2013年5月31日金曜日

間接的にでも数学を教えた


高校(1 年生)時代の交換日記から

Ted: 1951 年 9 月 28 日(金)晴れ

 時の経過を待つより他ない。「何とかなってくれ!」といいたくなる。

 三段跳びで世界最高記録を出した選手*と同姓の生徒に、彼の前の席の女生徒が、何度も後ろを向いて二次不等式について聞いていた。彼はぼくに聞いた通りを教えていた。Vicky に間接的にでも教えたと思うと、特別な気持だ。(注 1)
 色紙で「色彩感覚の訓練」をした図画の作品を今日の時間に仕上げた。純色の色紙ばかりを使用したぼくの作品は、明るさと暗さが闘っているものになってしまった。銀と金と黒を使った海辺の夜や、きれいにちぎって貼ったシュウカイドウの作品などが目を引いた。Vicky は画面を四つに区切って四季を、Pentagon 先生流にいえば、「説明」した。悠長な青の色合いのところを、先生が指して、「これが夏かね」といって、笑われた。その部分の中で、これが目障りになると先生がいわれた色について、Vicky は「強烈な調子で夏だということを…」と、先生がよく使われる形容動詞で弁護した。
 昼食後、Jack を探して同じところを何度も通っていると、Jap が図書館へ誘った。初めてのことだ。図書館にいると、近頃は時間割の関係で、Neg や Heichan(Jack は彼の性格が Jubei-san に似ているという。走り幅跳びが得意で、野田中で生徒会会長をしていた)らとたいてい一緒にいる Octo が駆け込んで来て、次のことをいった。紫中の北風先生からアンケート用紙が来て、それに記入して持って行かなければならないと。Kies にも来たそうだが、ぼくには来ない。[つづく]
Ted による欄外注記
 * と書いた三日後に、ブラジルの D・シルヴァ選手が一六米〇一の記録を樹立するとは思わなかった。[引用時の追記]田島直人が 16 m 00 の世界記録(当時)で金メダルを獲得したのは 1936 年のベルリンオリンピック。2013 年 5 月末現在の世界記録はイギリスのジョナサン・エドワーズが 1995 年に出した 18 m 29 で、田島、シルヴァらの記録は遠い過去のものとなってしまった。私の同期生の田島君は、Vicky と同じく女子師範付属中からわれわれの高校へ来たので、彼女から中学時代のあだ名「ジャパン」で呼ばれていた。そこで、私の日記では彼のことをおおむね Jap と書いているが、この日の記述で本名が知れることになった。「三段跳び…と同姓の生徒」を Jap と置き換えることも出来たが、D・シルヴァ選手についての注を残したく、また、田島君はもう故人だから本名が知れてもよかろうとも思い、そのまま引用した。
引用時の注
  1. このときのことはすっかり忘れていた。一学期には逆に、私が休んでいた間に進んだ箇所である、絶対値付き不等式の絶対値記号のはずし方について田島君に質問したところ、Vicky から教えて貰うはめになった。こちらの方は記憶していたので、のちに同窓会で Vicky に会った折に、彼女にそれを話している(英文随筆 "Surely You're Joking, Mr. Tabata!" の第 4 パラグラフ参照。この随筆中には、その同窓会の折の小さな写真を添えてある。中央にヨウコ先生こと佐々木先生、その向かって左隣に Vicky が写っている。私は左端から二人目)。

共食い式テスト/Vicky が『若きウェルテル…』の梗概を


高校(1 年生)時代の交換日記から

Sam: 1951 年 9 月 26 日(水)晴れ

 どうにか片山津に落ち着いた。「群集心理が強いね」と HRA がもらした。その通りだ。この前は Onew の意見、きょうは Shingi 君の意見にみんなが引っ張られたのだ。
 昨日の C の代りに解析が入っただけで、時間割に変化がない。
 保健体育はシュートのテスト。一人がシュートをし、一人がキーパーをする。だから、シュートして得点した回数と、キーパーがキャッチした回数の和は一定である。まるで「共食い」だ。



