
Sam(向かって右手前)と Ted の 1959 年(24 歳)の写真。夏休みに女性の友人たちを誘って旅行したときのもので、場所は志賀高原あたり。Minnie にその友人を連れて来るように誘ったのだが、彼女の友人たちは誰も都合がつかなくて、Sam が彼女の話し相手にと、彼の上司のお嬢さん(Sam の後方に半分見える女性)を誘った。Sam のカメラで Minnie が撮影。Sam の頭上に、遠方の家が小さな帽子のように乗っかってしまった。
Exchange diary between Sam and Ted in senior high school days, Ted's old letters, etc.
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引用時の注
- こちらにある「ジグリー」のことだろう。当時私は歌を歌うことが好きでなく、あとにある「先生」こと、われわれと中学同期の女性(高校時代の日記に Minnie のニックネームで登場)の指導をちゃんと受けていなかったばかりでなく、指導があったことさえも覚えていなかった。「先生」が列車の中で「Oh My Darling Clementine(いとしのクレメンタイン)」(こちらでは、これが主題歌であった映画『荒野の決闘』のシーンをバックに歌われている。日本版歌詞「雪山讃歌」。こちらに両歌詞が掲載・比較されている)を英語で口ずさんでいた記憶はあるのだが…。
- こちらの YouTube 動画で聞ける。
- この歌は知っている。こちらに YouTube 動画が、こちらに歌詞と楽譜がある。
- 私の大連時代の幼友だち姉妹の姉のほうが、彼女の夫と一緒に金沢の中心街・香林坊の近くで、この年の夏に開店し、しばらく続けていたスタンドバー。私が夏休みの帰省中に Sam を誘って一度訪れた。
引用に当たって:先に 私 Ted が 1959 年 12 月 29 日付けで書いた Sam への手紙を掲載した。その主題は、Sam が高校 3 年のときに書いた創作を読ませて貰っての感想だったが、冒頭に、「君の手紙にあった悩みのその後の心境について、『あきらめた』という返答を聞かされたのは、何だかあっけなくて興ざめだったが、…」とあった。Ted がここに言及している Sam からの手紙に相当すると思われるのが、以下に引用するものである。社会人となって 6 年目の Sam が Ted からの手紙を受けて、返信として書いたもので、黒に近い青インクで便箋 4 枚半に及んで綴られている。句点の追加など、読みやすくするための若干の変更を加えて引用する。Ted は友人たちへの手紙をおおむね日記帳などに下書きしていたが、この返信のもとになった Sam への手紙の下書きは、なぜか見つからない。泥の中の眠りから、いま目覚めたところだ。太陽は、やがて西に沈みかけようとしている。よい眠りからは平安と充足が得られるものだが、このような眠りの後には、一種の空虚さが身にしみる。無目的で不確かな生活の連続は、人生を怠惰にする。
引用時の注
- Sam は大手旅行社に勤務し、この頃しばしば旅の添乗業務をしていた。
- この段落は、Ted が、「いま小説を書くとすれば、広範な人々が登場する、政治・社会の問題を含んだ雄大なテーマでなければならない」という意味のことを書いた(実際に小説を書きたいと思ってではなく、いろいろな問題に興味をもち始めていることの表現として書いたのだが)ことへの返答であろう。
2006年にブログに掲載したときの注
- 薄紺色の文字の部分は、引用に当たって付け加えた。(下書きの出来た部分から順次原稿用紙に清書していたので、制限枚数20枚に近づいたことを知ったためか、完成を急いだのか、終りへ来てやや記述の飛躍、あるいは説明不足が目立った。)そのほか、言い回しについては、ところどころ修正をした。特に、ケートの話し方が「てよ・だわ式」になっていた部分は、1950年代にしても古風過ぎると思われたので、書き換えた。
- S. M. は Sam の本名の頭文字。
再掲載に当たって:「逍遥試し」は、高校 3 年の夏休みに、形式と内容が自由で、原稿用紙の制限枚数 20 枚ということだけが決まっていた国語の宿題として書いたものである。最初は論文風の随筆を書くつもりだったが、制限枚数一杯までそういう形式で書ける自信がなかったので、短編小説にしたのだったと思う。そのため、先に掲載した Sam の同時期の創作「橋」に対する私の感想の中で自ら評したように、「小説というよりは小説的粉飾をわずかにまとった対話形式の小論文といった方がよい作品」となった。学校へ提出した清書は返却して貰わなかったが、Sam との交換日記の 1953 年 8 月 5〜9 日のところに下書きが残っていた。それを 2006 年に旧ブログサイト "Ted's Coffeehouse" に掲載したが、同サイトはプロバイダーの事故で消滅した。幸い私のハードディスクに控えを残してあったので、ここに再掲載することにした。前回 (1) を掲載したとき(2006 年 8 月 1 日)に、「大学生になった私自身を背伸びして想像し、それをモデルに、対話と思索を中心にした理屈っぽい創作を書いたようである。いま、引用のための書き写しを始めて、最初と最後くらいしか覚えていなかったことに気づいた」という注を記している。
