高校(1 年生)時代の交換日記から
Sam: 1951 年 8 月 3 日(金)晴れ
アボットとコステロが出る映画の題名の最初の二字(注 1)を組み合わせたような穴を、 10 cm2 足らずの厚い紙に開けて貰って出るところで別れる前に、二人で半分以上は口を動かさないで、あまり明るいともいえない道を歩いたネ(注 2)。何度も考えるのだが、やはりぼくは何となく歩きたかったからだ。お日様が沈んで見えなくて、いろいろな人工光線がぼくたちの行くところに輝いていたという以外に、さして珍しいとも思わなかった。ぼくが笠市町といったところは、此花町だった。ぼくたちが曲がった次の曲がり角から向こうが笠市町である。
Ted が大あわてでせきたてるので、可愛そうでいて、何かしらおかしかった。ぼくが高松へ海水浴に行ったあの日は、たしか三分前に切符を手に入れて、ブリッジを渡り、列車の最後部の一両前まで歩いたのだが、完全に間に合った。それでもまあ、県内とは違い、それに夜だから、仕方もあるまい。
大急ぎで中橋の踏切へかけつけた。三回ばかり邪魔物が上がったり下がったりした。九時三十二分と数秒で、Ted の乗っていると思われる列車が来た。案外人は少ない。眼前を音もかろやかに通過して行く。アッという間にという言葉の倍くらいの速さで過ぎて行く。人の顔は誰も彼も同じに見えて、誰々であるというほどはっきりとは分らなかった。だから、Ted もどこにいるやら分らなかった。ぼくは踏み切り番の小屋の明かりではっきり顔の分るところにいたから、Ted の方では分ったかもしれない。
朝は八時までに集合ということになっていたが、事実上、仕事を開始したのは九時近くだっただろう。ぼくは芳正君、機動君と一緒に作業する。現在こそ、てんでんばらばらにそれぞれ違った学校へ通っているが、中学時代には毎朝お互いにうち揃って登校したのだから、気が合う。自由労働組合の人々がやるような仕事をするのである。われわれは二輪車で 80 m ぐらいの距離を石ころや泥を運んだ。相当に力が要る。技術も熟練も要する。「他の誰にも負けないぞ!」という意気込みでわれわれは協力し、頑張った。ときには、あまりスピードを出しすぎて、車を横倒しにして中味をまきちらしたり衝突したりなどしたが、元気旺盛であった。それでも、幾回か同じ作業をくり返すうちに疲れた。しばらく休んだ。
それから、学校へローラーを取りに行かなければならなかった。われわれ三人と大人の人たち二人で学校の裏門を出て、ジコウソンで有名だったことのある家の前を通り、長町二番丁に入った。十メートルほど入ったちょうどそのとき、川岸の通りをトラックが疾走して行った。三番丁から行こうとしていたなら、いま頃トラックを止めさせるかどうかしていただろうと思ってほっとする。
石ころ道を引っぱっている間は、戦車が通るときのような凄まじい音がしていたが、宝船路町のコンクリートの道にさしかかると、その音はずっと軽くなっていた。われわれはかなり疲れた。それでも一回も休まないで作業場まで運んだ。お茶を飲んで休んだ。それからの午前中は、モッコかつぎをした。
ようやく午前が終わった。一時半から仕事を再開するという話だった。家へ帰るなり昼食にし、食べるなり横になった。ふと目をさますと、一時。これから Jack の家へ行けばちょうどよいだろうと思ったが、Jack の家での時間は十分ばかりしかないだろうし、もっと余計に疲れると思ったから、また目を閉じた。
午後も午前と同じような仕事をした。しかし、午前より疲れはひどかった。休み休み働いた。こんなのをサボっているというのだろうと思った。そして、日雇労務者の苦労を思い、昼の暑い間、正体もなく横になっているのもなるほどと思った。
Sam: 1951 年 8 月 3 日(金)晴れ
