2013年7月5日金曜日

解剖用カエル


高校(1 年生)時代の交換日記から

Ted: 1951 年 10 月 25 日(木)曇り

 まだ咳がやまない。旅行的遠足のコースが大聖寺—橋立—片山津と変更になったことも、まだ書いていなかったね。
 一限の生物は解剖だったが、試料を捕まえていなかったので、Wacker や M・ST 君(彼はいつどこから移って来たのか、上石引町に住みながら、百々女木や木曽坂を知らない)と、始業の前に裏門を出て、先週の土曜日の生物の時間に何を調べるともなく足を動かしたのと同じ道を探し歩いた。じめじめした緑と黄土色の朝は、決して晴れ晴れしくなかった。どぶんどぶんと音がしても、小さな奴ばかり。三つ目のサイレンを聞いてから引き返したが、途中でいまから捕りに行こうとする TKN 君に会い、Wacker は彼と二人でもう一度坂を降りて行った。三つのうち一つのサイレンは他所のだったか、授業はまだ始まっていなかった。カエルを持って来たのは、女生徒に一人と、かなり遅れて入って来た TKN 君だけだった。
 アセンブリーでは、選挙管理委員長の後期役員選挙報告と新生徒会会長の挨拶があった。Elecky は、長身を演台にもたせかけて、「個人的理由で辞表を提出しましたが、否決されまして、悲憤に絶えません」、「自分もいささかそのようなところはありますが、議員の中には誠意のない方がありまして、なかなかはかどらず、それに、私の事務運営のまずさも加わって、未だに文化委員長が選出されていません」などと述べて、簡単に済ませた。副会長の三十一ホーム・MYM さんは、前期初めの TT 君と同様に態度保留中で、われわれの前に姿を現さなかった。
 SH 時に、SMM 君は昨日の交渉結果を発表し、旅館をどうしようかという討議に入りかけたが、「ホーム委員、直ちに交替して下さい」といって、席へ戻ろうとした。「構わん」という声が出て、「生徒要覧に書いてあります」と答えたが、それでも、「やれ! やれ!」といわれ、司会を続けることにした。先日から旅行のことを決めるのに、「喧々ごうごう」という言葉の七割程度(?)のすさまじさだった。これでは、Deco が C 時に編集室でいった言葉のように、「この部屋がコンクリートで固め」られることになる。それでも、明るさだけは、かもし出されつつある。

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