「私がここでこの欄干といっしょに落ちて死ねば、市でも代りの丈夫な欄干を急いで作ってくれるだろうと思ったものですから。」と晴子がいうところには、鋭い社会批評の片鱗が見られて、ここは私がこの作品の中で一番面白く思ったところである。また、この作品の中では、この前後の、ほとんど発端というべきところが、同時に山になってしまっていると思われる。
引用時の注
- 54 年も前に自分の書いたこの感想を、いま読み返してみると、「細かい点は、[…]口頭で伝えよう」といいながら、書いてあることも、かなり細かい点ばかりという気がする。主題は何で、それがどう扱われていて、その効果がどうか、という大局的な感想が欠けている。第三者(54 年後の私も第三者である)が読むことを意識して書いてはいないので、読んで作品の筋が理解出来ないことは、ある程度止むを得ない。しかし、ヒロインが自殺を考えたのは、深刻なテーマのはずであり、それに対する感想を中心に据えるべきではなかったか。「軽妙過ぎて、深みがとぼしい」は、ある意味では、全体的な感想だったのだろうが…。
Sam の高校 3 年のときの創作への感想を掲載したついでに、消滅したブログに一度掲載した、私の同時期の創作「逍遥試し」を再掲載しようと思う。
「それはまた…。何故死にたくなったのですか。」という会話が橋のところでなされている。そして、二日後に彼らが会ったとき、
「つまりは、生きることに対する望みを失ったからです。生きていれば周囲の人々に迷惑をかけるばかりですが、こうして死ねば、それによっていくらかの人でも不安や不幸から救うことができるかも知れません。」
「もしお逢いできたら何故死にたがっていられるのか、もっと突きとめて、そうしないように注意しなければと思っていました。」という言葉が出て来るのは、読者にちょっと奇妙な感じを抱かせる。「もっと突きとめて」という言葉で、橋のところでの晴子の答えよりも、もっと詳しい具体的原因にさかのぼって聞きたいことを意味しているのだと分らなくはない。しかし、「何故死にたがって」いるかについては、「つまりは」といってだが、相当明瞭な答がすでに与えられ、また、その原因の一端を構成していると思われる彼女の家庭の事情も、喫茶店で話されているのだから、ここでは表現を変えて、「何故生きることに対して望みを失われたのか」とでもした方がよいと思う。——あの頃に君に、デートの場所としての喫茶店の内部の描写が出来たとは、これを読むまで気がつかなかった。——
引用時の注
- われわれが高校 1 年生の終りに近い 1952年 1 月 26 日の交換日記に、Sam は次のように書いていた。
「礼儀作法の規則を定めなければならなかったのは、普通あまりにも安っぽすぎる世間の社交のひんぱんな会合を我慢ができるようにし、おおっぴらにけんかをしないようにするためだ」「他人とつきあっていては、最善の人と交わるにしても、やがて飽きがくるものだ」といった Henry David Thoreau の言葉には、たしかに一面の真理がある。「言葉は思想表現のための便法」という言葉は、上記の Henry David Thoreau の文(Sam の学校の国語の教科書にでもあったのだろうか)から来ており、私が高校 3 年のときに書いた短編小説「逍遥試し」でも取り上げていた。
さらに、「まして私たちは、めいめいの心の奥に、ことばなどでは表現できない深いものを秘めているのだ。そういうものと親しく触れあいたいと思うなら、私たちは沈黙するだけでなく、とても声が聞こえないくらいに、からだとからだとが遠く離れていなければならないのだ。これを標準とすれば、談話というものは、要するに耳の遠い人たちのための方便なのである」とあるのを読むにいたっては、ほとほと恥ずかしくなった。Ted にもっとしゃべるようにといったことが、いかにもぼくの無思慮を暴露したみたいだ。
だが、なかなか難しいよ。ぼくはまだまだ方便に頼らなければならない。
「エーッ!」気合いを掛けて彼女が橋の欄干を越えて川の中に落ちていったのではない。駈けてきた二人が驚いて発した間投詞である。というところは、人をくいすぎた書き方、というより、この作品の他の部分との調和を保っていない、ナンセンス漫画的感覚の文章である。
