2013年8月31日土曜日

『徒然草』第二十六段や第二芸術論


高校(1 年生)時代の交換日記から

Ted: 1951 年 12 月 3 日(月)晴れ

 国語乙は、先生がわれわれの意見を聞く時間だということで、少し変った授業の進め方だった。前半は『徒然草』第二十六段について先生が解釈を進める間に次々と質問を出されるという形で、後半は、フランス文学者・評論家、桑原武夫の「俳句の第二芸術論」の説明があり、それに関して自分たちの思うことを述べるのだった。Jack が真っ先に手を挙げ、「必ずしも」などという、こういう問題を論じるにふさわしい数個の言葉を挟みながら、「第二芸術」を是とする論を述べた。その途中で鐘が鳴ってしまったが、水曜日の時間にこの続きをするそうだから、楽しみだ。少し考えておこう。
 解析の時間、ヨウコ先生の質問に誰も答えないので、先週から三回ほど連続になるが、一日を通じて三回あれば多いほうの挙手の機会に、ぼくが手を挙げて授業の進行を早めた。しかし、答えてみると、やや見当違いの答だったことに気づく結果となった。
 『徒然草』第二十六段に「忘られぬものから」とあるところを、先生がそのまま読んで行かれたので、脱字があるのではないかと、図書館脇の部屋へ単身乗り込んで、先生にいって来た。いま、『対訳徒然草新解』を開いてみると、「忘れぬものから」となっていて、教科書のほうは、脱字でなく余分な字が入っていることになる。[口訳]では、「忘れられないものの」となっているが…?(注 1)
引用時の注
  1. 「脱字」と思って先生にいいに行った内容と、それに共通する日記末尾のこの疑問は、口語的発想のものだった。

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