アボットとコステロが出る映画の題名の最初の二字(注 1)を組み合わせたような穴を、 10 cm2 足らずの厚い紙に開けて貰って出るところで別れる前に、二人で半分以上は口を動かさないで、あまり明るいともいえない道を歩いたネ(注 2)。何度も考えるのだが、やはりぼくは何となく歩きたかったからだ。お日様が沈んで見えなくて、いろいろな人工光線がぼくたちの行くところに輝いていたという以外に、さして珍しいとも思わなかった。ぼくが笠市町といったところは、此花町だった。ぼくたちが曲がった次の曲がり角から向こうが笠市町である。
Ted が大あわてでせきたてるので、可愛そうでいて、何かしらおかしかった。ぼくが高松へ海水浴に行ったあの日は、たしか三分前に切符を手に入れて、ブリッジを渡り、列車の最後部の一両前まで歩いたのだが、完全に間に合った。それでもまあ、県内とは違い、それに夜だから、仕方もあるまい。
大急ぎで中橋の踏切へかけつけた。三回ばかり邪魔物が上がったり下がったりした。九時三十二分と数秒で、Ted の乗っていると思われる列車が来た。案外人は少ない。眼前を音もかろやかに通過して行く。アッという間にという言葉の倍くらいの速さで過ぎて行く。人の顔は誰も彼も同じに見えて、誰々であるというほどはっきりとは分らなかった。だから、Ted もどこにいるやら分らなかった。ぼくは踏み切り番の小屋の明かりではっきり顔の分るところにいたから、Ted の方では分ったかもしれない。
朝は八時までに集合ということになっていたが、事実上、仕事を開始したのは九時近くだっただろう。ぼくは芳正君、機動君と一緒に作業する。現在こそ、てんでんばらばらにそれぞれ違った学校へ通っているが、中学時代には毎朝お互いにうち揃って登校したのだから、気が合う。自由労働組合の人々がやるような仕事をするのである。われわれは二輪車で 80 m ぐらいの距離を石ころや泥を運んだ。相当に力が要る。技術も熟練も要する。「他の誰にも負けないぞ!」という意気込みでわれわれは協力し、頑張った。ときには、あまりスピードを出しすぎて、車を横倒しにして中味をまきちらしたり衝突したりなどしたが、元気旺盛であった。それでも、幾回か同じ作業をくり返すうちに疲れた。しばらく休んだ。
それから、学校へローラーを取りに行かなければならなかった。われわれ三人と大人の人たち二人で学校の裏門を出て、ジコウソンで有名だったことのある家の前を通り、長町二番丁に入った。十メートルほど入ったちょうどそのとき、川岸の通りをトラックが疾走して行った。三番丁から行こうとしていたなら、いま頃トラックを止めさせるかどうかしていただろうと思ってほっとする。
石ころ道を引っぱっている間は、戦車が通るときのような凄まじい音がしていたが、宝船路町のコンクリートの道にさしかかると、その音はずっと軽くなっていた。われわれはかなり疲れた。それでも一回も休まないで作業場まで運んだ。お茶を飲んで休んだ。それからの午前中は、モッコかつぎをした。
ようやく午前が終わった。一時半から仕事を再開するという話だった。家へ帰るなり昼食にし、食べるなり横になった。ふと目をさますと、一時。これから Jack の家へ行けばちょうどよいだろうと思ったが、Jack の家での時間は十分ばかりしかないだろうし、もっと余計に疲れると思ったから、また目を閉じた。
午後も午前と同じような仕事をした。しかし、午前より疲れはひどかった。休み休み働いた。こんなのをサボっているというのだろうと思った。そして、日雇労務者の苦労を思い、昼の暑い間、正体もなく横になっているのもなるほどと思った。
引用時の注
- 凸凹。
- 私が京都行きの列車に乗るため改札口を出る前に、見送りに来た Sam と駅近くの夕方の町を散歩したのである。
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