晴子は、一昨夜、海王小学校の校庭で右足をを前方に軽くあげると同時に両手を叩く動作をする時に、左足がよろめいて、見ている人達の方へ転びそうになった時のような顔をして言った。というのも、当時われわれがときどき使用しあった形容様式であり、その様式としては一つの傑作だが、ここではもっと簡潔にした方が、「まあ、カズオさん!」という言葉の響きを損なわないのではないかと思われる。[つづく]
引用時の注
- 題名はあとに記してある「逍遥試し」。夏休みの宿題として提出したこの作品は返却して貰わなかったが、下書きが交換日記に記されていた。何年か前にそれを読み返したところ、無口だった私の性格を合理化する「沈黙賛美論」のように思った。
- 実際の交換日記上での Sam のニックネームが Something であったのに対応して、私 Ted は Anything だった。
- 「逍遥試し」の冒頭は次の通り。Sam の作品は、同じ 1 行目を使って書き始めていたと思う。
「君はいま何を考えていた?」
照りつける陽光を受けて、それを豊富な葉の間に抱え込んだポプラの木々が微笑むように立ち並ぶ人道を、しばらく無言で歩いて来た常夫は、ケートにこう聞いた。
「……」
ケートは歩きながら、行く手の彼方に霞んで横たわる山の辺りへ向けていた青い瞳をちょっと彼の方へ転じたが、黙っていた。終点で折り返す電車の音が、彼らの後ろの空気を揺すって遠ざかった。- 私の高校 2 年のときの作品。こちらでダウンロードできる。
引用に当たって:Sam は社会人としての 6 年目、私は京都で大学院修士課程 2 年に在学していた年の冬休み、私が帰省して Sam に会ったときに、彼は、高校 3 年のときに書いた創作が掲載されている校誌(あるいは生徒会発行の文芸誌)を初めて貸してくれた。彼の作品への感想を記した手紙を無罫の便箋に鉛筆書きで写したものが、日記代わりに保存してあったのを、ここに紹介する。
上掲のイメージはその 1 ページ目である。ご覧のように、段落の区切りのない文(作品からの引用部分を除いて)が、2 ページ半ほども続く書き方で、全 4.5 ページにおよぶが、ここでは区切りをつけるなどして、読みやすくし、何回かに分けて掲載する。
引用時の注
- 高校時代の交換日記をブログへ引用する際に、S・M 君のニックネームを Sam としているが、実際に日記帳に書いていたのは Something、略して Some だった。彼は Something をもじって「佐武深紅」のペンネームで投稿したのである。
引用時の注
- この 10 大ニュースは英文で書いてあったが、拙いところがあり、ここでは和訳に変えた。
- テレビ放送はまだ始まっていない時代で、紅白歌合戦も新春番組として第 1 回が行なわれたばかりの年である。大晦日には、宮田輝アナウンサー司会による NHK ラジオの人気番組「三つの歌」の特別放送があったのであろう。ここに掲載した日記をもって、交換日記の第 10、11 冊目のノートを、余白を残して終了し、新しい年、1952 年には、 12、13 冊目の新しいノートで書き始めている。
なお、Sam と Ted の交換日記をブログに掲載することは、プロバイダーの事故でインターネット上から消滅した旧 "Ted's Coffeehouse" サイトで、この大晦日の日記から始めたのだった。そして、高校卒業までを掲載し終え、高校 1 年生の未掲載部分へ戻って続けていた。消滅したサイトを、現 "Ted's Coffeehouse 2" サイトに復旧することを試みたものの、交換日記については、目下、高校 2 年生だった 1952 年 11 月 8 日までしか出来ていない(こちらから年月日の逆順でたどって、ご覧になれる。ただし、掲載当時の他のブログ記事も混在する)。しかしながら、未復旧の部分は、私のハードディスクには存在するので、交換日記をディジタル化する目的はこれで達成出来たことになる。したがって、本サイトでの交換日記の掲載はこれで終了し、今後は、友人たちと交換した手紙などを掲載することにする。引き続きご愛読いただければ幸いである。
引用時の注
- 「ホームグラウンド」の気安さで、連想がよく働き、無口な私も話題を見つけやすかったのだろう。
- 辻占売りといえば、太平洋戦争中の幼年時代に講談社の絵本で読んだ乃木希典の伝記に、辻占売りをしていた親孝行な少年を乃木将軍が助けたという明治時代の話があったのを思い出す。戦後もまだ、辻占売りがいたのだろうか。
引用時の注
- この冬休みの前半、Sam が毎日くたくたに疲れるようなアルバイトをしていたのに、私は毎日のように遊んだ話を書いていた。Sam のアルバイトの日記をまだ目にしていなかったとはいえ、悪いことをしたものだ。