2013年6月18日火曜日

精神的食物摂取と創造性追求


高校(1 年生)時代の交換日記から

Ted: 1951 年 10 月 10 日(水)晴れ

 何をしているのか、どうすればよいのか分らない。分ったときには、「こんなことだったのか」と思う。精神的食物をも摂取して成長しなければならないわれわれは、その毎日において、このような迷いに自己を埋没させ、時として目醒める自己をも一息つかせただけで、自己をむなしくして摂取に努めなければならないとばかりに、再びその姿を消すようにしている。しかし、これがわれわれの全てではない。創造的なことを求め、かつそれを形成しながら、他方で新しいものを取り入れるための空洞を心の中においている人々も多い。取り込むことに忙しいわれわれも、出来るだけ「自分の作り出し得るもの」を尊重し、これと新しく取り入れるものとを接触させ、そうすることによって前者を一段と洗練された、より高いものにするという作業を循環的に行なって行きたいものである。——そうするためには、読書の方法が問題となる。(解析の時間のことを思い出して、また、それ以外にも現在のわれわれの生活の大部分に当てはまると思って、書き始めた最初の一行だったが、国語乙の宿題の方へ漕ぎ寄せて行ってしまった。)
 何をしているのか、どうすればよいのか分らない。分ったときには、「こんなことだったのか」と思う。そこに何が不足しているかということ、——読書だけの問題として考えたくない。

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