2013年3月26日火曜日

ぼくであってぼくでない時間


高校(1 年生)時代の交換日記から

Sam: 1951 年 8 月 4 日(土)

 詩歌とは静かなるところにて思い起こしたる感動なりとかや、である。ぼくの書いているものは詩歌ではないし、さほどの感動も催していない。そしてまた、静かでもない。それでも、多忙で過ぎてしまった遠い日々を思い出して書くということは、詩歌に匹敵するであろうし、そうでなくても書かなければならない。
 「多忙の大半は無駄である」と誰かがいったように、Ted は多忙はあり得ない、少なくともこのノートを開いて一、二ページ書くぐらいの時間はあるはず、と思っているだろう。だのに、ぼくにはそれが出来ないんだ。そりゃ、心の持ち方一つでどうにでもなる。けれども——だ。
 午前中一杯と夜の一部は、ぼくであってぼくでない。——どこかで聞いた言葉の焼き直しみたいだ。でも、これは抽象的過ぎて、ぴったりしない。時間を拘束されるとか、時間を奪われるといった方がよいかもしれない。——夜のほかはラジオのとりこになる(これが、平凡な一日では、唯一の楽しみ)。午後は暑くって駄目。自然現象のほかに、満二歳にならない人間
(注 1)がいるから、インクやノートは絶対に(といってよいくらい)机上において仕事をすることは出来ない。——(つづく)
引用時の注
  1. Sam の父君はすでになく、母君は再婚して Sam とは別居し、Sam は祖母様と暮らしていた。母君は職についていたので、再婚後に出来た娘である Sam の妹を昼の間祖母様のところへあずけていた。「満二歳にならない人間」とは、この妹のこと。

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