丘へ登ると、樹木の深く生い茂った小山の一カ所に、赤茶色の岩肌がむき出しになっているところが望まれた。その下辺りがケートの名づけた「リップの円形劇場」だったと、常夫は覚えている。常夫は急いだ。しかし、赤茶色の岩肌はなかなか近くならなかった。岩肌の上辺りの空は真っ黒だった。
《銀色に輝いて踊り流れていた渓流も、周囲を取り巻いていた緑の照り返しも、滲み出る清水に潤されて細かい光を見せていた岩壁の濃褐色と淡黄色の縞も、きょうは、いつかほど陽気な姿ではないに違いない。あそこでは、もう雨が降り始めているかも知れない。だが、引き返すわけにはいかない。別れたときは、こんなことになるだろうとは、思いもかけなかったのだが…。私の頭の上にも、大粒の雨がいまにも落ちて来そうだ。ケートも空を気づかっているだろう。とにかく、急がなければ…。》
さっと強い風が常夫のシャツをふくらませて吹いた。と、冷たいものが一つ、二つ、首筋や腕に当たった。次第に急テンポになった雨滴の落下は、ぽつりぽつりから、さーっという音へ、さらにごーっという唸りへ進んだ。あたりに君臨するものは、常夫たちの逍遥の始めに地上を光と熱で支配していた太陽を暴力で駆逐した不気味な雷鳴と、白く太い無数の棒となって地に突き立つ雨だった。常夫は夢中で足を動かした。シャツもズボンもずぶ濡れとなって、身体にへばりついた。激しい降り方だ。濡れながら、いや、叩きつけられながら、彼は突進した。
そのとき、常夫は
「田川さーん。」
と自分を呼ぶ声を聞いた。声の方へ全精力をふりしぼって走った。草を踏み倒し、樹木の間を分け、ただ、声をめがけて、道なき道を走った。
「ケート!」
と常夫も叫んだ。
「田川さーん!」「ケート!」
「ケート!」「田川さーん!」
声は急ピッチで双方から近づいた。そして、しぶきを上げてぶつかった。
「田川さーん。」「ケート。」
彼らは、ほっと息をついた。ケートの金髪は肩へ水を流していた。雨の凶暴さは少しも衰えを見せなかった。
「どうしよう。」
「どこかへ行かなければ。」
「どこへ?」
「どこでもいいから。」
彼らは手をとって、小走りに走り出した。暗くて白い、不思議な、矛盾したような世界を、一つの塊になって彼らは走り抜けようとしていた。
「あっ!」
と、ケートがかん高く叫んだ。常夫の右手がぐっと下へ引かれ、次の刹那に彼の足は宙にあった。……[つづく]
《銀色に輝いて踊り流れていた渓流も、周囲を取り巻いていた緑の照り返しも、滲み出る清水に潤されて細かい光を見せていた岩壁の濃褐色と淡黄色の縞も、きょうは、いつかほど陽気な姿ではないに違いない。あそこでは、もう雨が降り始めているかも知れない。だが、引き返すわけにはいかない。別れたときは、こんなことになるだろうとは、思いもかけなかったのだが…。私の頭の上にも、大粒の雨がいまにも落ちて来そうだ。ケートも空を気づかっているだろう。とにかく、急がなければ…。》
さっと強い風が常夫のシャツをふくらませて吹いた。と、冷たいものが一つ、二つ、首筋や腕に当たった。次第に急テンポになった雨滴の落下は、ぽつりぽつりから、さーっという音へ、さらにごーっという唸りへ進んだ。あたりに君臨するものは、常夫たちの逍遥の始めに地上を光と熱で支配していた太陽を暴力で駆逐した不気味な雷鳴と、白く太い無数の棒となって地に突き立つ雨だった。常夫は夢中で足を動かした。シャツもズボンもずぶ濡れとなって、身体にへばりついた。激しい降り方だ。濡れながら、いや、叩きつけられながら、彼は突進した。
そのとき、常夫は
「田川さーん。」
と自分を呼ぶ声を聞いた。声の方へ全精力をふりしぼって走った。草を踏み倒し、樹木の間を分け、ただ、声をめがけて、道なき道を走った。
「ケート!」
と常夫も叫んだ。
「田川さーん!」「ケート!」
「ケート!」「田川さーん!」
声は急ピッチで双方から近づいた。そして、しぶきを上げてぶつかった。
「田川さーん。」「ケート。」
彼らは、ほっと息をついた。ケートの金髪は肩へ水を流していた。雨の凶暴さは少しも衰えを見せなかった。
「どうしよう。」
「どこかへ行かなければ。」
「どこへ?」
「どこでもいいから。」
彼らは手をとって、小走りに走り出した。暗くて白い、不思議な、矛盾したような世界を、一つの塊になって彼らは走り抜けようとしていた。
「あっ!」
と、ケートがかん高く叫んだ。常夫の右手がぐっと下へ引かれ、次の刹那に彼の足は宙にあった。……[つづく]
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