高校(1 年生)時代の交換日記から
Ted: 1951 年 7 月 6 日(曇り)
少し暗くて、休日にふさわしくない天候だが、休息の日だ。落ち着かない気持でいると、午後初めてその転居先へ行ってみようと思っていた友の声がした。予定変更の申し出だ。それだけかと思ったら、Jack はツカツカと部屋へ上がって来た。ぼくの机の上やその周囲は、奇襲されるとまごつかなければならない状態になっていて困る。大いに取り乱した。
歩き回ってくると、書くべきことが多くなる。Jack が帰り、昼食を終えてから、ちょっと家を出たのだ。何かをかみしめるような顔で、AK 君が向こうから来て、がくんと頭を下げる挨拶をして通りすぎた。振り返ると、NW 君が追いついて来た。Jack も…。彼は予定再変更の必要を生じて、八坂(はっさか)の彼の家からマラソンを試みたのだ。紫錦台中学の前まで、三人で歩くことになった。NW 君は、演劇部の他の連中が車引きに行ったのを迎えに行くということだった。彼は「たばた君も新聞部やろ」などと、君づけで話すので、こちらが気を張らなければならない。
広坂で、Jack のホームのホームルーム委員で東京から来たとかで、太い声を発することで知られている IKB 君に会って立ち話をする。ぼくは彼をよく知らないから、Jack が彼とどのように話すかを観察した。
われわれは宇都宮書店へ入った。そこで、TKR 君に会う。香林坊のド真ん中(北国新聞の三面記事がよく使う言葉だ)で再び三人連れとなったわれわれは、映画を見て帰る Lotus (KZ 君)に出会った。(出会いの説明ばかりに二十分も費やした。)登りの広坂で…(つづく)(注 1)
引用時の注- ここまで書いて、この日 Sam とノートを交換したので、続きはもう一冊のノートへ移って記されている。
高校(1 年生)時代の交換日記から
Ted: 1951 年 7 月 5 日(木)曇り(つづき)
「シェンシェイ!!」大きな声の来客に驚いた。後ろから見るとダルマのような頭をして、半袖シャツを着た半老人だ。祖父より十七歳若い、かつての生徒だ。
客「シェンシェイ、年が行けば、またもとの子どもに返るちゅうが、全くのこっちゃな…。」
祖父「コンロをやっておいでやね。」
客「和倉の珪藻土の…。煙突が約二十本立っとる。工員は二百ないし三百ほどおる。私のような大きさの工場は七、八つあります。…珪藻土という土がこの頃役立つようになりましたゎ。それで、私はそこで働いております。」(客の名刺には、取締役社長とある。)
祖父「私は満州におる間に、"世界を見て来てくれ" といわれて、洋行に行って来まして…。今じゃもう…。」
客「教育界におる人は、みんなあんたの教え子みたいもんで。いまはこんな生活しておられて…。これはしかし、シェンシェ、満州で幅効かしとった人はみなそうなんだから、仕方ない…。」
祖父「私はちょうど七十七まで勤めておりましたが、そのとき怪我をしましてね。」
客「そんだけまで勤めとった人は、教育界であんただけやわな。…千代子さん(注 1)は夫の介抱、そしてまたあんたの介抱、まるで一生涯の間、看護婦みたいなもんやて、あのぉ誰やらいうとりました。」
祖父「どーも人間は不浄なもんで、何ですわい。…」
客「いまじゃ、ほんなら、なんですか、お年もとってやし、ちょっとも外へお出ましでない?」
祖父「人間はなんというても…。」
客「いまじゃ、なんですか、骨の折れたところは治ってしまいましたか?」
…中略…
祖父「あなた、なんですか、お酒でもお飲みですか。」
客「酒は、飲んません。」
祖父「そりゃ結構で。」
客「ほっじゃまた、重ねてお邪魔いたします。」
祖父、ぼくに、「元気な人じゃったね。六十七やてか、八やてか。…きょうは、雨降っとるか?」
祖父は日記をつけ始めた。「一、何々」と箇条書きである。「一、笹川氏、珍しい物を持たずに来たる」、「二、彼は六十七歳なり」とでも書くのだろうか。一度読みたいものだ(今年の元日に、雑煮の餅の大きさを書いていたことだけは確かだ)。どんな出来事や感動のある日でも、平凡な日でも、記述は無罫のノート四分の一のスペースにうまく収まっている。万年筆の動かし方は落ち着いたものだ。
昨日、第三次吉田内閣の第二次改造内閣(注 2)が出来た。夕食のとき、祖父はいった。
「吉田さんは私が満州におったとき、奉天で総領事をしとった。私はよく知っとる。」
「当然」という意味でよく「あったーり」という。「当たり前」の「当たり」から来ているのだろうが、英語に同じような発音の "utterly" という言葉があり、意味も「全く、全然」と、似ているのは面白い。引用時の注- 祖父の三女(私の母)の名。
- 原文には「第五次吉田内閣」とあったが、当時は同じ内閣の改造をも「第何次○○内閣」の一次と数えたのだろう。『ウィキペディア』の「日本国歴代内閣」の表に基づいて修正した。
高校(1 年生)時代の交換日記から
Ted: 1951 年 7 月 5 日(木)曇り
われわれが持つ以上のものを発揮しなければならないと思って自己を圧迫していた期間が終わった。
英語の問題は問題でなかった。中学一年のときに出題されても九十点は取れただろうと思われるものだ。社会科を得意とする NBT 君は「あんなもん、かんたーんやった」といっていたが、ぼくは社会については、そう大きな声で「簡単」ともいえない。彼の社会に対する気持は、ぼくの英語に対するほどなのかもしれない。
