高校(1 年生)時代の交換日記からSam: 1951 年 12 月 1 日(土)曇り
> ブランク時には、長らくぶりでタイプをしないことにして、図書館で産経と朝日の両新聞を読んだりした。
「X から始まる単語を五ついえ」と、Keti にいってみる。"Xmas" だけはどうにか答えてくれたが、あとは駄目。ところが、ぼくの "Concise" を開いて驚いた。X は 1 ページ分もない>(注 1)。Xanthic、Xtian、Xenon、Xylograph、Xylophone と、どうやらこれだけを選んで覚えておく。
国語のテストが返される。二枚あるのだが、一枚は −2、−3、−1、…と減点され、「ちりも積もれば山」とやらで、 85 点。もう一枚は、この前の定期考査のだったが、あの時はなかなかやっかいな問題だと思っていたのに、いま考てみると満点を取れなかったのが不思議だ。「げきれい」の「げき」を「ぎょうにんべん」にして −1、他にもう一つ痛い失敗をしたので、二枚の平均は 90 点にほんのちょっぴり足りない(注 2)。
"Y'day" とはどんな意味か分るかい。Yesterday の略だそうだ。「昨日」と書くのより楽で速いようなら、y'day を使おう。引用時の注- 私が常用している英英辞典 Longman Dictionary of Contemporary English は Concise よりページ数が多い(絵や図が多いが)にもかかわらず、 X は半ページもない。他方、時折参照する『ランダムハウス英和大辞典』には、3 ページ余りある。
- 「この前の定期考査」の点は 94 点と推定出来る。2 カ所間違ったから偶数の点であろう。そして、94 点ならば、85 点との平均が 89.5 点となり、「90 点にほんのちょっぴり足りない」を極めてよく満足させる。
高校(1 年生)時代の交換日記から
Sam: 1951 年 11 月 30 日(金)
それでも思うように指が働いてくれない。先週のきょうは、10 分で 1500(注 1) をオーバーした日だった。先の日曜日には、ついに 2000 を突破して有頂天になっていたのだが、この頃はだいたい 1800 ぐらいで安定している。まだ誤字がしばしばで、粗雑だが、一応はいけるようになってきた。
「保健」といえば、誰でも「また Kinta か?」と、うんざりする。アセンブリーは、「保健委員会の報告」であった。初めに、二人ばかりが保健委員会の機構と活動について、うじゃむじゃと、その大部分の時間、視線を机の上に向けて話していた。そのあとで "Kinta" の登壇! Element, ..., emotion, ...(注 2) Kinta 先生は何をいっていたか知らない。引用時の注- 英文タイプの字数。
- Sam は単語集で英単語を覚えていた。私は、英語のリーダーに出て来た単語をほとんど残らず覚えるようにしていたので、単語集を使って覚えることはしなかった。
高校(1 年生)時代の交換日記から
Ted: 1951 年 11 月 30 日(金)曇り[つづき]
生物の時間には、昨日の「話の泉」で最初に誰かが反対に答えたことを習った。(前から知っていることだから、「習った」というより、「出て来た」というべきか。)
社会の時間、先生が入って来られる前に、Vicky が何か懸命に鉛筆を動かしていたので、隣席のぼくは、紫中の田中先生の時間に Sam が何か書いてくれるのを待っているような錯覚に陥った。そして、「労働問題」の箇所で試験に備えて気をつけておくべき事項を先生が口述され、それを筆記しなければならないことも知らないでいた。Vicky が悪いことでもしていたように、やや飛び出て見える目を異様に輝かせながら、何を書いていたのかぼくが永遠に知ることのないだろう紙片をノートに挟んで、鉛筆を取り直したので、やっと自分のなすべきことに気がつき、あわてた。——表紙に工場の煙突が三本描かれている教科書をきょうで終わる。
Ted: 1951 年 12 月 1 日(土)(注 1)
いまから書き続ければ、Sam がこの二週間に使ったページよりも沢山のことがあるだろう。しかし、きょうの午後は何も「積極的に得」たり、「能率的に理解して摂取し」たりしなかった。
