2013年5月3日金曜日

三ヵ月ぶりの庭球


高校(1 年生)時代の交換日記から

Sam: 1951 年 9 月 2 日(日)晴れ

 十一時頃、Funny がラケットを持って来て、午後から兼六園へ庭球の練習に行こうと誘ってくれた(九日に行なわれる国体参加のため)。五時から出かける。長い間ラケットを握らなかったので、思うように出来ない。それでも、だんだん慣れてきて、上手になった。Onew に思い切り仕込んで貰ったら、薄い手の甲にマメが出来てしまった。それをがまんしてやっていたら、とうとう破れてしまった。何と、か弱い手のひらだろう。三ヵ月の間にかくも退化したとは、何たることだ! 家へ帰ったらコッテリとメンソレータムを塗らなければならない。

2013年5月2日木曜日

雨の日に思う


高校(1 年生)時代の交換日記から

Ted: 1951 年 9 月 1 日(土)雨[つづき]

 腕をなでても、さらりとしていて、一週間前よりはずっと涼しくなっているのに気がつく。グミの実が赤くぶら下がり、(Jun の家へそれを食べに行く約束なので、こんなことを書いてしまった)、そうして雪。もうクリスマスだ!(赤い色がサンタクロースを連想させて、一足飛びになってしまった。しまったことだ。)
 燃やしたくなって来た。(え? 家に火でもつける気かいって?)過去のあらゆるけがらわしいことに、である。思い出の浄化作用。でも、それは浄化しきれない。しかし(この頃は毎日、しかし、しかし、と宙返りをしているようだ)、何らかの燃やす方法もあろう。
 ぼくは呑気なように見せかけているだけで、呑気じゃないらしい。ジェキール(ジェーキル、ジキィル、ジーキル、どれが正しいのだい?(注 1))とハイドのページが再現しそうだ。
 自己が信じられたり、信じられなかったり、これが一番の闘争だ。(何も新しいことはない。書かない方がよい。)

 午前だけの授業を終えて帰る頃には、道路にも木々の葉にも水滴が降り注ぎ、それらが赤と緑という甚だしい色相差の細かい粒のように思われる。そして、それがもたらす、目にたまった涙のような感じの空気の、本当に北国的な状態の中を…(何を書いているのだろう。こんなのも駄目だ!)
引用時の注
  1. ロバート・ルイス・スティーヴンソンの小説 The Strange Case of Dr. Jekyll and Mr. Hyde の邦訳題名は現在、『ジーキル博士とハイド氏』(新潮文庫版、光文社古典新訳文庫版など)と『ジキル博士とハイド氏』(創元推理文庫版、岩波少年文庫版など)の二通りがあるようである。

「はや帰らせたまひなむ…」


高校(1 年生)時代の交換日記から

Ted: 1951 年 9 月 1 日(土)雨

 連立方程式でのぼくの間違いが Jack に二度目の恥をかかせた。消化しないでノートした Jack も悪いが、たびたび簡単な間違いをすることに、われながら驚く。中学のとき、Naiki に morning を moning と書かせ、田中先生に「モニング」と発音させてわれわれ一同を笑わせたのも、r を抜かしていたぼくのノートが張本人だったのだ。それなのに、当のぼくはいっこうに恥をかかなくてよい。——そして、先生方の間違いを発見してさえいる。
 昨日の国語甲の時間に、「はや帰らせたまひなむ」のあとに何が省略されているかとの質問に誰も答えないので、ぼくが「よくはべる」と答えた。Peanut 先生は「うむ、『よくはべる』…。そうだ、『なむ』があるから、[「よく」を(注 1)]連体形にして『よきはべる』」だと。形容詞と動詞をそんな形で接続は出来ない(注 2)。「Scyon 型」と書いて「シーコン型」と読まれた Frog 先生の "k" の音がどこから出て来たかも不思議だ(注 3)

 Sam に頼んでおいてもしてくれないことを Jack に頼んでおいたら、出来上がって来た。それでも、結局ぼくが自分で書き直してしまったから、Jack には少しの資料を提供して貰ったことにしかならない。八枚ある中で、最も細かい字で最も多く書いてあるので、つり合いが取れないようだ。まだ何か書きたい気持だ——。(注 4)
 尽きない。果てしない。(何かの歌詞を書いているかのようだ。)[つづく]
引用時の注
  1. [ ]内は引用時の追加。
  2. 私も「なむ」との係り結びとして「はべり」の連体形を使っているが、問題の言葉をいま見ると次のことに気づく。「なむ」は、「たまふ」の連体形のあとでなく、連用形のあとについているので、強意の副助詞ではなく、完了の助動詞「ぬ」の未然形と推量の助動詞「む」の終止形がつながったものである。補うべき省略は、それより前の言葉が書かれていないので考え難いが、「よろしかるべし」と推量の形にしたいところである。
  3. 生物の Frog 先生は "sycon" と書くべきところを間違えたのだろう。石灰海綿綱に属する動物の三種の型の一つに「サイコン型」(syconoid) がある。
  4. 中学卒業時の交換写真を貼ったアルバムのページに添えた説明文の、Minnie について分のことである。いま、それらの説明文は残っていない。

2013年5月1日水曜日

映画『北西への道』/ラジオが故障


高校(1 年生)時代の交換日記から

Sam: 1951 年 8 月 31 日(金)晴れ

 保健体育は体育史というのをする。さっそく宿題が出た。「スパルタとアテネの体育教育の傾向」という題である。来週のきょうまでにレポートにして出さなければならない。

 一目散にでもないが、家へ帰るとすぐ大和劇場へ行く。『純愛の誓』は昨日で終り、きょうから『北西への道』(注 1)である。特別興行なので、二十円支払わなければならなかった。
 館内で Lotus に会った。そんなに大した会話は出来なかった。彼は来る一斉テストに最も関心があるらしかった。『リーダーズ・ダイジェスト』を開いて読んでいた。
 『北西への道』のストーリーそのものはさほどでもないが、その底を流れる悲壮な決意と人間性は、見る者に深い感動を与えずにはおかない。
引用時の注
  1. 原題 "Northwest Passage"。1940年に製作・公開されたアメリカ映画。フレンチ・インディアン戦争を背景としたケネス・ロバーツの同名小説に基づく。監督はキング・ヴィダー、主演はスペンサー・トレイシー。(『ウィキペディア』の記述を参照した。)

1951 年 9 月 1 日(土)雨

 ふと素晴らしいことを思いつくのだが、すぐ消えてしまってもう二度と思い出せないということがよくある。——

 ラジオがどこか故障らしい。放送がよく入らない。せっかくの土曜日なのに残念である。どうにかして直さなければならない。

現在の行為が未来に影響する


高校(1 年生)時代の交換日記から

Ted: 1951 年 8 月 31 日(金)晴れ

 何をしていても、何かになっているのではないか…。しかし、そこに何かが決定されつつあるのだ。決定されること、それが進歩や発展であり、向上であるならば、喜ばれるべきである。それとは反対の方向にわれわれを向かわせることが決定されるならば、厭うべきである。こんな重大な決定が、一瞬一瞬になされている。何をしていてもよいとは思えない。
 沈んだ。引きこもった。輝く道を持ち合わせていない、密林の中を蔓づたいに自分の身体を軽く前進させ得る腕(注 1)を持っていない、次の分岐点までを見通すことの出来る目を持っていない、か細い一匹の動物。
引用時の注
  1. ここにターザンを思わせる表現がある。このことは、前日 Sam が一人で見ることになったターザンの映画を、私は京都へ行った際に見ていたらしいことを示唆する。