国語乙の答案を埋め尽くしたあとは、英語の時間よりも退屈した。この科目の問題は単純で、数も少なかったからだ。読み仮名をつけよというのがあった。「馬酔木」などだ。退屈していても得るところがないからと、真っ先に対策を講じたのは、脚が悪くて長く休んでいた TKM 君だった。彼が提出したあと、ゾロゾロと続いて出した。「馬の酔う木と書いて何ちゅうがヤ」と聞かれて答えようとした(注 1)。すると、Vicky がまだ答案を保持していて、全部書いてしまったはずなのに、ここに分からないものがいるぞというような、いたずらっぽい顔をしたから、出かかった言葉をあわてて呑み込んだ。
三枚の答案に鉛筆は一本でよかった。それも、途中で一度も先を尖らせることもしないで。下校の前に、提出日がきょうであることを校内放送で念を押されたものを提出したら、もう学校に用はなかった。明日は休みだ。引用時の注- 監督の先生がいない試験だったのだろうか。
高校(1 年生)時代の交換日記から
Ted: 1951 年 7 月 4 日(水)晴れ
問題の出し方が、はなはだ問題だ。走り幅跳びで砂場の外へ手をついた(踏切りに近い方へ)、そして外へ出た。測定如何、というのだ。外であっても、手の跡の踏切り板に最も近いところから、踏み切り板に直角に測る、と書いた。正解がオミットとかであれば、心外に絶えない。生徒要覧の序にも、「諸規定を守るには、諸規定を知らなければならない」とある。この出題の場合の判定は規定されているはずで、それをわれわれは知らされていなかったのである。
生物の出題にも、問題の述べていることが不明瞭なものがあった。細胞を、その細胞の浸透圧より高い浸透圧の(すなわち、濃い)蔗糖液中に入れると、細胞の浸透圧および膨圧は増減するか、というのである。
Octo に会ったら、出来たとか出来なかったとかいっていた。それに加えて、「踏切りは(利き足)の方に力をいれる」としたのは、「(足先)」とすべきだったことにも気づき、意気消沈した。正午のサイレンが空腹の腹をかすめて流れた。焦慮も楽観もしてはならない。
Some の机の引出しやその他の、ものを入れるところはどういう状況になっているかね。長くて不自由な午後は、そういうところの整理をした。こまごました不要なものや、半不要なものや、目障りだが捨てられないものや、何とかしなければならないものや…、いつになったらこれらがなくなるか分からない。途中まで組んで人夫たちが逃げ出した建築のような仕事もある。そこから飛躍して顧みないのも残念な気もする。(注 1)
少年時代からの「アリの土運び」は、青年時代、壮年時代、老年時代へも続いて行くだろう。運ぶ土塊は、そのときの自分の力に重過ぎる程がちょうどよい。いまはその重さを増さなければならない時期だ。引用時の注- いまでも、机の引出しその他の収納場所は同じ状態にあるようだ。次節にいみじくも「老年時代へも続いて行くだろう」とある。
高校(1 年生)時代の交換日記から
Sam: 1951 年 7 月 3 日(火)曇り
英語の時間、以前バドミントンを一緒にしたことを報告した友人から一片の紙を受け取る。何だろうと思って開いて見ると、ラジオの放送番組が記してある。好きなものから順に番号をつけよというから承知したが、読んでみて驚いた。「二十の扇」、「インチ教室」、「輪快な中間」…(注 1)。これじゃさっぱりだ。そして、その数がたった三十数個。「向う三軒両隣り」、「故郷の町」、「ラジオ体操」など、抜けているのが二倍以上にもなる。「もう一度整理して来い」と書いて返してやった。(おっと、Ted にはあまり興味のないことだったかも知れない(注 2)。)
放課後、その彼と本多町まで行った(いや、心配しなくてよい。われわれの行ったのは、宮殿でなくオフィスだ(注 3))。「○○○○○○○」*
と書かれた看板(表札?)他三つがかかげられている門を入る。Ted もぼく以前に通ったかもしれない。ちょっとまごついたが、受付で聞いてみる。「係の人がきょうはおいでになりませんから、住所とお名前をお告げ下さい。いずれ後で、葉書で通知いたしますから」といわれ、その通りのことをして、オフィスを去った。県営本多町アパートのスマートな建物を右に見て隣の SCAP Library に入る。移転後初めてここに入る。中央図書館よりさらに整っていて美しい。彼は『聖衣』という本を借りていた。Ted による欄外注記
* What is it?
引用時の注- いずれにも誤字がある(うっかりすると見落とすようなものも)。その点では、まことにお粗末なリストだったようだが、三十数番組挙げてあっても、抜けているのが二倍以上とは、Sam の批評はいかにも厳しい。
- 大連から引き揚げて 4 年目で、間借り生活を続けていた私たちの部屋にはラジオがまだなかった。ラジオを買ったのは、この翌年だっただろうか。
- これより 3 ヵ月ほど前に Sam らと何度か玄関先まで訪れた中学同期の女生徒 Minnie の家を、Sam との間で「クレムリンの宮殿」と名づけていた。当時の私たちにとって、学年のマドンナ的存在だった女生徒の家は、近付き難い気のするものだったからである。なお、この後の「○○○○○○○」には、私の欄外注記に答えて、Sam が「公共職業安定所」と鉛筆で記入している。夏休みのアルバイト探しに行ったのだろうか。