2013年2月13日水曜日

「臼杵」を「ちゃうす」と


高校(1 年生)時代の交換日記から

Ted: 1951 年 7 月 11 日(水)雨のち曇り

 竹谷先生は昨夜、いや、けさの五時までかかって出した、通知簿につけるための十点満点の「素点」の話をされ、それが、授業を進める時間の倍の長さも続いた。10 は各コースとも 0 人。9 は D コース 1 人、E コース 2 人、F コース 4 人。 3 以下は各コースとも 0 人。要注意者の 4 は…、などなど。先生は初めに「だから、いまは目があかない」といわれたが、疲れた様子もなく、統計の発表に余念がない。オタケは、「ちゃんと、目あいとるがいや」と、つぶやいた。ぼくも、誰にも聞こえないようにつぶやいてみた。「表を作って来て発表しろ。」
 一限の体操のときは、まだ雨が止んでいなかったので、教室で水泳の講義があった。Char は『運動競技の解説』の p. 16 を読まされ、プラトンをプラントと読んだ。「いわゆる先生」が、『のらくろ』のブル連隊長の子どものような口をして、「いわゆる」を連発しながら話を進められたことに変わりはなかったが、「臼杵の山内流」を「ちゃうすの山内流」に決め込んでおられた。東九州代表の臼杵高校というのが、昭和二十四年の夏、甲子園で北陸代表の武生高校を 6X–2 で軽くあしらった試合の放送を聞いたので、ぼくはその正しい読み方を知っている。(しかし臼杵高校は、優勝した湘南高校に 2X–1 で破れた松本市高校に、同じく 2X–1 で破れてしまっている
(注 1)。)(つづく)
引用時の注
  1. 昭和二十四年は、1949 年であり、この日記の 2 年前になる。ここに記されているスコアは、甲子園大会の記録をまとめた新聞記事の切り抜きを見て書いたのだろう。当時、6X–2 は 6A–2 のように書く習わしだったが、ここでは今風に書き換えた。ちなみに、その年の優勝校・湘南の宝生遊撃手は、大連でわが家の比較的近くに住み、大連三中の遊撃手をしていた人だった。新聞で名前を見て、そうらしいと思っていたのだが、後に私の勤務先の事務部に大連三中出身という人がいて、確認出来た。その人は宝生氏の同級生で、「あいつは運のいい奴だ」といっていた。

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