Ted: 1951 年 9 月 27 日(木)晴れ、午後雨

 国語の教科書の「本の読み方」のところに出て来た『若きウェルテルの悩み』を読んだことがあるという Vicky が Peanut 先生からその梗概を述べさせられ、日記、恋愛、三角関係などの単語を使った。それで、その本を読んでみたくなり、読むことにした。
 Vicky が「ウェルテルという人がロッテという人に…」といったときに、先生が「ロッテとはどんな人だね」と尋ねた。すると、後ろの Jumbo が「女の人や!」と、いうともなくいったので、われわれは口を大きく開けて、ハ行のいろいろな促音を連続的に発し、教室の空気をゆさぶった。

 誰とも沢山の話はしない。われながら、自分の口がこんなにじっとしていられるのが不思議になって来る。時計の音ばかりする。児童の作文や詩の題材にしばしば使われるような静かな夜だ。

2013年5月30日木曜日

旅行案に異義/時は急流


高校(1 年生)時代の交換日記から

Sam: 1951 年 9 月 25 日(火)

 きょうは月曜日の授業、ただし、 H は C とし、第六限と入れ替えるというのである。変な気持だ。
 昼食時間には投票用紙を配った。Onew 君から「片山津」について異義が出たからにほかならない。結果は山中 8、医王山 5、あとは単位未修了者の通知簿のような数が並んでいる。しかし、山中なら、片山津よりさらに悪い。明日また、ホーム全体に計らなければならない。



Ted: 1951 年 9 月 26 日(水)曇り、夕方から雨

 母から来た葉書には、注意事項ばかり書いてある。
 ゴソゴソゴソゴソと鞄を開けたり閉めたりする動作が、急流に乗っている。いま学校へ行ったと思ったら、もう、夜鳴きそばの悲しみとおどけをかき混ぜたような笛の音がして、午後十時を過ぎている。Jack の大きな喜びの日、それも早く済んでしまえばよい。
 一方は観賞用植物に過ぎない。他方は未知の植物で、素晴らしい可能性を秘めていそうだ。

HR をよくする座談会


高校(1 年生)時代の交換日記から

Ted: 1951 年 9 月 25 日(火)曇り[つづき]

