2013年6月10日月曜日

さてどうする?


高校(1 年生)時代の交換日記から

Ted: 1951 年 10 月 7 日(日)晴れ[つづき]

 それから——、別れの時が来た。ぼくたちは先に帰国した。そして、中安藤町の親戚の家に間借りしたばかりの頃だったか、ぼくたちのあとの大連からの引揚者たちで金沢に到着する人びとの氏名と列車の到着時刻が新聞に掲載された。その中に母の知人で、臥龍台にあった家へぼくも行ってダイヤモンドゲームで遊んで貰ったり、成人したお子さんがかつて読んだ本を貸して貰ったりしたことのある KT 小母さんの名があり、母は駅へ出迎えに行くことにした。同じ列車で A さん一家も到着すると分り、ぼくも母と一緒に駅へ行った。そこで短い再会をして再び別れた。
 白峰の田舎まで雪道をたどって行った A さん姉妹から、間もなく便りが届いた。「とうとう、またお話が出来るようになって嬉しいわ。」そして、大連の埠頭を出るときのことや、舞鶴の収容所での生活など。ペンで絵を描いて、「山道はとてもこわいです。"なだれ" という、雪が丸くかたまったのが落ちてくるのです。ゴーとすごい音がします。その下に人がいると死ぬのです」と書いたのがあった。姉の R 子さんからの手紙だ。これを読んで、彼女たちの安全を心から祈らないではいられなかった。
 で、きょう見かけたのは、「もう三ヵ月で中学校も卒業ですね。卒業してから私はそちらの泉丘高校にと思っていますが、四年間山の中にひっこんでいたので、実力がついていなくて心配です」というのが最も新しい便りだった妹の Y 子さんだ。
 「おや、こんにちは。」わざわざ線路を横切って近づいてから、「おや」でもあるまい。「やぁ、こんにちは」だろうか。ぼくは眼鏡をかけるようになったから、誰だかちょっと分らないに違いない。「タバタです」とは、いいにくい言葉だ。そうそう、ここに書いてある。Sam のところへ持って行くノートを包んだ黒い風呂敷の、もとの白色が灰色になった糸で名前を記してあるところを広げてみる。……しかし、足を返そうとはしなかった。香林坊で Octo に出会ったとき、彼女を乗せた電車がぼくを追い越して止まった。そしてまた発車し、遠ざかって行った。……さてどうする?(注 1)
引用時の注
  1. 「さてどうする?」と書きながら、このときは、何もしなかった。私と同じ中学から泉丘高校へ行った友人たちはいたが、女生徒のことを尋ねるのは気が進まなかったし、転居した方が連絡して来るべきだと思ったりもしたからだろう。しかし、Y・A さんとは大学 2 年の正月休みに不思議な縁で 9 年ぶりに再会し、近年彼女が亡くなるまで兄妹のような(私の方が 2ヵ月ほど先の生まれ)親しい関係が続いた(ブログ記事「幼友だちが逝く」参照)。

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