両脇に体重を託し、腹部を両手のひらが握っている棒に近づけ、足をどうかしてから、頭を 360° 回転させてその上に上がるという動作は出来ないとしても、おまけに自分の周りにいる少なくない勤勉家たちをして、ぼくの…。(注 2)引用時の注- ノートに日付けはなく、Sam とノートを交換して手にしたばかりのノートの Sam の 11 月 29 日付け日記に続けて書いてある。しかし、続く私の日記は 12 月 2 日付けで、そこには前日 Sam に会ったことが記してあるので、この日付けが推定できる。
- 「体育の時間に鉄棒の逆上がりが出来なくて恥ずかしく思っているので、その上、学課の勉強でも何人かに負けて悔しい思いをしたくはない」ということを途中まで書いたのである。
高校(1 年生)時代の交換日記から
Ted: 1951 年 11 月 30 日(金)曇り
夢想と恐怖。何もかも、一時的なものに過ぎないじゃないか。何もかもが…。何もかもが…。その一時的の中にあって、一時的とは何かを極めようとする。こんなことが偉大だと考えられている。そして、それを信じる。それも一理あるだろう。いや、そうしなければならないだろう。われわれは、それ以上のことについて、知る力を持たないのだから。
こう考えると、中庸ということが分らなくなってしまう。あり得ないと思われて来る。しかし、あのように存在するではないか。
Chons 先生(注 1)が祖父を訪ねて来られたから、驚いた。気の毒にも、先生は聞こうとした話(明治三十五年に出来た金沢博物学会とかのこと(注 2))を聞けないで、興味のない祖父の長話に、もじもじしていなければならなかった。先生の声は祖父の耳に聞こえるにはあまりに小さかったので、初めに自分がどういうものかや、何を聞きに来たかを、半紙に万年筆でしたためた。一行目は下の方に「私は」だけ書くという書き方である。ぼくの父をよく知っていたとも書いた。祖父からは何も得られないと悟った先生は、帰ろうとして、「いろいろお話をうけたまわりまして…」と書いたのだが、それを受け取った祖父は読もうともしないで、「ドイツの婆さんが…」、「レンテンマルク(注 3)が…」と続けるので、可愛そうになった。[つづく]引用時の注- 私が中学で理科を習った先生の一人。とても、もの静かな方だった。Chons のあだ名は、タンパク質を構成する元素、C、H、O、N、S を「チョンス」と覚えればよいと教えたことから。
- 明治三十五年(1902 年)といえば、私の母の生まれた年であり、祖父はその頃、金沢市内のどこかの学校に勤めていたので、Chons 先生は「金沢博物学会」について何か聞けないかと思ったのだろう。
- 当時は「リンテンマルク」という人名かと思って聞いていたが、いま思えば、祖父は「レンテンマルク」(ドイツでハイパーインフレから経済を立て直すため、1923年から発行された臨時通貨。不換紙幣)について話したようだ。
高校(1 年生)時代の交換日記から
Ted: 1951 年 11 月 29 日(木)雨
こんなところだったのか。祖父の手紙を投函しての帰りだ。帰りならば、
こんなことでは、駄目だ。働くことを知らない雄蜂め。何を追う。どこまで追う。そして、自分は何を持っている?(注 1)
地面にたまった水の上一面に落ち葉が浮かんでいて、足駄の歯がどこまで沈むか見当がつかないところを避けながら歩いて来るうちに、もう家だ。
勝利がどんなものであるかは分る。しかし、喜びがどんなものであるかは分らない。これを追求しなければならない。これが分らなかったならば、二つが合わさった勝利の喜びというものは、ぼくの中で、はなはだしく抽象的、観念的なもののままになるか、あるいは、歪められたものになるかするに違いない。そして、そのことが、勝利ということだけを切り離して考える場合にも、それをよくないものにするだろう。
…喜び、やはり、喜びだ、われわれが常にその中に浸っていたいものは。…それについて、どう考察するのが正しいかは分っている。(こんなことばかり考えているようでは、神はぼくに時間を与えることをちゅうちょするようになるかもしれない。この辺で止めておこう。)
…(同じことをくり返しそうだ。無理に押しとどめて、形式的なことを書き、きょうはそれで鉛筆を取るまい。)
Peanut 先生の時間の自習は、Jack の質問に応じたが、その中の二つは家へ帰ってから考えてみなければならなかった。アセンブリーは休会。
帰ってすぐに、教科書を開いてみたら、わけのないことだった。勘違いと軽い忘却とは、しばしば、われわれを襲わないではいない。Jack が日曜日にぼくとしようという総復習は、試験の前に当たって不必要でもなかろう。引用時の注- このパラグラフは、5 行分を消すために貼った紙の上に書いてある。