 一限に筆入れを床に落として、左斜め前の席の Vicky に拾って貰うはめになり(注 1)、いい気持じゃなかった。

 H 時の「ホームをよくするための座談会」は、先週決めておいた司会者 OB 君が取り仕切った。彼は最初に、「ホーム委員長として、[ホームの雰囲気や運営などについて]よいと思ったことや反省すべきと思ったこと」を述べるよう、ぼくに求めた。「ホーム委員長でなく、ホームルーム委員というのが正しい」といいたかったが、それはやめて、「何もありません」と、あごで押さえるようにしていった。どこかで聞いたような言葉だと思ったら、第一回アセンブリーの公聴会で、元生徒会長の UE 君が最初にいった言葉だった。
 少し静かな時間が続いてから、Atcher が「体育委員が運動具の借り出しに手間がかかり、ホームの時間に運動競技をするとき、能率が上がらない」というような発言をした。次に、カンナを見事にかけられた材木のような感じを与える女生徒が、ぼくが以前思っていて最近は忘れていた「生徒会議員は議会報告をして欲しい」という意見を述べた。次にも誰かが議員を非難したので、OB 君が「議員の悪いことが挙げられましたが」というと、 SM 議員が「ぼく、何も悪いことしてません」と、叱られた子どものような発言をした。ぼくは、「生徒会会則に定められていることを実行していないのは悪い」といおうかと思いながら、白い袖にうつ伏せている削りたての生木を見ていて、その機会を逸してしまった。
 HRA が「休み時間と混同しない」自由時間なら設けてもよいなどと割り込んだ。Atcher が、それはもう要らないといって、また静かになったあと、AK 君が初めて発言した。「何も意見の出ない雰囲気を直すために投書箱を作っては」という提案だった。OB 君が「ぼくには、それを討議して貰って採決する権限がないから、三分の二以上の賛成があれば、ホーム委員にいまからこの問題を…」と、変な方向へ持って行こうとした。そこで、まだ座談会であるうちに、ぼくは投書箱の無益であることを述べた。それまで大人しくしていたもう一人の生徒会議員 Yotch がここで、「自分は投書箱に反対です」と、ぼくのように婉曲ではない表現で意見を述べた。その調子が、いまこの問題を否決してしまえといわんばかりになったので、OB 君は「それは困る」と制止した。
 「そうですか」と応じた Yotch は、続いて、それまでの中でこの座談会の主題に最も当てはまった意見を述べた。その要点は、内気な者の多いこのホームをよくするには、そんな「性格をガラリと変える」ことが必要だというのである。ぼくは、「性格をガラリと変える」ことの困難さと不必要性を述べた。社会集団的原理といったものを持ち出し、必要に当たってそれ相当の態度を取り、かつ行動することによって、建設的な雰囲気はいくらも作れるという論を展開した。Yotch が「もう一度いって下さい」といった。ぼくは、大阪城見物の際に天守閣でバスガールが自分の説明のあとにいった「自分ばかり分ったような」とは反対の、「自分でもはっきり分っていないのですが」という言葉で再度の論述を始めたが、笑いのやむまでしばらく待たなければならなかった。(注 2)
引用時の注
  1. Vicky が左斜め前の席にいたのはヨウコ先生の「解析 I 」の時間だっただろう。これを機会に彼女と仲よくなっておけばよかったとは、いまだから思うことである。当時は、男女生徒が教室で親しく話し合っておれば、不良じみていると思われたり、すぐに揶揄の対象にされるというような雰囲気だった。その雰囲気を私がさらに誇張して受け止めていたところもあったかもしれないが。また、Vicky に対しては特に、ライバル意識プラスαがあって、このあとに書いている通り、親切にされるのは「いい気持じゃなかった」のである。
  2. この記述からは、座談会の終り頃になってホームルームの雰囲気がよくなったように見えるが、その後はどうだったのか記憶になく、読者の方々と一緒に、これから先の日記を見て行かなければならない。なお、Yotch は保険会社に就職、のちに関連子会社の社長を長年務め、退職後郷里に戻り、紫中のわれわれの同期会会長と石引小学校クラス会幹事も引き受けてくれていて、私はいまでも世話になっている。

2013年5月29日水曜日

秋分の日のことの続き


高校(1 年生)時代の交換日記から

Ted: 1951 年 9 月 25 日(火)曇り

 時間が貴重である。十日間続く変わった生活(注 1)は、まず暇がないことをもって始まった。

 昨日 Tacker の家へ行く道々考えたことも多かったが、あのとき頭上にあった雲と同様に、いまはもう、どこかへ流れて行った。二百米ぐらい手前から、Tacker の家の中で拳闘でもするような格好で動いている Jack が見えた。行ってみると、風呂へ入れる水をポンプでくみ上げていたのだった。Jack と Tacker は将棋をし、ぼくはそこにあったシートンの『動物記』を読んだ。ときどき目を上げて、射撃場(注 2)の丘の後ろに続く小高い山の、したたる緑色をした樹木を見やった。
 われわれは射撃場へ出て、ソフトボールでホームラン競争をしたが、ぼくは下駄の緒を切らし、クリのイガが足の裏に刺さり、全く元気を失ってしまった。Jack の目でボールが見難い薄暗さになった頃にそれを打ち切って、彼らは百米と四百米の競走を一回ずつした。「風呂へ入って、うどんを食べて行け」とのことだったが、暗さと時が恐ろしくなったので、Jack を残して帰った。土曜日に図書館を出たよりは早かったが、一歩毎に明度が低くなり、辺りは黒に近づいて行った。[つづく]
引用時の注
  1. 母が大阪へ特殊学校教育の講習を受けに行っていたので、食事には近くに住む Y 伯母のところへ通っていたのだろう。
  2. 旧陸軍の射撃練習場跡で、当時は、いまの自衛隊の前身である保安隊がときどき射撃練習に来ていた。