2013年6月9日日曜日

A さんを見かけながら…


高校(1 年生)時代の交換日記から

Ted: 1951 年 10 月 7 日(日)晴れ

 どうしてあのとき引き返さなかったのだろう。この間も、道に五円札が落ちているのを見た。一、二歩通り過ぎてから、拾おうかと思ったが、戻る気にはならなかった。これの二十倍ぐらいの値だったら戻っただろうと自分に尋ねてみた。——きょうのはこんなことではない。県庁前の付属中側の停留場で電車を待っていた、やや面長で健康そうな顔色をした女生徒は、A さんに違いなかった。五年ほど前に、格別親しくしていたのだ。わが家が一足先に引き揚げることになった前日、同じ家に住んでいながら、しばらく顔を合わせなかった彼女と一歳年上のその姉に、同じくわが家に住んでいた、「バカヤロ」を「バタロ」としかいえない年齢のカズオちゃんを使者にして「最後だから…」というようなことを伝えて貰って遊んだ日以来だ(いや、もう一度彼女たちの顔をちらりと見ていた。それについては、あとでふれる)。
 一九四六年十二月頃から翌年二月まで、よく一緒に遊んだり話し合ったりした。母たちは生活のために苦労していた。袋はりの内職や、タンスの中のものを持ち出しての立ち売り…。そんな状況の中で、ぼくたちは毎日のように遊んだ。廊下へ出れば寒さが肌を刺す冬の大連でのことだ。いろいろな事情で五家族がわが家に入り込んでいた。そうなる前には、わが家の後ろの高い崖の上にある家に彼女たちは住んでいた。
 中国の保安隊という軍隊に学校を接収され(校庭の方からは中国語の不思議な号令がよく聞こえて来たものだ)、学校での授業がなくなったあと、グループという名称のもとに町内の子どもたちが集まって、年上の子どもたちから勉強を習った。そのとき、ぼくは彼女たち、A さんの家で勉強したことがあった。間もなく、市内の個人の家も半数が中国に接収されることになり、親たちの郷里が同じ A さん一家にわが家の二階へ入って貰った。ひたすら引き揚げの開始を待つ寒い日々に、彼女たちとぼくはゲームをしたり、さざめき合ったりして楽しい時を過ごした。「二十の扉」がラジオで放送されるようになるとは知るはずもなかったが、ぼくが習いに行っていた英語の先生の教材で覚えた "twenty questions" もした。[つづく]

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