覚えていて、最近も語っていた。こちらの恥ずかしい思い出が、向こうのすばらしい思い出になっているのはありがたいことである。

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