2013年10月10日木曜日

Ted の高校3年のときの創作「逍遥試し」(2)


 常夫は反論する。
 「といっても、それは単純な経験の思想化のときには当てはまるかも知れないが、複雑なものにも当てはまるとは限らない。」
 ケートが答える。
 「ことばは、ある意味では、物事を抽象化しますが、それが私たちの頭へ飛び込んで来るときには、複雑なものを伴っています。いわゆるニュアンスってものを含んで…。」
 「だが、…さっきから逆接のことばばかり使っていて悪いが、ニュアンスは、ことばが一人の人間の内部に収まっている間だけしか働かないと思う。われわれの一人一人が一つの単語に対して持つ感覚は、厳密にいって同じではない。個人ごとに特殊なものだ。そして、その特殊性は、ことばが表現手段として外部へ出されると同時に姿を消すのだ。特殊な感覚がことばの表面から姿を消せば、述べようとしたことがらの意味もほとんどが発散してしまうだろう。」
 「受け取る方で、また色彩を与えるでしょう。」
 「そこで、ゆがめられる可能性がある。」
 「人の感覚はそんなに違わないものよ。」
 「いや、人間は個性の動物だよ。」
 そういって、常夫は、自分たちが不思議な論争を始めていることを発見して驚いた。《ところで、私はこの論争において、どんな立場をとっているのだろう》と、改まった調子で考えた。空を見上げた。青空が灼熱しているかのように白っぽい。ただ、向こうの山に接している部分の空だけは、うす黒い雲でおおわれているが、それがかえって、いかにも夏らしい感じを与える。単調なアブラゼミの声が耳の奥深くで響く。眼前には、秋の好収穫を予想させるように、イネが波打っている。常夫とケートは、いつの間にか郊外へ出はずれていたのだ。
 《どうやら、私はことばによる表現の限界を主張する立場にあるらしい。》常夫は半分ひとごとのように、こう考えた。《そうすると、これは、最近の私が何とかして理解したいと思っている問題と大いに共通するところがある。…共通するばかりでなく、これが、その問題の解決の鍵になるとも考えられる。》
 常夫が考え込んでしまった様子を見てとったケートは、何もことばを返さなかった。常夫は議論を再開したいと思ったが、一度離した推論と会話の糸は、思うように引き戻せなかった。
 最近の常夫が理解したいと思っている問題とは、彼が武者小路実篤の『幸福者』を読んでいて目にとめた「師」の一言である。「師」は、真心を日常生活に生かし得るものにとっては、ことばは不必要だろう、とか、本当に合点がいく人にはことばは不必要だ、とか述べ、しかし、いまの世には、まだことばが不必要だということは許されず、多くの人はことばのご厄介になって始めて、自覚と信仰とを得るのだ、と切り返して、現実において「道をとく」ことが必要であることを説明している。常夫が注目したのは、ここで「師」がことばを一応方便視していることであった。
 理解を伴わないで話をうのみにすることを嫌う常夫は、現実においての必要・不必要はともかくとして、「師」がそういう考えを前提的に述べている根拠を把握したいと思った。そこには、ことばが不必要であることの深い意義が秘められているように思われた。不必要の意義を究めたものには、ことばをまれにしか使わないことが許されるのだ、というような気もした。それで、ますますその意義を掴みたいと思うようになっていた。
 常夫は考えながら歩いた。しかし、考えはすぐにはまとまりそうもなかった。《私が無意識に、ことばの限界を認める側に立っていたことは、ことばの方便性が少し分かりかけているということかも知れない。だが、あるものが、用途あるいは効果に限界があるというだけで、それを全然不必要と断定し得るだろうか。…限界の外に、真の使用目的があるならば、そういう断定も出来そうだ。…》これだけのことを、相当長くかかって考えた。したがって、常夫とケートは相当長い間、沈黙して、田や畑の間を、あるいは、まばらな人家の前を通り過ぎたのだった。
 ケートはべつに退屈しているようでもなかったが、常夫には、彼女と一緒に歩きながら黙っていることが重々しく意識された。彼は口の中が妙に乾くような感じを覚えた。
 とある古ぼけた神社の前へ来たとき、常夫は突然、
 「別れよう。」
といった。
 「えっ?」
ケートは目を尖らしたような表情で、驚きを示した。 [つづく]

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